「如風伝」第二部 三話

 人を憎いと思ったことはなかった。「淋しい」も「羨ましい」も「狡い」も全部ぜんぶ「わたし」の中にはなくて、ただ「わたし」は空っぽなだけだった。「彼女」がその一つひとつを「わたし」に教える。そうして「わたし」は知った。
 世界は「わたし」を愛してくれなかった!
 「わたし」だけが世界に愛されなかった!
 不条理は精算されなければならない。不平等は正されなければならない。不誠実は罰せられなければならない。
 誰もそれを成さないのなら「わたし」が成すほかはない。「わたし」の双眸は光を得た。「わたし」の世界には心が満ちた。嘆きを聞き届けられるまで「わたし」は振り上げたこの拳を決して降ろすことはないだろう。
 それが他ならない「彼女」の望みであるのなら。

   * * *

 初夏の湖水は水浴びをするのには些か冷たい。浅瀬に素足を浸して遊ぶのですら天候によっては躊躇われるのに衣服を着たまま飛び込むなどもっての他だろう。綿で織られた合いの右服(うふく)が着水と同時に湖水を含む。勢いよく飛び込んだ分だけ、戴文輝(たい・ぶんき)と柯子公(か・しこう)は深く沈んだ。藻草の漂う姿を見せながら、それでも透明とは言い難い湖水はどこか青臭さを感じさせる。息を吐いた。ごぽり、と口から呼気が溢れ出して水面へ向けて浮かび上がる。それを追うように肢体を動かして文輝は水の中を進む。右服の羽織は見栄えの為の衣服で、水中で活動するときのことなど考えられてもいない。錘でも付いているのではないか。そんなことを思いながら文輝は光り輝く白の世界へと帰還した。
 息を吸う。肺腑の底まで深く息を吸うと眩暈がするような思いがして、文輝の生を伝えた。
 錘のような右服を水中に靡かせながら文輝はしばらくの間、水面を揺蕩う。
 己の副官が待てど浮上してこないことに幾ばくかの不安を感じたが、子公は水の国の生まれだ。右官(うかん)の嗜み程度の泳力しかない文輝より余程子公の方が水に馴染んでいる。そう信じての決断だったが誤りだっただろうか。子公もまた右官としての鍛錬を積んでいる。死にはしないだろう。
 そんなことを考えながらも文輝は水面に浮かび上がってくる気泡をひたすらに探した。気泡は子公の生を伝える。肺腑が湖水に浸っていなければ気泡はどこかで浮かぶ。
 一般的に人が潜水可能な時間の範疇のぎりぎりまで待って、文輝は水中に潜った。多分、子公は「浮いてこない」だろう。そんな予感があった。原因はわからない。着衣水泳が得意ではなかったのか。水の冷たさが身体を強張らせたのか。或いはそのどちらもか。はたまた別の理由があるのかは判然としないが、このまま待っていたら本当の本当に子公は「沈んで」しまうだろうことは明白だった。
 半透明の青の中、文輝が沈んでいた地点より少し浅いところに子公はいた。
 どうかしたのか、と思いながら近寄ると彼の青みを帯びた黒髪が木の枝か何かに絡まって動けないでいるようだ。彼の故国では豊かな長髪は裕福さと身分の確かさを何よりも雄弁に物語るのだといつか聞いた。故国を棄ててきた、と子公は言ったが髪の長短に拘らない西白国にあってその長髪を大事に守り続けていることからも完全に故国を棄てることなど出来ていないのは自明だ。己の命が尽きるかもしれないこの局面で体裁の方を重んじている。困ったやつだ。そう思ったが、それはそれで悪くもないと思えた。
 だから。
 文輝の生まれた戴家は健剛を絵に描いたような一族だ。それでも年の離れた末っ子三男の文輝は下女たちに囲まれて育ってきた。だからだろうか。指先の器用さは戴家の中で誰にも引けを取らない。
 その、器用な指先で子公の黒髪を解いてやる。
 そうして、自由になった子公の腕を引っ張って浮上した。
 水面から空気中に出る。午後の陽射しは相変わらず白く輝いていて、文輝たちの無事を実感させた。息を吸う。湖水の生臭い匂いが鼻腔から離れないが、それでも生きているからこその臭気だろう。
 必死に呼吸を再開する子公の右服の襟首を掴んで、文輝は岸へと向けて泳ぎ出した。文輝の呼吸はもう整っている。突堤に入港する船の邪魔にならない経路を選んで、それでも最短距離を心掛けた。
 陸上では何ごとかと騒いでいるだろうか。そろそろ救助の漁船が来たりしないだろうか。
 そんなことを文輝は束の間考えたが、兆しが現実になる気配はまだない。それどころか。岸に辿り着いた文輝たちを見物しに来るものもいない。
 独力で陸上に這い上がって、そうして子公もまた引き上げて石造りの津(みなと)の上に二人で這いつくばる。この段になっても沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)は何の変異も見せなかった。

「おい、生きてるか子公」
「もう少し、計画性というものを、持て、この、大馬鹿もの」

 危うく死ぬところだったではないか。悪口が飛んでくるのならば子公は問題ない。そんなことを即座に判断しながら文輝は津の様子を窺う。右服の官吏が二人、湖水に着水して何の審議もない、などということはあるまじきことだ。
 この城郭は何かがおかしい。
 伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばした通信士の不在。才子の総元締めの消失。怪異の発生は未だ報告もされず山門の衛士もいない。不時着した右官を取り調べるものもいなければ、親切心から手を貸すものもいない。
 どうなっているのだ、と思う。
 別段、特別扱いをせよ、などと言うつもりもない。それでも、大の大人が二人溺れかけているのを無視出来るというのなら、この城郭のものは人としての道を失っているのではないか。揶揄いでもいい。何か反応が来て然るべきではないのか。
 違和感が無限に去来して文輝は薄気味の悪さを感じた。

「――子公、沢陽口ってのはこれが『普通』なのか」
「のわけがあるまい」
「じゃあ――」

 これは何なのだ。ここは何なのだ。ここで何が起きているというのだ。
 文輝の知りようのない何かがここにはあって、文輝は一体何に巻き込まれようとしているのだ。
 答えが欲しくなって手を、言葉を伸ばす。怪異を知りもしない子公に何を問うているのだ、と思って言葉を飲み込むが子公の方は文輝の主張を汲み取った後だった。

「文輝。夏風邪を引く前に衣を整えるとしよう」

 おそらく、このずぶ濡れのままでも旅籠(やど)の主人は中に通してくれるだろう。
 そんなことを言いながら、子公は石畳の街路を歩き始めた。一拍遅れて文輝もその背を追う。

「流石に旅籠のおやじは気付くだろ」
「気付けば変異はなし。気付かねば私の仮定が肯定される。ただそれだけのことであろうよ」
「仮定なぁ」

 ほんの数刻前に辿ったばかりの街路を二人は進む。子公の言う仮定が何なのか、全貌は見えてはいないが文輝にも心当たりのようなものはあった。
 状況整理をしながら歩く間もずぶ濡れの文輝たちに何かの反応を示すものはいない。まるでそこにあるものがいつも通りであるかのような振る舞いに、文輝は「自分が存在しているという錯覚」をしているような錯覚を感じた。
 文輝は元々理屈には疎い。考えることよりも身体を動かすことの方が得意だ。感情論に振り回されることもしばしばあるが、それでも筋は通してきた方だと自負している。
 子公が認めたように文輝の直感は非常に確かだ。本質を本質と見抜く力だとも言えよう。
 そのある種本能的な力と自らの見聞きしたものとで今まで生き抜いてきた。
 文輝の直感は違和を告げる。この城郭は明らかに何かがおかしい。狂っているのは自分の方ではない。この城郭の方だ。それを疑ってはならないと子公は言う。自らの正しさに万有の価値はない。あの日、動乱の岐崔(ぎさい)で文輝はそれを痛切に思い知った。同じ過ちを今一度繰り返そうとしているだけではないのか。この城郭がこの状態で安寧を保っているというのなら干渉をすることの方が罪深いのではないか。
 そんなことを無限に繰り返して、文輝よりも少し小さいが存在感のある子公の背中をただじっと見つめた。小さいのに凛と立っている背中はかつての同輩を思わせる。そうして、文輝は思うのだ。まだまだ己は不如意の範疇を逃れていない、と。

「子公、俺は――」

 間違っていないのだろうか。ここで真実を明らかにするのが業ではないのだろうか。
 問いかけた言葉の向こうに文輝の榛色の双眸は「あってはならないもの」を視認する。何かの気のせいかと思った。城郭の住人の誰もが気にも留めない。見間違いだろうと思ったが、その姿は歩を進めるごとに鮮明さを得る。
 紅い――燃える炎のような体毛の大きな虎。この国ではときに怪異、ときには神獣の一つとして名を連ねる赤虎(せっこ)が一人の少年に伴われて歩いていた。
 赤虎の性はあくまでも獣だ。神性を持ってはいるが獣は獣。ときには人に牙を剥くことも十分にあり得る。その赤虎が城郭の大通りを闊歩しているというのは一体何の悪夢だ。枷を施されているわけでも、首輪や胴輪で戒められているわけでもない。にも関わらず人々は赤虎が歩いていることに恐怖を感じていない――どころかおそらくは「気付いていない」ように見受けられる。
 やはり。
 この城郭は何かがおかしい。
 そんな確証を抱くと同時に酷く唇が乾く感覚があった。子公。副官を呼び止めるのに用いた声すら喉から出る際、ひりついていた。

「どうした、文輝」

 立ち止まった文輝を訝って子公が振り返る。彼の視界にも赤虎は映っただろうに、子公は違和を示さない。見えていないのだ、と気付くのが先か赤虎を伴った少年が足を止めるのが先か。文輝の眼差しの先で少年がふっと微笑みを浮かべる。

「僕らが『見えている』んでしょう、お兄さん」
「――ああ、そうだな」

 子公には既に少年と赤虎の姿が映っていない、と考える他ない状況に文輝は苦いものを噛んだような気持ちだった。子公ですら既に正気を保っていない。この城郭はやはり危険だ。何かがある。
 疑惑を確証に変えながら、少年は花の顔で満面の笑みを形どった。

「なら、僕は言わなきゃならない」
「何を?」
「ようこそ、忘却と失念の城郭・沢陽口へ。全ての違和を見落とすこの城郭であなたはどのぐらい正気を保っていられるのか。僕は今から心が躍る思いだよ」

 何を言っているのか、正直なところ文輝には理解しかねたのだが、本能が告げる。この少年はこの城郭にあって「正常な」感覚を保っている稀有な存在だ。問題解決にはこの少年と接触するのが最適解であろう。ずぶ濡れの文輝たちに気付き、声をかけ、そうして会話が成立した。話を聞かないだけの正当な理由がない。
 文輝は大きな溜息を吐きながらも、それでも結局、少年と関わることを選んだ。

「こいつにも君の姿が見えるようには出来るのか」
「そうだね。素養は悪くないから、多分出来るよ」

 言って、少年は懐から小さな土鈴を取り出して文輝に手渡す。白い何の模様もない小さな土鈴が少年の手から文輝の手に渡る際にりんと鳴った。その音には聞き覚えがある。四年も前の光景が文輝の脳裏を駆け巡った。
 知っている。この音は「国主が真名を呼ぶときの音」だ。そして、それは白帝の加護を受けていることも同時に意味する。どうしてこの土鈴が実体を持ってその音を鳴らすのか。文輝には何の理由も説明出来なかったが、それでも一つだけは理解した。
 この少年もまた何らかの怪異である。

「そちらのお兄さんの素養と、あなたの素養が必要十分であればその鈴の音で全てが『正される』から、一度鳴らしてみてはどうかな?」
「俺が鳴らすのか」
「認識されていないものを媒介にしても音は響かないからね」
「言っていることがあまり理解出来ねえんだが」
「百聞は一見にしかず、と言うじゃない。まずは試してみよう」

 もしも、文輝の鈴の音が子公に届かなかったら。そのときはまた別の方策を考える。そんなことを少年が主張するので文輝は半信半疑のまま土鈴を軽く振った。りん、と鳴らすと耳朶の奥の方で甘い痺れが生まれる。この土鈴は何なのだ。どうして見えたり見えなかったりするのだ。問いたいことは山のようにある。
 ただ。
 路上で長々とする話ではないだろう。少年と赤虎が見えない子公は旅籠に戻ることを急いている。
 ならば、文輝はこの土鈴に賭けてもよいのではないか。そんな気がしたから、受け取った土鈴の紫紺の紐をすっと持ち上げる。そうして、祈りにも似た思いで土鈴を振った。りん、りん。乾いた音が街路に響いて、そうして子公の紫紺の双眸に今までとは違う輝きが満ちたのを文輝は確かに見届けた。
 快晴の夜道を照らす星々に似た輝きを灯した子公が文輝を――その傍らで止まった少年と赤虎を見つけてこれ以上ないほどの驚きを示す。柯子公というのは居丈高な態度を示してはいるが、その実とても繊細で臆病な性格をしていることを文輝は知っていた。多分、今、子公は困惑の淵で恐怖と戦っている。

「何の音だ――というか、そ、それは何だ! 神代の生きものではないか!」

 どうしてそんなものが街路に堂々と座っているのだ。
 子公の不遜は不敬ではない。相手を認め、畏敬の念を抱き、自らの中に受け入れたからこそ対等の存在として不遜に振舞う。信頼のない相手には決して隙など見せないし、弱点を晒すこともない。
 今、子公は不測と驚愕を示した。半ば恐怖の色も灯しているだろう。
 つまり。

「ようこそ、子公。忘却と失念の城郭・沢陽口へ、だそうだ」
「貴様! 何を平然と喋っている! その直刀は飾りか! 怪異を切れぬまでも、抜いて応戦の構えを見せよ!」

 狼狽し、怯え、自らの中に受け入れることを拒み、排斥する。
 凡そ人として取り得る正しい怪異への反応に文輝と少年は顔を見合わせて笑った。出会ってから未だ幾ばくも無い相手同士なのに、どうしてだかずっと昔から知っているような、そんな不思議な安堵がそこにはあった。

「なるほど、実に模範的な反応だ。少年、君はこれが望みか?」
「うん、本当にそういう反応はひと月ぶりだから新鮮に感じるよ」

 怪異は自然現象であり、天然の生きものであると同時に神性を帯びている。神性を持つ相手は神器(じんぎ)でなければ干渉をすることも叶わない。ただ、神器はその名の通り神性を帯びた器物であり、容易には手に入らないし、逆に神性を帯びていないものに対してはただの刀剣よりも格段に性能が劣った。
 文輝は右官だ。人と相対し、人を守るのが生業だから当然普通の直刀を帯びている。赤虎と闘争することなど想定の範囲外だから、この直刀を抜剣したところで何の効力も持たないが、それでも抵抗の構えを見せろ、というのが子公の言い分だろう。
 何と言うか律儀なやつだ、と思う。
 己の道に律儀で、正直で、真摯で、実直だ。この道に引っ張り込んだのは他ならない文輝自身だったが、こうも規範的な右官府の副官に育ってくれるとは思ってもみなかっただけに小さな感動すら覚える。

「子公。安心しろ。お前の信じた直感がこう言ってる。『この赤虎は俺たちに無害だ』」
「怪異の主張なぞ信じて何となる!」

 斬れなくても斬れ。そんなことを必死に主張する子公の双眸はただ恐怖に彩られている。赤虎を伴った少年は文輝と子公とを交互に見て興味深そうに笑った。

「どうする、『夕明(せきめ)』。君はどうしたい?」

 路地の上に大人しく座った赤虎の額を撫でながら、少年が言う。炎のような体毛の中、透き通った赤玉が輝いて、文輝の中でりん、と手に持っている土鈴のものとは少し違う音色が響いた。
 それと気付く暇すらなく、文輝の唇が勝手に音を紡ぐ。

「まだ『読替(よみかえ)』に囚われておられるのですか、華軍(かぐん)殿」

 文輝の自発的な意思はおそらく半分もなかったであろう。無意識的に言葉を発していた。だから、子公や少年が訝しげな顔をしてこちらを見ている理由がわからない。

「何?」
「おや?」
「うん?」

 三人揃って困惑で顔を彩っていても街路の道行きは誰も咎め立てることもなかった。ただ、ぶつからないように彼らもまた「無意識的に」文輝たちを避けていく。雑踏の中にあって誰からも認識されていないというのは恐ろしいほどの非日常だった。
 文輝の吐いた不明瞭な言葉を真っ先に読み解いたのは少年で、彼は紅い毛並みを撫でながら言った。

「『夕明』、華軍というのが君の名だったのかい?」

 「夕明」――せきめ、転じて「赤目」だ。赤虎の血涙のような眼を意味している。文輝が二十二年間親しんだ、西白国の忌むべき風習の一つであり、かつては賞罰の手段だった読替そのものだ。本来の意味を隠すために別の意を持った言葉に読み替える。
 眼前に座った赤虎の双眸が文輝の言葉を受けて数度瞬いたかと思ったら、黄金の色に変わる。
 そうして、赤虎――夕明は驚いたことに人の言葉を介した。

「久しいな、小戴」

 俺は確かに陶華軍だ。いや、陶華軍「だった」と言うべきだろう。
 そんなことを言って夕明はゆったりと腰を上げる。紅と黒の二色で塗り分けられた尾を振って、そうして夕明は間違いなく「どこか」へ移動しようとしていた。

「委哉(いさい)、それは俺の客人だ。路地で立ち話というのも風情がない。湯を貸してやれ。この季節の水遊びはまだ身体を冷やすだろうからな」
「それは異論ないのだけれど、僕は君を何と呼ぶべきかな? 夕明」
「今の俺は夕明だ。お前がそう名付けたのだろう」

 虎ながら不敵に微笑んで夕明は路地と路地の間に消えた。どこに向かうのか、と少年に問えば「自己紹介が遅れたね。僕は委哉。あなたの言うところの『読替に囚われた遺物』の一人だよ、小戴殿」と言って何の屈託もない顔で笑い、夕明の後を引き受けて文輝たちを路地裏へと誘う。
 そんな説明では何もわからない。
 ただ。

「よいのか、文輝。あれはどちらも貴様の言う怪異そのものに見受けられるが」
「正直わからん」
「貴様、あの赤虎が陶華軍とわかって話しかけたのではないのか」
「知るか。才子でもないのにそんな超能力が俺にあってたまるか」
「ではどうする。ここで引き帰しても私は構わん」

 道は二つある。紅の伝頼鳥の違和を手繰ってあの赤虎の後を追っていく道と、赤虎との巡り合わせを所詮怪異と切り捨てて通信士を探し続ける道の二つだ。もし、他の選択肢が必要であればこのまま明日、到着する右官府の部隊と合流して違和を無視するという道もあるが、その道を棄ててきたからこそ文輝たちは今ここにいる。
 だから。

「旅籠のおやじは湯を貸してくれねえだろうなぁ」
「そうだな。湯場はまだ準備中だろう」
「なら行くか。何。大したことじゃねえよ。ちょっと湯を借りに行くだけだ。な?」
「貴様がどうしてもと言うのならば私も同道してやろう」

 夏風邪を引く馬鹿には数えられたくないのでな。
 言って子公は皮肉気に笑ったが、それが彼の精一杯の強がりだろうことは疑うまでもない。子公は横柄な態度を取ってはいるが文輝など及びもつかないほどの現実的な実利主義者だ。不確定要素を詰め込んだ現状に困惑していない道理などないし、多分、彼の中では赤虎の招きに応じるのは文字通り命運を賭けての大決心に他ならない。部隊を離れての単独行動。伝承の類だと思っていた怪異との遭遇。そして、理解を越えた文輝の直感が生み出していく先の見えない不安。
 それでも。
 子公は文輝に賭けてもいい、と言った。
 それはつまり、信だ。文輝と子公の二年は信を生み出すのに十分だったことを、今、子公が示す。

「子公。お前だってもう今更何もなかった顔で岐崔に戻れる、だなんて思ってもいねえだろ」
「思うだけなら自由だろう。まぁ、思ってもいないが」

 行くのだろう。言って子公がどこか吹っ切れたような顔をした。こういう顔をしているときの子公は実に頼りになる。この路地裏の向こうで待っているものと向き合わないことには文輝たちの任務が始まらない。そんな予感を抱きながら、文輝は路地を曲がった。
 喧騒は続く。ずぶ濡れの文輝たちの立っていた場所に小さな水たまりが出来ていたのだが、雑踏はそれすらも気付かないで素通りしていく。
 忘却と失念の城郭と呼ばれるだけの理由が待っていることだけを望んだ文輝の存在もまた城郭から忘却されるのだった。