Wish upon a Star * 10:Defensive defense

 魔獣というのは嘘を吐かない生きものだ。
 虚飾も誇張も侮りも嘲りもない。その代わりに忖度も思いやりも同情もしない。善も悪もなくただ個として確立された自らのみを持つから、他者がどうであろうと関係がない。相手の都合も事情も鑑みない。だから、魔獣は全て有言実行する。それが魔獣という生きものだということをこの世界で生きるヒトは皆、知っている。
 つまり。
 ソラネンの街に広域の魔力干渉を行ってきたダラスが再び接触するまでには必ず三日間の時間があるということだ。
 それを長いと捉えるか短いと捉えるかは本人の主観によるだろうが、ソラネンの住人たちは一丸となってダラスの襲来に備えた。まずは時間のかかるものから、と魔力のあるものを尖塔に集めて、サイラスが力を共有出来るように術式を施した。ひとところに集まって長時間何らかの儀式をする、だとかそういうことではない。住人たちが持っている魔力の器に小さな穴を開けて、サイラスの器と同期する。ただ、個々に長詠唱を必要としたから、魔力を提供してくれるもの全てに術式を施し終わる頃には日が暮れていた。
 サイラスが小休憩を挟みつつ、術式を施している間にもときは過ぎる。ソラネンは今、一秒も無駄には出来ない。尖塔の魔術師たちは輝石のかけらをかき集め、ハンターギルドに矢と魔弾を、鍛冶組合に魔剣をはじめとした武器の生産をそれぞれ依頼した。残っているものは蒸留水を作ったり、錬金術学会と協力して傷薬や回復薬などの調剤を行っている。
 半ば事後承諾の体で古代魔術の使用を許可した役所のものたちは、戦力にならないものの避難誘導と備蓄食料の運び出しを始めていた。役所の地下には街中のものを七日生かすだけの備蓄がある、とのことだから長期戦は事実上不可能だと告げられたに等しい。街の四方の城門を閉ざした。安全が確保されるまで馬車便を止めるように、と市長の名で周囲の都市に伝書を送ったから物資の流通も止まった。ソラネンに滞在していた旅のものは役所が責任を持って保護する、ということを宣言したため、彼らは動揺はしているものの騒ぎを起こすには至っていないのが幸いだっただろう。
 ソラネンの街を覆う魔力結界の中心は教会の聖堂に位置する。半球状の結界の中で一番、空に遠い場所だ。裏手の小さな泉では聖職者たちが交代しながら聖水を汲む作業を続けている。その成り行きをテレジアが眠ることもなく、ずっと見守っていた。魔獣の末端でありながら、教会の中にい続けられるほど、テレジアの魔力とサイラスの魔力の波長は近しくなっている。それを目視させられた聖職者たちは時折、テレジアに神――デューリ父神の祝福を授ける祈りを寄越した。その度にテレジアはまるで自身が本当にヒトの身を持ったかのように感じた、と後になって照れ臭そうに話すのはまだ誰も知らない。
 二日目の朝を尖塔の仮眠室で迎えたとき、サイラスは身体が軽くなっているのを確かに感じた。この十年、減る一方だった魔力が満たされている。それと同時にソラネンの住人たちの様々な思いがサイラスの中に浮かんでは消えた。死を恐れるもの、外敵を憎むもの、サイラスへの期待や信頼、それからテレジアの身を案じる思いが視えたとき、この街を守るということの本当の意味を知ったような気がした。

「トライスター。おぬし、よい顔つきをしておる」
「ソールズベリ子爵家の血脈を反映しているだけだ。父の方がもっと精悍でよい顔つきをしていた」
「自画自賛の皮肉を返せるだけの精神状態であるというのは実に結構。そうでなくては我らもおぬしに命運を託せぬところよ」

 老翁はそう言って闊達に笑った。サイラスはこの魔術師の頭目のことが決して嫌いではない。幼くして両親を失い、ソラネンへと流れついたサイラスを魔力鑑定の結果からとはいえ、一番最初に必要としてくれたのがクラハド・カーバッハだ。基礎的な魔術の手解きもクラハドから受けたし、学院がサイラスを手放すと決めていたらこの老翁がサイラスの師匠であったことは疑うまでもない。
 そんな浅からぬ縁を感じながらサイラスは少しだけ落ち着いた空気をもとの場所へと引き戻す。
 クラハドが手のかかる子をあやすような顔をして苦笑した。

「カーバッハ師。外のダラスは一体何が目的なのだろうか」
「天才のおぬしをしてわからんことをこの老爺に聞くでないわ」

 年長者だからこそわかることもあるだろう、と反論するとクラハドは、わかっていることがあるのなら最初に伝えている、と言い返してくる。言葉のやり取りにおいて魔術師と学者と聖職者は三つ巴の関係にある。どの職にあるものもそれぞれのかたちで言葉を武器にしているから、引き出しの多さで優るものが最終的に勝利を得る。
 サイラスは学者ではあるが、魔術師としての側面もある。魔術の道をひた進んでいるクラハドと弁論を戦わせるのは決して無駄なことではないだろう。

「マグノリアを知っているダラス、というのがどうにも引っかかるのだ」
「おぬしもわかっておろう。魔獣の発生の仕組みは神しか知りえぬ。聖職者どももおぬしら学者も長年研究を続けておるがわからん、というのがわかっておるだけだ。ただ」

 言ってクラハドは言葉の先を濁らせた。
 知っている。こういう顔をしているときのクラハドは残酷な真実を告げる覚悟をしている。だから、多分、彼は今からサイラスに何らかの死刑宣告をするのだ、と身構えることが出来た。

「ただ?」
「女将はダラスであろう。ダラスは同族食いで悪名高いのを知らぬわけではあるまい」
「まさか」
「我の思い過ごしであればよいが」

 ダラスの悪食は有名だ。自らが魔力を蓄える為に魔力を帯びているもなら何でも捕食する。そして、最も効率のよい手段として成熟期を迎えた同族を食らう、というのは魔獣を研究するものにとって基礎的な知識だ。情も何もない。ただの魔力の供給源として同族を捉えている。
 それでも。
 魔導書は皆こう但し書きをする。ダラスが同族と相まみえる間隔はおおよそ百年に一度あるかないか、だと。
 まさか。あり得ない。そんな気持ちがサイラスの中に充満した。十年だ。十年もの間、サイラスはテレジアと二人で上手く――かどうかは今となってはもう自信がないが――ソラネンの街を守ってきた。
 最初はただの出来の悪い蜘蛛の子だとしか思っていなかった筈のテレジアに愛着を持っている。仕方がないだろう。十年だ。十年あればヒトの心は変わる。ヒトは集団で生き生きものだから、環を保とうとする。環の中にあるものを許容するように順応するのも当然のことだ。
 なのに。

「カーバッハ師。専守防衛でなくてはならないのか」

 テレジアが標的の可能性が高い、とクラハドが言ったと理解出来た瞬間、サイラスの頭の中にはどす黒い感情が渦巻いた。相手のダラスがどこにいるのかは魔力の波長を手繰ればわかるだろう。今のサイラスにはそうするのに十分な魔力がある。魔獣は次元を超える、とも言われる。その亜空間にまで介入をすることは許されないのか。
 危機が――サイラスと十年を共に戦った友人の命の危機が迫っているのに、攻めてこられて初めて戦うことが出来る、だなんて馬鹿げている、と半ば本気で思った。
 その感情の一端を言の葉にするとクラハドの眉間に綺麗な皺が寄る。

「トライスター」
「こちらから打って出るというのは許されないのか」

 相手に悪意があるのは明らかだ。挑発――を通り越して宣戦布告をされたのも同然で、その状態でどうして大人しく攻撃されるのを待たなければならないのだ。正当防衛でなければ何故許されないのか。どうして傷付けられるのをよしとせねばならないのか。どうして、この期に及んでまでエルヴィン王が取り交わしたという相互不可侵を一方的に守り続けなければならないのか。
 どうしても、どうしてもサイラスには納得が出来なかった。
 感情の制御なんて簡単だと思っていた。冷静を貫けないようでは学者としてどころか大人として半人前だということもまだわかっている。
 それでも。
 十年を共に生きた友人の危機に目を瞑ることは出来なかった。
 そのことを一心に陳情するとクラハドが何度か嗜めるようにサイラスに呼び掛けた。それを無視して自前の正義論を語る。その度にクラハドはサイラスに呼び掛けたがサイラスはそれを何度でも無視した。

「落ち着かんか、トライスター」
「しかし!」
「よいから落ち着かんかこの聞かん気の小坊主!」

 何度目かの暴論を諫めるようにクラハドが無詠唱でサイラスの頭上から水を降らせた。突然の滝水にサイラスは全身水濡れになる。頭を冷やせ、と物理的に忠告をされてようやく、サイラスは言葉を止めた。

「カーバッハ師。友を守りたいと思うのは罪なのか」
「ここでは精神問答の講義は行っておらん。青臭い正義感を振りかざしたいだけなのなら教会にでも行くがよい」

 おぬしの仕事はひと段落しているであろう。
 暇ならば仕事を探して手伝っていればそんな雑念が生まれる余地もない筈だ、と言外に続く。

「……」
「トライスター。よく聞くがよい」

 正義の在り様は人の数だけある。殴られる前に殴るのと殴られてから殴り返すのと、どちらの罪が重いかとサイラスは今考えているが、別のものからすれば経緯などどうでもよく、結局は殴ったのだから同じだけの罪だ、と判ずるものがいても決しておかしくはない。法規が定められるのはそういう十人十色の価値観を均すためで、本当の意味で罪の重さを知っているのは本人しかいないのだ。神ですら罪の重さを定量化出来ない。それが人の心の仕組みだ。
 だから。

「ヒトというのは業の深い生きものよな、トライスター」

 生きているだけで罪を生む。そんな生きものはヒトの他には一つも存在しない。
 そう、言ったときのクラハドの表情は凪いだ水面のように穏やかで、そして同時にとても哀しそうだった。
 知っている。ヒトというのは傲慢の権化だ。飽くことなく世界を消費するだけ消費して世界に有益な生産は微々たる量しかしない。知っている。それでもサイラスはヒトに生まれてしまった。人生という道を歩き出して、そのうえで必死に戦っている。貴賤も貧富も清濁併せ持つヒトに生まれたことを決して悔いてはいない。
 それでも。

「おぬしはヒトとして真っ当であろうとしておる。であれば、我はおぬしに望むのよ。そのまま、その茨の道を歩んでくれぬか」

 つらいことが多いかもしれない。挫けそうになるかもしれない。
 それでも、サイラスの選んだ「美しい理想」を描き続ける姿は誰か――具体的な例を挙げるならクラハドに勇気を与えるだろう。そう出来るだけの強さを持ったサイラスのことを受け入れ、敬い、目指す。そんな偶像になってくれ、とクラハドは言った。

「カーバッハ師。私は諍いごとがあまり好きではない」

 クラハドが降らせた魔術の水はもう消えた。もともと空気中に気体として存在していたものを魔力を介して液体に変えただけなのだから、当然と言えば当然だ。
 濡れていた筈の床にすらもう名残は見えない。
 その、石造りの床を注視したままサイラスはぽつり、うわ言のように呟いた。

「知っておるとも」
「ダラスというのは理論の通ずる相手か」
「おそらくは不可能であろう」

 ダラスにはダラスの理論がある。そして、それは決してお互い歩み寄ることなどない、とクラハドは断言した。
 それでも。サイラスは知っている。テレジア――マグノリア・リンナエウスはサイラスのことをあるじだと言いながら、その実家族のように感じていることを。

「ならばなにゆえ私とテレジアは友好の情を互いに持っている」
「おぬしがそのように育てたのであろう」
「――えっ?」
「感情のないはずのダラスに感情を与えたのはおぬしだ、サイラス・ソールズベリ=セイ」

 先代の人柱――ファルマード司祭と契約した魔獣には感情などなかった、とクラハドは至極真面目な顔をして言った。グロリオサ・リンデリはファルマード司祭に使役されているだけで、二者の間に友好の情はなかった、とはっきりと断言されるのをサイラスはどこか遠くの出来ごとのように聞く。

「古来、奇跡を起こせるものが天才と呼び称されるものよ。トライスター。おぬしの背負った荷がどこまで届くのか、我にも最期まで見届けさせてはくれまいか」

 天才というのはそれだけの荷を背負ったもののことだ、とクラハドは言っている。
 自らの道を自らの意思で歩き、その轍がいつか輝きを放つ。生きている間に評価を受けるものも、死んだあとに評価されるものもいる。サイラスがどちらになるのかは十九年ではまだ判別に足りない。
 ただ。
 クラハドはサイラスを――ひいてはサイラスの戦いを心の底から応援している。そんな風に言われて、最終的に勝利を得られるのなら手段がどれだけ暴虐でも構わない、などと言えるほどサイラスは荒んでいなかった。

「師はそれでよいのか」
「トライスター。知っておろう。この街に所領の拡充を願うものも、悪逆を望むものもおらん」
「皆、平和と平穏を愛し、その前提の上で勝ち得る最上の名誉を求めている、か?」
「それが出来ぬものはもうこの街を去った。そうであろう?」

 そうだ。そうだとも。ソラネンの街はただ探求だけで成り立っている。昨日より今日、今日より明日、明日より十年、二十年先のことを追い求めるものだけがこの街には残った。今、ソラネンの街にいるのはそういう探求者たちだけだ。
 だから。

「一個都市がダラスの襲来に打ち勝つ、というのはこの街において最上の名誉だと言いたいのだな」
「そうだとも。撃退、それだけでよい。それがおぬしの本来の戦い方ではないのか?」
「随分と買い被られたものだ」

 それでも、過大評価を受け取ったことでサイラスの中で渦を巻いていたどす黒い感情が少しずつ霧散していくのを感じる。
 戦いの姿は千差万別だ。誰が何をどう思うのかで幾万幾億の結論が変わる。
 誰かを否定したいのではない。だから、誰かを否定してまで自らを肯定するのは分が過ぎていると言えよう。サイラスは今、自らを守る為に何かを否定しようとした。クラハドが婉曲な言葉でそれを指摘する。彼もまた指摘に留まり、サイラスに何かを強要することはない。なるほど、これが尖塔の指導者か、と思うとサイラスの中でクラハドへの畏敬の念が高まったのを感じた。

「カーバッハ師。この街を守りきってあなたに示そう。私の青い正義感があなたの思う奇跡を描き続けていくのだ、と」
「そう大言壮語するものではない。有言不実行ほど無様なものもないでな」
「いや、問題ない。私は必ず有言実行する」

 なぜなら、サイラスは三年連続その称号を保持し続けている史上最年少のトライスターなのだから。
 その場所に立ち返って目の前にあるものを正視する。サイラスにはまだまだすべきことがあるのをようやく思い出した。

「旅籠に行ってくる」
「トライスター。おぬしはまだ十九年しか生きておらぬ小僧だ。思ったことを先のようにぶつける相手が必要であれば壁打ちをしろとは言わん。またここに来るがよい」
「精神問答の講義もないのに?」
「おぬしは我の不出来な弟子の一人であるからな。特別に聞いてやらんでもない」

 微笑んでクラハドが言う。その微笑の何と心強いことか。
 
「なるほど、私はよい師を得た、ということか」
「さぁ行け、トライスター。ソラネンの街は皆、おぬしの味方よ」

 クラハドの言葉を信じ、尖塔を出ていく。旅籠にはスティーヴ・リーンたちがいる筈だ。彼女たちと協力することで実現可能な対策を実行することがソラネンの街にとって最上であると信じ、サイラスは露店商たちの消えた中央市場を駆けた。