「如風伝」第二部 八話

 最初は多分、偶然だったのだろうと思う。
 偶々上手い冗談を言った。それが思っていたよりも高評価され、「わたし」にはその手の才能でもあるかのように吹聴された。偶然の一回が続く筈もなく「わたし」はいつしか期待に添えない、雰囲気の読めない存在となった。どこから間違っていたのか、そんなことは「わたし」の方が教えてほしいぐらいだ。
 だから、その力が本当に備わったとき、「わたし」の生活は一変した。
 軽視と侮蔑の日々が変わったとき、「わたし」は驕るのではなく、軌道修正をするべきだったのだと今ならわかる。
 軽々しく「力」を使うことも、そのことによってつまらない自尊心を満たすことも、もっとその因果について思考を巡らせるべきだった。
 それも「今」となってはもう遅い。気付いたときには全て定まった後だった。
 「わたし」が本当にほしかったものが二度と手に入らないと知って、「わたし」は荒れた。
 あの瞬間ほど「わたし」は絶望したことがない。
 神は何故こうも非情であるのか。
 その無為な問いの答えも「わたし」は知っている。知っているのに詰りたかったのだ。それは「お前」の過ちだという言葉をどうしても聞かなかったことにしたかったのだ。
 それがこの過ちの始まりで――永遠に変わることのない終わりだ。

   * * *

 名は体を表す、と言う。
 名前がそのものの本質を代弁しているから、名前に恥じないだけの行いをしろ、という意味の訓戒だ。西白国(さいはくこく)で生れ落ちたものは皆、その常識ともいえる感覚を共有している。名前というのが特別な意味を持つ符号であることも、それを気安く相手に教えていいものではないことも、たとえ親の仇であってどれだけ憎んでいたとしても、真実の名を呼ぶことをしてはならないことも、皆承知している。
 読替(よみかえ)というのはその心理を利用した行為だ。
 本質を隠し、水面下で守り、上辺を殴る為の障壁を低くする。
 読替えたものは罪悪感の呵責なしに相手を殴ることが許される。何故ならそれは本質から離れた上辺であり、本質的には何も殴っていないからだ。そう信じているから、西白国のものの多くは読替を日常的に行う。音声で認識されるときには文字という情報が伴わない、ということを失念して西白国では読替という行為を百六十年もの長きにわたって続けてきた。
 これはその報いだ、と白瑛(びゃくえい)は静かに語った。

「小戴(しょうたい)殿。あなたはこの地がどうして『沢陽口(たくようこう)』という名を受けたのか、ご存知ではないでしょう?」
「ああ」

 戴文輝(たい・ぶんき)の人生に史学という概念はあるが、民俗学という概念はない。国土の成り立ちに興味を持つほど探求的ではなかった文輝に地名の由来を知らべるきっかけなどなく、そこにあって当然であるものの一つだった。
 文輝の副官である柯子公(か・しこう)が白瑛の問いかけを聞いて顔を顰める。それを隣で見届けて、文輝は己の無知からくる罪がまた一つ増えるのを確信した。子公は知っているのだろうか。知っていてそこに座っているのだろうか。彼が夢見た自由の国の本当の姿を暴かれるのをどんな思いで聞いているのだろう。不条理のない国などない。理想だけで成り立つ国もない。それと知っていて、それでも彼は故国を出て西白国で官吏となった。その国も美しくないと知ったら幻滅するだろうか。
 それでも。
 そうだとしても。
 軋轢を抱えながらでも人は前に進むしかない。
 全ての差別と偏見が絶えることはないだろう。それでも、明日は来るし人は人を差別する。そのことについて、全てが糺されなければならないと主張をするより、自らがこの世を去る方が合理的な解だと知って、それでも子公は文輝の副官を選んでくれるだろうか。
 多分。
 子公は流麗な眉を寄せて、顰めっ面で溜息を吐いて明日の為の献策をしてくれるだろう。
 それが、文輝と共に数多の任務を駆け抜けてきた副官への信頼だ。
 俯いて項垂れるのは全てが終わった後でも間に合う。
 だから。文輝は白瑛に話の続きを促した。意を得た白瑛はゆっくりと話し出す。
 文輝の右側に伏した赤虎(せっこ)――かつて陶華軍(とう・かぐん)だったものが琥珀色の双眸をそっと眇めていた。

「沢――は澤の新字体であり、さわ、或いは湿地を意味します。陽――すなわち『洋』の読替ですね。洋は、うみ、或いは大きな水場。そう、あなた方の言葉で言う『湖水』の『太陽が昇る側』程度の意味合いで読替が行われました。口――すなわち『港』の読替であり、みなと。つまるところ沢陽口、というのは『湖水の東側に存在する湿地帯に設けられた停泊地』であることを示しています」

 あなた方にとっては相当に手を焼いた湿地なのでしょう。治水工事でも行わなければ到底、利用価値のない土地でした。
 その説明に文輝の中で何かが整っていくのを感じる。
 湖水を渡るものをどうして兵部(ひょうぶ)ではなく工部(こうぶ)が管轄しているのか。その長年の疑問がやっと説明された。沢陽口は治水を繰り返した結果、ようやく城郭(まち)としての機能を持ち始める。それでも長い歴史の中に連綿と息づいてきた水の流れを制御出来るほど人間は万能ではなく、治水班(ちすいはん)が定期的に検分し、大小様々な治水工事を続けていた。その結果、沢陽口は城郭を維持し続けていた。だから、沢陽口の天候に変異があれば治水班が測量組を出す。「雨が降り止まない」という報を受けたのならば尚更、工部は治水班を派兵しただろう。

「この国が大陸を統治する遥か以前の出来ごとです。あなたたちがそのことをご存じないのも道理でしょう。当時はわたくしも含めて、まだ三人ほどしか天仙(てんせん)がおりませんでしたからね」

 それは言外に怪異の跋扈を意味する。
 白帝(はくてい)は神威を保つ為に二十四もの天仙の恭順を必要とした。そのうちの八分の一。三人の天仙では白帝を十分に神たらしめることは出来なかった。当然、怪異の排除は十分でない。
 西方大陸にのみ発生する怪異、というのはその実、土着神であるという説がある。人の世に中央集権が浸透する以前より、神の世にも中央集権があった。白帝は中央――黄央(おおう)に立った黄帝の血族で役目を負って西方へと赴任した。その際、土着の神々を強硬手段を伴って排斥したのだが、歴史はそれを武勇として語る。排斥された土着の神々を野蛮とした。西方大陸にあって百六十年しか歴史を持たない西白国の誰もが忘れている、怪異にとっては忌々しき過去の屈辱だ。

「怪異が土着の神――だと?」
「そうでございますよ、小戴殿。あなた方が信じた理の外側にあるもの。戴く理が違うだけの、由緒正しきこの地の守護。それを神と呼ぶのは必定ではございませんか」

 戴く理が違う、という時点で対話など不可能ですから、あなた方にとってはただの異物となるのもまた必定ではございますが。
 典雅な表情のまま白瑛は語る。いっそ、その様すら美しく、妖しさすら感じさせた。
 人の持つ本能が警鐘を鳴らす。どれだけ美しく、丁寧な態度を取ろうとも白瑛は紛れもない神の眷属で、文輝たち人間のことなど数多存在する手駒の一つに過ぎない。
 そのことを白瑛の存在は強制的に通告した。
 長方形の卓を挟んだ向こう側。そこにいるものが全て神の眷属と知って動揺しないだけの正当な理由などない。文輝は混乱を極めた。
 その、文輝の隣でかつて神に隷属したという男が吼える。紫紺の双眸には激しい怒りの感情が宿っていた。

「馬鹿な! 何千年前の話だ! 神たるものがそう容易く滅んだり、生まれたりなどするわけがないだろう!」
「副官殿。わたくしは申し上げた筈です。『白帝は怪異を排斥した』と」
「怪異を排斥する為の神威すら欠いていたのだろう」
「ええ。ですから、鎮守を置いて可能な限り無力化させました。そうして信仰という感情を希薄化させれば最終的に滅ぶ――それが『神』という存在でしょう」

 あなたの故国ではそうではないのですか。それともそういう疑いを持つだけの知性すら失われたのですか。白瑛の透き通る声が淡々と子公を責める。それに対して、弁舌の強さだけで生きていると言っても言いすぎではない筈の子公は押し黙ってしまった。
 信仰というのは相手の存在を認識して初めて成り立つ。信頼の反対は侮蔑ではない。無関心だ。その存在に対して何とも思わない。いるのかどうかすら認識しない。その次元に到達したとき、神は滅ぶ。
 この沢陽口の城郭に起きているのはまさにそういう事象だ。
 変異を変異として認識せず、外部に相談をすることもなく、緩やかに滅びの道を進んでいる。助けを求める声を上げることすらしない。そうする声すら黙殺する。
 これが緩やかな自死でないのなら、世界は何があっても滅びることなどないだろう。

「信梨殿はあの多雨が忘却を強いてる、と言いたいのか」
「いいえ。それについては怪異の方々に一切の非はないと弁明させてくださいませ」
「白瑛殿。僕たちはあなたたちに抑圧されることを良しとした記憶はないのだけれど?」
「それでも、あなた方が今までなさってきたことを私たち天仙が受け入れる道理もないことはお互い了解済みだと思っておりましたが?」
「それはお互い様なのではないかな? 僕たちもあなたのあるじに恭順を誓った覚えはないし、あなたたちも知っている通り、僕たちは決して一枚岩ではない。連携を取ることも困難で、いつかの未来に滅びる存在だとしても、それでも僕たちは『在りたい』という感情を抱いている」

 だから、概念と概念の融合を怪異は望んだ。自らが持っている概念に別の概念を内包することで更なる概念へと進化させる。それはつまり、認知の窓口を増やす、ということだ。複合的な概念の認知における表面積は唯一のものの何十倍も何百倍も広い。一つひとつの力が弱くとも、縒り合わせれば大きな力になる。そして一つひとつが弱ければ天仙はそれらを軽視する。そうして現在に至るまで怪異は存在を続けてきた。
 だから。

「信梨殿は怪異を排したいのか」
「いいえ。わたくしは小戴殿もご存じの通り立場の安泰は揺るぎなく、そして主神の覚えも悪いということはございません。天仙となった経緯について思うことがない、などと言えば偽りになるでしょう。それでも、わたくしは白瑛であることを手放したいと思ったことはございませんよ」
「では、この城郭に起きていることを『解決したい』と思っている、と?」
「そうでなくてはわたくしが自ら『人の世』に干渉することなどございましょうか」

 言わば尻ぬぐいだ、と白瑛は言う。鎮守として置かれた筈の二十四白が責任を放棄しているから怪異が増長した。失念と忘却は主神から叱責を受けるのを恐れた天仙が取り繕おうとして隠ぺい工作をしているだけだ、と。
 ならば、文輝がすべきこと、というのも絞られてくるだろう。
 天帝、天仙、怪異と人間。それらを繋ぐ鎹が必要なのであれば、それが多分文輝の役割だ。
 人として不全。それでも、だからこそ見えているものがある。
 文輝が今、ここにいることには意味がある筈だ。自分に出来ることをする。それが人として生きることを決めた文輝に出来る最善だ。
 だから。神への畏怖は一旦胸の内に仕舞おう。

「おい、子公。舌戦で負けて引きこもるのは後だ。ここにいる天上の存在は誰もが変異を解決しようとしてるじゃねえか。策を献じろ」

 問題の解決の為に尽力する。その心づもりをして、文輝は隣で渋い顔をしたまま硬直している副官に声をかけた。その呼びかけが無視されるのか、と思わせるほどの長い沈黙の末に、子公は大きな溜息を吐き出して、ようやく文輝を見る。

「――この大馬鹿ものが」

 紫紺の双眸が文輝を鋭く射ていた。この視線に晒されるたび、文輝は思う。よき副官を見出せた己というのがどれほど幸福なのか、と。
 子公は文輝の不利になることは決してしない。一見、不利に見えても文輝に利のあるように帰着させらるようにものごとを運ぶのが常だ。そうすることで、子公は自らの才知を世に示してきた。
 文輝が馬鹿だということは誰かに言われなくても、わかっている。
 子公の思う絵図を描く為の手段として望まれていることも知っている。
 そのことをどういう言葉で伝えればいいのか、馬鹿の文輝には最適解が思いつかない。

「知ってる」
「そういう意味ではないわ、この大馬鹿もの」
「だから、知ってるんだって」
「わかっておらんだろう。貴様は、今、この事態から逃げる最後の機会を失ったのだ。神と神のつまらぬ諍いに巻き込まれて、使い捨てにされる運命を自ら選んだのだ。そのことに気付かぬ大馬鹿ものが」

 子公の双眸に浮かぶ憤怒は文輝の為の憤りだ。自らの策を預けるに足ると判じた相手が、軽んじられていることへの怒りだ。それをそれと知らず、へらへらと受け入れようとしている文輝に対しても激している。
 普段の子公なら、神前で悪口を並べ立てることなどしなかっただろう。
 真実、文輝の身を案ずるあまり、憤怒の感情に駆られている。子公が今、文輝の為に腹を立てていると気付けないほど愚昧だと思われているのだけが残念だが、それでも文輝は子公の上官なのだから言わなければならない。

「だから、『知ってる』って言ってるだろ」
「何、がだ」
「別に俺は誰かに褒められたくて右官になったわけじゃねえよ」

 人に褒められたいからではない。人を救ったという自己満足を得たいからでもない。
 あの日、あの夜。そして再びこの世界と巡り会ったあの朝。
 文輝は一度、全てを失って再び全てを手に入れた。
 文輝を守る為に方伶世(ほう・れいせい)は文輝から奪う価値のあるものは何もない、などという欺瞞を貫いた。あの朝に思ったのだ。罰せられないという罰に償う為には文輝は常に思い描かなければならない。西白国のより良い明日という絵図を。誰よりも何よりも強くその責を負ったのだから、今があるのだと思わなければ文輝は膝が崩れ落ちそうになるのを支えられなかった。
 それもただの自己満足なのだと知っている。
 そういう文輝を利用しようとしているものがいることも知っている。
 それでも。それの何が悪いのだ、とも思う。誰かの思惑に利用されるのが怖くて、誰かの利になることを忌避して、そうして築いた「自分だけの安全な城」に何の価値があるだろう。
 誰のことも認められないで、誰のことも信じられないで、誰かに期待をすることすら怖がって、そんな人生を過ごすことにどれだけの意味があるだろう。
 文輝は右官を志した。万民の矛。その意味を知らないで直刀を振るってきたわけではない。万民の矛であるということは、文輝の両手は何かを守る為に真っ先に汚れることを意味している。刃が欠け、錆びて、折れるかもしれない。その結果、文輝の死に何の意味もないことだってあるだろう。
 それでも。二人の兄に引け目を感じて、逃げた、と思われたくなかった。自分なりの理想もあった。自分の理想の為に誰かを殺めるという傲慢のことも知っている。
 それでも。

「俺は、この国を豊かにしたい。俺の裁量じゃ無理な願望なのは十分知ってる。それでも、一人でも多くの民が少しでも心安らかに暮らせる国にしたい。見せかけだけじゃない。本当の本当にこの国の民でよかったと思える国にしたい。そういう、志を持つ官吏が少しでも増えるには誰かが最前線で戦わなきゃならない。誰かが、そういう姿を見せなきゃ、それは志がないのと何の違いもねえじゃねえか」

 権力者の思惑で踊っている。それの何が悪い。その策謀に実利が伴うのであれば、文輝は道化で構わない。その役割を務め、最後に民が笑顔で終われるのなら、文輝はどんな困難でも立ち向かおう。誰に笑われてもいい。馬鹿だと罵られてもいい。
 その先にある無限の理想が少しでも近づくのなら、そこに向けて手を伸ばすことの何が格好悪いだろうか。戦っているぼろぼろの姿を晒すのが嫌で、言い訳をするより。失意の果てに無様と朽ちることを怖がるより。「今出来る何か」から逃げて、後から悔いる方がずっと嫌だ。
 文輝の人生は、今、ここにしかない。
 明日の飯を安全に食う為に、今日の飯を食わないだなんて愚かだ。
 明日があると誰が保証するのだ。今、ここで戦わなくとも明日が約束されると思うなんて愚かを通り越して呆れしかない。
 だから。

「いいじゃねえか、子公。信じたものに裏切られるのなんて、そう珍しいことでもねえだろ。それよりも、自分に出来ることを放棄して、逃げて、後から結果論だけ投げる方がずっと格好悪いじゃねえか」
「――貴様は、それでいいのか」
「俺は、もう、あんな思いはしたくねえんだ」

 大切なものを何一つ守れないで、黙って状況に流されているだけ。
 全てが満ち足りていると勘違いして、自惚れて、周りの優しさに救われているだけ。
 失ってからかけがえのないものだと知って、それでも奪い返す機会すら与えられない。
 そんな惨めな思いをするぐらいなら、戦って、傷を負ってでもいい。自分の最善を尽くしたと胸を張れる。その戦いをする為に位階が欲しかった。人の前に立ち、人を守る背中になりたかった。
 今、文輝の位階は従八位だ。その位階でも人を守れるのなら。戦わないで逃げ出すだけの理由にはならない。
 榛色の双眸の奥に四年前の後悔が今も焼き付いて離れない。多分、一生別離することのない光景なのだろう。感傷だとわかっている。
 それでも。文輝が吐露した思いを子公は切って捨てることも、踏みつけることもしなかった。

「この大馬鹿ものが」

 そういうことはもっと感情を割り切ってから言え。
 言った子公の紫紺は強さと鋭さの中に同じぐらい慈しみを伴っていた。知っている。柯子公というのはそういう男だ。果断に言葉を切って捨てる。弱みを見せれば傷口に塩を塗り込むどころか小刀でより切開する勢いで責め立ててくるような男だ。それでも、文輝は知っている。子公の一見、冷酷で残忍に見える言葉の裏側には、いつだって期待と労りが隠れていることを、文輝はずっと前から知っている。

「お前ほどじゃねえよ」
「それで? 後悔はしないのだな? 感傷に流されるのであれば私は貴様を見捨てるが良いな?」
「おう。それは、承知してる」

 文輝の器では全てを円満に解決することは出来ない。それは十分理解している。
 だから、文輝が感情論に流されて実利を見誤ることがあれば、そのときは国益を損しているも同義だ。見捨ててもらって構わない。そう返答すると子公の双眸がすっと伏せられて、再び開かれる。
 そして。

「では泣き言に付き合っている時間が惜しい。白瑛、委哉。貴様たちがこの期に及んでまだ隠している情報があるのはわかっているが、初校尉(しょこうい)殿が共闘を所望している。この際、それについては目を瞑ってやろう」
「そうだね、子公殿。そちらも全てを白日の下に曝したいわけではないだろう? お互い様というやつじゃないかな」
「わたくしも、天に誓って、などとは申しませんが、語るべきときが来ればそのときにはお話しするとお約束いたします」

 白瑛殿、で、あなた、だ。その訂正をもう一度繰り返しそうになって、文輝は気付いた。敏い子公が文輝の話の要点に気付かない筈がない。つまり、子公は「承知の上で」無礼を繰り返している。何の為に、だなんて聞かなくてもわかる。文輝もそこまで愚かではない。
 溜息を吐いた。
 そうだ。全てを知らなくても、人は生きていける。全てが真実でなくとも、人は生きていける。それでも人はいつだって真実の向こう側に誠実さを推し量ろうとする。その結果で、人は人に価値を付ける。
 そうだ。人というのはそういう生きものだ。文輝も勿論例外ではない。
 だから。

「委哉、この湯屋には黒茶はねえのか」

 白瑛が真実だけを語ったわけではないのもわかっているし、委哉たちもまた食事以外の目的を持っているのも何となくは理解している。
 それでも。
 人に信じてほしいのなら、まず自分が相手を信じなければ始まらない。
 自らを疑っている相手のことを信じてくれるだなんて夢物語はないのだから。
 不満があってもある程度までは耐える。小さなことならなおさら耐える。
 それでも、文輝はもう一つ知っている。
 小さな我がままを行使するとき、人は相手に自らが信頼されていることを薄っすらと感じる。
 些細なことだが、お互いに歩み寄る余地があると教えてくれることを知っている。
 だから、文輝は正面に座る委哉に向けて飲み物の注文をした。
 委哉が文輝の意を受けて穏やかに微笑む。

「おや、小戴殿? 米茶は気に入らなかったのかな?」
「何だ? 米?」
「そう。米茶。小戴殿は味の濃いものの方がお好きのようだね」
「まぁ、岐崔で生まれ育てばそうなるだろ」

 怪異の区画では一般的な西白国の料理が提供された。
 西白国では肉料理を中心とした味付けの濃い品目が一般的だ。肉料理の味付けに負けないように、と副菜も大抵は濃いめの味付けになっている。茶ですら黒茶のように苦みと渋みが強く、西白国に来たばかりの頃、子公に食べられるものは殆どなかった。そんな冗談のような本当の話を思い出して雑談を振ると全員が乗ってくる。

「信じられん。貴様らには繊細な味付けという概念がないというのが実に信じられん」
「他所の国に来ててめえの国の味が自慢してえなら勝手に菜館(しょくどう)でもやってろ」

 冗談に冗談を重ね、お互いが一歩ずつ歩み寄りを示した。
 大陸の守護者である白帝の代弁者。白帝が排斥しようとした異教の神々。そして、通力など持たず、世の流れに身を委ねるしかない人間。こんな雑多で、滅茶苦茶な関係など多分、この機を逃せば二度と成立しないだろう。
 だから。
 文輝は自らの発した言葉が転がっていく先を見つめながら、この城郭のより良い明日の姿を思い描いていた。
 今日もまた暮れない夜がやってきてときだけが過ぎるだろう。それでも、多分。何かが変わる。まだそう信じながら、文輝はこの文化が混在する場所で戦うことを決めた。