エレレンという楽器のルーツは大陸の東部を占める農業大国マスハールにまでさかのぼる。農耕に必要な牛馬たちの手入れをした際、副次的に得られた素材を用いて三弦を張ったものを指先で弾いたものがおそらく最古のエレレンであると現代には伝わっている。マスハールに発祥した最古のエレレンは時代と共に姿を変え、奏でられる音曲の種類を増やし、シジェドの建国に先んじて当地にも伝来する。農楽、大衆音楽という色合いも強く残っていたが、とある音楽家によって紡がれた音律のあまりの美しさにシジェド建国後、王室は宮廷音楽にエレレンを用いることを許した。
現代のエレレンは一弦増え、四弦の楽器として知られる。北国では馬の尾を張った弓で弦を弾くのが一般的だそうだが、シジェドでは今日でも爪弾かれることが殆どだ。
酒場には不定期的に旅の楽士が訪れては投げ銭を得て次の街へと渡っていく。
学術都市ソラネンの酒場においては三週間ぶりの楽士の到来に街中が湧いた。
シジェド国内を旅する楽士で当代随一の肩書きを争うものは三人いる。そのうちの一人が女楽士で名をスティーヴ・リーンという。彼女がソラネンの街を訪うのは今回が初めてで、街中の誰もが彼女の到来を歓迎した。大陸中を旅するスティーヴのことは風の便りでよく耳にする。神曲だろうが、歌謡曲だろうがそれに相応しい雰囲気と音律を奏でられる百年に一人の逸材だと名高い。
サイラスもその評判を知っている。幼い頃から親しんだシジェドの宮廷音楽は繊細でなのに不思議と柔らかく耳に響く。美しいのに切なさは伴わず、慈しみの感情を人に与える。フェイグ母神とデューリ父神がこの世界を構築した神代をモチーフとした戯曲。シジェド建国の英雄譚。始祖王から続くシジェドの叙事詩を謳わせては右にでるものは存在しないとすら言われれていた。
その高潔さに相反しながら大衆音楽を奏でることにも秀でている、という。シジェドでは音楽は学問であり、娯楽であった。今宵のように旅の楽士が街の酒場の舞台に上がっては市井で流行する大衆的な音楽を歌うこともしばしばある。
ただ、サイラスは生まれついての下戸で酒を飲むことが出来ない。だから、スティーヴの演奏を聴くのを断念すべきだと思っていたところにウィリアム・ハーディがやってきた。リアムは二十一にしてめっぽう酒に強い。彼にとっては酒など水と同義なのだろう。そのぐらい、リアムは酒豪だったから、彼がソラネンに訪れると酒場に出向くか、でなければサイラスの寄宿舎の女主人に依頼して酒を取り寄せるかの二択になる。好機だとサイラスは思った。
シジェドでの成人の定義は有職である、ということに尽きる。
職を得てさえいれば、酒、煙草、賭博などへの制約がなくなり、一人前と認識される。だから、十五にして研究者になり、十六にして史上最年少のトライスターと称されるサイラスは現在時点で十九だが一人前の大人だ。それに対して、王立学院の学生たちはサイラスより幾つも年上だが、職を得ていないという一点において子供の扱いを受ける。学生たちからすれば、一人前の大人であるのに酒も煙草も賭博も嗜もうとしないサイラスは不思議に映るらしい。大人らしくない年下の教授のことを素直に先生と呼ぶものは少なく、サイラスは概ね学生たちからはトライスターと呼び称された。そんな彼らのことをサイラスもまた不出来な弟のように感じ、不器用に捻くれた人間関係が成立している。
尖塔と呼ばれる魔術師ギルドの在所での報告が完了した頃にはすっかり日が暮れていた。ハンターギルド、騎士ギルドと協力のうえ調査を行う、という結論に至り二人は尖塔を後にした。市街地に戻り、件の酒場に入るとサイラスの講義を受けている学生の先客がいる。円卓の上を見た。当然のように麦酒が並んでいる。サイラスは風紀や規律など自己解釈の問題だと認識しているから、学生たちが子供にも関わらず飲酒していた、などという些事を学院に報告するつもりがない。というより、親の金で飲む麦酒で心地よく酔えるのであれば、それはどこからどう見ても子供の為せるわざであり、到底大人には程遠く、早晩いずれ自ずと身を滅ぼすのは自明だから何の忠告もしない、というのが最も適切な回答だろう。
「あれ? トライスター? ジューススタンドならもうとっくに閉まりましたよ?」
学生の一人がそんな軽口を投げてよこす。知っている。酒場の向かいで露店をしているジューススタンドは昼時から夕暮れまでの間しか開いていない。この時間はもう閉まっているのはソラネンの住人にとっては一般常識のようなもので、要するに下戸のくせに酒場に来るのか、という揶揄いだ。
「馬鹿。よく見ろ。接待だよ、ほらあの有名な」
「有名な、何なのか答えてみろ、カイン。便利屋なら良、悪友なら優、間男なら不可を与えてやろう」
サイラスが揶揄われるのは今に始まったことではないし、自身のことをどう表現されてもあまり好悪の別はないが、リアムについてまで揶揄しようというのならばそれは話が別だ。数少ない貴重な友人を嘲笑されて許せるほど、サイラスは大器ではない。
冗談もほどほどにしろ、と言外に含ませると学生――カインはぎょっとした顔をして、そうして結局は愛想笑いをしながら問いに問いを返してきた。
「それって今期の単位じゃないですよね?」
「勿論」
カインが胸をなで下ろすのを見届けて、サイラスは次の句を継いだ。
「今期の単位に決まっているだろう。君の普段の受講態度からして、このまま上手くいけば君のご両親への温情もあるがゆえに可を与えようと思っていたが気が変わった。それで? 君はこの男を何と評する? その答えによって私は今期の単位を決めよう」
君から見てリアムは私の何に見えるのだ。答えてみろ。
追撃を放つとカインの顔からさっと血の気が引いたのが見て取れる。同じ円卓に座っていた別の三人の学生たちも一様に狼狽していた。
「すみません! 冗談です! 言い過ぎました!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがある、と君のご両親は教えてくださらなかったのか」
そういう不慮の事故であればなおさらカインには自省を促すためにも不可を与えるという旨を伝えると、カインは顔面を蒼白にして必死に自己弁護を始める。
「そんな! ちょっとした失言じゃないですか、トライスター!」
「ではカイン。私も言おう。『冗談だ』と。それで? 本当にこれで終わっていいのか?」
「以後よく反省します」
「反省では足りないのではないか?猛省してくれたまえ」
次に同じようなことがあれば、サイラスはトライスターの全権を用い、カインの今期の成績を全て不可にするか、自主退学を促すための心算がある、と最後の追撃を放つと楽しかった酒宴が一瞬で懺悔室のような雰囲気になった。
わかっている。こんな無粋なことをするためにサイラスは酒場へ来たのではない。
だから。
「カイン。挽回のチャンスを与えよう。君から見てリアムは私の何に見える。単位は関係ない。君の思うままに答えてくれていい」
「気心の知れた、とても大切なご友人のように思います」
「残りの君たちも同意見か?」
その問いに残りの三人が間をおかず首肯する。それを見届けて、サイラスは柔らかく微笑んだ。
「とても大切な友人を貶められるのは君たちにとって不快ではないのか」
「……大変、不快です」
「よろしい。私の言いたいことは伝わったように見える。さぁ、君たちも楽しい酒宴に戻ってくれたまえ。麦酒のこともご両親には不問にしよう」
今の心持ちを期末まで保つことが出来ればそのときは彼らに良を与えることも検討していい。そんなことを考えながら、先に席に通されていたリアムを探すと壁際の二人がけの席の片方に彼はいた。
リアムが妙ににやついた顔でこちらを見ているのに気付いたから、向かいの席に腰掛けるように見せかけて彼の向こう脛を思い切り蹴りつけてやった。リアムが痛みに煩悶する、と思ったのに戦士の彼の向こう脛は脛当てで守られており、対して学士のサイラスはただの木靴だから寧ろ自身の足の痛みに煩悶することになった。
その一連の動作を見ていたリアムが堪え切れないといった風情で噴出する。
「セイってたまにそういう馬鹿やるよな」
「馬鹿と言うな。ちょっとした手違いだ」
「それを馬鹿って言うんだよ、セイ」
セイって何だかんだ学生のこと、好きだよな。言われて否定する必要を感じなかったから適当に頷く。
「いいなぁ、俺もセイみたいな先生がいたらもっと学が付いたのかも」
「お前に教えることなどない」
「えっ? 俺が頭悪すぎて?」
「通り一遍の知識などお前には不要だろう。お前に必要なのは実経験だと私は思っているが」
それに、とサイラスは思う。
リアムは人から手解きを受けなければならないほど愚昧ではないし、彼は彼の経験を通してサイラスの知らない何かを既に学び取っている。そのことを恥じる必要はどこにもない。人には様々な生き方があり、その一つ一つが輝くかどうかは本人の素養とそのうえに積み重ねた努力だけが決める。
だから。
「リアム、楽士殿の登場だ。話の続きは私の部屋で聞こう」
舞台上に明かりが灯り、酒場の中が俄かに沈黙で覆われる。その注目の中、一人の女が袖から登壇する。手には年代物の使い込まれたエレレン。美女という前評判は決して過大ではなかったな、という印象を与えた。手入れの行き届いた流れるような栗色の髪。透き通るような白磁の肌。演目の都合だろうか。彼女の美貌にはやや過剰に見える化粧を施された造形はどう客観的に評価をしても美しい以外の文言にはならず、異性にあまり興味のないサイラスをしても納得させるだけの魅力があった。世の中の娯楽は酒か美女かだと言って憚らない友人はさぞかし興奮しているだろうな、と視線をやると案の定、彼は酒気も入っているだろうが喜んでいる。拍手の渦の中、舞台中央に置かれた椅子にスティーヴが腰掛ける。そして。彼女のエレレンの演奏が始まった。
途中、都合二度の幕間を挟んで大衆音楽、賛美歌、古典と演目が移り変わる。サイラスは二部以降の内容が充実していたのでかなりの満足を得た。旅芸人だからか、古典の解釈が若干異なっていたのが唯一の気がかりだが、これはこれで芸術として成立している。学士風情が口を挟むことでもないだろう。そう結論付けて終演の礼を取っているスティーヴへ惜しみない拍手を送った。
「そちらは旅をしておられるの?」
スティーヴの演目が終了すると同時に、酒場は本日の店仕舞いを告げる。ソラネンの条例において深夜時間帯以降の営業はいかなる業態においても禁止されているから、誰も文句は言わずにそのままそれぞれの帰途に着く。
サイラスとリアムも寄宿舎へ帰ろうと店を出た。酒場で酒と水以外のものを注文するのはサイラスぐらいのもので、今日、調達出来るのは生姜水だけだと言われたからずっと生姜水を飲んでいた。当然、口の中が刺激物で少しひりついている。
帰ったらテレジアに紅茶でも入れてもらおうと話しながら、ゆっくりと流れる人混みに混ざっていると不意にそんな声が聞こえた。振り返ると旅の楽士――スティーヴが立っている。
リアムが不思議そうに小首を傾げて問いに答えた。
「俺? 俺はそうだよ」
「そちらは?」
「私はただの学士だ」
旅の楽士がサイラスたちに何の用事があるのだろう。思いながら、サイラスとリアムは思わず顔を見合わせた。目線でやり取りする。何だ。何の用件なのだ、彼女は。
そのやり取りの合間にもスティーヴの問いは続く。
「お二人はご兄弟? とてもよく似た雰囲気を感じるのだけれど」
初耳だ。髪の色、身長、顔つき、生まれ、持病も体質も何一つサイラスとリアムで共通したことなどない。周囲からは凸凹だとか、ちぐはぐだとかそんな評判しか聞かない。
なのに目の前の女はサイラスとリアムが似ている、と言って決して譲ろうとはしなかった。
その答えを探して、リアムが噴出する。美女から個人的な問いかけを受けて舞い上がっているのかもしれない。
「セイ、俺たち口説かれてんのかな? こんな面白い冗談、初めて聞いたよ俺」
「チップが不足しているのなら素直にそう言え、楽士殿」
それぞれの思う結論を口にすると、スティーヴはその両方を否定して、そっと差し出されたサイラスのチップを受け取る。
「いえ、そういうわけではないの。でも、いただけるのならいただいておくわ」
「楽士殿、私たちは兄弟でも旅の仲間でもない。ただの、友人だ」
念押しのようにもう一度他人であることを告げると、彼女は心底不思議そうにしながらもう一つだけ尋ねてもいいか、と言った。
「なら、旅の方。噂話でもいいの、何か聞いたことはないかしら、この辺りにダラスが出る、だとかそういったこと」
「ダラスってあのダラス?」
「そう。小山ほどもある大きな蜘蛛のモンスター」
何十年も何百年も生きる長命のモンスターで、ダラスは人だろうが家畜だろうが口に入るものは何でも喰らう。知性を持ち合わせていないから、人里近くに現れれば当然その街の脅威になる。ゆえにこういった情報は役所はもちろん、魔術師ギルドやハンターギルドで管理されている。
ソラネンのギルドに問い合わせるのではなく、旅の戦士であるリアムに尋ねる、という点が引っかかったがサイラスはソラネンの街の外のことにはあまり明るくない。
スティーヴの危惧がどこにあるのか、サイラスには判然としなかったが問われた内容に事実だけを返した。
「俺は知らないな。セイ、お前、何か知ってる?」
「ダラスが出て騒ぎにならない道理がないだろう。ソラネンは今年も平和そのものだ」
「そう。ならいいの。お二人とも、よい夜を」
言ってスティーヴは暗闇の中、器用に片目を瞑ってみせる。
そして、その後は彼女も宿に戻るのだろう。石畳の上を旅籠の区画へと向けて歩いて行った。その背が見えなくなるまで見送って、サイラスたちも寄宿舎へ帰るために街路を歩き始めた。間もなく時刻は深夜帯に突入する。ソラネンの街全体が穏やかな眠りに就こうとしていた。