「如風伝」それは、風のように<七>

 西白国(さいはくこく)では戸籍の管理は三重に行われている。左官府(さかんふ)戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)が窓口となり、台帳を作成。その台帳を基に中科(ちゅうか)の登用試験が実施され、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)が中科生に環(かん)を発行する。その後は各々の人生が分岐する際に各々が管理される役所へ届け出ると典礼部の官吏が派遣され、環の書き換えが行われた。文輝(ぶんき)であれば右尚書(うしょうしょ)がそれに当たり、都合三度の環の書き換えを経験した。
 この三種の役所の資料は年に四回すり合わせが行われる為、原則的には同一であるとされる。同一であることを前提に、毎年暮れ月に戸部租税班(そぜいはん)は徴税額を定め、納税を求める。文輝たちのような官吏は右尚書、または左尚書に徴税資料が送られ、俸禄から天引きされるし、官位を持たない無官(ぶかん)たちは租税班を訪うか城下にいる顔役たちに委任するかして納税は行われた。今年も残すところわずかひと月。徴税額の計算は既に八割方終わっている頃合いだ。
 その一点においてのみ救われた、と文輝は内心で思う。
 だが、それ以外の点では危機的な状況であることは否定出来ない。戸籍の管理は三重だ。少なくともあと二つ、戸籍簿の写しはある。写しはあるが最後に帳簿の整合性を保ったのはもうふた月以上前の話になる。その間の出生と死亡の届けは戸籍班にしかない。
 加えて、戸籍班の書庫の立地条件が悪い。
 西白国では冬が近づくにつれ偏東風が吹く。今も、正殿の外で吹いているこの風は当然、戸籍班にも東から吹き付けているだろう。戸籍班の書庫は宮南門(きゅうなんもん)から続く大路に面している。左官府では最も東に位置し、それは同時に風上にあることを意味していた。西白国の冬の空気は乾いている。書簡を保管し、炎上した倉が風に煽られればどうなるかは幾ら文輝が大らかな性格をしているといっても容易く想像出来る。類焼に次ぐ類焼。十三ある書庫の幾つが焼け落ちるのか、工部(こうぶ)防災班(ぼうさいはん)がどれだけ有能でもその数を減らすことしか出来まい。
 御史台(ぎょしだい)に一矢報いようと抗弁していた文輝だが、棕若(しゅじゃく)の思ってもみない反論に言葉を失った。隣に座る晶矢(しょうし)にとってもそれは同じだったのだろう。瞠目し、唇を音もなく上下させている。その瞳の奥で何かが目まぐるしく回転しているのが見て取れたが形になるのはまだ先だ。文輝は静かに憤った老翁の背中へ視線を戻す。その向こうに相変わらず表情の変化に乏しい大夫(たいふ)の姿が見えた。

「戸部戸籍班の書庫が火災、というのは冗談にしても性質が悪うござりまするな」
「大仙(たいぜん)、君の口から大夫に報告して差し上げたらどうなのだい? 見てわかるだろう。僕は君たちにこれ以上ないほど憤っているから余計なことまで告げてしまうかもしれないよ」

 左官府全体を把握する権利を持っているのは左府(さふ)と呼ばれる長官で棕若ではない。それでも棕若は左官府の代表として御史台に来た。左官府を守るのにそれが一番合理的だと判断したからだ。そして、一刻ほど前に御史台はその全権を持ち、不審者の捕縛に動いた。なのに第二の事件は起きた。それも棕若が愛してやまない左官府で、だ。憤りは当然のことだった。

「大仙、左尚書令(さしょうしょれい)殿の言はまことか」
「大変遺憾ながら」
「そなたがおりながら何という失態であるか。状況を詳しく報告せよ」
「ですが、大夫」

 それを今、大仙の口から報告するとなると彼は文輝の推測も棕若の指摘も肯定することになる。そうしてもいいのか、大仙が躊躇っている。それだけでも十分に推論は事実に近づいているが、未だ確定ではない。迷っている大仙の隣で、進慶(しんけい)が吹っ切れたように笑った。

「大仙殿、認めてしまおう。もう誰の手柄で動乱を鎮めるかという段階は過ぎた。そうですな、大夫?」

 進慶のその発言に一瞬だけ、正殿の中に静寂が満ちる。大きな溜め息がその帳を切って開いた。大夫が今、衰弱しきっているのが伝わる。ようやく表情らしい表情を映して彼は棕若に向き直った。

「左尚書令殿はどこまで事態を把握しておられるのでありまするか」
「この動乱が主上のご出自に関わっている、というところまでかな」
「……つまり、全部お見通しであらるると」
「君たちが『どうしたいか』までは流石にわからないね」

 言葉遊びが続く。右官の造反者が誰か、という問題よりも大きな問題が聞こえた気がして文輝は勢い、立ち上がりそうになる。その隣でごとりと大きな音が鳴った。晶矢が文輝に先んじて立ち上がっている。音源は彼女が座っていた胡床(いす)だったのだろう。床に胡床が横たわっている。能吏の余裕はもうどこにもない。顔面を蒼白にして彼女は大夫に質問を投げかけた。

「大夫、ご説明いただきたく存じます。一体、この岐崔(ぎさい)で何が起こっているのです」

 わたしは、わたしたちは一体何に巻き込まれているのです。言外に含まれた彼女の切実な問いに文輝は息が詰まりそうだった。
 大夫が今一度大きな溜め息を吐き、そして疲れ切った顔で大仙に説明を促した。

「左尚書令殿にとってはただの確認でありましょうが、事実関係を明らかにせねばなりまするまい。大仙、最初から説明せよ」
「……承知」

 随分と長い間を置いて大仙が首肯する。
 そして彼は嫌悪感を隠しもせずに「君たちの質問に答えよう」と言った。

「その前に。阿程(あてい)殿。まずは着席しなさい。人の話は立って聞くものではないよ」
「……失礼いたしました」

 棕若が晶矢を諌める。鬼のような形相で上座の三人を睨み付けていた彼女は棕若の言葉で気勢を折られたのか、渋々胡床を整えてそこに着席した。大仙が文輝に向けて「己れは確かに今朝君と会った。進慶殿の苦言を半日で活かせる君は確かに九品の子息たる素養がある。そのことだけは称賛に値するだろう」と一息に言う。今までの寡黙さが嘘のようだった。
 彼の隣で進慶が困り顔で肩を竦める。

「内府――というか近衛部では工部と典礼部からの報告を受け、秘密裏に調査を進めていた。環の偽造は全く考えていなかったからな。その点では左尚書令殿、貴官らの炯眼に恐れ入る」
「十五の緑環(りょくかん)については進慶殿もご存じだったのですか?」
「見たことのない環が出入りしていれば気付くさ。数も数えた。それでも、偽造だとは思わなかった。蓋を開けば典礼部の中に密通者がいる、だからな。俺たちにそれを看破せよというのは無理だ。正当な手続きを経た偽物を区別出来るやつがいるなら、衛士の枠に収まったりしないさ」

 そう言った進慶の顔には後悔がありありと浮かんでいた。中城を守る衛士でありながら、動乱を未然に防ぐことが出来なかったのだから、それも当然だと言える。
 今、中城では二つ目の事件が起きている。これ以上、被害を増やさない為にも、審議を速やかに終え、首謀者を捕えなければならない。
 ただ、その話題に移行するには幾つかの疑問点が残る。
 文輝の不安を晶矢が言葉にした。隣を見れば獰猛な虎のような態度で晶矢が吼える。

「では内府はこの件について何を調査されていたのです」
「国主様がお生まれになった地のことだ」

 晶矢の問いには大仙が答えた。
 国主の生い立ちならば軍学舎の初科で習う。先代国主が娶った側室の一人、南方王族出身の朱氏(しゅし)という美姫が生んだのが今の国主、景祥(けいしょう)だ。禁裏の中にある後宮で育ったが、朱氏には有力な後ろ盾がなく国主の位を継ぐことなく三公に降下すると思われていた。巡りあわせにより、主位継承者候補たちが次々と命を落とした為、景祥にお鉢が回ってきて今に至る。西白国の土着の民族である白氏(はくし)の純血ではない為、景祥は常に朱氏の名を負っている。
 文輝も晶矢もそう理解していた。だから、国主の出自など調べても何にもならない。違和感が生まれ、それが表情に発露する。
 二人の表情が見えている大仙が冷淡に嘲笑った。

「国史の座学など何の意味も持たない、ということだ」
「どういう意味でしょうか」
「主上がお生まれになったのは郭安州の牧の屋敷だ。主上は主位を継がれるまで後宮に立ち入ったことは一度もない」
「国史の教本には偽りが記されている、と?」
「この国は比較的血統には寛容だ。それでも、国主の座を得るとなると話が違う。神代からのしきたり、血筋、育ち。そう言ったものが途端に力を持ってくる。だから、主上の経歴は適当に補正されて初科生に伝えられる。粉飾も疑う者がいなければ真実に変わり得るからな」

 実力主義を謳う西白国でも選民思想が残っている。それは九品三公――西白国建国の立役者である十二氏が今も残っていることが雄弁に物語っていた。文輝もまた区別された側の一人でありながら、時折、それを忘れそうになる。それこそが貴族の欺瞞だと知りながら、それでもなお文輝は一人の武官であることを望む。傲慢だと知っている。自己満足だとも知っている。
 それでも。
 ただの傲慢や自己満足で終わってしまいたくはなかったから、文輝は目の前の動乱と戦う道を選んだ。

「国主様は今、お心を痛めておられる。そういうことですね、大仙殿」

 国主が生まれ育ったのが郭安州なら、彼は数年に一度ずつ、故郷が飢饉に喘いでいることを無慈悲に突きつけられた筈だ。私情に流され、偏った救済を行いたいと思ったこともあるだろう。それでも、彼は公正な政を貫いてきた。
 郭安州の州牧が今年、飢饉の報せを送ってきたのはふた月ほど前のことだろう。西域は秋の訪れが早い。農作は殆ど行われていないが、植物の育成状況は遊牧民たちに大きな影響を与える。家畜たちが冬を越す為に必要な牧草が育っていない。そうなると郭安州の民たちは順次、財産である家畜たちを食糧にするだろう。一年はそれで乗り切れる。だが、郭安州の飢饉はもう二年目だった。家畜を全て失えば、新しい家畜を買う為の資金など当然残るわけがない。
 飢饉は連鎖する。それを乗り切る為には国政の手が必要だ。
 郭安州だけが飢饉なら話はもっと簡単だった。気候変動。天候不順。偶発的な危機だから、義援を送れば助かる。だが、飢饉は西域一体に及んでいた。一州だけを――国主の生まれ育った郭安州だけを手厚く保護することは許されていない。
 国主は心を痛めながら左官たちに「公平な」支援を命じた。
 そういうことかと暗に含ませると大仙の冷笑はいっそう鋭利さを増す。

「それは己れの知るところではない」

 感情論は後に回せ、と一刀両断された。文輝は口を噤む。
 代わりに晶矢が問いを発した。

「大仙殿、私からも尋ねたいことがございます」
「何だ、阿程」
「事件は二つ目で終わりでしょうか?」

 晶矢の言葉には何らかの確信が含まれている。それを鋭く見抜いた大仙は不機嫌を露わにして舌打ちをした。

「察しのいい子どもは好かん」
「暮春、何か根拠はあるのか?」
「首夏、考えてもみろ。この一件、最初から最後まで郭安州が関わっているだろう?」

 晶矢の返答の通り、環の偽造の発端は郭安州。国主の本来の出生地もまた郭安州。州牧と連絡が取れなくなっているのもまた郭安州。
 こうなってくると郭安州に何か特別な事由があると考えるのが自然だ、と彼女は言っている。
 文輝がその答えを推察するより早く、進慶が苦笑いで新しい助言をくれた。

「小戴、劉子賢(りゅう・しけん)という官吏は戸籍簿のどこにもいない、というのが俺たちの調査の結果だ」

 進慶の言葉に文輝は目を剥く。上官の存在そのものが偽りである、と言われて驚かないものがいれば、それはもう並大抵の神経ではない。
 軍部において上官の存在は絶対だ。その、絶対的指針を根本から否定されるのは武官にとってこのうえない自己否定につながる。
 動揺を抑えながら、文輝は進慶の言葉と向き合った。

「戦務長がですか? しかし、彼は校尉の位階を持っています。環を偽るのは――」

 罪だ、と言おうとして棕若と晶矢の上奏を思い出した。
 典礼部に造反者がおり、それが何食わぬ顔で環を偽造している。そういう結論に達した筈だ。
 でも、だが、いや。何度も否定の言葉を胸中で繰り返す。
 文輝の困惑を受け取って進慶は切なげに眉を顰めた。

「典礼部の腐敗が昨今急に始まったものではなかったのだとしたらどうだ」

 中城の腐敗は何年も前から始まっていて――戦務長の環が偽りなのだとしたら彼の警邏隊着任の前後から手繰って調べる必要がある。結果次第では警邏隊以前の経歴すら調査しなければならないかもしれないが、それはもう御史台と近衛部で始めているのだろう。
 結論は内府が出す。
 だから文輝はこれ以上そこに拘泥することを許されていないことを知った。
 それほど長く、国家の中枢に関わる官吏がそれと知られぬように国を欺き続けてきたのだとしたら、この先に待つ未来は多くの選択肢を持たない。

「進慶殿はこの国がもう終焉を迎える、と仰りたいのでしょうか」
「言葉を飾らないのであればそういうことになる」
「国主様はそれを是(よし)とされたのですか」

 もしそうなのだとしたら、文輝たち官吏は国主の意を汲むべきだ。国が亡ぼうとしていて、その首長が結論を受け入れているのなら、文輝たちが身勝手に抗うのは無為に傷口を広げるだけだ。無官の民たちにその痛みを味わわせるだけの価値はどこにもない。
 文輝の不躾な問いに進慶はそっと瞼を伏せ、小さな声で返す。彼はもう国主の出した結論を受け入れている証左だ。

「国主様はご自身が試されている、と感じておられるのだろうよ」

 大仙の話が真実なら、国主は岐崔の外で育った。中城に守られ、中城を守る岐崔の「当然」を彼は後天的に学んだのだ。岐崔しか知らない文輝にはその苦労は到底推し量ることが出来ない。

「どなたに、でしょうか」

 咄嗟に問う。今朝、進慶に物事を尋ねるときには熟考してからにしろと言い含められたことが想起されて瞬間、後悔する。それでも、文輝は問いを引っ込める気にはなれなかった。
 複雑な胸中が表情に出ていたのだろう。進慶は苦笑を崩さずに答えをくれた。多分、これが彼のくれる最後の問いだという直感がある。

「質問ばかりだな、小戴。でも敢えて答えよう。『陛下』にだろうな」
「まさか」
「さぁ。それを信じるかどうかはお前の自由だ」

 進慶の言っている「陛下」というのは神代の時代の登場人物だ。かつてこの世界が一つの大陸だった頃、世界は大いなる五柱の神によって統治されていたとされる。そのうち、西白国のある辺りを治めていたのが「白帝(はくてい)」という神で、武勇に秀でていた。白帝は四千年の長きに渡ってこの地を守護し、そのときどきの権力者を庇護している。西白国を建国した初代国主も白帝の庇護を得て統治者としての後ろ盾を得た。それから百六十年の間、国主の一族が統治者として認められており、この国では白帝のみを皇帝と認め「陛下」と呼んで慣れ親しんでいる。国主というのは白帝の権力を借りた存在であり、決して皇帝を称することはなかった。
 その、神話の世界に生きている「陛下」に試されている、と国主が思っている。純血の白氏ではない。ただそれだけの理由で彼はもう三十年も疑念と戦ってきた。当代の国主が――朱氏景祥がどんな形であれ、それに幕を引きたいと思っているのを頭ごなしに否定出来るような存在はこの国にはいない。もしいるのだとしたら、それこそ「陛下」だけだ。

「劉子賢はそれを利用しようとしている」

 束の間、呆然とした正殿の中に大仙の声が低く響く。国主の痛みに思いを馳せていた文輝はその声を聞いて我に返る。国主はどちらに転んでもいいと思っている。だからこの場にいる誰もが結論を出せない。それでも、事態は刻々と動いているのだから、傍観者であることは許されないだろう。
 文輝たち官吏もまた「陛下」に試されている。
 そのことを理解した棕若が口を開く。老翁の背中は義憤に満ちていた。

「劉子賢の調査はどこまで進んでいるのだい?」

 静かに激した口調で棕若が問う。大仙は顔色一つ変えずに淡々と答えた。

「郭安州で中科を受けたということがどうにかわかったが、それ以上の調査は望めない」
「なるほど、戸籍班の書庫の炎上は妨害行為だというわけだ」

 戸籍簿は三重に保管されている。その中で出生と死亡の届けの記録が詳細に残るのは戸部戸籍班の台帳だけだ。残りの二つにおいては軽微な情報だとされ、同期されない。
 その、戸籍班の台帳は十三ある書庫で六十年間保存される。
 御史台が戦務長の身上を疑い、調査を開始した段階で既に隠蔽工作が始まっていた。台帳が消失すれば戦務長の生まれは闇の中に消える。それは他の密通者にしても同じことだろう。
 大仙が無表情でそれを肯定する。

「近衛部はそのように把握した」
「出自の隠蔽、にしては仰々しすぎるね。各部の密通者の調査を遅らせるつもりかな?」
「左尚書令殿、その件に関しては我々も多少は調べておりまする」
「そこで右尚書からの調書が出てくる、のだろう?」
「左様。大仙、調書をこれへ」

 内府の官吏というのは揃いも揃って感情を顕わにしない。大夫もまた鉄のように変化のない顔で大仙に指図する。文輝の指摘した右尚書からの調書が半刻遅れでようやく登場した。
 大夫は調書を大仙から受け取ると、慣れた手つきで広げ、ざっと目を通す。

「左尚書令殿、右官府の内通者候補の名が挙がって参りましたぞ。ただ、どの官吏もはっきりとした根拠がありませぬ」

 通信士を中心とした名前が幾つも読み上げられるが文輝の知っている官吏は殆どいない。晶矢の方は幾つか心当たりがあるのだろう。時折厳しい表情で大夫を睨み付けていた。
 およそ二十に至る名が読み上げられ、締め括りに入る。その最後の名だけは決して聞き違えることなどあり得なかった。

「兵部警邏隊戦務班付通信士、陶華軍(とう・かぐん)。このものだけは詳細な罪状が挙がっておりまする」
「馬鹿な! 華軍殿が一体何をしたと言うのです」

 文輝が陶華軍と出会ったのは中科三年目の春、警邏隊戦務班の役所でだった。彼は常によき先輩であり、先達だった。文輝とは歳も近く、割合親しい。「まじない」の才も秀でており、華軍の作る鳥は美術品のような美しさを持っている。その華軍が文輝を――岐崔を裏切っているなど到底信じられることではない。
 一体何の罪状が論っているのかと思わず声にして叫んでしまったあとで、文輝はこの場が御史台であることを思い出し、ばつの悪い思いをした。それでも出した声は二度と取り戻せない。後悔もあったが、文輝は自らの主張を貫くことを選んだ。

「小戴殿、まずは右尚書の調書の中身を聞こう。否定はその後でも十分に間に合う」
「しかし、孫翁! 俺は知っています。華軍殿は国を売るような真似をする方ではありません」
「小戴殿、僕は『聞こう』と言っているのだけれど?」
「いいえ、右尚書の調書は誤りです。華軍殿に罪を擦り付けたい誰かが偽りの調書を作成したとしか考えられません」
「黙るんだ、小戴殿」
「孫翁!」

 棕若もまた憤っているのは理解している。大夫が読み上げた調書に偽りがなければ、密通者は偽造された緑環の数よりも余程多い。しかも名が挙がったのは殆どが通信士だ。役所の左右で言えば、右尚書の責任の方が重いと言わざるを得ない。
 それでも、文輝は文輝の運命を切り開く手を貸してくれた先達を切り捨てることが出来なかった。上官も同僚も同じように信じている。左尚書で口にしたその言葉は今も文輝の中で生きていた。戦務長が何の意図を持って動乱に加担したのかはわからない。華軍が本当に清廉潔白なのかもわからない。
 ただ、一つだけわかることがある。
 それは文輝が二人を信じたいと思っている、ということだ。
 棕若にはそれが見えている。だから、彼の意図に従わない文輝を排除しようとするには至っていない。文輝も頭に血が上っているがそれに気付かないほどは愚昧ではなかった。
 だから、だろう。

「孫翁、誰が何と言おうと俺は俺の直感を信じます。華軍殿は決して意味なく国を裏切るような方ではありません。万に一つ華軍殿に罪科があるのだとして、そこには何らかの意味がある、と俺は思うのです」
「僕は君の気持ちまでも否定したいのではないよ。ただ、否定するにはその前提となる事由が必要だ。大夫の話を最後まで聞こう。君が真実陶華軍を信じられるのだと言うのなら、それぐらいの覚悟が必要だとは思わないかな?」

 幼子に説いて聞かせるように穏やかに棕若が言う。その正論中の正論に論破され、文輝は反論の言葉を失った。血が上っていた頭が少し冷える。否定は許されている。それだけが文輝の希望だった。

「大変失礼をいたしました。大夫、続きをお願いいたします」

 不本意ながらそう謝罪すれば場の空気はまた緊張感を帯びる。
 大夫は「よろしいか」と前置いて華軍の罪状を読み上げ始めた。
 曰く、陶華軍は読替(よみかえ)である、というのが主な論拠だった。読替というのは罪科や功績の種別の音を違う文字に置き換え、それを姓とする行為だ。華軍であれば「陶」すなわち「とう」であり、この場合は「盗」すなわち盗みを働いたものが三親等以内の親族の中にいることを意味している。悪い意味の読替はより重い罪科を負った場合以外は決して変わることがない。つまり、一生を罪科と共に生きていくほかないということだ。
 盗人または盗人の血縁である華軍には生まれつき罪科の運命があり、今回の反逆もその延長である。罪人は結局のところ罪人でしかないというような意味合いの罪状に文輝はまた血が沸騰する感覚を得た。

「大夫――」
「お待ちください、大夫」

 思わず立ち上がり、叫ぼうとした。文輝に先んじて冷徹な声が正殿の中に響く。外はもう薄紫の色合いを纏っていた。時間がない。なのにまだ言葉遊びや責任転嫁が続いている。文輝の直感が告げる。これ以上、ここで時を失してはならない。
 声の主――晶矢は先ほどまでの激昂を抑え、侮蔑の眼差しも顕わに今度は静かに胡床から立ち上がった。

「大夫は『まじない』の才の意味するところをご存じではないのですか?」

 侮蔑の眼差しで晶矢が大夫に問う。大夫は不愉快そうにそれを受け止め、溜め息と共に返答を口にした。

「『陛下』から唯一、主上に対抗し得る術として授かる天賦の才、と認識しておりまするが?」

 それは実に模範的な回答だった。
 西の大地を守護する白帝。その白帝から権力を間借りする国主。国主の専横が行われない為に白帝は楔を打ち込んだ。その楔が「まじない」の才を持つ民の存在だ。国主の一族と九品には決して「まじない」の才を持つものは生まれないのがその証拠だった。
 つまり、「まじない」の才を持つ華軍はこの国における至上の存在である白帝から祝福を受けていると考えられる。何かが起きたとき、白帝の楔である彼らは国主と対峙する武器を持っている、ということだ。

「では、大夫は罪科の読替と『陛下』に下賜された才のどちらが重要である、とお考えなのですか?」
「何が仰りたいのでありまするか」
「私はただ、『陛下』が存在を認めた『選ばれた存在』である陶華軍を先入観のみで裁くのは愚かしいと申し上げているだけでございます」
「貴官も右尚書の調書は偽りである、と仰りたいのでありまするか」
「いいえ。右尚書がそう調べたのでありますれば、陶華軍には何らかの後ろ暗い傷があるのでしょう。ですが、罪科だけを理由に彼を捕縛するのは事実上不可能だと申し上げております」

 そんなことをしたら、今度は御史台の権威が失墜する。言外にそう含ませて晶矢は言葉を切った。大夫が怪訝な面持ちで彼女に問う。
 
「では貴官ならどうする、と?」

 その問いには答えず、晶矢が不意に振り向き文輝に言った。
 いつの間にか生来の晶矢らしい不敵さが戻っていた。多分、彼女は腹を括ったのだ。御史台の思うがままに動くのではなく、自らの意思でこの動乱を乗り切る。だから、晶矢は文輝に問う。

「首夏、お前ならどうする」

 左尚書で問われたのとは少し違う形だったが、本質は多分変わっていない。
 その既視感を覚える問いに気勢を折られた文輝は苦笑で応じる。

「どうする。って、俺に訊くか、そこ」
「信じているのだろう? 警邏隊戦務班の執務室にいない通信士を。ならば覚悟を示せ」
「お前なぁ。覚悟ってのはそうほいほい軽々しく口に出すもんじゃねぇだろうが」
「有事に示せない覚悟ならば棄てろ。わたしもおまえも感傷を許された立場ではないだろう」
「まぁ、そうだが」
「心当たりはないのか。陶華軍が今、どこで何をしているか。劉子賢の方でもいい。信じているのならおまえがその決意で最後まで守ってみせろ」

 それが出来ない程度の中途半端な覚悟しか持っていないのなら、御史台の調べに抗うのは無理だ。今すぐ先の非礼を詫び、媚び諂い大夫へ許しを請え。今ならまだ間に合う。
 言葉の行間を読むと半ば脅迫じみた内容が含められていた。
 文輝は晶矢の苛烈さに舌を巻きながら、それでも自分がどうしたいかを見失うことはなかった。上官も同僚も信じている。華軍は自分を信じろと言った。だから、今なすべきことは何も変わらない。
 息を吸った。正殿の静謐な空気が肺腑に満ちる。血が上っていた頭が少し冷えて思考が巡り始めた。岐崔は広い。その中へ闇雲に駆け出して行っても二人を見つけることは出来ないだろう。見当を付けなければならない。
 そこまで考えて文輝は思った以上に二人のことを知らないことに気付いた。
 世間話をしなかったわけではない。くだらない雑談なら幾つも交わした。それでも、二人の本質に触れる話はそれほど多くなかったのだと知る。
 その少ない本質を脳裏で瞬かせながら、今日の出来事を朝から順に思い出す。
 そして。

「白帝廟(はくていびょう)」

 ある施設の名前が直感を刺激した。白帝廟というのは名前の通り、白帝――「陛下」を祀った廟で西白国中に数え切れないほどある。岐崔の中だけに限ったとしても両手の指ではとても足りない。通信士は月に一度か二度、「陛下」への忠義を自ら確かめる為に白帝廟へ赴く、といつか華軍が言っていたが、彼の言う白帝廟がどの白帝廟なのかはわからない。
 現在地から最も近い白帝廟は内府の中にあるし、戦務班の最寄りであれば右官府の南側にある。華軍の宿舎からであれば城下になるし、或いは華軍の普段の行動範囲など関係がないのなら場所を特定するのはより困難になる。
 晶矢の方もそれを即座に看破したのだろう。

「どの白帝廟だ」
「わからない」
「首夏、わかっているのか? 岐崔の白帝廟は城下も含めれば三十に少し足りないだけだ。第三の事件が起きるまでに二人を見つけなければならないんだ。もう少し、限定出来なければ捜索は無理だ」

 それはわかっている。御史台の官吏を総動員して全ての白帝廟を虱潰しに調べる、という手段も残っているが、それで華軍しか発見できなかった場合、戦務長や残りの造反者を捕える人手に欠くことになる。だから、大夫はそんな悪手を打つわけがない。
 ただ、それ以前に。

「暮春、俺はさっきから気になってたんだが、その『第三の事件』というのは何なんだ。本当に起きるのか?」

 晶矢が吹っ掛けた予想に大仙が悪態をついたのは記憶に新しい。
 詳細を尋ねると晶矢は上座に向き直り、大仙へ挑戦的な言葉を放る。

「大仙殿、第三の事件は予見されているのでしょう? どこで起きるのか、少しぐらいは聞かせていただけないでしょうか」
「劉子賢が我々の調査の通りの人物なら、次の事件は城下だ」

 それも、君たち九品の屋敷だと想定している。実家が心配なら君たちは城下へ戻るといい。
 淡々と告げる大仙に文輝と晶矢は顔を見合わせて笑った。何がおかしい、と大仙が憤然とする。

「大仙殿、あなたは知らないのかもしれませんが俺たち九品は物心がついたら最初にこう教わるのです。『どんな場合でも身内を助けるのは一番最後だ』と。そうですね、孫翁」
「僕も小戴殿の意見に同意するよ。僕たちの屋敷にただ救いの手を待つだけの存在などいはしない。造反者たちが何を思って第三の事件を起こすのか、それはわからないけれど、少なくとも僕は僕の屋敷を守る為に城下へ逃げ帰るような真似だけはしないよ」

 それに、九品の屋敷で暮らすものは皆心構えが違う。被害が出たとしても決して大きくはならないだろう。
 棕若の締め括りに文輝と晶矢は顔を見合わせて同意した。
 九品に自らを最優先で守るような軟弱さは必要ではない。その矜持を三人三様にけれど本質は皆同じに告げると大仙が今日、一番困った顔をした。

「家格が違うとこうも違うのか」
「大仙殿?」
「いや、何でもない。とにかく、第三の事件は城下だと予想される。捕えた十五の緑環の話が正しければ、の話だが」
「何の為に私たちの屋敷を襲うのですか」
「それはまだ調べが終わっていない。陶華軍か劉子賢のどちらかが捕縛出来ればその謎も解けるかもしれないがそれも希望的観測にすぎない」

 小戴、本当にどの白帝廟か心当たりはないのか。
 重ねて問われて文輝はまた思考した。華軍との世間話に何か手掛かりはないか。白帝廟に対する彼の思い入れが別格であることの他に何か解決の糸口を探す。武官である以上、赤という色には拘りがある、と言っていたのがぼんやりと思い出された。それに連なって赤く染まる空が好きだと言ったのも記憶に蘇る。どこかの白帝廟から見ると国色である白と夕暮れの赤が隣り合った配色になるのだと感慨深く言っていた。それをうわごとのように呟くと大夫が副官に命じ、中城の地図を持ってこさせる。全員が胡床を離れ、正殿の中央に集まった。その中央の床に地図が広げられる。

「庶務官(しょむかん)殿、貴官の言う『白』は恐らく季節の変わり目だけに見える白光でありましょう。岐崔で白光が見えるのは標高の高い中城の中だけでありまするな」

 城下は一段低い土地にあって白光は中城の城壁に遮られて見えない、と大夫が言う。
 加えて棕若が「公地(こうち)でも見えるかもしれないけれど、陶華軍が立ち入ることは許されていないだろうね」と補足した。公地というのは三公の住まう区画で岐崔の北端の津(みなと)を中心に広がっている特別な土地を指す。高い壁で境界線が区切られ、その内側に入るには九品ですら関を越えるのに等しい検査を受けた。平民出身の国官である華軍が公地の廟を知っている道理がない。

「内府の廟も同じ理由で省けるのではないですか?」

 大夫の副官が城下と公地に朱墨でばつ印を付けるのを見ながら、晶矢が言う。大仙が即座にそれを否定したが、またすぐ持論を否定しなおした。

「通信士ならば年に二度、内府を訪う。その点からも内府の廟は『特別な廟』である可能性が残るが――内府にある廟は皆王陵の裾野だ。日暮れは見えまい」
「では内府も除外しよう」

 棕若の声に副官がまたばつ印を付ける。

「左官府の西側の廟も同じ理由で除外出来るね。それで? 今の段階であと幾つの廟が残っているのかな?」

 その問いには副官が「五つです」と明確に答える。左官府の東側が二つ。右官府に三つ。白帝廟はその存在理由ゆえに移転が行われないから内府の持っている地図にもその場所が明記されていた。右官府の三つのうち、一つは警邏隊の役所の近くにあるもので文輝もよく知っている。知っているがゆえに断言出来る。

「兵部の官吏が多く出入りし、煩雑な雰囲気を持つここは除外出来ると思います」
「根拠を聞こう」
「華軍殿は静謐を好まれます。戦務班のものにこそ柔和な態度を取られますが、他の兵部の官吏に対しては一歩線を引いたところがありました。その、兵部の官吏の出入りが激しいここに特別な感慨はない、と俺は思います」
「では残るのは四つ、ということだね」

 文輝の発言でまた一つ朱色が増えた。残ったのは四つだ。その事実が地図を取り囲んだ全員の目に光を灯す。四つなら総当たりが出来る。もう陽は落ちかかっているから、廟を探索するのならば急がねばならない。棕若と大夫が眼差しでやり取りして顔を上げる。
 そして。

「小戴殿、阿程殿。君たち二人には右官府の二つをお願いしたい」
「陶華軍は右官でありまするからな。右官府にいる可能性の方が高い、と我々は考えまする」

 そして華軍の顔がわかる文輝がいた方が探索の効率がいい、とも大夫が言う。

「左官府はどうされるのです」

 言外に華軍の顔がわかるのものが他にいるのか、と問えば大仙が不本意そうに答える。

「己れがわかる。問題はない」

 だから文輝が自意識過剰にも残りの四つ全てに対して責任を感じることはない、と含めてあった。それでも負けじと食い下がる。武人としての経験は文輝よりも大仙の方が圧倒的に上だ。文輝は未だ誰も殺めたことのない見習いで、大仙は国主の間諜だから比べる方が果てしなく礼を失している。そのことを理由に華軍の探索から外れることを提言したが、当然聞き入れられるわけもない。

「大仙殿は戦務長の探索に行かれた方がいいのではないですか?」
「それは俺が請け負おう」
「進慶殿」

 城門の守衛である進慶は諸官の判別に長けている。進慶にわからない顔が文輝にわかる筈もないし、それ以上文輝の主張を押し通すのは無理だと判じた。溜め息を一つ吐いて、文輝は大夫と向き合う。指図を受け入れたことを示す為に深く頷けば隣の晶矢が新しい提言を口にする。

「では畏れながら大夫。通信士をお貸しくださいますか」

 中城、と一言にいえど駆け回る面積は膨大だ。通信士を伴わず中城に繰り出せば情報不足でたちまち判断に迷うだろう。晶矢の提案はもっともで、大夫は二つ返事で頷く。

「御史台のものでよろしいか」

 副官に命じ、通信士を呼ぼうとする大夫の横面に晶矢の追撃が放たれた。

「いえ、大夫の通信士をお借りしたく存じます」
「理由をお聞きしまする」
「御名も位階も存じませんが、こちらに参じてよりその手腕が卓越したものであることは十二分に拝見いたしました。私も小戴も未だ一人前ならざる身。少しでも手助けを多くいただきたく存じます」

 御史台の緊急様式に則り、手際よく鳥を飛ばすのを文輝たちはその目でしかと見た。彼を伴う以上に心強い存在を準備させればまたときを失する。そのことを晶矢がすらすらと説明すれば大夫は困惑を顔に浮かべた。

「案内官殿、ではこの場の通信士はどうせよと申さるるのでありまするか」
「御史台の通信士はお一人ではございますまい。その采配も大夫の手腕の見せ所かと」
「左尚書令殿、貴官の通信士もお借りしたいのでありまするがよろしいか」

 今日二度目の困窮に辿り着いた大夫は救いを求めて棕若へ声をかける。しかしそれはこのうえない微笑みで打ち消された。食えない老翁になおも食い下がる大夫を文輝は意外な思いで見る。彼もまた長官である以前に一人の人間であることを知り、ようやく親近感を得たような気がした。

「勿論だとも。けれど、大夫。僕は大仙と共に陶華軍を探そうと思っているよ」
「貴官に武芸の心得はない、と存じ上げておりまするが?」
「それでも、左官府を巡るのなら僕の顔があった方が余程有利ではないのかな?」

 ひらひらと大夫の手を躱してしまう棕若を見ながら、文輝は思う。やはりこの老翁を敵に回すのは死んでもごめんだ。その感想も事態が収拾しなければ何の価値もない。その為には今はいっときでも惜しい。一同の心中を代弁して進慶が進言する。

「大夫、ときがございません。私も劉子賢の探索に右官府へ参りますゆえ、通信士を一人お借りしたい」
「衛士殿もでございまするか」

 一際大きな溜め息を漏らした大夫が各々の主張を全面的に認めると宣言する。
 そして文輝たちには大夫付の通信士が、進慶には御史台の名うての通信士が割り当てられ、棕若は自らの通信士を伴う為に一旦左尚書へ戻ると宣言した。

「よいですか、方々。四半刻ごとに私に鳥で報告をお願いしまする。どなたかでも鳥の報告が途切れれば私の権限で全員を呼び戻しまするがよろしいな? くれぐれも無茶だけはなさらぬよう十分ご注意いただきたい」

 最後に、鳥の報告には速達の効果がある紫の紙を使うように、という指示が出て大夫の副官が三組に束を持たせる。それを受け取り、一同は御史台の正殿から駆け出した。空はもう朱に染まっている。暗闇の中で反逆者と立ち回りをするのは分が悪い。文輝たちに残された時間はもう残り少なかった。