Fragment of a Star * 03:道草の番人

 魔獣は決して嘘を吐かない。
 だから。サイラスもまたターシュに向けて手を伸ばす。トライスターの学者などと称賛されたところで、サイラスの中にあるのは知識だけだ。経験も、手応えも何もない。それでも、そんなサイラスでもリアムは伴ってくれた。世界を見せようと言ってくれた。そのリアムがターシュを拒むとは到底思える筈もない。

「ターシュ。聞かせてくれないか? お前の中でウィリアム・ハーディというのがどういう男なのか。どうしてお前たちはあれを兄と慕うのか。私は春のリアムしか知らんのだ」

 雪が解け、花が綻び、陽が射しはじめた頃にやってくる希望のリアムしかサイラスは知らない。
 ソラネンを出た後、リアムがどこをどう旅するのかもサイラスは知らない。敬愛するものが同じなら、感情の共有が出来るのではないか。迷うターシュに声をかけると何故か彼は額の上においていたゴーグルを装着してしまう。レンズ面が陽光を反射して虹色に輝いているのは確かに美しかったが、ターシュの表情は一気に隠されてしまった。
 対話を拒否されたのだろうか。彼から言葉を引き出せる言動があるのか。逡巡するサイラスのことなど路傍の石程度に無視をしてターシュがゆっくりと近くにあった樹木を登り始めた。

「ターシュ?」

 何をしているのか、という問いは音にならなかった。木の幹を登り、蔓が幾つも絡みついている枝に足を下したターシュが腰に佩いた短剣を抜きはらう。そうして、地上のサイラスの方を見て――どんな表情をしているのかは判然としないが、躊躇いがちにターシュが声を発した。

「春の兄さんを知っているんですか?」
「そうだ」
「僕は――夏の兄さんしか知りません」

 それでも、ターシュの説明が必要か、と言外にある。そうだ、と返すと彼は小さな消え入りそうな声で「あなたを先生と呼んでもいいですか?」と躊躇いがちに尋ねてきた。

「私を、か?」

 こくり。樹上のターシュが頷いて肯定する。
 そして、彼は枝の上に座るとそこからぶら下がっている蔓の幾つかを短剣で断ち切った。芳醇な香りが頭上から降ってくる。蔓をよく見ると房状に茶色の実が見える。ターシュがそれを手繰り寄せて、今度は太腿に沿わせていた折り畳みナイフで果実をもいだ。
 正直に言えば、サイラスはソラネンでもそれなりの地位にあった。先生と呼ばれることこそ少なかったが「トライスター」という単語はそれを代弁している。敬愛をもって呼ばれる声音かどうかはフィリップの感覚器である聴覚を借り受けた状態のサイラスには容易く判断出来た。

「これが何の蔓か、わかりますか?」
「『南方系蔓葡萄(オリヴィア・サン・ウーバ)』だろう? こんな場所にも生育していたのか」

 オリヴィア・サン・ウーバは主にハルヴェルの北方を塞ぐルールーツ山脈の南側に生育する。と植物学では定義されている。ここはシェルジャン街道においてはハルヴェルの近郊と呼べるが、ルールーツ山脈からは遠く離れていた。それでもターシュが今、持っているのはオリヴィア・サン・ウーバの果実であることは否定出来ない。知られざる生育地、という言葉がサイラスの脳裏に去来した。

「正解です。先生はどこまでご存じですか? 例えば、この実が脂性の汚れに対する洗浄力がとても強い――とか」
「知っているとも。オリヴィアは葡萄状の果実を結ぶが、その実、性質はオリーブの木にとても近い――熱帯系の植物だ」

 オリヴィアというのは元々は「平和」を意味する。調理用オイルの原料として有名なオリーブもまたオリヴィアと同じ由来を持つことから、これらの植物の間には相関関係があるだろう、とソラネンの学者の一人が言っていたのを思い出した。
 オリヴィアの果実を絞った脂性を持つ液体には高い洗浄能力がある。そして、今、サイラスたちの両手を汚した樹液を落とすのに最適な植物油であることは間違いがなかった。
 どこでそれを学んだのか、正しい知識として活用しているターシュは決して馬鹿でも愚昧でもないだろう。学びの場さえ用意されれば、本当に錬金術師にも薬師にもになり得る。
 磨かれていない識者の原石を拾った、とすら思った。
 
「この山で僕たちは育ちました」

 そこには逆説的にこの山で知らないことなど何もない、とすら含まれていて、ターシュが生まれを恥じていないことを告げる。知っている。フーシャもターシュも美しい翡翠に強さを湛えていた。同情を拒み、憐憫を退け、共感を拒絶する。その臆病な勇気をかつてサイラスもまた持っていた。
 だから。

「ターシュ。お前は学問がしたいのか?」
「……姉さんにも言ったことがないけど、そうです」

 だから、サイラスに教えてほしいことがある。ターシュの不足を補って、この山に恩を返すには何が出来るかを必死に模索している。ベルローズを守ってきたのはターシュの見識だ。どうやって学んだのかはわからないが、その見識に不足を感じているのが伝わってくる。翡翠を隠したゴーグルがサイラスを静かに見下ろす。

「ターシュ、私の専攻は古代魔術だ」
「論述功労賞を独占する天才なんですよね? それに、先生にはお二人の力添えがあります」
「あら? わたしたちも古代魔術そのもののような存在なのだけれど?」
「僕も――姉さんの力になりたいんです」

 学問の徒ではフーシャを守れないと思っていた。
 逆風の世の中を渡っていくのには腕っぷしの強さが一番手っ取り早かった。
 でも、リアムの言う通りだ。ターシュは知らない誰かから金品を略奪することに罪悪感を覚えている。他人から奪っても奪っても奪ってもターシュの心は満たされなかった。
 そのことをターシュはずっと反芻し続けてきた。本当に望む明日の姿を知っているのに、知らない振りをしようとしてきた。そんな毎日を変えたい、と彼は願っている。