Wish upon a Star * 05:Little Friend

 サイラスがソラネンに来て最初の冬のことだ。シジェド王国において比較的北部に位置するソラネンの冬は凍てるような日が年に一度か二度あるのだということをサイラスは知識の上でだけ知っていた。知っているだけでは何にもならない、ということをこの数か月で何度経験したのか、もう両手の指などではとてもではないが数え切れないほどだ。今夜も情報を経験に置き換えて、極寒の夜がサイラスの指先から感覚を奪う。
 寄宿舎に戻らなければならない。そのことは九つのサイラスにも判断が付いた。
 サイラスは今、ソラネンの街を取り囲んだ森林の中にいる。日が沈んでから――街と森との別を保つ為に築き上げられた城壁の門が堅く閉ざされてからゆうに四時間は経過している。森の中でちょっとした魔術の実証実験をして、速やかに寄宿舎に戻る。それだけだった筈なのにサイラスの観察眼はそれを見つけてしまった。ソラネンの城壁に空いたサイラスぐらいの子供がどうにか通れるだけの穴と、今にも息絶えてしまいそうな手のひらの上に乗る大きさの蜘蛛の子を。好奇心の塊のような九つのサイラスに、見つけたが無視をしろというのがどれだけ不可能なことなのか、あるいは十年後のサイラスに問うても同じ行動を取る可能性すら濃厚に残す意味深長な展開に、指先の感覚はもう殆ど残っていなかったがサイラスの気持ちは逸っていた。
 年に数度の大雪が森中を覆っている。日が昇っていれば美しい銀世界が姿を現わすだろう景色も今ではただの一面の闇だ。王立学院の入学試験の結果がソラネンの街中に流布された結果、魔術師ギルドはサイラスの身を引き受けたいと言ってきたが、学院がそれを断った。そういう回りくどいことをするのなら、なぜ最初にサイラスの素養を公言して回ったのか、大人たちの考えることは未だによくわからない部分が多い。よくわらないのだが、どちらからも好意的に情報を引き出せる状況もそれほど悪くないのではないか。学院の附属図書館で帯出を禁じられた書籍を借りられたり、尖塔の備品を使う権利があったりというのはサイラスにとってもまた利であり齢九つにしてサイラスは相互利益という概念を体得しようとしていた。
 貴族の子弟として育ってきたサイラスには一般常識が欠如している部分が多々ある。
 例えばどれだけ弱っていても魔力を帯びている生きものに同情してはならない、だとか、ましてやそれを街の中に持ち込んではならない、だとかいうことがサイラスの感情では割り切れない。
 だから。

「ファルマード司祭! ご相談があります!」

 サイラスは外套の下に蜘蛛の子を隠して城壁の穴から街の中へ戻った。学院の教授たちや尖塔の魔術師たちを頼るのは無理だということは流石にもう理解している。学院は蜘蛛の子を研究対象としようとするだろうし、尖塔は規律を破ったサイラスの魔力を封じる処分を下すだろう。そんな未来を回避する手段が一つだけある。教会だ。シジェド王国において教会は治外法権を得ている。神律を司る司祭が最上の存在であり、唯一の正義だ。教会の中でだけは貴賤も貧富も関係がない。正邪ですら司祭の判断で決まる。司祭が――ファルマード・フィレニアという名の老翁が許してくれさえすれば、サイラスと蜘蛛の子は助かる。許しと善後策を授けてほしくて、サイラスは教会の司祭館の扉を叩いた。もう既に眠りについているかもしれない、という絶望がサイラスを襲う。教会は市街地から少し離れた場所にある。だとしてもあまりにもノックを繰り返すと他の市民に見つかる可能性が全くないわけではない。躊躇いがちにもう三度ノックをした。まだ反応はない。あと五度。それで諦めよう。そんな風に腹を括ったサイラスを知ってか知らずか四度目のノックで扉が開いた。
 逆光の中にファルマードの穏やかな表情が見えて、サイラスの不安が少し薄くなる。

「どうしたのだね、サイラス。君らしくもない」
「司祭、罰なら受けます。ですから、これを救ってやってはいただけませんか」
「これ、とは?」

 緊張感を伴って、サイラスは告解した。サイラス自身が裁かれるのはある程度覚悟出来ている。それでも、そんなヒトの律でそれ以外の生きものも縛ろうというのは傲慢ではないのか。
 そんな、ある種の父神への反抗もファルマードは平然と受け止めてサイラスの主張の先を促した。

「蜘蛛の子です。魔力を少し帯びているのでこの街の条例上、排斥する必要がありますが酷く弱っています。このまま他の魔獣の餌になれ、というのはこれに対して非情が過ぎます。調子が戻る頃には魔力も自然中和されるでしょう。それまでの間、これの面倒を見ることをお許しいただけないでしょうか」
「サイラス。わたしは君に一つ言わねばならん」
「――何でしょうか、司祭」
「そんな大切な相談は捲し立てるように言うものではない」

 君と君の見つけた小さな友人についてもっと詳しい話を聞こう。入りなさい。そこは酷く冷えるだろう。
 言ってファルマードが半身を開く。サイラスの視界に司祭館の中への道が示された。
 ファルマードがサイラスの両肩から雪をはらう。司祭館の中は暖炉のぬくもりがほどよく充満していて、部屋に立ち入ったサイラスの指先が燃えるように熱を持ち始めた。暖かい。ここは暖かい。サイラスの心の中からまた少しだけ不安が薄れた。
 ファルマード・フィレニア、というのはソラネンの街で長く司祭を務める老翁だ。青年期には少しの間だが尖塔の魔術師だったこともあり、魔術に対して全くの無学というわけでもない。魔術を知ったからこそ、尖塔と距離を置いた。そんな話を聞いたこともある。人としての徳を持ち、ソラネンの街では王立学院の教授連中ですらファルマードには敬意を払う。
 だからだろうか。
 サイラスはファルマードのことが好きだった。
 血のつながった祖父は二人とも、サイラスに物心が付く前に病死したと聞いている。二人とも立派だったとサイラスの周囲の大人たちは口を揃えて言うが、それがどういうことなのか、結局サイラスが実感することは一度もなかった。
 サイラスはソラネンにおける派閥争いの駒だ。学院が尖塔をけん制する為に都合よく利用されている。それについては致し方ないのだろうと諦めていた。学院の特待生として衣食住を保証してもらうのだから、多少の不満については呑むしかない。
 それでも。
 サイラスのことを一人の人間として扱ってくれないのは少しつらかった。
 フェイグ母神もデューリ父神もサイラスに祝福を与えないのなら、敬うこともない。
 そんな風にささくれ立っていたサイラスに下心も何の損得勘定もなく純粋に心を砕いてくれたのは、多分、ファルマードだけだった。
 尖塔の魔術師たちは魔力を伴った死霊を浄化する際、神気の込められた聖水を必要とする。神気と魔力をお互いに媒介として行う術式らしいのだが、聖水を調達する為に教会を訪うのが煩わしいらしく、術式の解説をしてやるのと引き換えに調達をサイラスに任せたい、と言ってきた。ソラネンに移り住んできて三週間目のことだったから、多分、教会に行こうともしないサイラスが教会を訪れる為の名目だったのだろう。
 果たして、毎週のように教会に通うことになったサイラスは相変わらず神に興味がなかったが、ファルマードの人柄に触れ、少しずつ彼のことを信じられるようになっていった。
 祖父、という存在がファルマードのような性質のものだったらいいのに。
 本当に、心からそう思う。
 王立学院の図書館で禁書を見つけたのはふた月前のことだ。帯出禁止になっているが、寄宿舎に持って帰りたい、と何ごともなかったかのように司書に申請すると何ごともなかったかのように受理された。危機感を覚えたサイラスはその足で教会を訪った。ファルマードに今、自分が経験したことを説明すると彼は大らかに笑って「では君とわたしだけの秘密にしよう」と言って別段禁書を取り上げるでも、封印するでもなかったのには流石に司祭の領分を越えているのではないかと思ったが敢えて言わないでいた。この街でそれが許されているのなら、サイラスが口を挟むことでもないだろう。
 それ以来、サイラスは禁書の解読に勤しんでいる。
 昨晩、術式の構成の一つを説き終えたから、今夜、それを試しに森へ出た。
 そこまではファルマードも認識しているだろう。
 問題はそこからだ。
 暖かい部屋で毛布にくるまっているとサイラスの感覚が少しずつ戻ってくる。テーブルの上には蜘蛛の子。ファルマードはその小さな生きものをまじまじと観察して、そうして言った。

「サイラス、わたしの見解を最初に述べよう。君の見つけた友人は魔力を帯びた蜘蛛ではなく、魔力を封じられた魔獣であるようだ」
「魔獣? これがですか?」
「酷く衰弱しているが、そうだ」
「でも、これは木の枝から落っこちてきたんです。そんなどじな魔獣、聞いたこともありません」

 サイラスが森の中で術式を展開したところ、その衝撃で木の枝から雪の塊と共に落下してきた。自力では雪の中から這い出せず、あのまま放っておいたら凍死か窒息死が関の山だと判断したからサイラスが雪を掘った。こんなどじで間抜けな生きものが魔獣である筈がない。
 そう、反論するとファルマードは柔らかく微笑んだ。

「それについてはどう弁解するのだね、『マグノリア・リンナエウス』」
「――――――」

 マグノリア、と呼ばれた蜘蛛の子の複眼に小さな橙色を灯る。
 雑音に近い高周波の声が何かを伝えようとするが、九つのサイラスにそれを聞きとるだけの技術はなく、何を言っているのか、見当すらつかなかった。
 それでもなお、ファルマードと「マグノリア」の会話は続く。

「そうか。人語を封じられているのだな」
「――――――」
「なるほど。では『マグノリア』、君の願いを叶える代償を聞こう。君はわたしたちに何をしてくれるのだね」
「――――――」
「よろしい。サイラス、禁書を持ってわたしに付いてきなさい。そこにもう一袋、魔石がある。それも忘れずに」
「司祭、先ほどからいったい何の会話をしておられるのですか」
「君と君の友人の未来を保つ方法を模索しているのだよ」

 その一つを君の友人が知っていると言っている。
 来なさい、と言ってファルマードは「マグノリア」を抱えると暖炉の火を消した。サイラスは慌てて魔石の袋を拾い上げる。袋はずしりと重く、それなりの量の魔石が入っているのだろうと予感させた。ファルマードはそれを確かめると司祭館の奥へと歩き出す。今まで通されたこともない部屋の一つに入ると彼はおもむろに本棚を横にずらした。すると、本棚の置いてあった床にはぽっかりと穴が開き、そこからは地下に向けて階段が続いている。どこにつながっているのか、尋ねてはならないことのような気がして魔石の袋を大事に抱えてファルマードのランプを追った。
 階段を降りながら、ファルマードが淡々と語る。

「サイラス、君には言っていないがわたしも魔術の心得がある」
「尖塔におられたのでしょう? それは知っています」
「ではなぜ尖塔を出たのか、ということを考えたことは?」
「尖塔は面倒な制約がたくさんあるからではないのですか?」

 魔術師ギルドは自由に見えてその実制約だらけだ。明文化されていない上下関係、魔術を使って得る利益の規制や所得に応じた尖塔への寄贈額の取り決めなど、殆どが暗黙の了解で成り立っている。王立学院の教授連中の方がまだ目に見えたルールに縛られている分、わかりやすい、とサイラスですら思うほどだ。
 ファルマードは人徳に優れているから、実利主義の尖塔とそりが合わなかった。そういうことではないのか、と答えると彼は苦く笑う。

「半分正解で半分は不正解だ。制約が煩わしかったのは事実だが、それに見合うだけの益はあったよ」
「ではなぜ」
「簡単なことだ。『わたしが尖塔の魔術師では不都合なこと』が起きてしまった」
「意味が分かりかねます」
「サイラス、君は知っているだろう。尖塔の魔術師は古の魔術を用いることが許されていない」
「はい。それは知っています」

 ただ、それは今に始まったことではなく、古の魔術を読み解く技術が風化し、その結果、術式が伴う波及効果を想定することが出来なくなったからだ、と王立学院からも尖塔からも説明されている。そのことか、と問うと人はこの半世紀の間に詭弁を覚えたのだね、とファルマードが切なげな顔になった。
 長い長い階段が終わり、地下道のような場所に出る。よく見ると水路があるが臭気がそれほど強くなかったのは、今が冬だからだろうか。ファルマードのランプに導かれて石造りの地下水道を進む。
 ファルマードの問いはまだ続いていた。

「サイラス、この街を守っているのは何だと思うかね」
「城壁と規律、それから騎士ギルドの皆さんではないのですか」

 学術都市ソラネンにおいて武力を司るのは主に騎士ギルドの役割だ。尖塔の魔術師たちも戦闘の為というよりは個々の知的好奇心を満たす為に魔術を学んでいる傾向にある。他の職業に就いているものも多少の違いはあれど、皆、学ぶことに主眼を置いていた。
 だから、防衛は騎士ギルドの役割だ、と答えるとファルマードは「それは表層的な回答だな」と柔らかい声のまま言う。

「学術都市――その根幹を支えているのが、これだ」

 言うと同時にファルマードが短詠唱で魔術ランタンを灯した。刹那、青白い光源が幾つも生まれて地下水道の中を明るく照らし出す。
 そこにいたのは――巨大な、吹き抜けのように天井が高くなった空間にすっぽりと収まっている一頭の魔獣だった。学院の生物学系の研究室でよく見る白色のハツカネズミを極限まで大きくしたような魔獣――ジアルを実際に見るのは生まれて初めてでサイラスは息を呑む。
 どうしてここにこんなものがいるのだ。そもそもここはどこだ。無数の疑問が生まれては霧散する。
 その無限にも近い一瞬の中で、サイラスはあることに気付いた。
 蜘蛛の子から感じる魔力の波長と目の前のジアルの魔力の波長が似通っている。通常、魔力の波長というのは固有のもので親兄弟でもそうそう似ることはない。
 つまり。

「司祭、これの魔力を封じ、この場所まで私を運んだのはジアルの計略なのでしょうか」
「まさか君が『グロリオサ・リンデリ』の罠にかかるとは思ってもみなかったことだけが計算外だ」

 ファルマードのその言葉がサイラスの仮定を肯定していく。
 魔力の波長は固有だ。だから、サイラスが蜘蛛の子から感じ取っている魔力は蜘蛛本体のものではなく、封印に使われた「グロリオサ」の魔力なのだとしたら納得がいく。同じものから同じ感触を得るのは当然のことだ。だが、そうすると次の疑問も生まれる。ここは他の区画と比べて天井が高く、ジアルが収まるだけの空間があるが、サイラスが直前まで通っていた通路にはその余裕がない。ジアルが通れる筈がないのに城壁の外の蜘蛛の子にどうやって術式を付与したのか。これだけの強力な魔力を保つ為の食事はどうしているのか。どうしてこのジアルは「眠って」いるのか。サイラスにはわからないことだらけだ。
 それでもファルマードは言った。
 これは「『グロリオサ・リンデリ』の罠だった」と。

「司祭、一つだけわかりました」
「何かね。『千年に一人の大賢者候補』よ」
「『グロリオサ・リンデリ』の罠にかかったものが無傷で逃れるすべはない。そうでしょう?」
「正解だ。そして君はグロリオサの張った罠にかかってしまった。ことが恙なく終わるまで君には犠牲になってもらうしかない」

 ファルマードはそう言いながらも表情を変えることがない。千年に一人の大賢者候補、というのは流石に過大評価だ、と思ったがそれを訂正している場合でないのが自明でサイラスは現状把握と問題解決の為に精神力を集中させた。そんなサイラスを穏やかな表情のまま見つめているファルマードが一体何を知っていて、何を企てようとしているのか。僅か九つのサイラスにそれを推してはかる力量など当然あるわけもなく、頭の中は混乱による混乱で埋め尽くされている。
 それでも、どうしても。どれだけ智を巡らせても祖父のように親しんだファルマードを責める気にはなれなくて、最終的には許容という答えがサイラスの脳裏に明滅して消えてはくれない。
 ジアルの紅色の双眸がゆっくりと開かれるのにも気が付かないほどの混乱の中で、サイラスは揺れていた。