Wish upon a Star * 12:Bless for you

 神なんてどこにもいないと思っていた。
 教会で聖堂で儀礼で天空父神と大地母神に祈りを捧げながらも、サイラスの中に信仰という概念は根付かなかった。神がいるのなら、ただ黙って見守るだけが神の役割ならいっそ淘汰されてしまえばいいとすら思っていた。あの日、サイラスから全てを奪っておいてそれが試練なのだとか嘯くような存在を否定したいとずっと願っていた。
 だから。
 神力という概念があることは理解している。聖職者たちが授けてくれる神の息吹のことも承知している。真実、神が存在しないのであればそれらの一切は何らかのまやかしであることになるから、何らかのかたちで存在しているというのは認めざるを得ない事実だった。
 それでも。
 サイラスは神に祈ったことがない。祈るだけの心があるのなら、それを行動に移せばいい。ずっと、ずっとそう思っていた。サイラスが学者という職業を選んだのもそこに起因している。他人任せにして、誰かに決定権を委ねて、人の思惑に流されて、浮遊して。そういう人生の過ごし方を否定したいわけではない。ただ、サイラスは自らの思う最善を得る為にならどんな努力でも出来た。努力が出来るのが既に一つの才能だ、という主張があることは一応知っている。知っているが、それに反応を返すつもりはなかった。
 あの日、サイラスが失ったものよりサイラスにとって価値のあるものを獲得すること。そうしてサイラスが充足を得るということを目標にサイラスの前向きな復讐が始まった。
 十年の月日の中で、サイラスはごく少数ではあるが友人と呼べるものを得て、人と関わり合うことの煩わしさと別離した。人の中で人として生きる。誰かの為だとか誰かの所為だなんて言わなくてもいい。ただ、自分の為に誰かの役に立てる自分でありたかった。
 それは既に願いの一つであるということをサイラスは未だ知らない。
 その小さな願いが祈りとなって天地の神々が見守っていると告げられても、サイラスは十年前のように忌避することはないだろう。
 だから。

「リアム! ウィステリア! 北門を放棄する。部隊を速やかに撤退させろ」

 クラハド・カーバッハを背負ったシキ・Nマクニールがウィステリア・フロリバンダの能力で亜空間の中を駆け、無事聖堂に辿り着いた、という報を受け取ったサイラスは止む気配のない頭痛に終止符を打つ方策を考えていた。
 北門のあった場所は既にただの瓦礫と化している。現状のまま、再度ダラスの攻撃に耐えることは事実上不可能だった。戦闘員の士気も底の底まで下がっている。とてもではないが、正面から戦闘を再開出来る状態ではない。
 勝機があるとしても、この場所ではない。撤退を指示すると指名された二人は否定の態度を示した。

「そんなことしたって何にもならないだろ!」
「そうよ! あなた自暴自棄になっているのではなくて?」

 ここが踏ん張りどきだ、と彼らは主張したがそういう地点はもうとうに通り過ぎているのだ。
 ヒトの魔力を練り上げて、最善の状態での攻撃を仕掛けたのに容易くそれを跳ね返された。戦闘員たちに怖じるなというのは無理が過ぎる。奮起せよ、というのは簡単だが、その為にはまず勝算を示さなければならない。示し得る勝算などなく、結局はただの無理難題だ。
 勝算もないのに一矢報いたいという念だけで攻撃に転ずるのは自滅行為だ。
 だから。

「そのままそこにいても事態は好転しない。傷付いたものを速やかに処置すべきだ」
「けど――」
「リアム、この街の死にたがりは私一人で十分だ」

 そうだろう?
 問うとウィリアム・ハーディは泣きそうな顔をして「そうだよ」と答えた。
 サイラスの人生は順風満帆だったわけではない。自分一人を残して家族も住居も財貨も全て失ったと理解したときから、サイラスは最良の最期を求めている。楽な死に方がいいのか。早く死んだ方がいいのか。誰かの役に立って死ぬのか。それとも何も得られずに一人虚しく朽ちゆくのか。ずっと、ずっと終わりを求めてきた。生まれた以上、死という終着点からは誰も逃れられない。だから、サイラスはせめて最良の最期を求めた。
 十年という歳月の経過がサイラスの人生を少しずつだが、確実に豊かにした。
 今すぐに死んでしまいたい、だなんて思う気持ちは少しずつ薄れ、人生の道のりを歩き続ける苦痛を和らげることも知った。それでも、ソラネンの街にサイラス以上の死にたがりはおらず、サイラスにとってそのことが一番大きな劣等感を生んでいた。
 学問を修め、魔術を学び、魔獣と契約を交わす。
 トライスターと呼ばれ、人並みではない人生を歩いていても、それでもサイラスはふとした瞬間に終わりの光景を考える。
 今、その片鱗が実像として浮かんでいるのに気が付かないほど、サイラスは愚昧ではなかった。最良の最期が目の前にある。十九年の人生を彩って大輪の花を咲かせる、最良の最期が待っているではないか。そう、思っているのがリアムにも伝わったのだろう。人に後悔をさせる最期は最良ではない。忠告したくて、なのに代替策を提示出来なくて、子どものように泣いて駄々をこねることも出来ないリアムはひたすらに通信魔術のこちらにいるサイラスを睨みつけていた。

「リアム、私はこの街の全ての災いを被って死にたい、と思っているわけではない」
「だったら何なんだよ」
「死んでもいい、と思っているのは否定しない。それでも、不思議なものだな。それと同じぐらい、お前たちと明日を生きてみたいと思っている」

 日暮れと同時に仕事を終えて団欒の時間が訪れることも。一杯の酒を酌み交わしながら今日の出来ごとを振り返ることも、全部、生きているから味わえるのだということをソラネンの街がサイラスに教えてくれた。
 苦しみは特別な感情ではない。喜びもまた特別な感情ではない。
 感情は全てにおいて対等に尊く、対等に価値がある。
 だから。
 サイラスはダラスの襲来に耐えきって、勝利の美酒を酌み交わす光景を生きてこの目で見たいと思った。ソラネンの誰も失わない。そんな未来が本当にあるのなら。そのときは神に感謝の言葉を献じてもいい。そのぐらい、サイラスは今、生きて明日を見たかった。
 なのに。
 リアムは首を横に振った。

「――嘘だ」
「嘘ではない」
「嘘だ! 嘘だ……だって、生きてたって何もいいことなんかないし、明日なんて来なくたっていい。お前だってそう思ってるんだろ、セイ!」

 そんな風に世界のことを倦厭していた時期もある。明日が今日よりましな保証なんてない。今日より酷い明日かもしれない。そんな明日を見て絶望するぐらいなら、今日のままで終わりたい。そう、思わなかったかと問われるとサイラスはそれを否定する手段を持たない。そうだ。確かにサイラスは世界を憎んでいた。サイラスを一人残して炎の向こうに消えた両親のことも、都合よく現れて全てを奪っていった縁戚のことも、その際に何の手助けもしてくれなかったジギズムントの住人や役所のことも恨んでいる。
 それでも。
 サイラスはそのほの暗い感情と今はそれほど親しくしていない。
 その手助けをしてくれた当の本人が、今、その感情に振り回されているというのは実に皮肉な話だが、同情して私情を挟んでいる場合ではないのは自明だ。

「……それは、私の気持ちではなくお前の願望ではないのか、リアム」
「――っ!」
「身の上の不幸自慢なら安寧のソラネンで聞こう。私はまだこの街と共に心中するつもりはないのでな」

 王子として生まれながらにして王族という扱いを受けることのなかったジギズムント伯の憎悪や怨嗟はサイラスの比ではないかもしれない。それでも、サイラスは知っている。リアムの笑顔は人を疑うだけだったサイラスの心を溶かした。だから。リアムにもその手助けが必要なのだというのなら。今度はサイラスが手を差し伸べるのは決して吝かではない。
 だから。

「ウィステリア、そちらから尖塔へ空間を捻じ曲げることは出来るのか」
「ええ、それは、勿論」
「ならば私を運んでくれ。教会の聖堂へ向かいたい」

 それがサイラスの中に残った最後の手札だ。
 サイラスの魔術結界の境界面であればダラスの外殻を切断することが出来る。切り取られたダラスの脚は呪詛を放つがデューリ神の加護を得た聖水が無効化する。ならばもう方法など一つしか残っていない。
 サイラスの――ソラネンの魔力が尽きるのが早いか、ダラスの魔力が尽きるのが早いか、根競べをするしかない。そして、その勝負をするのであればソラネン全体に魔術結界を施しているだけの余裕はない。もっと一部の区域に魔術結界を限定するべきだ。そしてその場所にダラスの意識を釘付けにする必要がある。たとえ守るべき友人――マグノリア・リンナエウスを釣り餌としようとも。ダラスの進撃を阻めなければどの道、マグノリアは贄となる。ならば生きる為に彼女を利用することも致し方のないことだ、とサイラスは判断した。最小の犠牲で、最大の利益を得る。それが人を率い、人の期待を受け、人を導くもののあるべき姿だ。
 サイラスの決心を試すかのようにウィステリアは問うてきた。

「デューリ神の聖域でもダラスは無遠慮に飛び込んでくるかもしれなくてよ」
「何、それが狙いだ。問題ない」
「あなた、本当の本当に人柱にでもなるつもり? わたしは自分の次のあるじを目の前で見捨てるのだけは嫌よ」
「デューリ神というのが本当に在るのなら、私は決して死ぬことはないだろう」
「なぜ、そう言い切れるの?」
「あの日、この神才を生かしたからには無駄死になどさせんだろうさ」
「あなたが筋金入りの馬鹿だということだけがわたしにもわかってよ」

 でも、そういう馬鹿に命運を託すのはそれほど嫌ではない。そんな風にウィステリアは微笑んだ。この状況下でまだ微笑を浮かべることが出来るというのはそれも一種の才能だろう。
 才能には数えきれないほどの種類がある。人の数だけ違う才能があると言っていい。その一つひとつを比べて順位付けすることは勿論可能だろう。その番付でサイラスはおよそ天才の域を超えた存在であると自負している。
 だから。

「ウィステリア。私はまだお前の名を聞いていなかったな」
「あなたが無事に戻ってきたら教えてあげてもよくてよ」
「ではクァルカスにもそのように伝えてくれ」

 お前たちのあるじたれるよう善処する。そう、告げるとウィステリアは両目を軽く見開いて、そうしてやはり馬鹿を見る目で優しく言った。

「サイラス・ソールズベリ=セイ。わたしはあなたに呪いをかけるわ。全身全霊で」
「その種類の呪いのことをヒトが何と呼ぶか知っているか」
「知っているに決まっているでしょう」

 祈る、というのよ。ウィステリアは穏やかに微笑んで、そうしてヒトがデューリ神へと祈りを捧げるときの仕草を真似た。魔獣であるのに神に祈る作法を実演出来るところに彼女の誇り高さを感じる。そうまでしてでも、ウィステリアがサイラスの勝利とその先にある生還を望んでいることを拒絶せねばならないほどサイラスもまた弱くはない。
 この強さをくれたのはソラネンの街そのものだ。

「テレジア! 聞こえているな!」

 今から彼女を釣り餌として最後の「釣り」を始める。そう宣言すると教会の聖堂からいつも通りのテレジアの声が返ってきた。あたしは坊やの決定に従うと言っているじゃないか、と。
 そのあまりにもいつも通りで、心の揺らぎのない声にサイラスの中にある余計な緊張が溶けて消えた。
 息を吸う。今からすべきことの手順を何度も何度も頭の中で繰り返して、そうしてサイラスはウィステリアの作った亜空間に足を踏み入れる。
 無と無限の世界である亜空間に入った、と思った次の瞬間にはサイラスの視界が暗転して、そうして教会の聖堂の中に立っていた。薄暗い聖堂の中、神像の前に立っている後ろ姿が見える。日を追うごとに薄くなる幼い日の記憶。その記憶の中で微笑んでいた母と同じ造形で、なのに全く違う表情を浮かべたテレジアがサイラスを振り返った。

「すまない、テレジア」

 結局、テレジアを安全地帯から引きずり出す事態になってしまった。テレジアの本体は聖堂の地下で眠っている。その懐に戦うすべを持たない市民を守り抱いて、最も堅牢な魔術結界を保っているテレジアを前線に引っ張り出すことだけはしたくなかったが、私情を挟んでいる場合ではない。わかっていたが、謝罪の言葉が口をついて出た。
 テレジアが軽く首を横に振る。

「およしよ、坊や。そういうのはしくじった後に言うもんさ」
「天才だ、神才だ、鬼才だのともてはやされて私は少し自惚れていたな」
「その評価が本物になるいい機会じゃないか。肝心なときに臆病だねえ、あんたは」
「街一つ。その全てを懸けて実証実験をする未来がある、だなんて知っていれば私ももう少し謙虚でいられたのかもしれん」

 あんたは十分謙虚な生きものだよ。言ってテレジアが苦笑した。

「坊や、さっき言った通りさ。あたしはあんたの決定に従う。あんたと契約を結んだことはあたしの誇りだからね」
「お前は皆の守りを頼む」
「心得てるよ」
「ならば、始めるとするか」

 これがあらゆる意味で最後の挑戦になるだろう。
 サイラスは聖堂の中、ゆっくりと瞼を閉じた。教会の敷地の境に埋められた輝石の魔力と同調する。借りもののソラネンの皆の魔力がそれに呼応するかのように反響し、増幅した。練度、精度、ともに申し分ない。そのことを確かめて、サイラスは城壁の外側に展開していた魔術結界を解いた。瞬間、不定期的に襲ってきていた頭痛から解放される。ダラスが北門の内側に前進を始めた。教会の結界はまだ錬成していない。
 つまり。

「そこにいるのか、マグノリア!」

 教会の中にいるテレジアの魔力をダラスが感じ取る。贄を求めているダラスの複眼が激しく明滅し、標的を定めた。そして、ソラネンの入り組んだ街路を無視して巨躯が移動を始める。美しい造形を誇る街並みがそれに伴って破壊されていくが、その好悪を問うているだけの余裕は誰にもない。命あっての物種、とシキ・Nマクニールが言ったのが不意に思い出された。そうだ。その通りだ。生きてさえいれば明日をまた紡ぎ直すことが出来る。壊れたものを新しく作り直す為には、まず、命があるという大前提が必要不可欠だ。
 この街の誰もがそれを実感し、祈る思いでサイラスの策謀に命運を懸けた。
 ダラスが林野を薙ぎ払い、そして教会を目視出来る場所まで進む。名はまだ視えない。状況はまだサイラスの不利を示していた。それでも。賭けはもう始まってしまっているのだ。引き際などとうに通り越した。

「来るぞ! テレジア!」

 口腔内で長詠唱を始める。ダラスの巨躯が教会の敷地に踏み込む。その刹那を狙って半球状の魔術結界をせり出す。今度は三本の脚をもぎ取った。呪詛を纏った汚泥が教会の清浄なる神力によって霧散する。デューリ父神の加護を直接得ている分、聖水よりも効果が高い。浄化効率の面では十分に勝機があると言えた。
 だが。
 ダラスの脚はたちまちのうちに魔力によって再生され、何ごともなかったかのようにサイラスの魔術結界を外側から打ち破ろうとする。魔力の保有量が圧倒的に違う。そのことを強制的に理解させられたが、今更別の戦法など選べる筈もない。強烈な頭痛と吐き気に襲われながらもサイラスは長詠唱を再び開始した。結界を解くのは一瞬で出来るが、錬成にはどうしても詠唱が必要だった。
 それからは詠唱を終えては結界を解き、そうして再び詠唱を行っての繰り返しだった。頭痛は時間の経過とともに激しさを持つ。息苦しささえ感じながらも、サイラスは何度となく繰り返しダラスの脚を切り取っては霧散させた。教会の清浄なる空気は今もまだその神力を保っている。まだ戦える。そう思って何十回目かの長詠唱を口腔内で始めると、不意に熱を持った液体が食道からせり上がってきた。口腔内ではとても収まりきらず、サイラスは聖堂の床に液体を吐瀉した。その色を見て、テレジアが悲鳴を上げる。血だ。

「坊や!」
「――騒ぐな。ただの吐血だ」
「ただのって量じゃないじゃないか!」

 中腰の態勢で、ぐい、と口元を衣服の袖で拭う。血液は布地すら深紅に染めた。頭痛が収まる気配もないし、外のダラスの魔力が枯渇する兆しもない。ならば、サイラスはまだ詠唱を止めるわけにはいかないのだ。
 立ち上がって口腔内で言葉を紡ごうとする。その肩をテレジアが無理やりに押さえつけた。反論をしよう。そう思ったのにテレジアの双眸から零れ落ちるものがあると気付いて、サイラスは言葉を飲み下した。

「テレジア、泣くな」

 泣くな、と言ってもサイラスの肩を押さえつけるテレジアの双眸からは涙が溢れ続ける。その合間にも頭痛は繰り返し襲ってきていた。根本的に何も解決していないのに、サイラスの目の前には限界の二文字が明滅している。潮時なのだろう。これ以上はサイラスの肉体が持たない。魔力で増強したと言っても結局はヒトの身なのだ。長命種のダラスを相手に魔力の持久戦をしようなどということ自体が無謀だった。そう、判断をせざるを得ない。
 ヒトというのは無力だ。
 顔中をくしゃくしゃにして泣いている大切な相棒の涙を止めることすら出来ない。

「テレジア。泣くな。まだ最後の賭けは終わっていない」
「嘘をお言いでないよ。坊やの身体はもう限界じゃないか」
「嘘ではない。最後の、本当に最後の賭けがまだ残っている」

 本当はこの手段だけは使わずに終わらせようと思っていた。だから、誰にも何も伝えていない。リアムは薄々気付いているだろうが、今更考えを改めろなどという議論をする気もないだろう。
 だから。

「すまない。テレジア、私と共に本当の意味で人柱になってほしい」
「それは、どういう意味だい?」
「付いてきてくれ」

 両肩を押さえていたテレジアの力が緩む。その手のひらをそっと押し返してサイラスはよろけながらも立ち上がった。ふらつく身体をどうにか支えながら、サイラスは聖堂の裏口へと歩き出す。テレジアが困惑の表情でサイラスを見つめていた。

「坊や、あんた何を考えて――」
「最後の、最後の賭けだ。だが、今なら勝算はまだ残っている」

 肉体が限界を迎えているがサイラスの魔力の器にはまだ力が残っている。ダラスの魔力もそれなりに削り取った。その効力がやっと一つの実を結んだ。
 サイラスの目には今、ダラスの名が視えている。
 はっきりと、わかる。ただ、その名を呼ぶことが出来るのはたった一度だけだろう。
 その機会を誤れば本当にこの街は壊滅の未来を迎える。
 裏戸から教会が内包する林野の中へと出ていく。まだ昼頃だろうに魔術結界に覆い被さったダラスの所為で薄暗くなっていた。その中をテレジアに支えられながら進む。

「テレジア、あのダラスは随分と小さくなったと思わないか」
「えっ、ああ。そうだね」
「あの大きさであれば泉が丸呑みにしてくれるだろう」

 教会の泉、というのは名前の上でこそ泉と呼ばれているがその実、中型の湖ぐらいの大きさを持っている。そこには常に神の息吹を受けた聖水が湛えられている。サイラスが魔力を削り取った今のダラスなら、この泉がダラスを呑み込めるかもしれない。

「聖水が蒸発する方が早いのじゃないかい」
「それはやってみねばわからんだろう」

 そう、言うとテレジアはサイラスの決意が固いことを察したらしい。あたしは何を手伝えばいいんだい、と俯いて問うてきた。
 その問いに答える前に、一つ確認しておきたいことがあった。まだ半泣きのテレジアの背をあやすように何度か叩き、そしてサイラスは泉の淵に立った。いつもなら、ここからは美しい青空が見える。ダラスが覆ったその中空を見上げながら、姿の見えない相手に向かってサイラスが問う。

「ウィステリア、まだ私の声が聞こえているだろう」

 今のサイラスに映像を紡ぐだけの余力はもうない。音声だけをどうにか伝えると、通信魔術の向こうで大きな溜息が漏れた。

「――何のご用かしら、死にたがりの新しいあるじどの」
「まぁそう邪険にするな。お前に頼みがある」
「自爆以外の選択肢なら考えてもよくてよ」
「それはお前の主観に委ねる」

 嘘を吐いて取り繕うことも出来た。それでも、サイラスが誠実を貫いたのは何か打算があったからではない。
 ただ、信じる気持ちに偽りの言葉を返したくはなかった。ウィステリアの声が優しさを帯びる。

「――馬鹿なヒトね。そこは嘘でもいいからわたしの言葉を否定なさい」
「信じたヒトに裏切られる痛みなど知らない方がよいだろう」
「信じたヒトを目の前で失う痛みも味わいたくないわ」

 誠実を貫きたいのなら生きて戻ってこい、とウィステリアは言う。その切なる響きの美しさは彼女が奏でるエレレンの調べをも超越していた。
 だから。

「ウィステリア。私が合図をしたらテレジアを泉の中央に放り出してほしいのだ」
「それで、あなたはどうするの」
「名を呼ぶ」

 神気を湛えた泉の上空でサイラスが魔術結界を解除する。ダラスに飛行能力はない。足場を失えば重力がダラスを水面へ叩きつけてくれるだろう。
 部分欠損などで泉から這い出ることは許さない。名を呼ばれた魔獣は一時的にだが身体の制御を失う。その状態で聖水に浸かるとどうなるか。当然、泉の水が絶えるまでダラスを蒸発させ続けるだろう。
 ただ。

「無理よ、あなたの身体はその圧に耐えられない」
「そうだな。私の身がもたないかもしれない」
「だったら――」
「それでも、もう手段を選んでいる場合ではないだろう」

 サイラスの目にはダラスの名が視えている。ただ、それを音にするのには想像を絶するほどの負荷が伴うだろう。魔獣は自らの名を呼ぶに値しないものを拒絶する。その反発がないとは思っていないが、どの道全滅の運命しか待っていないのなら、試せることは全て試してみたいではないか。
 そう、言えば。声しか聞こえない筈なのにウィステリアが酷く傷付いている様子が手に取るようにわかった。

「ウィステリア。呪うのだろう、この私を」
「ええ、呪っているわ。今も、この後もずっと、ずっと」
「ならばそのまま呪い続けてくれ。私が帰るべき場所がどこなのかを、お前たちの呪いで示してくれ。そうだろう、ウィリアム・ハーディ」

 束の間の沈黙の後に、リアムの返答があった。

「セイ、俺、お前に話したいことがたくさんある」
「奇遇だな、私もそうだ」
「帰ってこい。絶対に、帰ってこいよ、セイ」
「おかしなことを言うやつだ」
「何が」
「ここが――私の今いるこのソラネンこそが帰るべき場所、だろう」

 サイラスは既に帰るべき場所にいる。あとはその場所を守り抜くだけだ。
 そう、告げるとリアムが言葉を失った。言葉を失って、息を呑んで、そうしてそれでも彼はサイラスの決意を受け入れた。

「ウィステリア、頼んだぞ」
「安心して任せていただけないかしら? わたしの呪いは神の悪戯さえも超越するのだから」

 その言葉を受け取って、サイラスは上空を見上げる。サイラスに残された勝機はたった一度しかない。泉の中央に放り出されて浮かぶテレジアにダラスが接触をする瞬間。その刹那を見誤れば全てが終わる。緊張感と責任感と恐怖と不安で潰れそうになる心の臓をぐっと掴むようにして、そうして深く息を吸った。
 瞼を伏せる。虹彩を閉じてなお網膜に照射されるダラスの名を間違いなく読み取って、そうしてサイラスは再び瞳を開けた。

「ウィステリア!」

 今だ、と叫ぶ。半球状の魔術結界を完全に解くとダラスの巨躯は落下を始める。その標的を他に逃さないように泉の中央でテレジアが隠されていた魔力を放出する。「マグノリア!」鈍い声が低く響いて、ダラスの複眼は完全にテレジアを捉えた。獲物を見つけたダラスの降下速度が増す。水面から気化した神力がダラスの外殻を撫でては溶かしていく。水面までの残りの高さを必死に演算して、その瞬間を待った。
 そして。
 ダラスの牙がテレジアを捉える。その瞬間、サイラスは腹の底から、今まで出したこともないような大声でダラスの名を紡ぐ。

「『ユーレニア・リンナエウス』! その名に命ずる、消失せよ!」

 ユーレニアというのは木蓮の別称だ。国や地方によってはそれぞれが同じものを意味している場合もある。その名が意味するのはユーレニアがマグノリア――テレジアと関わり合いがある個体だということだ。同じ属名を持ち、同じ植物の別の名を持つ。多分、テレジアが言っていた「かか様」という言葉が真実なのだろう。テレジアはユーレニアから分化した存在だ。
 その、母体が消失したとき、テレジアに何の影響があるのかはわからない。
 それでも、血反吐を吐いてでもサイラスは名を呼ばれた魔獣からの反発に耐えた。
 サイラスが注いだ魔力とユーレニアの魔力とが拮抗して宙に浮かんでいたユーレニアの躯体が少しずつ水面に沈み始める。まだだ。まだサイラスは意識を手放すわけにはいかない。沈め、沈めと繰り返し念じるサイラスの臓腑はもう限界を迎えようとしている。
 その耳に、サイラスの名を呼ぶ声が幾つも響く。トライスター、サイラス、教授。色んな声がサイラスの中に流れ込んできて、その度に折れそうになるサイラスの心を支えた。
 一人ではない。サイラスは今、ソラネンの全員の気持ちを背負ってここにいる。
 だから、膝を付くわけにはいかないのだ。人の願いを現実のものにする。その願いを背負って立つものだけがトライスターの名を冠するに相応しい。
 聖水の泉に沈みゆくユーレニアが最後の抵抗と憤怒を掲げる。
 
「貴様ごときに呼ばせる名ではない!」
「では今一度復唱しよう。消失せよ、ユーレニア!」

 その名を呼んだ瞬間、サイラスの身にかかる圧が急激に上昇する。精神力を根こそぎ持っていかれそうなのを踏み止まって、睨みつけた水面が水柱となり、せり上がる「奇跡」をサイラスはその目で見た。
 ユーレニアの断末魔が響く。
 そうして。
 意識が薄れゆく中、吹きあがる水が収まった後の泉に巨大な輝石と化したユーレリアの姿をみとめてそうしてサイラスは生まれて初めて本当に神がいるのだということを知った。

「神というのも、満更、捨てたものでもない、な」
「坊や! 坊や! しっかりおし! 坊や!」

 泉の中を泳いで、テレジアが必死に岸辺に戻ってくる。その姿を捉えないまま、サイラスは意識を手放した。