「フィル、お前には興味のないことかも知れんがアラーリヤルの言葉に『信なるものはヒトを救わぬ』という前段がある」
アラーリヤルというのはシジェド王国の南東に隣接する国家・フーリヤに住まう民族の名だ。フーリヤからは僅かだがシジェドへ移民してきたものがおり、その文化・風習についての文献が残っている。学術都市・ソラネンの大図書館でサイラスもまたそれらに触れた。シジェド王国が天に戴いた父母神とは異なる神を崇拝する民族だが、それでも多分、真理は同じものに根ざしているのだろう。フーリヤの考え方は決して受け入れられないものではなかった。その一節がサイラスの脳裏に浮かぶ。
戯れの言葉を口にすれば、英明なる鷹の魔獣はその言わんとするところに興味を示した。
「後段は何と言うのだい?」
「『神は信を介さず。ただ信ずる己を知ったとき、そのものを救うだろう』と続く」
「要するに君の気持ちが一番重要で、事実関係など些事だと言いたいのだね?」
「そうだ。ヒトは皆、脳漿というふるいの内側にしか世界を持たない」
神はヒトを救わない。そのところがシジェドとはまず違う。シジェドの戴いた父母神は祈りを捧げることで幸福を得られると説く。まだ子爵家にいた頃、サイラスもまた神学を身につけた。大いなる父母神があり、天と地がある。二柱の神々を信じ、敬い、尊ぶことがヒトビトの救いであると信じていた。
過去形にすると、今は神を信じていない、というのを端的に表現してしまうのだが、実際、サイラスは学問の徒であり神というのがどういう構造なのか、という興味こそあれ、無条件に信奉してはいない。大地母神・フェイグに忠節を誓うシキからすればその辺りは不敬もの扱いだろうが、それでも信じたふりをするよりは実直かと思い、敢えてそのことについてシキと議論はしないことにしている。
サイラスは神を信奉しない。事実と事実を重ねた上で見えてくるものをソラネンの守護者を気取ったあの日からずっと求め続けている。
その中でアラーリヤルの言葉を噛み砕くと、シジェドにはない神論で面白く感じたのをサイラスはまだ覚えていた。
神があるのか、ないのか、という議論が行われるということはその論者の中に既に神があることを意味している。そのことに気付いたとき、サイラスは神秘を体感した。
ヒト——あるいはこの世界で生きるありとあらゆる知的生命体全て、と包括してもいいだろう——は認知しない事象について論ずることは出来ない。論じた時点でそれは「在る」のだと認めざるを得ないというのが皮肉が効いていて面白い、とすらサイラスは感じていた。
「フィル。私は神の存在について議論したいのではない。ヒトの世というのはそういった有象無象の中にしかない。そして、ヒトというのは概ね『自分の望んだこと』以外をそれと受け入れることが出来ない生きものだ」
「君は集団心理について少し甘く考えすぎじゃないかな。僕たちですら同調圧力には敵わないときがあるというのに、ヒトの身の君がそれを跳ね返せるとはとても思えない」
「では言葉を変えよう。木を見て森を見ず、という諺がある」
「──君は、本当に頑固だね」
どうしても、あの王子様のすることを肯定したいのかい?
苦笑いで問われたことに曖昧に笑って返す。ヒトは望んだ景色以外を見ることがない。同じ空間、同じ時間、同じ状況にあっても、ヒトの見る景色は固有のもので、決して習合することはない。そして、その習合出来ない知覚がもたらす感情はなお集合することが出来ず、その情報の差がヒトに個性を与えた。
正しさなど、ときと場所と場合によって違う。
そんなただの感傷の一つでヒトはヒトを断じる。だから、この世界の何処かから現れてサイラスたちの営みを覆い尽くした魔力の泉の中に誤差があったとしても気付かないものの方が大半だ。不正を肯定するのではない。ほんの少し、ヒトの──フーシャたちの人生の筋書きを上書きしてまでリアムが何を生もうとしているのか、に興味があるというのが本音だ。
「フィル。ヒトは脆弱だ。運命などと気取っていても所詮、長くても百年の生きものが何を為すのか。その結末に興味があるから、お前たちはヒトと契約を交わすのではないのか?」
「僕は君しか優先しないけれど、それでもいいのだね?」
そこにはサイラスの身に何か突発的な事態──命に関わるような出来ごとだ──が発生すればフーシャたちはもちろん、リアムやシキすらも見捨てる、とある。魔獣にもまた感情があり、好悪がある。ヒトは生まれながらにして平等ではない。命の価値には優劣がある。優先順位をつけるなという無意味なことを主張しても、ヒトはその瞬間に優先順位をつけない、ということを優先して選択したという事実しか残らない。平等などという絵そらごとは決して現実にはなり得ない、ということをサイラスは知っている。
全て選択の結果なのだ。
だから。
「フィル。私がそんな下手を打つような軟弱なあるじだと思っていたのか」
「──君は、意外とときどき大胆なことを言うね」
「哲学についての談話に満足したのなら、朝食にしよう」
サイラスというのが利用されて、使い捨てられる未来を受諾するようなあるじではなかった、ということをフィリップは今更思い出したような顔をしている。魔獣の価値観についてはサイラスもまた未知の部分が多く、こうして言葉を交わすことで相互理解が深まるのを感じていた。一朝一夕で成り立つ信頼などない、とかつてファルマード司祭はサイラスに説いた。そのことが少しずつ自分の身に馴染んでいくのをどこか他人ごとのように感じながら、満更悪いものでもないとも思う。
まだまだリアムが起きてくるには早いが、生真面目を絵に描いたシキはもう目覚めているだろう。頃合いを見はからって彼がリアムを連れてくることを期待しながらサイラスは髪を結い上げる。そういえば、と不意に思った。古代より魔力は髪に蓄えられるとされる。スティーヴの栗色の髪は豊かに伸ばされているが、フィリップの亜麻色の髪は肩にかからない長さしかない。魔獣としての実体の大きさの差だろうか。フィリップの魔力は一体どこに秘められているのか。彼自身が特別に語らないのであれば聞くのは不躾だろうか。考えて、結局、サイラスはいつかフィリップが語るのを待つことにする。
木製の扉を押して開くと階下から香ばしい小麦の香りが漂ってくる。遅れて甘みのある匂いがして、今朝のスープの正体を推し量った。この旅に出て初めて知ったのだが、この香りは文献でよく見るコーンと牛乳を煮たスープのもので、コーンの生育地ではないソラネンにいた頃はただの概念に過ぎなかった。文献は香りを伝える術がない。だから、想像するしかなかった事象を体験出来る、というのはそれだけでサイラスには尊いことだった。
リアムは馬鹿だ。王子であり、学がないわけではないし、品位に欠けているわけでもない。善悪の基準が歪んでいるわけでも、傲慢を押し付けるのでもない。それでも、彼は馬鹿としか言いようがなく、そういう底抜けの部分に周囲のものは励みをもらっている。ただ、リアムが自分を卑下していることも、国にとって必要とされていない、という喪失感を抱いていることもサイラスは同じぐらい知っている。自分の居場所が見つけられない虚無をリアムは笑顔で埋めようとしていた。笑顔を見せられればヒトは自然と笑みを返す。空っぽの笑顔で、それでもリアムはサイラスに世界を見せようと言ってくれた。だから。リアムがもし、サイラスの何かを必要としていてそれが真実彼を救うのだとしたら、この知を彼の為に使ってやろうと決めたのだ。