「如風伝」第二部 三話

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 初夏の湖水は水浴びをするのには些か冷たい。浅瀬に素足を浸して遊ぶのですら天候によっては躊躇われるのに衣服を着たまま飛び込むなどもっての他だろう。綿で織られた合いの右服(うふく)が着水と同時に湖水を含む。勢いよく飛び込んだ分だけ、戴文輝(たい・ぶんき)と柯子公(か・しこう)は深く沈んだ。藻草の漂う姿を見せながら、それでも透明とは言い難い湖水はどこか青臭さを感じさせる。息を吐いた。ごぽり、と口から呼気が溢れ出して水面へ向けて浮かび上がる。それを追うように肢体を動かして文輝は水の中を進む。右服の羽織は見栄えの為の衣服で、水中で活動するときのことなど考えられてもいない。錘でも付いているのではないか。そんなことを思いながら文輝は光り輝く白の世界へと帰還した。
 息を吸う。肺腑の底まで深く息を吸うと眩暈がするような思いがして、文輝の生を伝えた。
 錘のような右服を水中に靡かせながら文輝はしばらくの間、水面を揺蕩う。
 己の副官が待てど浮上してこないことに幾ばくかの不安を感じたが、子公は水の国の生まれだ。右官(うかん)の嗜み程度の泳力しかない文輝より余程子公の方が水に馴染んでいる。そう信じての決断だったが誤りだっただろうか。子公もまた右官としての鍛錬を積んでいる。死にはしないだろう。
 そんなことを考えながらも文輝は水面に浮かび上がってくる気泡をひたすらに探した。気泡は子公の生を伝える。肺腑が湖水に浸っていなければ気泡はどこかで浮かぶ。
 一般的に人が潜水可能な時間の範疇のぎりぎりまで待って、文輝は水中に潜った。多分、子公は「浮いてこない」だろう。そんな予感があった。原因はわからない。着衣水泳が得意ではなかったのか。水の冷たさが身体を強張らせたのか。或いはそのどちらもか。はたまた別の理由があるのかは判然としないが、このまま待っていたら本当の本当に子公は「沈んで」しまうだろうことは明白だった。
 半透明の青の中、文輝が沈んでいた地点より少し浅いところに子公はいた。
 どうかしたのか、と思いながら近寄ると彼の青みを帯びた黒髪が木の枝か何かに絡まって動けないでいるようだ。彼の故国では豊かな長髪は裕福さと身分の確かさを何よりも雄弁に物語るのだといつか聞いた。故国を棄ててきた、と子公は言ったが髪の長短に拘らない西白国にあってその長髪を大事に守り続けていることからも完全に故国を棄てることなど出来ていないのは自明だ。己の命が尽きるかもしれないこの局面で体裁の方を重んじている。困ったやつだ。そう思ったが、それはそれで悪くもないと思えた。
 だから。
 文輝の生まれた戴家は健剛を絵に描いたような一族だ。それでも年の離れた末っ子三男の文輝は下女たちに囲まれて育ってきた。だからだろうか。指先の器用さは戴家の中で誰にも引けを取らない。
 その、器用な指先で子公の黒髪を解いてやる。
 そうして、自由になった子公の腕を引っ張って浮上した。
 水面から空気中に出る。午後の陽射しは相変わらず白く輝いていて、文輝たちの無事を実感させた。息を吸う。湖水の生臭い匂いが鼻腔から離れないが、それでも生きているからこその臭気だろう。
 必死に呼吸を再開する子公の右服の襟首を掴んで、文輝は岸へと向けて泳ぎ出した。文輝の呼吸はもう整っている。突堤に入港する船の邪魔にならない経路を選んで、それでも最短距離を心掛けた。
 陸上では何ごとかと騒いでいるだろうか。そろそろ救助の漁船が来たりしないだろうか。
 そんなことを文輝は束の間考えたが、兆しが現実になる気配はまだない。それどころか。岸に辿り着いた文輝たちを見物しに来るものもいない。
 独力で陸上に這い上がって、そうして子公もまた引き上げて石造りの津(みなと)の上に二人で這いつくばる。この段になっても沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)は何の変異も見せなかった。

「おい、生きてるか子公」
「もう少し、計画性というものを、持て、この、大馬鹿もの」

 危うく死ぬところだったではないか。悪口が飛んでくるのならば子公は問題ない。そんなことを即座に判断しながら文輝は津の様子を窺う。右服の官吏が二人、湖水に着水して何の審議もない、などということはあるまじきことだ。
 この城郭は何かがおかしい。
 伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばした通信士の不在。才子の総元締めの消失。怪異の発生は未だ報告もされず山門の衛士もいない。不時着した右官を取り調べるものもいなければ、親切心から手を貸すものもいない。
 どうなっているのだ、と思う。
 別段、特別扱いをせよ、などと言うつもりもない。それでも、大の大人が二人溺れかけているのを無視出来るというのなら、この城郭のものは人としての道を失っているのではないか。揶揄いでもいい。何か反応が来て然るべきではないのか。
 違和感が無限に去来して文輝は薄気味の悪さを感じた。

「――子公、沢陽口ってのはこれが『普通』なのか」
「のわけがあるまい」
「じゃあ――」

 これは何なのだ。ここは何なのだ。ここで何が起きているというのだ。
 文輝の知りようのない何かがここにはあって、文輝は一体何に巻き込まれようとしているのだ。
 答えが欲しくなって手を、言葉を伸ばす。怪異を知りもしない子公に何を問うているのだ、と思って言葉を飲み込むが子公の方は文輝の主張を汲み取った後だった。