薫、というのはこの春から歩兵隊第五班に配属された見習い茶房(さぼう)――給仕を担当する女官だ。薫硝実(くん・しょうじつ)と言う名で、本来であれば阿薫(あくん)と呼び称すところを文輝が勝手に姑娘(むすめ)呼ばわりしている。
城下にある中流の商家の生まれで、文輝の記憶に間違いがなければ阿薫からすれば文輝は雲上の人間だと認識している筈だが、文輝はその認識を何度でもぶち壊した。九品の三位・戴家直系の三男であるにも関わらず二十二で初校尉などという時点で、文輝が雲上にいる筈もないのに阿薫はいつでも文輝のことを怖がっているように思えたからだ。
その慎ましさの向こうにかつて見た面影を照らし合わせている、というのは多分死ぬまで誰にも明かせないだろう。阿薫が中科を終えて、このまま中城に残るにしても、下野するにしても彼女にそんなことを知らせる罪悪を考えると意地でも黙っているより選択肢などない。
だからこそ、文輝は何も言わずに何も求めずにただ「鍛錬」と称して阿薫の務めの一つである早朝の水汲みに勝手に協力した。十八の文輝はそうすることで「彼女」がどういう扱いを受けるのか、知っていてそれでも自らの偽善に酔っていたのだ。そのことを理解した文輝が自らの言動を省みた結果、水汲みを辞める、ではなく歩兵隊全班の水汲みを手伝えば平等だ、などという更なる傲慢な解に辿り着いてしまい現在に至る。
歩兵隊は全部で八班ある。一つの班で三つ。全部で二十四の水瓶を毎日茶房たちと汲んでいるうちに阿薫以外の茶房は文輝と割合親し気に言葉を交わすようになった。
「戴校尉、今日もご協力感謝しますー」
「ありがとうございまーす」
「また明日もお願いしますね!」
などと言いながら八人のうち七人の茶房は解散していった。
これが普通の反応だ、と文輝は思う。落ちこぼれの貴族の自己満足なのだから都合がいいように使って、自分が楽をして何が悪い。人間というのは概ねそういう解釈をして現実に慣れていく。
なのに。
「あの、戴校尉。正直に申し上げて迷惑だ、と何度私は申せばよいのでしょうか」
「薫姑娘。君は本当に頑なだな。他の茶房のように俺が水を汲んでいる間にお喋りでもしていればいいだろう」
現に、八人いる歩兵隊の茶房のうち、阿薫以外の七人は文輝の「優しさ」を受け入れて、労務が減ったと喜んでいる。
文輝が肉体労働を買って出たことについて、全員が一様に困惑していたのも一月のうちだけだ。
二月になった、と布告が出た頃には七人の茶房たちは皆、冷たくて重たい水を汲まなくても、運ばなくてもいい。寧ろその時間に雑談をすることすら暗黙裡に許されて、文輝と彼女たちは和解した。
文輝は貴族の出身だが変わり者だから勝手にさせていればいい。
そんな変わり者だから出世街道に乗れなかったのだ。
落ちこぼれの九品に怖々接する必要はない。よくいる都合のいい上官が当たったと思って、束の間の安楽を受け入れればいい。人というのは概ねそういう受け取り方をするものだ、ということを文輝はこの二年で実感していた。
だから、迷惑だ、と正面切って文輝に陳情する阿薫を見ていると、どうしても「彼女」の面影が文輝の胸に刺さる。
「校尉にとっては小さな親切でも、私たちには大きな迷惑なのです」
「では多数決でもするか? 開票するまでもなく、反対多数で君の意見は却下されるとしか思えんが」
「それでも! 私たちが茶房であり、その職務の一つに水汲みがあるのであれば、校尉の気まぐれの優しさはただの毒です。いつかは消える優しさなど、何の実利もありません」
「毒、か」
言ってくれるじゃないか。
ただ、同時に文輝はもう一つのことを理解している。
阿薫が今抱いている感情に名前を付けるとすれば保身だ。
来年以降も茶房を続けるかもしれない。そのときの上官は文輝ではないかもしれない。そうなると、一年間、楽をしていた分、阿薫はよりつらい思いをするだろう。そのときに傷付きたくないから予防線を張っている。中科生の一年はあっという間に過ぎる。その一年をこんな形で楽に過ごしたのでは――ぬるま湯から唐突に冷水の中に突き落とされたのでは阿薫の心は耐えきれないのだろう。
そこまでを理解してなお、文輝は自らの偽善を茶房たちに強要した。
阿薫の言い分は正鵠を射ている。わかっているが、それでも、正しくなくとも文輝はこの任から降りる予定は今のところない。
ただ。
「薫姑娘。そんな君に朗報だ。俺は明日より二十日間、沢陽口に派兵される」
「えっ?」
「二十日間、君たちは好きなだけ水汲みに励んでくれ。そうしたら、俺の有難みももう少し理解出来るだろう」
ではな。
言って文輝は肩甲骨の付け根をぐるぐると回しながら執務室へと戻る為に歩き出した。回廊の切れ間に見慣れた黒髪が立っている。子公だ。そう認識するのと前後して朝を告げる鐘が鳴り渡った。