木戸一枚の幅の入り口は五段ほどの階段を上がった高さにあり、三階建てに見える店舗の一階の床は宙に浮いているのが見てとれた。建築学の文献の中でだけ見た「エルシャールディング方式」──通称・E建築と呼ばれる南方特有の建築方式だ。ソラネンやこの街に至るまでの馬車街でよくあるのが「ウェスゲルニア方式」──通称・W建築と呼ばれる一階の床を建築せずに土間となっているタイプの建物だったから、正真正銘、E建築を見るのは今が初めてだ。
初めて見る概念上の存在にサイラスの興味は古着から建物自体へと移る。
トライスター、とフィリップが呆れたように声をかけてくるまで、サイラスは敷居や扉や床を夢中で観察し続けた。
「トライスター。建築物を見学したいなら用件が終わった後でもいいのじゃないかい」
「ああ。それもそうだな」
「トライスター。僕は学者と契約するのは君が初めてだけれど、ちょっと理解し難い部分があるよ」
君はすぐに未知の存在に夢中になってしまうのだね。
呆れたような寛容を示したかのような小言にサイラスは苦笑する。
そうだ。サイラスは未知なるものに出会うとすぐさまそれを知りたいと思ってしまう。知って、理解して、更なる知を得て──その後に何かをするわけでもないが、新しいものはいつだって好奇心をくすぐる。苦笑で応じると鷹の魔獣はふわりと微笑んだ。
「まぁ、そういうところがあるから、僕たちとしては助かっている部分もあるのだけれど」
「すまない、店主。改めて中を見させていただく」
「えっ、ああ。お好きになさってくだせえ」
断って木戸を押し開く。金属同士が擦れる音がして、扉はゆっくりと開いた。
店内は三列ほどの陳列棚が天井にまで及び、上着の類から靴に至るまでが所狭しと並んでいる。古着特有の少しすえた匂いがするが気分を害する程ではない。見たところ、薄手の衣服が多いようだ。派手な色調に極端に偏っていて、サイラスは束の間探索を放棄しようかとすら思った。だが、生来の生真面目さでハンガーにかけられることもなく、雑多に積まれた棚を覗き込んだ。
「フィル。お前はハルヴェルに行ったことはあるのか」
「そうだね、君の王子様ほどではないけれど、数年に一度ぐらいでは訪れているよ」
どうせ生真面目な君のことだ。原色を使った南方の衣装に戸惑っているのじゃないかな。
言ってフィリップが適当に衣服の山の中に腕を突っ込む。そうして何かを探し当てたらしい彼の腕が再び現れるとそこにはサイラスが今、着ているのとよく似たシャツが掴まれていた。
「ハルヴェルにも王立学院があるのは知ってるだろう? これはそこの制服」
「古着屋で制服を買う奇特なものがいるのか?」
「いるじゃないか。僕の目の前に」
古着だけあって少しくたびれているが、麻の素材が使われた夏用のシャツは確かに嫌悪感が湧かなかった。
既に購入する気になっているフィリップがサイラスの背中にシャツを当てて、サイズが問題ないか、を勝手に検討し始めている。購入しない、とサイラスが判じたらどうするつもりなのだ、と問いたい気持ちが湧いたが、狭い店内にそれほど多くの選択肢が残されているわけがないことは簡単に察せられる。妥協と適応という言葉がサイラスの胸中に去来する。これでいいのか、と煩悶したが今まで通りの服装の方が馴染むのではないか、という解に辿り着き、結局はハルヴェルの王立学院の制服だという一揃えを二式買うことになった。
「トライスター。ハルヴェルの女妖は知っているだろう?」
「天候を司るというフォノボルン・シーヴェイツのことか?」
「そう。別名・雨の女神のことさ」
かつて、シジェド王国すらまだなかった神代からの伝承についてはサイラスも承知している。
天乙女・フォノボルンは一人のヒトの青年に恋をした。その種族を越えた恋愛はいつしか天地を司る父母神すら巻き込み、青年が年老いて天寿を全うするまで続く。ヒトの命は短い。それでも、神意を受けた青年はヒトにしては長く生きたのだが、惜別を受け入れられなかった。青年の死後、フォノボルンはハルヴェルの地に留まり感傷に浸っては涙を流す。父神はそれを哀れと思い、フォノボルンが悲しみに暮れる度、雨を降らせるようになった。
だから、ハルヴェルにおいてはありとあらゆる天気予報がただの子どもの遊び程度の精度しかない。
フォノボルンが泣けば雨、荒めば強風、笑えば晴天。
それはシジェドが建国されてからも続き、彼女はいつしか雨の女神と呼ばれるようになった。気圧も風の流れも湿度も関係がない。ただ、フォノボルンの感情によって天候は上書きされる。
「『天乙女(シーヴェイツ)』とはよく言ったものだね。僕たちも対面したことこそないけれど、彼女の破天荒な生き様についてはよく耳にするよ」
サイラスの得意の論理や推論は何の役にも立たない。突然に降る雨を予見することは不可能で、雨に降られたときにどれだけ早く乾く衣服を選ぶかや、雨宿りの出来る場所を予め見つけておくことぐらいしか自分たちに出来ることはないのだ、とフィリップは愉快そうな顔で語った。