「如風伝」第二部 八話

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 名は体を表す、と言う。
 名前がそのものの本質を代弁しているから、名前に恥じないだけの行いをしろ、という意味の訓戒だ。西白国(さいはくこく)で生れ落ちたものは皆、その常識ともいえる感覚を共有している。名前というのが特別な意味を持つ符号であることも、それを気安く相手に教えていいものではないことも、たとえ親の仇であってどれだけ憎んでいたとしても、真実の名を呼ぶことをしてはならないことも、皆承知している。
 読替(よみかえ)というのはその心理を利用した行為だ。
 本質を隠し、水面下で守り、上辺を殴る為の障壁を低くする。
 読替えたものは罪悪感の呵責なしに相手を殴ることが許される。何故ならそれは本質から離れた上辺であり、本質的には何も殴っていないからだ。そう信じているから、西白国のものの多くは読替を日常的に行う。音声で認識されるときには文字という情報が伴わない、ということを失念して西白国では読替という行為を百六十年もの長きにわたって続けてきた。
 これはその報いだ、と白瑛(びゃくえい)は静かに語った。

「小戴(しょうたい)殿。あなたはこの地がどうして『沢陽口(たくようこう)』という名を受けたのか、ご存知ではないでしょう?」
「ああ」

 戴文輝(たい・ぶんき)の人生に史学という概念はあるが、民俗学という概念はない。国土の成り立ちに興味を持つほど探求的ではなかった文輝に地名の由来を知らべるきっかけなどなく、そこにあって当然であるものの一つだった。
 文輝の副官である柯子公(か・しこう)が白瑛の問いかけを聞いて顔を顰める。それを隣で見届けて、文輝は己の無知からくる罪がまた一つ増えるのを確信した。子公は知っているのだろうか。知っていてそこに座っているのだろうか。彼が夢見た自由の国の本当の姿を暴かれるのをどんな思いで聞いているのだろう。不条理のない国などない。理想だけで成り立つ国もない。それと知っていて、それでも彼は故国を出て西白国で官吏となった。その国も美しくないと知ったら幻滅するだろうか。
 それでも。
 そうだとしても。
 軋轢を抱えながらでも人は前に進むしかない。
 全ての差別と偏見が絶えることはないだろう。それでも、明日は来るし人は人を差別する。そのことについて、全てが糺されなければならないと主張をするより、自らがこの世を去る方が合理的な解だと知って、それでも子公は文輝の副官を選んでくれるだろうか。
 多分。
 子公は流麗な眉を寄せて、顰めっ面で溜息を吐いて明日の為の献策をしてくれるだろう。
 それが、文輝と共に数多の任務を駆け抜けてきた副官への信頼だ。
 俯いて項垂れるのは全てが終わった後でも間に合う。
 だから。文輝は白瑛に話の続きを促した。意を得た白瑛はゆっくりと話し出す。
 文輝の右側に伏した赤虎(せっこ)――かつて陶華軍(とう・かぐん)だったものが琥珀色の双眸をそっと眇めていた。

「沢――は澤の新字体であり、さわ、或いは湿地を意味します。陽――すなわち『洋』の読替ですね。洋は、うみ、或いは大きな水場。そう、あなた方の言葉で言う『湖水』の『太陽が昇る側』程度の意味合いで読替が行われました。口――すなわち『港』の読替であり、みなと。つまるところ沢陽口、というのは『湖水の東側に存在する湿地帯に設けられた停泊地』であることを示しています」

 あなた方にとっては相当に手を焼いた湿地なのでしょう。治水工事でも行わなければ到底、利用価値のない土地でした。
 その説明に文輝の中で何かが整っていくのを感じる。
 湖水を渡るものをどうして兵部(ひょうぶ)ではなく工部(こうぶ)が管轄しているのか。その長年の疑問がやっと説明された。沢陽口は治水を繰り返した結果、ようやく城郭(まち)としての機能を持ち始める。それでも長い歴史の中に連綿と息づいてきた水の流れを制御出来るほど人間は万能ではなく、治水班(ちすいはん)が定期的に検分し、大小様々な治水工事を続けていた。その結果、沢陽口は城郭を維持し続けていた。だから、沢陽口の天候に変異があれば治水班が測量組を出す。「雨が降り止まない」という報を受けたのならば尚更、工部は治水班を派兵しただろう。

「この国が大陸を統治する遥か以前の出来ごとです。あなたたちがそのことをご存じないのも道理でしょう。当時はわたくしも含めて、まだ三人ほどしか天仙(てんせん)がおりませんでしたからね」

 それは言外に怪異の跋扈を意味する。
 白帝(はくてい)は神威を保つ為に二十四もの天仙の恭順を必要とした。そのうちの八分の一。三人の天仙では白帝を十分に神たらしめることは出来なかった。当然、怪異の排除は十分でない。
 西方大陸にのみ発生する怪異、というのはその実、土着神であるという説がある。人の世に中央集権が浸透する以前より、神の世にも中央集権があった。白帝は中央――黄央(おおう)に立った黄帝の血族で役目を負って西方へと赴任した。その際、土着の神々を強硬手段を伴って排斥したのだが、歴史はそれを武勇として語る。排斥された土着の神々を野蛮とした。西方大陸にあって百六十年しか歴史を持たない西白国の誰もが忘れている、怪異にとっては忌々しき過去の屈辱だ。

「怪異が土着の神――だと?」
「そうでございますよ、小戴殿。あなた方が信じた理の外側にあるもの。戴く理が違うだけの、由緒正しきこの地の守護。それを神と呼ぶのは必定ではございませんか」

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