「華軍殿。内府の担当官を呼んできていただけますか?」
文輝の首元で襟巻きのように丸まっている赤い虎柄の猫にそう声をかける。みゃう、と鳴いて琥珀色の双眸を煌めかせたかと思うと猫──陶華軍は陽黎門を越えて中城の奥へと消えていった。
華軍の性は赤虎という伝承上の生きもので、この国ではそれらは怪異と呼ばれる。流石に岐崔で本来の虎の姿をされると人々に恐怖を植え付けるのは想像に難くなく、彼は文輝の承諾を得てからでなければ元の姿に戻ることは一度もなかった。ただ、生きものの姿を見せることより、概念化をすることの方がより簡単らしく、文輝の依頼があればこの中城のどこにでもすっと溶け込んで言伝を請け負ってくれた。
内府──というのは西白国における最高官府だ。外交、典礼、監察。それらの任を預かっているから、今回の客人の歓待も当然内府の仕切りとなった。文輝からすればただ、知己が本来の姿で来訪するというだけのことだったが、国家間のやり取りともなればそのような甘ったるい言い分など通る筈もなく、使者の一人に名を連ねることを特別に許可されたのですら殆ど奇跡に近かった。
城下の向こう、藍色の闇の中にちか、と瞬くものがあるのに最初に気付いたのは守衛の片方だった。流石は本職、と言ったところで彼は無言で文輝の背中を叩いた。文輝よりも年上である方の守衛の節くれだった掌が二度、三度と背中を叩く。
「いや、そう繰り返し叩かれなくとも、流石に気付いておりますよ」
「校尉、あれは何だ?」
「そうですね。東の国の神の末裔でしょう」
「校尉の知己だという話ではなかったのか?」
「知己ですよ。紛れもなく。多分、あなたたちだって顔を見ればお分かりになるでしょう」
二年間、その知己は中城で暮らした。文輝の副官としてひたむきに励んだ。その姿をもう忘れたのか、と含ませて笑うと守衛は二人とも近づいて来る光点に夢中で文輝の声など聞こえていないようだった。
光が少しずつ大きくなる。湖水の表面に反射して闇の中に二つの光が上下に並んでいるのは幻想的な風景だった。
その点が拳大にまで膨れ上がった、かと思うと急に下降して消える。暗くとも、その位置が眉津であることは疑うまでもなかった。
やっとの到着だ。やっと再び会うことが出来る。そう思うと逸る心を抑えきれずに今すぐにでもこの石段を駆け下りて眉津まで馳せ参じたかった。その気持ちの手綱を引いたのは凛、という土鈴の音だ。守衛たちには聞こえていない、その澄んだ音が耳の奥に聴こえて振り返ると白銀の出で立ちをした白瑛が顕現している。その姿を見るのも四ヶ月ぶりで、多分、今日が最後なのだろうなと感じていた。
「小戴殿。お着きのようですね。わたくしが出迎えて参ります。しばしここで」
「信梨殿。俺も載せて行ってはくれないか」
「ご冗談を。わたくしの背は神龍の為にだけあるのですよ。人の子の分際で過ぎた願望を抱くのはおやめなさいませ」
「そう言うと思っていた。華軍殿が戻ってきていない以上、主上も俺はここで待てとおっしゃっておられるようだ。素直に待つさ」
担当官もまだ出てきていないようだし、と付け加えると白瑛が艶やかに微笑む。
「担当官という方がお出でになれば良いのですが」
「──あなたはまた何かを企んでいるな?」
「さぁ。わたくしは陛下以外のことは皆どうでも良いものですから」
含みのある言葉を返すと白瑛は白狐の姿に転変して早朝の空を駆けた。その姿は一陣の風のように藍色に溶けて瞬く間に見えなくなる。
隣にいた守衛たちにはこの間のやり取りは聞こえていないし、白瑛の姿を見ることもない。それが文輝が未だ持ち続けている異能のことを暗示していて、人の世から少し遠ざかってしまったことを突きつける。文輝は神でも仙道でもない。それでも、この国にあって模範的な人間でないこともまた確かだった。
白い光の帯が眉津へ向けて飛ぶ。そうして、眉津に大きな光の玉が膨れ上がったかと思うと、それは再びこちらへ向けて跳躍する。城下の屋根の上を高楼の隙間を縫って白狐は移動して、そうして十数えるぐらいの間に文輝の頭上を越えて中城に入ってしまった。
「──しまった、そっちの意味か」
担当官に何かをした、というよりは寧ろ、担当官に何もしないように指示したのだろう。客人を乗せた白狐が城壁の向こうに消えたことで、遅ればせながらそのことに気付いた文輝はやはり自分一人の知見など大したことがないのだ、と痛切に思い知る。
こんなとき。知己がいたなら、白瑛の言わんとしていることを汲み取って、文輝がここでぼうと待つのを良しとしなかったに違いない。思っている以上に自分が純朴で愚かであることを知って、より一層知己の顔を見たい、と思う。
思ったから、文輝は守衛二人の肩をそれぞれに叩いて、城内へと駆け込んだ。
律令は大切だ。国官としてその規範たる為に無為に律令を犯すことなどあってはならない。
それでも。