ヒトが生きる為にはエネルギーを消費する。エネルギーには細かく言えば糖分や脂肪分などの成分があるが、栄養学的な見地はこの際無視するとして、とにかくエネルギーを消費するのがヒトという生きものだ。
サイラス・ソールズベリ=セイにとってそれは疑問の余地すらない事実であったが、残念ながら学問の徒である彼の中で食事の優先順位は低い。エネルギーを補充する行為という側面が強く、十分な栄養さえ摂取出来れば味には頓着がない。もっと言えば栄養素そのものを魔術的に抽出した飴玉を舐めるだけでも十分だとすら思っている。
ウィリアム・ハーディはそんなサイラスのことを知っているから、学術都市・ソラネンの食堂で「適当な食事」選ぼうとする度に「楽しめるメニュー」を勝手に選び直していた。共に旅をするようになってからは野営をすることもあり、リアムとシキ=Nマクニールが食材の調達を請け負っている。食事を必要としない魔獣たちと同じ側に立とうとするサイラスにもう少し生きものとしての頓着を持て、と二人で何度か説いたがそれでもサイラスの中には自分のこととして響かないようだった。
三日間を野営で過ごし、待望の次の馬車街へと到着したのは今日の昼前のことだった。
リアムの設定した目的地である貿易都市・ハルヴェルまではまだ遠い。この馬車街を出てその後も幾つかの馬車街を経由することになるだろう。それでも、二日か三日程度の滞在だが安全な寝床に就くことが出来る。街中で概念として姿を消したり、ヒトの姿をとって顕現したりを繰り返すのは利口ではないことを魔獣たちも心得ていた。どこで手に入れたのか、闇の深そうな手形を衛士に提示して二人もヒトとして馬車街に入る。
馬車道のルートは決まっている。ソラネンからハルヴェルを目指すのであればほぼ一本道で、選択肢は殆どない。遠回りも近道もないから、毎年リアムはこの街を訪れるのだと言っていた。その言葉の通り、馬を引いて旅籠の区画へと向かい、ある宿の前で止まる。馴染みの宿で料金も高くも安くもなく、厩の世話人も悪くないと言う。そんな会話をしていると宿の中から恰幅のいい女性が現れて「おや、リアムじゃないかい」と声をかけてきた。どこの街でも宿屋の女将というのはこういう態度になるのだろうか、とサイラスは彼の唯一の「家族」であるテレジアのことを思い出した。
「リアム。あんた、今年はまぁ大勢で来たじゃないか。あんたの旅に付き合ってくれる酔狂がひい、ふう……四人もいるのかい?」
「女将! これが噂のトライスターだ」
「おやまぁ、こんな細っこいのがねぇ。いやまぁ、学者先生なんだから細っこいので普通かもしれないけど……あんた、痩せすぎじゃないのかい?」
「栄養学的見地から言えば問題ない。これの噂などろくな内容でもないだろうが、私がサイラスだ」
少しは興味を持ってもらえただろうか。
少しの無礼に少しの皮肉を返すと女将は一瞬だけ驚きで固まって、そうして弾かれたように笑い出す。
「リアム、確かにあんたの言った通りだね。大した御仁じゃないのさ」
いい顔付きだ、気に入った、と女将が笑顔で言う。少しどころではなく、女将はサイラスに興味を持ったようだった。もっとも、それが成功したのはリアムが噂を吹聴したからだということを忘れない程度にはサイラスも分をわきまえている。
挑戦的な態度もほどほどにするべきだろう。後のことをリアムに託す、と視線を遣れば彼は器用に片目を瞑って応じた。
リアムの宿の交渉が始まる。この光景は既にもう何度もこれまでの馬車街でも見ていた。
「だろ? 女将、大部屋を一つと個室を一つ借りたいんだけど」
「ああ、ああ。心得たよ。ただ、あんたがこんなにお友達を連れてくるのは想定外だったからね、二時間ほどおくれでないかい? きっちり用意させてもらうよ」
笑顔のまま女将はリアムの要求を飲む。おおらかそうな空色の双眸がスティーヴ・リーンを捉えていることにサイラスは気付いたが、その弁明まで含めてリアムに任せると決めた。横槍は不要だろう。今までの馬車街でもそれは同じだった。
スティーヴは外見がとても美しいということ以外に、ヒトを魅了する魔力を持っているのだと、この半月ほどの旅程でサイラスは学習していた。ヒトは老若男女に関わらず、スティーヴを見ると視線を外すのが惜しくなるようで注目を一身に浴びる。シジェド王国において弦楽器・エレレンの三大名手の一人に数えられている彼女はそれを好都合と考えていたようだったが、今では少し困惑しているのをサイラスは気付いていた。流れ旅なら問題がなかったが、今、彼女はサイラスと契約を交わした状態だ。サイラスの身に危険が及ぶことを最小限に食い止めようとすると、スティーヴの魅了が悪影響を及ぼす。どうにかして魅力を下げようとスティーヴが試行錯誤したが、結局は何も変わらなかった。そんな彼女をフィリップ・リストは何を今更当然のことで戸惑っているのだ、という風に判じた。フィリップ自身も美丈夫なのだが、彼はスティーヴほどあるじ思いではなかったらしい。その程度のことでくたばるのならあるじとして分不相応、とでも考えているのだろう。ヒトの視線や興味などの一切を切り捨てて今まで通りの姿勢を貫いている。
「リアム。宿が決まったのなら僕は教会に顔を出したいのだが?」
「ああ、うん。いいよ、教会なら噴水の広場の西側にあるから、先に行っててくれて構わないし、仕事が早く片付いたなら女将にそう言えばいいよ。女将、晩ご飯はテレーラ?」
「そうだねぇ。五人ってなるとテレーラでも難しいかもしれないけど、あたしが先に話しとくよ」
三泊なら残りの二日は五人揃って食事を取れるように取り計らうが、今晩に関しては別の店に分かれる可能性もある、と女将が言う。テレーラというのはどうやら食堂の屋号らしい。
そのテレーラの予約をリアムと女将に任せることが決定するとフィリップは馬の鞍から荷を下ろしているサイラスを捕まえて問う。
「なら僕は行くよ。トライスター、君も一緒に来るかい?」
「そうだな。新しい聖水も必要だ。行こう」
聖水は時間が経過すると共に効力が落ちる、という致命的な欠点があった。水源があれば聖職者は無限に聖水を精製することが出来るから、ヒトの巡礼者は聖水の枯渇とは無縁だが、フィリップは僧形をとっているだけの魔獣だ。聖水を精製することは出来ない。それを露見させない為にフィリップはあらゆる手段を巧みに使い分けることで、他の旅人や巡礼者から聖水を充填していたがそれも限界がある。馬車街に滞在する間に聖水の補充をするのは必須要件だった。
ただ。
「フィル。地上でも方向感覚を養え。それとも『噴水の広場は東へ直進、五分』の看板が見えないのか」
フィリップはフィリップで致命的な欠陥を抱えている。鷹の魔獣である彼は中空においては最強の捕食者であり、上下左右前後の感覚は鋭敏だ。なのにヒトの形をして地上を歩いているとその感覚が一瞬で消えるらしい。水平面上の方向を認知出来ないフィリップは慣れない場所で単独行動をすると概ね迷子になるのが関の山だ。だから、彼の提案は親切めいているが彼自身へのフォローの要求であることは間違いない。
今もまさにフィリップが見当違いの方向に歩き出すのを溜息交じりで観測したサイラスがフォローを入れる。
フィリップは北を向いて進もうとしていた。このままでは街と原野を隔てる壁に突き当たってしまうのは自明で、サイラスはこの格好をつけた魔獣もまた生きものであることを何度目になるのかわからないが実感している。
ソラネンの地下水道で害虫駆除の依頼を引き受けた冒険者が、複雑さのあまり地図を作る――マッピングをする、とよく耳にしていたがフィリップにとってもマッピングという作業が必要なのだろう。溜息を吐きながらもサイラスはそんな魔獣として不全である彼のことを嫌いだとか、そういった負の感情を抱いたことがない自分に気付く。
行くぞ、と声をかけて石畳の上を先導する。フィリップは苦虫を噛み潰した顔をしてサイラスにだけ聞こえる声量で「だからヒトの街は苦手なんだ」と零した。それについてはサイラスも概ね同意している。似たような建物が並び、路面は土か石畳かぐらいの違いがない。山野を内包したソラネンの街並みが少し特殊だったと馬車街を三つほど経由しているうちに理解した。真円に近い形をした外壁の中央に噴水を配した広場の構造。区画整理され、街路と街路が直角に交わる。それぞれの街によって角地に何があるのかは様々だったが、それでも多分、サイラスの目で見て代わり映えがしない、と思うのならフィリップにとっては尚更差異など無に等しいだろう。
「――トライスター、ヒトというのは不思議な生きものだね」
「それをヒトである私に問うのか、フィル」
「君はどちらかといえば僕たちの側の生きものだと認識しているからね」
「違う、とは言わせてくれんのだろう」
「その左足のことを隠せている、と思っているのなら考え違いは止した方がいい。僕もスティもとっくに気付いているから」
それとも、そんなことにも気が付かないほどヒトの賢者というのは愚かしいのか。問われて苦笑を返す。知っている。フィリップが言うサイラスの左足のことを隠せているとは端から思っていない。あの日。あの夜。ソラネンの街の安寧の為に身命を賭したあの瞬間。テレジアがそうであったようにサイラスの左足もまた「同属共鳴」を起こした。魔獣の真の名を呼びすぎたことへの反動で死にゆくダラスが最後の呪を放ったのが原因だろうと推察している。魔力を帯びた輝石に酷似した透き通る左足を見た瞬間、サイラスは自らが使える最も高度な魔術を用いてヒトの目には肉体だと見えるように偽装した。触り心地もヒトの肉体のように認識されるだろう。そうあるようにサイラスは常に魔術を維持している。純粋戦士と純粋剣士で魔力の適性のないリアムたちは誤魔化せても、魔力に敏感な魔獣たちを欺くことは出来ない。知っていて、それでも不要な同情を買いたくなかったからサイラスは左足への認識を偽装した。
「フィル。私は孤高の天才という地位はもう捨てたのだ」
かつてはその悲愴感の齎す美酒に酔っていた。それでも、サイラスはもう気付いてしまった。どれだけ魔術に長けていても、どれだけ魔力を持っていてもヒトであるという出自を偽ることは出来ない。ヒトである以上、一人で生きていくことも出来ないのだ。
だから、サイラスは自らの人生の軌道修正を図っている。
その到達地点すらフィリップは察しているだろうに、それでも彼は皮肉に微笑んで問う。
「では今の君は何だと言うのだい?」
「ただの――どこにでもいる、魔術に少しばかり詳しいただの学者先生でありたい、と思っている」
「世界はそれを受容しない、と僕は思っているのだけれど?」
「それでも、だ。私はヒトの身でヒトとして分相応な死を願っている」
多分。その願いすら否定されるとわかっていても、願わずにおられないのだからサイラスは真実ヒトであると言えるだろう。フィリップやスティーヴのことを放棄したいのではない。彼らのことについてはサイラスが死にゆくその瞬間まで誇れるあるじであろうと決めている。無責任に捨て去ることも、傲慢に使役することもしない。ただの朋輩の一人として魔獣たちと向き合う。それがサイラスの示し得る最上の誠意だ。魔獣たちがそれを不服と思っていないことも知っている。
そのうえで、サイラスは願ってしまうのだ。
「フィル。ヒトは死ぬ。お前たちを置いて、あっという間に老いて死ぬ。それはもう誰にも覆せない事実だ」
「僕たちがそれを認知していないとでも? 知っているよ。そうだとも、君は僕の生涯の中で一瞬しか生きていない脆弱な生きものだ」
「それでも、お前たちがヒトと契約することを望むのは何故だ? 別離の瞬間を何度も味わいたいといった自虐趣味には見えないが」
「――そうだね、君の言う通りかもしれない」
ヒトは死ぬ。魔獣たちが想定しているよりずっともっとあっけないことでヒトは死ぬ。
それでもフィリップやスティーヴがヒトとの契約を望む理由について、サイラスは心当たりがあった。
「フィル。お前たちが私たちに見ている輝きを、私もまた見てみたいのだ」
ヒトは脆い。だからこそ刹那、輝くのだということを魔獣たちは知っている。彼らからすれば瞬きの間しかないその刹那を何度も何度でも見たいからこそ、彼らはヒトとの契約に拘る。そして、それはサイラスの思う美しさの範疇と相反しない。だから、利害関係は一致しているのだ。不要に痛くもない腹を探り合う必要はどこにもない。
そして、その確信をくれる存在はもうすぐそこに迫っている。
噴水の広場に向けて歩いている二人に勢いよく近づいてくる足音がある。石畳の上に硬質な音が迫ってきて、そうして街路に聞きなれた声が響いた。
「トライスター! 忘れものだ!」
「――えっ?」
「フィル。よく見ておけ。これがヒトの美しさだ」
何が起こっているのか、理解に苦しんでいるであろうフィリップを横目に見ながら、サイラスは声のした方を振り返る。そこにはサイラスが想定した通り、シキが全速で駆けてくる姿があった。その右手には紙袋が握られていて、今からサイラスの仮定が証明される喜びを与える。フィリップはまだ何が起こっているのかの理解が追いついていない。多分。魔獣の間では起こりえない事象なのだろう。今ならばサイラスにもそう理解出来る。
「マクニール。どうした」
「どうしたもこうしたもあるか。昼飯も食わずに教会で仕事をする馬鹿がいるか」
食え。露天商だが味は悪くなかった。俺が保証する。
言ってシキは器用にもそれほど揺らさずに持ってきた紙袋をサイラスへ向けて突き出した。
中身を問うと果実を絞ったジュースと二種類のサンドウィッチが二人分だと言う。
この崩れやすそうな食事をあれだけの速度で駆けてきて溢しもしないというのだから、シキの体幹はすさまじいものだ、とサイラスは別のことに感動を覚えた。そんなことを知らないシキはフィリップにも噛みつく。
「司祭。貴様も貴様だ。貴様のあるじはヒトであると理解しているのなら食事の重要性をもっと尊重しろ」
「あまり言ってやるな。食事に興味がないのは私の落ち度だ」
「トライスター、貴様はあるじとしての自覚が足りん。使役しているものにはもっと毅然とした態度で接しろ」
「私は従属するものを必要としていないのでな。縦社会は未だ慣れん」
シキもリアムも等しく友人では不服か、と言外に含ませるとシキは束の間両目を大きく開いて驚いているようだったが、最終的に柔らかく微笑み、そうか、と短く嘆息した。
「――まぁ、追い追い自覚してゆけ。俺は騎士ギルドに報告に行く。貴様も遅くならないうちに宿へ戻れよ」
「わかっている。聖水をもらい受ければすぐにでも戻る」
「と言いつつ貴様はやれ図書館だ、やれ講堂だのを見聞するのだろう」
貴様の能力であれば明日になっても十分にし得る仕事だ。宿で身体を休めるのが最重要事項だとそろそろ覚えるといい。
言って体力のない学者と疲労と言う概念から別離した魔獣とを置いて、シキは足早にこの場を去る。ギルドに行く、と言っていたから明日は街の周囲における野獣討伐の依頼でも引き受けるのだろう。彼こそ休息はどうしたのだ、と呆れながらシキの背を見送るとフィリップが右手で顔を覆って蹲っていた。
「どうだ、フィル。ヒトというのは美しいだろう」
「君が僕たちの趣向を適切に認知している、というのが最高に不服だけれど――そうだね。君の言う通りだ」
美しい、とフィリップはその情念を何度も確かめるように双眸を煌めかせて、とうに見えなくなったシキの背をしばらくの間、見つめていた。
ヒトは食事によってエネルギーを補充する生きものだ。飲みものも食べものもみな、口にすることなく生きることは出来ない。サイラスにとって食事というのは生きる為に「必要な行為」であり、「義務」だから味の好悪はあまりないと自覚している。その、サイラスに「美味い食事」を食べさせようとするのが思いやりや優しさでない道理などないだろう。
そして、それをシキは今、心の底から親切だと思っているから実行した。ヒトだけがなし得るヒトらしい偽善だ。それでも。多分。そのヒトらしい偽善こそがヒトをヒト足らしめていることをサイラスもフィリップも知っている。
「君たちは本当に――本当に愚かでとても愛おしい生きものだね」
「で、あればだ。フィル」
「何だい、僕の愚かなあるじどの」
「愚かな私の隣人が恵んでくれた昼食を味わおう。そこの路地裏に丁度いい荷箱が置いてある」
ほら、行くぞ。言ってサイラスは路地と路地の間に向かった。後ろでフィリップが「君はときどき本当に豪胆になるところが僕は気に入っているんだ」と小さく呟いたのをサイラスの耳は聞き逃さない。どこでそれを知ったのか、とはサイラスは問わなかった。サイラスのことを――おそらくは前のあるじの千里眼で見たのだろう――既に知っている体でソラネンの街を訪ったフィリップにそんなつまらない質問を投げるつもりがなかったし、たとえそれが見当はずれの解であったとしても、多分フィリップは気分を害したりしないということを理解していたからだろう。
「待ちなよ。もう、本当に。鷹の魔獣に玉子のサンドウィッチを寄越すだなんてあの騎士には文句を言ってやらないと気が済まないね」
「それでも食べるのだろう?」
「トライスター。よく覚えておくのだね。鷹は猛禽類で肉食だ。僕は当然食べるに決まっているじゃないか」
「では座れ。まだ日向で干からびる時期には少し早いが、立って食事と言うのも味気ない話だ」
そうだね。と返して漸く平静を取り戻したフィリップが路地に入ってくる。
シジェド王国において北方でしか栽培出来ない果実の図が描かれた大きな木箱が乱雑に積まれている。そのうちの二つに分かれて腰を下ろして、サイラスたちの昼食が始まった。いつかはこの真っ赤な果実が枝にぶら下がる光景を目にすることがあるのだろうか。そんな日が来たら――そのときは文献の中に見た皮のまま齧りつくのもいいだろう。まだ見ぬ未来に思いを馳せてサイラスは紙袋からサンドウィッチを取り出した。
「友人」の評した通り「まあまあ」の味なのはここが馬車街だからだと判じるとわかっていても、それでもサイラスは己が身を慮ってくれる存在があることの尊さを噛みしめていた。