「如風伝」第二部 六話

 「わたし」なんていてもいなくても同じ。本当にそう思っていたかどうかなんて「わたし」にも、もうわからない。
 ずっと、ずっと一人だった。
 「彼女」が現れなければ「わたし」はずっとそのまま一人でいられた。
 悲しいも淋しいも虚しいも憎いも知らないままで、「わたし」はずっと立っていられた。
 楽しさは一瞬で消える。「わたし」は結局一人のままで、嬉しいを分かち合う相手もいない。幸せとは別離したままの時間は「わたし」にはただの苦痛で、そのことに気付いたとき、「わたし」は「彼女」のことを酷く恨んだ。
 それでも。もう「わたし」は「それ」から手を離してしまった。
 後悔も懺悔も、悔恨も「わたし」には届かない。
 誰か。誰でもいい、誰か。「わたし」の過ちを救ってくれる誰か。
 呼びかける声すら持たないと知って、「わたし」は己の無力を知るだけだった。


   * * *

 沢陽口(たくようこう)の歴史は長い。初代国主が西方大陸を武力によって平定し、西白国を開闢した。天然の要害である岐崔(ぎさい)に首府を置く、と定まったとき既に沢陽口には城郭(まち)の素養を有していた。よって、岐崔の王城を建造する為の資材の多くは沢陽口を介して湖水を越えたと伝わっている。
 沢陽口は概ね岐崔の城下の一部であると言って差し支えないが、正確には、嘉台州(かだいしゅう)宇多郡(うたぐん)中嶺県(ちゅうれいけん)の所領である。
 西白国では古くから左官――文官のみが領地経営をしている。どれだけ高官になろうと右官――武官が所領を得ることはない。それは初代国主が武力による反逆を恐れ、右官から力を削ごうとした結果だ。武力あるものが領民と結託し、自らを裏切ることをいつの時代の国主も忌避している。
 当代の国主――朱氏伶世(しゅし・れいせい)はその固定概念からは少し違う世界に生きているだろう。豪農とは言え、市井に育った。受ける筈もない中科(ちゅうか)を受け、一人の民としての人生を単に発した彼女は不必要に民を恐れず、万民にとって良き国主であろうとしている。それが実現可能な絵空事なのかどうかは未来の誰かが評するだろうが、今はまだそのときではない。
 領地を持たぬ右官の一人である戴文輝(たい・ぶんき)は西白国固有の事象である怪異――委哉(いさい)と名乗った正体不明の少年に導かれて沢陽口の城郭を一望する東山の山道の一つを登っていた。東山は幾筋もの山道を有している、ということを文輝も、彼の副官である柯子公(か・しこう)も今に至るまで知らなかった。凡そ獣道と呼ぶに相応しい、それでも所々に道標が垣間見える道をただ登る。振り返ると沢陽口の城郭が遠景に収まる高さまで登ってなお、この獣道は頂上に至らない。
 初夏のむせ返るような新緑の香りを肺腑の奥まで吸い込んだ。瑞々しい木々の間を縫うように蜘蛛の糸が文輝の頭髪に引っかかる。どこまで行くのか、と文輝は幾度も委哉に問うたがその度に少年はそのうちにわかるとしか言わなかった。

「委哉、もう一刻は登ってるぞ」
「おや? 兵部(ひょうぶ)ではそのような脚力でも鍛錬は務まるのかな?」
「誰も疲れただなんて言ってねえだろうが」
「では、気の持ちようかな? 何にせよ、先の見えない道程ぐらいで音を上げるような右官殿に俸禄を支払っているのかと思うと民に心底同情するよ」
「舌戦で圧勝したいなら、俺じゃなくて子公とやってくれ」

 本当に。心の底から。圧倒的に。感情を伴った願いを吐露すると前方からは苦笑が、後方からは息も絶え絶えに悪口が飛んでくる。大軍師の称号を欲している国官にあるまじき、蚊の鳴くような細い声だったがそれでも確かに悪口の形をしていた。

「文輝、貴様、覚えておけ。私を、駆け引きの、道具にしたこと、必ず、後悔させてやろう」
「そういうことは自力で目的地から生還したときに言えよ、軍師殿」
「それで、目的地、というのは、まだ、なのか」
「小戴(しょうたい)殿。あなたはどう思っているのかな?」

 何か気付いたことはないか。遠回しに問われていることに気付かないほど愚昧でもない。目線をぐるりと回し、周囲に注意を向けたが新緑が一面に広がっているだけだ。その中から違和を更に探すと、あることに気付く。
 新緑が一面に広がっている? 瑞々しい香りを放って?
 その事象は何かを意味してはいないか。そこまで考えて文輝はようやく違和を見つけた。

「雨が降らない――という報告だった」

 文輝は学者ではないから植物の生体に通じているわけではない。それでも、岐崔城下にある戴家の屋敷には庭園があり、植物を維持する為に必要なもののことは多少認知している。植物も生き物だ。水がなければ新しい葉が芽吹くことはない。
 山野は地下水を内包している。多少、雨が降らずとも地中深く張った根から水を吸い上げることは可能だろう。それでも、変異と報告されるほど雨が降らない状況で瑞々しさを保ち続けることは出来ない。

「雨が降っている、と君は言いたいのか」
「その答えはあなたが自ら確かめるしかないのではないかな?」

 そろそろだ。という答えがある。何が、と問うより早くに文輝の耳朶がその音を拾う。その音の意味するところを信じられなくて文輝は人一人交代する余地すらない獣道で、委哉を追い抜いて前に出た。
 文輝の立っている位置より人の歩幅程度向こう、そこには――雨が降りしきる樹林の姿がある。

「――嘘、だろ」

 豪雨とまではいかないが、それなりの雨量がある。薄暗く曇った空から幾つもの雨粒が降り、絶えず木の葉を下草を叩く音が続いていた。
 目の錯覚か、感覚器の不備か。自らを疑って、周囲を観察した文輝は気付く。降雨は「決まった境界線の内側」でのみ発生しており、その境界線が動く様子はない。地面――山肌自体は連続しているから東山の斜面に水分が供給されているものの、直接的に雨が降っているのは特定の範囲だけだ。
 天文学を修めたわけではない文輝に、この現象を分析するのは不可能で、ただ「違和」だけが確実に生まれた。

「嘘かどうかはあなたの目を信じるしかないのだけれど、『内側』に入るのはお勧め出来ない。それの制御は多分、誰にも不可能だから」
「ということは、この雨は『怪異』か」

 その問いに答えはない。それでも、委哉は暗黙裡に文輝の問いを肯定した。これは――怪異である。特定の地域にのみ雨を降らせる怪異など聞いたこともないが、怪異とは理の外にあるものの総称だ。常識を逸脱していることを根拠に怪異を詰ることは誰にも出来ない。

「小戴殿。あなたが聞いた報告ではいつから雨が降っていないことになっているのかな」
「昨年の秋から――だ」
「では僕はその解を否定しよう。嘉台州宇多郡中嶺県沢陽口の城郭においてこの『多雨』はもう一年以上続いている」

 嘘でも偽りでもないと委哉は断言した。彼が伴った赤虎(せっこ)――陶華軍(とう・かぐん)だったものに視線を投げる。一縷の望みを一刀両断して、黄金色の双眸が文輝の迷いを否定した。

「小戴。現実を見たのなら実利ある判断をしろ。『怪異』に触れて正気を失いたいほどお前もまだ人生に飽いてはいないだろう」
「ですが――」
「初校尉(しょこうい)殿。山中は討論すべき場所ではないと進言する」
「子公。でも――」
「そこな赤虎の言う通りだ。現実はその目で見ているだろう。それとも貴様は目視以上の確信が必要なほど愚昧だったのか」

 質問の形をした否定の言葉に文輝は唇を噛んだ。子公とて今、この場所で起こっていることの全てを理解したわけではないだろう。それでも、彼はこの場所で即時対応することを選ばなかった。討論――検討と審議が必要だと彼は判断している。つまり、子公は結論に至るまでに更なる情報が必要であることを示した。

「小戴殿。姿ある迷いが必要だというのなら、僕はもう一つあなたにそれを示そう。干ばつを危惧しているのなら、測量組を派兵するのは『灌漑班(かんがいはん)の役割だった』のではないかな?」
「――っ!」
「湖水の沿岸のことだから、治水班(ちすいはん)が管轄する、というのは一つの考え方として間違っていない。それでも、真に渇水の対処をするのであれば、それは灌漑班が当たるべきで、治水班が渡河してきた、と言う事実は『かつてあなたたちに正しい情報を伝えた通信士がいるが今は不在である』という解を示しているということだろう?」

 委哉が示した「姿ある迷い」が文輝に二つのことを理解させた。
 沢陽口の城郭の外側である東山には雨が降り続く区画がある、ということと、何らかの理由または現象により沢陽口は正確な情報を報告する能力がない、ということの二つだ。
 これらを文輝の独断で解決することは事実上不可能で――たとえ文輝の上官だとしてもそれは叶わず、であれば文輝は誰かの助力を必要としている。どの段階まで力を借りることが出来るのか。その程度に至るまでの調整を行わなければならない。
 だから。

「委哉、この多雨は本当に今日明日、どうなることじゃないんだな?」
「僕の見立てではそうだね。渇水も土砂崩落の危険性もまだ遠い」

 降雨というのは通常、より高い場所で発生すると山野に染みわたり、何重もの地層を経てろ過されることで地下水となる。主に東山の山頂を覆ったこの多雨が続く限り、東山で水が涸れることはない。そして、多すぎる雨は地面に必要以上の水分を与えるが、未だ飽和状態にはない、と委哉が断言する。多分、この山頂以外で降雨しないことである種の均衡が保たれているのだろう。怪異が出現している以上、問題は排除されねばならない。それでも、綱渡りの綱はまだまだ太く、早晩途切れることではないのなら、取り急ぎ文輝がしなければならないことは現状をただ傍観することでないのもまた自明だ。

「なら帰るか」
「どこに?」
「お前たちのいた『怪異の空間』に決まってるだろ。沢陽口の連中はもう俺たちのことを認知出来ない。そう言ったのはお前じゃないか」
「僕と夕明(せきめ)は記憶の共有が出来るけれど、夕明があなたのことを評価している理由が僕にもわかった気がするよ」

 自ら怪異と関わり合いになることを望み、交流し、そしてなお偏見や差別的言動を取ることがない右官、など文輝ぐらいのものではないか。そんなことを言われたが、怪異と関わっているのは成り行き上仕方なく、で偏見や差別的言動に至らないのは旧知――華軍がいるからだ。
 文輝の頭の一番奥には神がいる。西方守護・白帝という絶対にして唯一の存在がいる。
 その、神をして不要と排除された華軍と慣れ合うのが天意に反していると知らないほど文輝は純粋でない。神意を無視する、ということはいずれ遠くない未来、文輝は何らかの報いを受けるだろう。それでも。自らの保身を優先し、不条理に目を瞑り、弱者にしわ寄せを強要してそうして繕われる偽りの安寧にはもう何の興味もないのだ。何の矛盾もなく、誰もが幸福を享受することは決してない。乱暴な言い方をすれば、文輝が幸福を得るということは誰かが不幸に耐えるということだ。百人を救う為に一人の犠牲が必要であれば、文輝は一人の犠牲を肯定するだろう。それが、官吏という職業の宿命だ。私情で、感情論で、その場の同情で決定を下すことは決して許されない。
 だから。文輝は知っているのだ。
 どれだけ責任感や使命感があるように振舞ったところで、上官が文輝に犠牲を命じれば、文輝の好悪など何の意味も成さない。それが組織で生きる、ということの報いなのだから。

「委哉、俺は聖人君子になりてえわけじゃねえよ」

 誰からも愛され、誰からも敬われ、人としての規範を体現する。それが九品が育んだ人間性だ。驕ることなく、民の先頭を率いていく。それが九品に課された使命だ。
 わかっている。その理念が全て正しいわけではないし、所詮は貴族の自己満足だ。妬みも嫉みも打算も勿論ある。優越感に浸るものもいるし、差別と偏見がないわけなどない。
 そんな複雑な色をした「出世街道」と別離して四年。文輝は九品の生まれからではなく、ただの戴文輝として国の為に何が出来るかをずっと考えていた。
 そんな不器用な文輝のことを華軍の目を通して見た委哉が評する。

「それでもあなたの生き様は人として十分に美しいのではないかな?」

 昨日のことだ。委哉は彼の言葉で口にした。文輝は「九品の面汚し」である、と。そのことを文輝はまだ忘れたわけではない。
 知っているとも。だからこそ、文輝は毅然と顔を上げた。泥まみれの人生を受け入れて、それでもなお国の為になりたかった。自らの不幸を嘆くものを一人でも減らしたかった。
 そんな文輝の生き方を美しいと評される。その評を得たいのは今ではない、と文輝は思った。
 未来のどこか。自分が終わるそのときに聞きたい言葉の一つだ。
 そのことを文輝よりも余程実感している文輝の副官が舌戦に応じる。
 子公は――柯子公という文輝の副官は言葉や態度こそつらく見えるが、その実、文輝よりも余程優しくて強い男なのを文輝は知っていた。

「人として美しい、で腹が膨らむのであれば私はそこの馬鹿を神と同じように崇拝しよう」
「おや? 腹が膨らんでいないにしては随分満たされた顔をしているようだけれど?」
「そこの馬鹿の行いが善であるかどうかなど私にはどうでも良い。ただ」
「ただ?」
「自らと向き合い、神を信じ、上官を敬い、国主を信奉してなおそれでも『自ら』を主張出来るものには相応の評価と言うものがある」

 出会って一日と数刻程度の委哉に文輝を評する資格などない、と子公は切って捨てた。
 委哉が言ったように華軍の記憶や感情を共有しているのだとしても、文輝の傍らで戦うことを選んだ子公の二年間の方が重いとでも言わんばかりに、彼は委哉にそれ以上は何も言わせなかった。

「子公殿。下山する体力は残っておられるのかな?」
「抜かせ。これでも私も右官府の官吏だ。帰り道のことを考えずに猛進するのはそこな馬鹿だけで十分であろう」
「まぁ俺は体力だけは自信あるからな」
「二日連続で湖水で水浴び、というのも洒落にならん。下山するというのならば、時が惜しい。戻ろう」

 言って踵を返そうとした子公の足元を縫って赤虎が先頭を買って出る。

「軍師殿に獣道は十年早いと見受けるが」
「百年の間違いだろう。貴殿の背を追っていくだけで済む、というのは実に心強い。素直に甘えよう」

 子公、というのはそういう男だ。過小評価で自虐せず、過大評価で自意識過剰にもならず、定点から自己も他者も見つめている。感情の好悪も勿論持っているが、それでも必要だと判じれば頭を下げることにも周囲に感謝することにも抵抗がない。

「大した方だね、あなたの軍師殿は」
「そうだろ? 俺の自慢の一つなんだ」
「そんな風に笑えるあなたも、大した方だと僕は思うけれど?」
「仲間が褒められてりゃ嬉しいじゃねえか」

 上官は文輝の方だ、だとか、副官の分際で、だとか文輝は思ったことがない。
 子公を副官として用いると決めたのは文輝だ。どれだけの不遜があっても、どれだけの不興があっても、どれだけの傲慢があったとしても。文輝が自ら望んで子公を傍らに置いている。
 もしも。文輝と子公の袂が分かたれ、子公の方が重責を担うことになったとしても。そのときに文輝はきっと笑顔で子公を讃えられる、という確信がある。

「委哉。華軍殿の見てきたものを俺はまだ少ししか理解していない」

 それでも、と思う。

「疑い深い方が偉いのか。人を信じない方が強いのか。神を冒涜するのが合理か、そりゃ俺にはわかんねえけどさ。そいつが褒められてるのを一緒になって喜べるのが仲間なんじゃないのか」

 強さとは何だろう。その答えを文輝は未だ知らない。
 人を圧倒するのが強者か。何かを強いることが偉いのか。誰の意見を聞かずとも判断出来るのが賢しさか。一人で何もかも全う出来れば至高か。もしそうなら、どうして人は人と関わりを持つのだろう。完成された個体。それを目指すのなら、どうして国などという目に見えぬ枠組みが必要なのだろう。
 神――白帝ですら天仙(てんせん)の助力を必要としているのに、どうして人間などという弱い生きものが一人で生きていくことが出来るだろう。
 一人で生きることが不可能だということだけを、今の文輝は理解している。
 そうであるからこそ、文輝は子公と共にある。目指した頂は同じでないかもしれない。理想と言う絵図は重なり合わないかもしれない。それでも、文輝は願ったのだ。子公と共に明日の西白国を生きたい、と。
 だから。

「委哉。君たちにもいつか、待ち望んだ未来が見える日を俺は願っている」
「小戴殿。僕たちはあなたたちのいう理の外にいるのだけれど?」
「それでも、君たちにも感情はあるだろう。なら、きっとある筈だ。君たちの願い、っていう抽象的な存在が」
「――本当に、夕明の言う通り変わった方だね、あなたは」

 でも、そうだな。と委哉の背中が独り言ちる。

「そういう未来があるのなら、僕たちも希望と言う概念と出会う日が来るのかもしれない」

 そんな日が来たら。委哉は必ず文輝のことを思い出すだろう。そう言って独り言は結ばれ、それから山門に至るまで、本当に何の意味もない無駄な会話だけが続いた。
 文輝たちが登山に使った山門は沢陽口の城郭の南東に位置する。南側の隔壁からは畑一つ分程度離れているが、田園地帯の端ということもあり、人気は殆どない。時期的に水稲の栽培が始まる頃合いで、幾つかの水田には水が張られ、初夏の日差しをきらきらと跳ね返している。青空を映し込んだ風景は美しく、文輝に岐崔の城下から見る湖水を想起させた。
 その光景を網膜に照射しながら、文輝は委哉の言葉を何度も反芻している。
 雨が降らず、渇水を危ぶむのであれば灌漑班の管轄だ。わかっている。治水というのは水を治めると書く通り、水の流れ――ひいては河川や沼地を制御する行為を指す。
 岐崔・眉津(びしん)の船の離発着を管理するのが治水班の役割である、というのはそこに起因している。湖水の状態を管理し、人の出入りを制御する必要がある、と王府が判断したからこそ、岐崔の水際は治水班が治むるところとなった。
 その、任の重さゆえに水を管理するのは治水班だ、という思い込みが文輝の中にあったことは否定しない。安寧の岐崔に育った文輝にとって、それは疑う余地のないまでに正しい理屈だった。
 それでも。委哉の言っていることもまた理解出来る。
 雨の降らない――渇きを懸念しているのに治水班を派兵するのは道理に合わない。
 つまり、昨年の秋から雨が降っていない、という報告と、沢陽口に何が必要か、という認識が一致していないのだ。文輝が今、東山を登って見た通り、雨は降っている。であれば治水班が必要であるのは自明だ。伝達に不備はない。多分、第一報は「雨が降り止まない」という内容だったのだということは推察出来る。だとしたら、報告が一体いつから「雨が降らない」に変化したのか、ということが次の問題だろう。雨が降らない、という報が間違いなく届いているのに中城では灌漑班に要請を出すに至っていない。この矛盾に「誰も気付かない」という状況が成り立った経緯を調べる必要があるのは明白だ。
 そして、文輝は不意に思い出す。
 沢陽口の城郭に忘却と失念が蔓延った、というのはいつからだ。
 委哉が言っていた「素養」というのは何のことで、沢陽口の城郭で起こっていることとどう関係しているのか。問いたいことが山積していて、それでも全てを一瞬で解決出来る方法などないことだけが確かだ。
 溜息を一つ零す。
 農道の脇に引かれた水路には絶え間なく水が流れている。この水も、あの山頂の怪異によってもたらされているのだろうか。そんなことを考えながら、文輝は誰かに声をかけられることもなく、市街に戻ってきた。
 この城郭に何が起こっているのか。その片鱗すら掴めないままで、異邦のものになりつつあることに臆しながら、それでもなお闘争心だけはじっと燻ぶらせているのだった。