紫紺の双眸が文輝を鋭く射ていた。この視線に晒されるたび、文輝は思う。よき副官を見出せた己というのがどれほど幸福なのか、と。
子公は文輝の不利になることは決してしない。一見、不利に見えても文輝に利のあるように帰着させらるようにものごとを運ぶのが常だ。そうすることで、子公は自らの才知を世に示してきた。
文輝が馬鹿だということは誰かに言われなくても、わかっている。
子公の思う絵図を描く為の手段として望まれていることも知っている。
そのことをどういう言葉で伝えればいいのか、馬鹿の文輝には最適解が思いつかない。
「知ってる」
「そういう意味ではないわ、この大馬鹿もの」
「だから、知ってるんだって」
「わかっておらんだろう。貴様は、今、この事態から逃げる最後の機会を失ったのだ。神と神のつまらぬ諍いに巻き込まれて、使い捨てにされる運命を自ら選んだのだ。そのことに気付かぬ大馬鹿ものが」
子公の双眸に浮かぶ憤怒は文輝の為の憤りだ。自らの策を預けるに足ると判じた相手が、軽んじられていることへの怒りだ。それをそれと知らず、へらへらと受け入れようとしている文輝に対しても激している。
普段の子公なら、神前で悪口を並べ立てることなどしなかっただろう。
真実、文輝の身を案ずるあまり、憤怒の感情に駆られている。子公が今、文輝の為に腹を立てていると気付けないほど愚昧だと思われているのだけが残念だが、それでも文輝は子公の上官なのだから言わなければならない。
「だから、『知ってる』って言ってるだろ」
「何、がだ」
「別に俺は誰かに褒められたくて右官になったわけじゃねえよ」
人に褒められたいからではない。人を救ったという自己満足を得たいからでもない。
あの日、あの夜。そして再びこの世界と巡り会ったあの朝。
文輝は一度、全てを失って再び全てを手に入れた。
文輝を守る為に方伶世(ほう・れいせい)は文輝から奪う価値のあるものは何もない、などという欺瞞を貫いた。あの朝に思ったのだ。罰せられないという罰に償う為には文輝は常に思い描かなければならない。西白国のより良い明日という絵図を。誰よりも何よりも強くその責を負ったのだから、今があるのだと思わなければ文輝は膝が崩れ落ちそうになるのを支えられなかった。
それもただの自己満足なのだと知っている。
そういう文輝を利用しようとしているものがいることも知っている。
それでも。それの何が悪いのだ、とも思う。誰かの思惑に利用されるのが怖くて、誰かの利になることを忌避して、そうして築いた「自分だけの安全な城」に何の価値があるだろう。
誰のことも認められないで、誰のことも信じられないで、誰かに期待をすることすら怖がって、そんな人生を過ごすことにどれだけの意味があるだろう。
文輝は右官を志した。万民の矛。その意味を知らないで直刀を振るってきたわけではない。万民の矛であるということは、文輝の両手は何かを守る為に真っ先に汚れることを意味している。刃が欠け、錆びて、折れるかもしれない。その結果、文輝の死に何の意味もないことだってあるだろう。
それでも。二人の兄に引け目を感じて、逃げた、と思われたくなかった。自分なりの理想もあった。自分の理想の為に誰かを殺めるという傲慢のことも知っている。
それでも。
「俺は、この国を豊かにしたい。俺の裁量じゃ無理な願望なのは十分知ってる。それでも、一人でも多くの民が少しでも心安らかに暮らせる国にしたい。見せかけだけじゃない。本当の本当にこの国の民でよかったと思える国にしたい。そういう、志を持つ官吏が少しでも増えるには誰かが最前線で戦わなきゃならない。誰かが、そういう姿を見せなきゃ、それは志がないのと何の違いもねえじゃねえか」
権力者の思惑で踊っている。それの何が悪い。その策謀に実利が伴うのであれば、文輝は道化で構わない。その役割を務め、最後に民が笑顔で終われるのなら、文輝はどんな困難でも立ち向かおう。誰に笑われてもいい。馬鹿だと罵られてもいい。
その先にある無限の理想が少しでも近づくのなら、そこに向けて手を伸ばすことの何が格好悪いだろうか。戦っているぼろぼろの姿を晒すのが嫌で、言い訳をするより。失意の果てに無様と朽ちることを怖がるより。「今出来る何か」から逃げて、後から悔いる方がずっと嫌だ。
文輝の人生は、今、ここにしかない。
明日の飯を安全に食う為に、今日の飯を食わないだなんて愚かだ。
明日があると誰が保証するのだ。今、ここで戦わなくとも明日が約束されると思うなんて愚かを通り越して呆れしかない。
だから。
「いいじゃねえか、子公。信じたものに裏切られるのなんて、そう珍しいことでもねえだろ。それよりも、自分に出来ることを放棄して、逃げて、後から結果論だけ投げる方がずっと格好悪いじゃねえか」
「――貴様は、それでいいのか」
「俺は、もう、あんな思いはしたくねえんだ」
大切なものを何一つ守れないで、黙って状況に流されているだけ。
全てが満ち足りていると勘違いして、自惚れて、周りの優しさに救われているだけ。
失ってからかけがえのないものだと知って、それでも奪い返す機会すら与えられない。
そんな惨めな思いをするぐらいなら、戦って、傷を負ってでもいい。自分の最善を尽くしたと胸を張れる。その戦いをする為に位階が欲しかった。人の前に立ち、人を守る背中になりたかった。
今、文輝の位階は従八位だ。その位階でも人を守れるのなら。戦わないで逃げ出すだけの理由にはならない。
榛色の双眸の奥に四年前の後悔が今も焼き付いて離れない。多分、一生別離することのない光景なのだろう。感傷だとわかっている。
それでも。文輝が吐露した思いを子公は切って捨てることも、踏みつけることもしなかった。