「如風伝」第二部 一話

 「わたし」は最初からいないも同然だった。
 「わたし」が存在するからには両親も存在しているのだろうけれど、「わたし」は親の顔も覚えていない。多分、生まれて初めて話した言葉が別離の挨拶だった。そんな状態だから兄弟姉妹がいたかどうかすら覚えていない。友人なんてもってのほかで「わたし」は淋しさという概念すら知らなかった。
 「わたし」はいつもひとり。死なないけれど飢える程度にしか食事も与えられない。言葉は聞く一方で自分の声すら聞いたこともない。何もない時間だけが過ぎて、何もない毎日が明けて暮れる。
 そして、両親が終焉を告げる言葉を「わたし」に投げる。
 その言葉の持つ残酷さすら知らないで、俯くことも首肯することも知らないで「わたし」の人生は終わった。


 
   * * *

 西白国(さいはくこく)の存する西方大陸はほぼ同心円状に二重の峰がある。所謂、外輪山の外側が外関(がいかん)、外輪山と内輪山の間が内関(ないかん)、大陸の中央・峰々の最奥に湛えられた湖水に浮かぶのがこの国の首府を擁する岐崔(ぎさい)市だということはこの国に生れ落ちた以上誰でも学ぶ知識だ。
 戴文輝(たい・ぶんき)は湖水で生まれ育ち、先の「岐崔動乱」が起こるまで関を一度も越えたことがなかった。動乱に際し、戦後処理の一つとして文輝は唐突に外関で高等教育を受けることとなり、関を越えたときの驚きは今もまだ文輝の中に鮮明に残っている。峰を越えるに従い、環境は劣悪さを帯びた。湖水にある岐崔では四季があったが、外関には雨季と乾季しかないということは文字の上では知っていた。知っていたが、それがどういう事象なのかは体感して初めて理解出来た。
 その中で知ったのが、文輝の進学先である軍学舎(ぐんがくしゃ)の修科(しゅうか)の立地は外関――郭安州(かくあんしゅう)でも州都にあたり、年中水不足に悩むことのない希少な雨宿(うすく)だったということだ。州都・江鈴(こうれい)市は六州ある外関の中でも気候に恵まれた方で、だからこそ国主(こくしゅ)の離宮の一つが配されていた。
 厳しい気候。中央から下ってきたという異質さが生み出す敬遠。見知ったものは誰もいない。敵地にでも来たのではないかという感覚すら与えて、文輝の二年間が飛ぶように過ぎ去った。
 律令の勉学はあまり得意ではなかったし、孤立している文輝には江府(こうふ)の右官(うかん)見習いとしての実務も大きな負担だった。二年後には中央府の武官登用試験を受ける。その気持ちだけが文輝を走らせていた。
 苦労の二年が実を結び、晴れて文輝が中央復帰を果たしてからもう二年半が過ぎた。
 官吏登用試験の受験資格には明確な区分がない。だから、ごく稀にだが西白国出身でないものが受験することもある。外国籍のものが国政に携わることは許されていないから、国官として登用されればその時点でそのものは西白国の籍を得る。勿論、事前に国府の然るべき機関によってそのものの身辺調査は済まされている。そのことを知ったとき、文輝は思った。美しい理念を掲げている美しい国だと思っていた自国もそれほど万能ではなかったのだ。人は人である以上、人を差別する。家族か他人か。地方か中央か。武官か文官か。結論から言えば、自分か他者か、という尺度が他の国々と少し違っているだけで、誰しもその概念の一端は受け継いでいる。
 だから。
 戦後処理の一環として、文輝に許された最初で最後の右官登用試験を受けるに際し、文輝の命運を託す相手が自国の出身者でないと判明したとき、どうしてだか無性に安心した。利発そうな顔つき。野望を宿した双眸。東方大陸の出身であることを隠しもしない青みを帯びた黒髪。文輝たち白氏(はくし)ではないその出で立ちを見ながら、文輝もまた場にあって異物であるということを否が応でも自覚する。純血の白氏であり、九品四公と呼ばれる貴族の生まれにありながら国官登用試験を受けるのは西白国史上文輝が最初で最後だろう。つまることろ、貴族の恥さらしに過ぎない自分を知って、それでもなお文輝は国官であることを望んだ。
 国政の根幹である為の教育を受けてきたからかもしれない。
 九品の生まれを未だ誇っていたからかもしれない。
 生き別れた学友への罪滅ぼしか、顔見知りの国主への同情か、そういった何らかの逃避から始めたことだったのかもしれない。
 それでも。
 文輝は国官として本来の意味での繁栄と安寧を生み出したいと願ってしまった。
 成人の儀礼――中科(ちゅうか)の途中で出会った幾つもの顔ぶれはまだ文輝の中に残っている。正しさは全てを救わない。真実は誰も助けない。知らないでいる方が幸せなことだってあるだろう。気付かない方が平穏に暮らせることだってあるだろう。
 そのことを文輝の相棒――柯子公(か・しこう)の生き様が教えてくれる。人は生まれながらにして差別をする生きものだ。獣たちは皆、弱者か強者かという視点で区別はするが、不条理な差別はしない。差別などと言う不便な概念を持つのは人か一部の怪異だけだ。
 わかっている。人も怪異も獣たちも誰しも生れ落ちる場所を選ぶことは出来ない。人に生まれたことを呪い、嘆き、悔いながら生きるのも、それらと向き合いながら生きるのも。自分の生き様を自分で決める権利だけが人に許されている。
 ただし、それは人だけが持つ自己との対峙と言う意味があってなさそうな煩悶と表裏一体なのだが、そのことを直視出来るほどには文輝はまた成熟していなかった。
 そんな文輝の右官として三年目の夏がやってきた。
 自らを天才と称した子公の才を全力で活用する場面こそなかったものの、本来の出自が九品の三男である文輝は少しずつ官吏としての人生を進んでいる。実績を出した子公も順当に評価されて、この春からは文輝が兵部軽歩兵隊第五班の伍隊長である初校尉(しょこうい)、子公がその副官である副尉(ふくい)に任命された。初校尉いうのは十人一組の兵卒を束ねる組長を五組預かる存在であり、位階ではやっと無官(むかん)を脱した所謂、官吏としては駆け出しの官位――従八位に当たる。
 中科を終えてそのまま官吏として残った場合に授けられる官位が初八位で、その次が従八位であることからも、まだまだ駆け出しであることは自明だった。二十二にしてやっと従八位かと思うと劣等感を覚えないでもなかったが、腐っていても進まない。死ぬまでに将軍位――従五位を授かればいいと文輝は子公に言った。その願いが叶うかどうかはまだ判断の時期になかったから、取り敢えずは最下位でも校尉の職を拝領したことに手応えを感じつつ、文輝はその日も早朝の中城(ちゅうじょう)へ登庁した。
 岐崔の四季は穏やかに移り変わる。季節の移ろいという概念は岐崔をもとに定義されたのではないかと思うほど、岐崔の季節は緩やかに変化した。一月になると同時に春が訪れ、その後三か月間隔で夏、秋、冬が続いて再び春が巡る。
 それはつまり、年齢が上がると同時に新年が始まるということになり、文輝はこの春、二十二になった。東方の暦には疎い文輝が何とか聞き出した情報が間違っていなければ、子公もまた二十二になる。
 ただ、首夏――夏の初めである四月に生まれた文輝より子公の方が数か月生まれが遅く、秋生まれだということを聞いたとき文輝はふと思ってしまった。旧友が知れば彼女は得意げに微笑んでこう言っただろう。「ならばおまえが末弟だな」と。末子の文輝とは違い、自立心の強い子公がそれを聞けばきっと憤慨する。旧友と子公は二人とも長子だからきっと価値観の押し売りが始まるだろう。そんな光景を夢想した。瞼の向こうに幻を焼き付けてそっと視界を閉じる。暦のうえで文輝が二十二年前に生まれた日にちまであと数日だ。ここに旧友はいないし、子公が旧友のことを知る筈もない。文輝だけが二人ともを知っている。それでいいじゃないか。そんな風に無理やり諦めを植え付けて、文輝は中城の石畳の上を進む。
 子公の故国では今の時分が六月にあたるという。暦の違いは基準とした自然が異なることに由来していた。
 西白国は風の国だ。風向と風力、それらに由来する樹木の移ろいや匂いから暦が「後付け」で定められる。だから、所謂「春風」がなかなか吹かない年は正月の到来が遅く、十二月が三十数日もあることもある。今年は割合早く春風が吹き、しばらくすると夏の到来を告げるように気温が上がった。多分、そろそろ夏になった、という報が暦舎から布告されるだろう。
 そんな西白国の暦は旧時代的だと子公は呆れていた。青東国では星々の位置を読み解くことによって暦が定められているという。この方式だと暦をあらかじめ作っておき、それに合わせて農業を営むことが出来るのだとか、子公は得意げに解説してくれたが、生憎西白国において農業は主要な産業ではないし、夜空は概ね薄雲がかかっていて、星々の正確な位置など読み解くことは殆ど不可能に近い。美しい夜空が見えるのは冬の間の数日だけだ。それ以外は朝の訪れと共に雲が晴れ、夕暮れと同時に薄っすらとした雲が広がってしまう。
 そう言えば「あの日」は秋なのに空が晴れていたな、と不意に思い出す。
 湖水では夏と言えども夜明け頃は気温が低い。夏用に拵えられた右服は薄手で、こんな時間に上着も羽織らずに過ごすと普通のものは三日で風邪を引く。だからだろう。「夏風邪を引いた」と言おうものなら問答無用で「馬鹿者」の烙印を押される。
 それでも、文輝は物心がついてからというもの、上着を拵えたことがない。
 武芸を磨く為に毎朝、一人で調錬場で槍を振るっているとどうしても汗ばんでしまう。戴家の下女たちは皆「末の坊ちゃまは身体がお強うてようございます」と言ってまともに相手をしてくれなかったが、それが案外役に立っている。
 右官として登用されてからも、文輝は毎朝一人で調錬場に通い詰めた。
 誰かと手合わせをするわけでもない。
 ただ、槍を振るっている間だけは過去のことも、現在のことも、忘れられたからそうした。
 中城に配属された女官たちの仕事の一つに井戸水を汲むというものがあったが、文輝は生まれてからこの方ずっとこの任を女官に割り当てたやつは大馬鹿だと思っている。どうして女官などという生物的に力のない存在に力仕事を命じるのか。どうせならば右官に鍛錬の一つとして水瓶を運ばせればいいのだ。
 ずっと、そう思っていた。
 だから。

「薫姑娘(くん・くーにゃん)、これで今日の水瓶は全部だ」

 薫、というのはこの春から歩兵隊第五班に配属された見習い茶房(さぼう)――給仕を担当する女官だ。薫硝実(くん・しょうじつ)と言う名で、本来であれば阿薫(あくん)と呼び称すところを文輝が勝手に姑娘(むすめ)呼ばわりしている。
 城下にある中流の商家の生まれで、文輝の記憶に間違いがなければ阿薫からすれば文輝は雲上の人間だと認識している筈だが、文輝はその認識を何度でもぶち壊した。九品の三位・戴家直系の三男であるにも関わらず二十二で初校尉などという時点で、文輝が雲上にいる筈もないのに阿薫はいつでも文輝のことを怖がっているように思えたからだ。
 その慎ましさの向こうにかつて見た面影を照らし合わせている、というのは多分死ぬまで誰にも明かせないだろう。阿薫が中科を終えて、このまま中城に残るにしても、下野するにしても彼女にそんなことを知らせる罪悪を考えると意地でも黙っているより選択肢などない。
 だからこそ、文輝は何も言わずに何も求めずにただ「鍛錬」と称して阿薫の務めの一つである早朝の水汲みに勝手に協力した。十八の文輝はそうすることで「彼女」がどういう扱いを受けるのか、知っていてそれでも自らの偽善に酔っていたのだ。そのことを理解した文輝が自らの言動を省みた結果、水汲みを辞める、ではなく歩兵隊全班の水汲みを手伝えば平等だ、などという更なる傲慢な解に辿り着いてしまい現在に至る。
 歩兵隊は全部で八班ある。一つの班で三つ。全部で二十四の水瓶を毎日茶房たちと汲んでいるうちに阿薫以外の茶房は文輝と割合親し気に言葉を交わすようになった。

「戴校尉、今日もご協力感謝しますー」
「ありがとうございまーす」
「また明日もお願いしますね!」

 などと言いながら八人のうち七人の茶房は解散していった。
 これが普通の反応だ、と文輝は思う。落ちこぼれの貴族の自己満足なのだから都合がいいように使って、自分が楽をして何が悪い。人間というのは概ねそういう解釈をして現実に慣れていく。
 なのに。

「あの、戴校尉。正直に申し上げて迷惑だ、と何度私は申せばよいのでしょうか」
「薫姑娘。君は本当に頑なだな。他の茶房のように俺が水を汲んでいる間にお喋りでもしていればいいだろう」

 現に、八人いる歩兵隊の茶房のうち、阿薫以外の七人は文輝の「優しさ」を受け入れて、労務が減ったと喜んでいる。
 文輝が肉体労働を買って出たことについて、全員が一様に困惑していたのも一月のうちだけだ。
 二月になった、と布告が出た頃には七人の茶房たちは皆、冷たくて重たい水を汲まなくても、運ばなくてもいい。寧ろその時間に雑談をすることすら暗黙裡に許されて、文輝と彼女たちは和解した。
 文輝は貴族の出身だが変わり者だから勝手にさせていればいい。
 そんな変わり者だから出世街道に乗れなかったのだ。
 落ちこぼれの九品に怖々接する必要はない。よくいる都合のいい上官が当たったと思って、束の間の安楽を受け入れればいい。人というのは概ねそういう受け取り方をするものだ、ということを文輝はこの二年で実感していた。
 だから、迷惑だ、と正面切って文輝に陳情する阿薫を見ていると、どうしても「彼女」の面影が文輝の胸に刺さる。

「校尉にとっては小さな親切でも、私たちには大きな迷惑なのです」
「では多数決でもするか? 開票するまでもなく、反対多数で君の意見は却下されるとしか思えんが」
「それでも! 私たちが茶房であり、その職務の一つに水汲みがあるのであれば、校尉の気まぐれの優しさはただの毒です。いつかは消える優しさなど、何の実利もありません」
「毒、か」

 言ってくれるじゃないか。
 ただ、同時に文輝はもう一つのことを理解している。
 阿薫が今抱いている感情に名前を付けるとすれば保身だ。
 来年以降も茶房を続けるかもしれない。そのときの上官は文輝ではないかもしれない。そうなると、一年間、楽をしていた分、阿薫はよりつらい思いをするだろう。そのときに傷付きたくないから予防線を張っている。中科生の一年はあっという間に過ぎる。その一年をこんな形で楽に過ごしたのでは――ぬるま湯から唐突に冷水の中に突き落とされたのでは阿薫の心は耐えきれないのだろう。
 そこまでを理解してなお、文輝は自らの偽善を茶房たちに強要した。
 阿薫の言い分は正鵠を射ている。わかっているが、それでも、正しくなくとも文輝はこの任から降りる予定は今のところない。
 ただ。

「薫姑娘。そんな君に朗報だ。俺は明日より二十日間、沢陽口に派兵される」
「えっ?」
「二十日間、君たちは好きなだけ水汲みに励んでくれ。そうしたら、俺の有難みももう少し理解出来るだろう」

 ではな。
 言って文輝は肩甲骨の付け根をぐるぐると回しながら執務室へと戻る為に歩き出した。回廊の切れ間に見慣れた黒髪が立っている。子公だ。そう認識するのと前後して朝を告げる鐘が鳴り渡った。
 ここからは文輝もただの武官に戻る。文輝の署名を待っている書簡、竹簡。伍長たちとの連絡に明日からの遠征の準備。これらが始まってしまうと文輝はもう茶房である阿薫と話す時間などない。
 執務室につながる回廊で子公が大きな溜息を吐き出す。

「この大馬鹿もの。また年若い姑娘をからかって遊ぶのはいい加減にしたらどうだ。浮名を流したいわけではないのだろう、『戴校尉』」
「お前さんは姑娘の側だからな。万事四面四角で疲れないのか?」

 それとも若干二十二で枯れたか。
 揶揄いの言葉を投げると脊髄反射並みの速度で肘鉄が文輝の鳩尾を強打する。が、生憎武官である文輝にとって幾ら弱点である鳩尾を狙われたと言っても所詮は子公の力加減だ。痛くも何ともならない。寧ろ、文輝の腹筋に跳ね返された分、子公の方が痛みを味わっている。

「貴様はもう少し真面目さを持て、と何度言えば理解するのだ」
「俺? 真面目にやっているじゃないか。水汲み」
「そのうち修羅場に陥っても、間違っても、私を頼んでくれるな。大馬鹿もの」

 子公が言っているのはもう少し人付き合いの方法をよく考えろ、ということなのだが、文輝にしてみれば子公の方が不器用な生き方をしていて息苦しそうに見える。それに、文輝にも真面目さが皆目ないわけでもない。真面目に人付き合いの方法を考えて、難しい理屈を揃えようとして頭痛に見舞われて、その結果文輝が決めただけのことだ。不真面目に見えたとしても、文輝は自分自身と真面目に向き合っている。九品直系の三男である文輝がその肩書に相応しいだけの実利を得る為に必要な努力の量は並大抵ではないだろう。長兄や次兄のように人を率いていく、輝きの人生を望むのが分不相応だということはもう理解している。西白国は平等を謳うが、その実、階級社会の特徴を一通り持ち合わせてもいる。一度でも人生に傷が付いたものが、失った輝きを取り戻すことは事実上不可能だと今の文輝は知っている。
 それでも。
 文輝が夢の向こうに願った将軍位をくれてやると子公は言った。
 確かに、文輝にそう約して子公は輝きの双眸で文輝に誓った。
 文輝と共に文輝の願いを――泥まみれで傷だらけなのに美しい西白国を見せてくれる、と。
 だから。

「子公。安心していい。俺は既に失ったものと目の前にあるものぐらいは区別出来ている」

 文輝がかつて見た繁栄の岐崔とは様相の違う中城、城下が目の前にある。
 阿薫は決して「彼女」ではないし、子公は決して旧友ではない。
 それでも。願うのは人に許された権利だ。この国が人を愛する国であるようにと願うことだけは文輝の自由だ。だから、文輝は子公に微笑みを返した。
 溜息がもう一つ、子公の唇から零れ落ちた。

「ならば構わん。好きにしろ」
「言われなくともそうするさ。で?」
「『で?』とは」

 話の本筋に戻ろうと文輝が言葉を促す。
 副官殿は文輝の問いの意味を図りかねる、と顔中に書いて空とぼけたので今度は文輝が溜息を零す番だった。

「とぼけるなよ。お前が厨に来るなんて何かがあったんだろ。でないとお前『下賤な場所』には来ないじゃねーか」

 子公が青東国でどういう家筋に生まれ育ったのかはまだ詳細に聞いていない。知らなくとも、別段文輝の「戦」には関係がなかったから話したくなればそのときに話を聞けばいいと思っていた。
 ただ、育ちは文輝と同等かあるいはそれ以上なのだろう。
 末子に生まれ、甘やかされ放題で奔放に育った文輝とは違い、子公は身分の上下にとても繊細な部分があった。だから、子公は火急の要件でもなければ文輝のように「下賤な場所」を訪うことは決してない。
 つまり、今、文輝に急ぎ伝えねばならない用件を携えて子公は立っている、ということだ。

「『下賤な場所』だという自覚が貴様にあったことの方が驚きだな、私には」
「子どものころ、下女たちに何度叱られたと思ってる。九品直系三男の肩書に偽りはないんだぜ?」
「胸を張って言うことか。全く、貴様は賢しいのか愚かしいのか判断に困る」

 あの頃は――岐崔動乱が起こるまでは世界の全てが輝いていた。
 今はそうではないのかと尋ねられると即答は出来ないが、別の輝きを見出した、と何とか答えられるだろう。文輝の四年間はそれだけの実を伴っていた。全てを肯定することが出来なくても、人は息を吸える。そう知って、自らにすら失望して、それでも文輝はまだここに立っている。それが生きるということだと、文輝は少しずつ理解し始めていた。
 その、感傷を幾ばくか滲ませて強がると子公が呆れた顔で溜息を零す。知っている。子公もまた傷を抱えてここにいる。自分一人だけが特別に不幸だなんて思わないで済むぐらいには、文輝の周囲は文輝に優しかった。勿論、目の前にいる子公も、だ。
 そんな気持ちを感じさせながら、紫水晶の双眸が文輝を捉え、強い輝きを宿した。本題が来る。腹の下に力を入れて文輝は身構えた。

「文輝。午後には正式な書簡が届く。隠しても貴様も知ることだ、敢えて言おう。沢陽口から『鳥』が届いた」

 「鳥」というのは西白国でだけ用いられている暗号通信手段である「伝頼鳥(てんらいちょう)」のことだ。白帝の庇護を得た「才子」がその才を使って書き上げた書簡をただ人には知りえぬ技法で小鳥の形に変え、飛ばす。伝頼鳥に物理的な障壁はない。時間という制限もない。才子が暗号化した時点で速やかに「宛先」に向けて飛来する。そして伝頼鳥は復号の手順を一つでも誤れば霧散し、二度と復元することは出来ない。
 だからこそ、西白国では高等暗号通信の手段として長く用いられている。
 伝頼鳥を紡ぐことが出来るのは才子に限られるが、官民どちらの才子でも手順を教わらずに紡げるというわけではない。そして、その手順と形式には厳密な定義があり、それらを遵守することが求められた。一度でも規律から外れると何か罰則が科せられるだとか、そういうことはない。ただ、通信士としての倫理観を伴わないものは自然と才を失った。文輝を含めたただ人はそれを神の庇護を失ったと認知するが、真実は才子と白帝しか知らない。
 その、取り決められた複雑な定義において、最も重要ことがある。

「色は」
「極めて濃い紅だ。白墨で文字が綴られている」

 伝頼鳥を紡ぐための料紙は重要度により色の濃さが定められている。色相はその通信士の所属を意味し、子公が今口にした内容であれば右官――かつては環という身分制度に基づき赤環と呼び名わされた武官だけが赤系統の料紙を使うことを許されている――の誰かが緊急の用件で飛ばしたのだということを文輝は一拍で理解した。

「内容は」
「私にもよくわからんが、確かなのは治水工事の為に派兵した工部治水班測量組十五名全員と連絡が付かぬ」

 沢陽口――文輝たちが明日から二十日間派兵される城郭(まち)で、岐崔に三つある津(みなと)と結ばれている城郭の一つだ――は先年の秋ごろから雨が少なく、湖水の沿岸ということもあり、干ばつとまではいかないが飲用水として取水出来る湧き水が減っているとの報告があった。
 急ではないが、湖水でこのような状況に陥ることは近年類を見ず、何らかの変化をきたしていると思われるため、土木工事を司る工部(こうぶ)治水班(ちすいはん)が調査を始めていた。それが今から十日ほど前のことだ。
 岐崔・眉津(びしん)から沢陽口までは風向きにもよるが概ね半日程度を要する。測量組十五名程度であれば一本の増便でこと足りただろう。九日前に測量組は沢陽口に到着していたと考えらえれる。
 測量組とは言うが、工部もれっきとした右官だ。最低限の戦闘能力は備えている。己の身を守る程度の武であれば十分だと言えるだろう。事前に城郭に異変があったという報告も受けていない。調査の範囲は外郭の周囲一里程度の範囲だと聞いている。
 その測量組全員と連絡が付かないというのはおかしなことだと文輝も思う。
 何らかの想定外の事態が起きた、と考えるのが妥当だ。野獣の出没も怪異の発生も報告されていなかったから、山崩れか何かの類だろうか。そんな自分に都合のいい解釈を導き出しながら、ふ、と文輝は気付いてしまった。

「『鳥』を出したのは沢陽口の通信士か」

 通信士は通常、一班に一人の割合で配置される。今回のように先遣隊として派兵される場合には、十五人の組であっても一人が配置される。だから、測量組十五人の他に最低でもあと一人、通信士がいる筈だ。だが、それならもっと仔細な記述があるだろうに子公はそれに触れようとはしない。つまり、今届いている伝頼鳥にはそのような記述がない、と認識するのが正解だろう。
 となると、伝頼鳥を送ってきたのが測量組の通信士ではない、と解釈するほかない。
 であれば、沢陽口に配置されている城郭所属の通信士か、と思ったがその問いにも子公は難色を示した。

「それが、どうもおかしい。白墨の筆跡を正式に鑑定すれば判明するが、どうも民間の才子が見様見真似で送ってきたように見受けられる」
「見様見真似で? そんなことが可能なのか」
「だからおかしい、と言っているだろう。そもそも、『鳥』は通信士が宛先を指定しなければ飛べぬ。民間の才子にこちらの情報が洩れているのだとすれば、これはただごとでは済まぬぞ」

 子公の声色に苛立ちと怒色が混じる。言いたいことがあるのならば最初から言え、と常々言っているのにこの副官殿はいつもこうだ。文輝が「自ら気付き」「自ら動き」「自ら答えを出す」ことを何よりも求めてくる。面倒臭いやつを副官にしたものだ、と嘆いた時期もある。それでも、文輝は子公を諦めようとは思わなかった。
 出世街道から外れたとはいえ、文輝には戴家という後ろ盾がある。だからこそ、文輝は好きなように生きてこられた。勿論、つらいことがなかっただなんて嘯いたりはしない。
 それでも。だからこそ、文輝は知っている。子公にはその後ろ盾どころか、彼を庇護してくれるものは何もないのだ。周囲の全てが他人で、誰の言葉を信じ、誰の為に尽くせばいいのかがわからない。だから、子公はいつでも文輝を試している。貴様は本当に信用に足るのか、と。
 今、子公は文輝を試している。少ない情報の中から何を選び、何を拾い、何を見つけるのか。その、子公の顔色を窺っているわけではない。ただ、溜息を吐く副官殿から危機感を察したから、あまり軍略には長けていない頭を必死で回転させた。

「念の為に聞くけどよ、『誰宛』だったんだ?」
「ふん、肝心なところで期待を裏切らん男だな、貴様は」

 及第点だ、と子公が表情を緩める。
 そして、彼は言った。出来れば一番聞きたくなかった答えを。

「そうだ、貴様宛だ。『小戴殿』」

 誰だ、そんな「鳥」を飛ばしたのは。どうして文輝がここにいることを知っている。宛名の要素の中にはどこの府庁か、という概念が含まれていることを文輝は知識として知っている。兵部軽歩兵隊第五班初校尉、まで限定しなければたとえ文輝の名を知っていても決して届かない。文輝が初校尉の職を拝領したのは今年になってからの出来ごとだ。任官は勅をもって発令されるが、それでも全てが公にされるわけではない。文輝程度の庶官のことを調べる為にでも、右尚書(うしょうしょ)という人事府に問い合わせる必要がある。身分が確かで、開示する為の正当な理由がなければここで却下されて終わりだ。だから、文輝がここにいて何の職にあるのかを調べたものがいるのであれば、それはすぐに判明する。
 子公が言っているのは、その容疑者が浮かび上がらなかったらどうするのか、ということだ。
 というより、彼は容疑者が見つからない、ということを前提として話していることに文輝は気付いてしまった。それもそうだろう。初校尉とまで記しながら、肝心の宛名が「小戴」では話にならない。それでも「鳥」は第五班の受け箱に届いた。その、小さくも大きな違和感に子公もまた事態を憂慮している。それが伝わってきたから、文輝は自らを「小戴」と呼ぶ相手を必死に頭の中で見繕う。
 誰だ。四公の朱氏殿か。それとも前宰相の黄碌生か。いや、そもそも彼らが沢陽口にいる道理がない。戴の一門にそのような無礼な人間はいない。戴の人間なら、必ず文輝と記すだろう。旧友の母御か。いや、それもない。彼女はれっきとした武官だ。国官として務めている文輝を小戴と侮る真似はしないだろう。 
 では誰だ。
 誰が四年も前の感傷を引きずっているのだ。
 その後ろ向きの感情に引きずられそうになりながら、文輝は必死に足を踏み止まる。ここで心を乱せば送り主の思うがままだ。正体の見えない場所から高みの見物と洒落込んでいる相手の思うつぼになぞなってたまるか、と思う。
 そして、文輝は子公の言葉を思い出した。

「子公、筆跡鑑定にはもう出したのか」
「いや、まだだ。貴様が目を通したい、と言い出すと思ったのでな」
「お前、本当に仕事だけはするよな」
「公私混同甚だしい貴様に言われても何の誇りにもならん」

 つっけんどんな口調だったが、文輝の反応を評価する響きがあった。
 副官でありながら、上官の文輝のことを「貴様」などと呼ぶのはこの国がどれだけ広くても子公一人だけだろう。その特権を文輝は子公に許した。不遜と切り捨てることも無礼と詰ることもせず、子公の呼びたいようにさせている。その不自由な自由を子公がどう思っているのか、文輝は正確には把握していない。
 それでも。
 今はそれを精査している場合ではない。
 文輝は今、自分がすべきことの一端を掴んだ。

「子公、行くぞ。鑑定に出すまでに一度書簡を見たい」
「見れば何かわかるのか」
「その答えは見てみないことには出ねーだろ」

 何ごとも成そうとしなければ成らない。そのことを今一度噛みしめながら文輝は言った。眉間に皺を寄せたまま、それでも子公が息を吐く。紫水晶の奥で何かがきらりと輝いた。知っている。こういう顔をしているときの子公は愛刀と同じぐらい役に立ってくれる。
 四年前。
 あの日、あの秋の日。文輝の身に唐突に降りかかった厄災のことを忘れたわけではない。岐崔の誰にしても同じだろう。痛みを分かち合いながら、それでも岐崔は復興の四年を過ごしてきた。
 あの日の混沌を知っている誰かが湖水の向こうから文輝を呼び寄せようとしている。その先が泥沼か死地かなのは間違いがない。それでも、文輝を呼んだ誰かのことを無視出来るほど文輝は図太くなれなくて、そうして腹を括った。
 そんな文輝に気付いた子公が呆れた顔で溜息を吐く。

「全く『小戴殿』の勤勉さには実に感心させられるものだ」
「嫌味を言えるならまだ大丈夫だな」
「何の話かわからんな」

 白を切ろうとする子公を視界の正面に捉えて、文輝はそうして自らの副官に微笑みかけた。それを視認しただろう子公の眉間の皺がほんの少しだけ薄くなったような気がしたが、確証はない。
 知っている。今から文輝が選ぶ道は最も険しい道だろう。関わりたくないのなら、何もわからぬ顔をして文輝の上官に丸投げにすればいい。
 なのに文輝はどうしても、自らに投げられたものを受け取る道以外を選べなかった。
 そういう文輝を馬鹿だと評しながら、それでも子公もまたそういう馬鹿のことを信じようとしている。文輝も子公も方向性こそ違っていたが、馬鹿に違いなかった。

「子公、昔話が聞きたいのならそう言え。俺は別に隠し立てしなきゃならんことは何もしていない」
「ふん。まぁ、気が向いたら聞いてやっても構わん」
「どっちがあるじなんだかわかりゃしねーな、本当」

 取り敢えず、まぁ急いで戻るか。
 言って小走りで回廊を駆け出した文輝の背の向こうで「馬鹿もの、回廊を走るやつがあるか」という声が聞こえたが、ことは急を要している。非常事態宣言だ、と軽口を叩いてなお小走りを続けると今朝聞いた中でいっとう大きな溜息が聞こえて、一拍ののちに足音がもう一つ響き始める。
 文輝の平凡で、非凡な人生の新しい朝がまたしても残酷な運命を告げようとしていた。