「如風伝」それは、風のように<十五>

 武というのは力だ。
 ときに人を強い、ときに人を縛り、ときに人を傷付け、ときに人を殺める。
 同時に人を守り、人を助け、人を豊かにもする。
 だから武を用いるのに慎重すぎるということはない。
 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で飽きるほど繰り返される教訓に、文輝は何度頷いてきただろう。初科で習うことが全てだとは思わない。それでも、教え込まれた訓話は文輝の人格形成に大きく影響した。
 戴(たい)家の方針は放任主義だ。自らのことは自らに任せる。学舎では必要最低限の成績を収めていれば、特に何も強制されない。座学が苦手だった文輝は武芸の鍛錬にばかり打ち込んでいたが、それとて何か注意をされたこともなかった。
 武の神髄を極める、だなんて嘯いていたわけではないが、武芸の鍛錬だけは不思議と苦にならなかった。怪我をしたこともある。思うようにならなくて情けなかったこともある。年上の初科生相手に散々に打ち負かされて泣いて帰ったこともある。
 その一つひとつが積み重なって文輝は中科(ちゅうか)で赤環(せきかん)を賜った。
 その日から、文輝は武を嗜む子どもではなく、武官見習いになった。
 力は武に非ず。されど武というのは力だ。
 十五の文輝には納得が出来ない部分もあった。それでも、国を守る国官になるという志を掲げた以上、迷うことは許されていなかった。
 わかっている。
 十七になっても、十八になって修科(しゅうか)に上がっても武官が迷うことは許されない。
 それでも、文輝の心は今、揺らいでいる。
 神の威を借る国主、その真偽を問うた戦務長(せんむちょう)。二人、どちらの見方をするでもなく、どちらの威圧に屈するでもなく、震える両足を無理やり立たせて文輝は禁裏に問う。

「思うに、戦務長。あなたが人の字(あざ)が視える力を得たのと前後して、主上からその力が失われたのではありませんか?」

 西白国(さいはくこく)を守護する白帝(はくてい)。その加護を受けた証として国主には万民の名が視える。そしてその名を国主が口にする瞬間にだけ土鈴の音が鳴る。
 その音は、白帝から授かるという「まじない」の才を行使するときに鳴る音とは決定的に違う。違うがゆえに、「才子」としての教育を受けたものには、どんな説明よりも雄弁に国主の正当性を物語った。
 だから。

「字が視えるようになった頃とあなたが国官に昇進した頃、というのは多少のずれはありますが、概ね一致している。その頃にはあなたの中に、もう抑えきれないほどの国政に対する不満があった筈だ」

 その不満を最初に聞くのは誰だ。副官か通信士(つうしんし)だ。通信士は必ず「才子」だから、戦務長が字を呼んだ瞬間に土鈴の音を聞いたのは想像に難くない。そうなれば、通信士はこう進言するだろう。あなたは国主たるべき存在だ。最初の数度は意味もわからず、受け流したかもしれない。それでも、幾人もの「才子」から異口同音に繰り返し進言を受ければ、その意味を真剣に取り沙汰すようになるだろう。まして、戦務長自身が異母弟とはいえ先王の血を受け継いでいると知っているのなら、真実味は何倍もあった筈だ。
 郭安州(かくあんしゅう)で生を受けた戦務長はその目で関の外の惨状を見ている。安定しない季候、何重にも課される租税。食う寝る生きるに数えきれないほどの苦痛を伴って満たされることなどない。だのに地方官たちは横柄にふるまい、民草の持つ僅かな希望を刈り取っていく。絶望がそこにあった。

「小兄上(あにうえ)、右尚書の調べは終わったと言われましたね?」
「概ね、何があったかは把握している。劉子賢(りゅう・しけん)の罪状には情状酌量の余地がある。お前たちが担ぎ上げた『偽王』を救いたいのであれば協力しろ、と言わねば誰も口を開かなかったがな」

 貴官の弁舌が長けていたのか、それとも「才子」たちが僅かな希望に縋りたかったのか、あるいは貴官にそれだけの徳があるのか。多分、それらが全て相乗的に作用したのだろうな。言った次兄の顔には複雑な表情が浮かんでいた。

「貴官には名がない、というところまでは調べた。俺の不勉強だったが、国主の直系には名がないのだそうだな。そちらの姫君――伶世(れいせい)殿には名があるようだが、真名ではない」

 そうですね、閣下。
 不意に次兄が話の矛先を宰相に振る。国家権力を一笑に付す次兄に対して、憤りを隠さないまま宰相は返答した。

「名は預かり親が勝手につけたものであろう。戸籍簿上、必要な項目であるからな」
「お待ちいただけませんか、宰相閣下。私はこの身に隠された大きな秘密について理解が追いつきません。どうして私なのです」

 名は体を表す。名は二親とあるじ以外に呼ばせないというのが白氏(はくし)の矜持だ。その名が偽りであるというのなら、伶世のどこまでが真実なのだろう。彼女の足元を支えてきた十六年が揺らいでいる。顔色をなくして、それでも必死に理解に努めている伶世を見て、戦務長の眦がほんの少し切なさを帯びた。

「主上はこの二十五年の間に多くのお子をもうけられた。その中で、そなた一人しか姫がおらなんだというのが理由の一つ。もう一つの理由はそなたが、ご正室との間に生まれた唯一のお子であるということであろうな」
「閣下、それはつまり、ご正室のお子であるという太子(たいし)様のお生まれもまた偽りであった、ということでございますか」

 現実味のない真実の暴露の連続に、暗闇から無防備に殴られているような感覚が生まれる。文輝の足元にあったものが次々と揺らぎ、暗闇の彼方に消えた。それでも、なお立っていたのは文輝が特別、強いからではない。いつ終わるとも知れない嵐の中、すっくと立ちあがった小さな背中があったからだ。
 長きにわたって口を噤み、異を唱えることを自らに禁じ、九品と程(てい)家の二つを守ろうとしている晶矢(しょうし)が静かに立ち上がる。そして彼女は言った。

「この国には偽りしかないのでしょうか」
「そなたもか、阿程(あてい)」

 侮蔑の眼差しが彼女を射る。それでも、晶矢は迷いなく宰相を見据えていた。

「十年以上にわたり、神妙な顔をして必死に教わった知識が、一瞬で霧散する虚しさを味わえば閣下にもこの気持ちがおわかりになると思います」

 初科、中科と学んできたことを教えた側が一方的に否定する。そして世を知らないと軽んじるのではたまったものではない。一つの偽りを覆い隠すために別の偽りを用いる。そうして積み上げてきたものは空虚だ。何の実体もない。大仙(たいぜん)が吼える。お前たちが真実、主上に必要な人材に育てばいずれは知れることだ。晶矢がそれを鼻で笑った。

「大仙殿、あなたには失望するばかりだ。信頼と信奉は似て非なるものだ。あなたのその感情は忠義ではない。ただの甘えた逃げだ」

 その自覚も持たないまま、人の感情を選別するなどただの傲慢でしかない。その権利が、国主の間諜でしかない大仙にあるのかと晶矢は問うた。

「側室の子を特別な理由もなく太子に据える、となると無用な諍いを招くでしょう。現に、主上がこうして国主の座にあられるのも、先王の嫡流たちが無益な争いを繰り広げ、互いに互いを滅ぼしあった結果です。それと同じことを繰り返したくはない、という判断は非常に合理的であると私は思います」
「ならば」
「いえ、だからこそ私は申し上げているのです。王位を巡る骨肉の争いを繰り返したくないのであれば、主上は明確な基準と公正な評価を提示されるべきだったのです。それをしないで、第一子をご正室のお子であると偽って正当性を上書きした。その偽りが露見すれば、どうなるかぐらい聡明な皆様にはおわかりだったでしょう」

 それとも、本当に何の疑問も抱いておられなかったのですか。
 晶矢の言葉が津(みなと)に静かに響く。

「伶世殿、あなたは本当に今まで何の疑問も持たなかったのか」
「どういう、意味でございますか」

 混乱を顔中で表して伶世が切れ切れに問う。晶矢はそれでも言葉を緩めない。

「中科は一年で配置換えが慣例。それを二年連続で兵部(ひょうぶ)警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)付の女官見習い。どう考えても特例だ」
「阿程殿、あなたはそう仰いますが、私が望んだわけでもないその人事について口を挟むことこそが僭越なのではございませんか?」

 自らの生い立ちを知らない彼女が、国の決定を覆すことは出来ない。それは国に対して不満を吐露するのと何ら変わりないからだ。西白国に生まれた以上、三年間、中科で官吏見習いをするのは義務だ。その義務に不満を零せば、彼女を育てた農家の両親の立場をも悪くする。伶世には人事を不審に思うより、そちらの方が重要だった筈だ。
 戦務長はその気持ちを利用した。
 だが、と文輝は思う。戦務長はどうして伶世が国主の娘であると知っていたのだろう。
 字が視えても名は視えない。伶世に名がないことは見抜けなかった筈だ。
 文輝の疑問を晶矢の言葉が紐解いていく。

「劉校尉(こうい)、彼女が当代国主唯一の公主(こうしゅ)であるというのはあなたが調べたことではありますまい」

 確信すら伴ったその声に津がどよめく。白襟(しろえり)たちの誰一人、質そうとしなかったことを晶矢は詳らかにしようとしている。
 その、凛とした声にふと正気を取り戻したのか、右将軍が今一度長槍を構えた。瑞丹(ずいたん)、と戦務長が字を呼び右将軍の肩を叩く。その双眸にはもう論争を続けるだけの情熱が失われていた。

「典礼部(てんれいぶ)に潜り込んだものが教えてきた。と言えばお前は納得するのか」
「首夏(しゅか)、おまえはどう思う」
「俺かよ」

 散々、自信たっぷりに問うておいて肝心な部分は自らで明かそうとはしない。景祥(けいしょう)と宰相の二人の恫喝に最初に反駁したのは文輝だ。だから、晶矢は文輝に最後まで見届けることを強いる。
 余計な力が入っていた全身が程よく弛緩した。
 知っている。この場にいる人間の中で、戦務長を一番長く見てきたのが右将軍で、その次が伶世だ。文輝は三番目にすらならないかもしれない。それでも、半年の間、文輝は戦務長の指示を仰いできた。彼の人となりを全く知らない晶矢にはない経験が文輝の中にある。
 その、僅かな経験を顧みる。
 知っている。劉子賢というのは上官として敬うべき徳を持っている。裏でどんな計算をしていたのかは、今となっては右将軍しか知らない。それでも文輝は自らの意志で決めた筈だ。上官も同僚も同じように信頼している。
 だから。
 息を深く吸った。それをゆっくりと吐き出す。暗闇に慣れた視界がすっきりと広がる。諦めと挫折を表情で描いた戦務長を見る。文輝はまだ諦めていないことを伝えなくてはならない。

「戦務長、あなたはあなたが作り出した偽りの『環(かん)』の持ち主を侮蔑していたのではありませんか?」
「だとしたら何だと言うんだ、小戴(しょうたい)」
「そもそも、あなたは官吏自体を侮蔑していた。民を守るべき知勇が自らの欲の為に動いている。先王の非嫡出子として、郭安州で生まれたあなたの目には信ずるべきものなど何もなかった」

 劉子賢という名と環を手に入れることが出来たのは、戦務長が先代国主の血を受け継いでいたからではないだろうか。国主たる素養が僅かながら残っている。その戦務長が生まれて初めて出会った「才子」が本物の「劉子賢」だった。
 名と環を譲り受けて、劉子賢となった戦務長は何かを成したかったのではない。生まれも、育ちも、背負うべき未来も。その全てを投げ捨てたかった。彼を認知しなかった父王を否定して、そして一人の民として生きていきたかった。
 だのに運命は戦務長にそれを許さなかった。

「信ずるべきものなど何もなかった? 違うな、小戴」

 信じるという気持ちなど一度も抱いたことはない。冷めた眼差しが文輝のそれと交錯する。そのあまりにも解釈の余地のない返答に文輝は一瞬躊躇した。それでも、結局、文輝は顔を上げ続けることを選んだ。

「いいえ、あなたは人を信ずるという気持ちを知っています。あなたは、華軍(かぐん)殿を真実、信頼していた」
「『才子』を利用しただけだ。気持ちなど何もない。『あれ』は実に便利な駒だった」

 世間を知らぬ。道理も知らぬ。幼子に一方的な知識と感情を植え付けて利用するのは実に容易かった。
 戦務長はそう言ったが、文輝にはただの強情にしか聞こえなかった。

「戦務長。では、どうしてあなたは華軍殿がお一人で白帝廟(はくていびょう)に残ることを良しとされたのですか? 華軍殿が何をなさろうとしていたのか、あなたは知っていた筈だ」
「何の話か皆目見当もつかん」
「本当にそうですか?」
「くどい。お前の理想を俺に押し付けるな」
「では、どうして俺を左尚書への伝(てん)として指名されたのです。あなたと華軍殿が張り巡らせた中城の情報網をもってすれば、暮春(ぼしゅん)――程晶矢が左尚書へ向かったことは容易く知れた筈だ」

 緑環(りょくかん)の不正を暴くことを契機に、戦務長はこの動乱を実行した。郭安州から上ってきた内通者を告発することで、中城に疑問を呈する。伝としての別格の価値がある駒は右官府(うかんふ)には二つ。文輝と晶矢だ。その両方を左尚書で鉢合わせる必要はない。それなら、別の場所に分散させた方がまだ利用価値がある。
 だのに文輝は左尚書で晶矢と顔を合わせた。

「最初は意味がわからなかった。中城と城下を巡回するのが警邏隊の役目で、だからあなたが文を出したのかと思っていた」
「深読みのしすぎだ。それ以外の意味などない」
「いいえ。あなたには別の意図があった」
「頭が固いのか、考えが柔軟なのか判断に困る返答だな」

 はぐらかすように戦務長が首を横に振った。手のかかる子どもを相手にしている、という風情だったが、文輝は言葉を重ねた。

「戦務長、あなたは、御史台(ぎょしだい)というこの中城で最も安全な場所に俺を置いておきたかった。そうではありませんか?」
「斬新な回答だな。俺はお前を左尚書に送った覚えしかないが?」
「左尚書のあるじは九品の六位、孫(そん)家当主。工部(こうぶ)から出た伝は九品の二位、程家嫡子。そして、兵部(ひょうぶ)から出たのが九品の三位、戴家の俺。この三人が顔を合わせてどういう結論になるか、なんていうのは、この国のことを知っていればすぐにわかります。俺たちはその枠組みの中であなたが望んだ役割を演じただけにすぎない」

 九品は九品の規範を守り続けているからこそ、九品足りえる。何を重んじ、どう行動するか。この国の中枢にいてそれを予測出来ないのなら、今すぐに職を辞して郷里に帰るべきだ。内府(ないふ)典礼部、右官府の数多の通信士をはじめとする内通者たち。彼らの一人ひとりもまた九品の行動は先読み出来た。
 そこに華軍の伝頼鳥(てんらいちょう)だ。
 戦務長は華軍が裏切っていることを既に知っていた。知っていて、華軍を売るように振る舞った。そうすれば、華軍が絶妙な頃合いで文輝に鳥を飛ばすこともわかっていた。

「あなたは何もかもわかっていた。華軍殿が破滅を求めていたことも、俺が青い正義感で突っ走ることも。あなたや華軍殿の無実を強く主張することも、全部わかっていて伝を命じたんだ」

 そうすれば九品の三人は御史台に向かう。子どもの理論を展開する文輝はお荷物になるだろう。当然、御史台に引き留められる。そうなることを戦務長は望んでいた。
 だのに。

「あなたの計算にないことが二つ起こってしまった」
「首夏の先導で部隊が中城に散開する。と、もう一つは何だ」
「武芸自慢の俺が華軍殿と戦って負傷した」

 そのことが遠因となって、次兄と玉英(ぎょくえい)が矢面に立った。この時点で、戴家は動乱に無関係ではなくなってしまった。戴家二将に中城の内側で何の指揮権も与えず、静観を強いるつもりだった戦務長には大きな誤算だった筈だ。城下に火を放つ計画は当初からあったのだろう。伶世を戦務班に配置したのは、彼女が国主の娘であると知っている三公への脅迫材料にする為だ。伶世が人質に取られている以上、公地(こうち)は戦務長の望みを受け入れるしかない。そうすることで、公地には動揺を、火を放った城下には国官の無能を突きつけることが出来る。
 そしてそれらの状況が物語る。
 戦務長は戴家に対してだけ、「何らかの思い入れ」がある。
 それが何かはまだ見えてこない。
 ただ、文輝と晶矢のやり取りは津(みなと)をざわめかせた。右将軍が「そなたに何がわかる」と吼える。文輝を挟んで、その後方から大仙の怒号が飛んだ。「知りたくもない」の声は真実、憤っていて文輝は晶矢と顔を見合わせる。表情が鮮明に見えたわけではないが、お互いに苦笑しているのが伝わる。

「大仙殿。あなたは今、赤環と牡丹の紋の二つを自ら手放したのにお気付きですか?」
「くだらん。また詭弁か」
「いいえ。本心から問うております」

 国官の本分は国政だ。地方官を統括し、総合的な判断を下す。その為に必要なのは情報だ。季節の移ろい、穀物の収穫高、市場における物価の相場、他国の情勢。役所によって何が重んじられるかは違う。それでも、国官は常に知らなければならない。知ることを拒絶すれば、その時点で官吏としての素養が欠ける。まして、国主の間諜である大仙にとっての情報は左右官府のそれを大きく上回るだろう。
 相手の言を切り捨てるのは、大仙にとって官吏としても、間諜としても失態であることは疑いようもない。

「知りたくもない、ではなく、知るのが怖いのではありませんか?」
「小戴、あまり頭に乗るな。これ以上、主上を侮辱するのならば己(お)れはお前を許さん」
「俺の弁が侮辱に聞こえるのでしたら、あなたには後ろ暗い気持ちがおありになるということだ。臭いものには蓋をして済ませよ、と仰るのでしたら俺はあなたとは別の道を選びたいと思います」

 痛い腹を探りあうのをやめて、お互いに傷を隠すのが大人のやり方なのかもしれない。あと十年もすれば、文輝にもその選択の価値がわかるのかもしれない。
 それでも、今、文輝の目にはもっと価値のあるものが映っている。

「主上に謹んでお尋ね申し上げます。あなたにとって国とは一体何を意味するのでしょうか」
「小戴! 不敬だ!!」
「いいえ、大仙殿。戦務長お一人に責任を被せ、処断なさりたいのなら、主上は少なくともここで一体何を重んじられて政をなさっているのかを明確にせねばなりません」

 そうしないで、今までと同じように景祥の治世を受け入れるものがどれだけいるだろう。地方官の圧政に苦しんでいる十二州。国主の正当性を問う為だけに災厄に見舞われた岐崔。城下の民は知った筈だ。三公と内府は民を平然と切り捨てる。民の安寧を願うという建前も、自らの安全の前では後回しにするということを公地は示した。
 その現実を直視しないで今まで通りを願うのは身勝手が過ぎる。そんな幻想は民には共感されない。岐崔の外の問題が岐崔にまで影響するということも、民は知った。「偽王」一人を裁いて、不安要素はもうない、と言っても誰も信用しないだろう。戦務長にまつわるいきさつも説明せずに彼を「偽王」と切り捨てるのなら今後、誰かが同じことを繰り返さない保証もない。
 国はもう揺らいでいるのだ。
 この国を真実、守りたいのであれば、その志を持つものが少しずつ傷の痛みを分け合うしかない。三公、九品は勿論、銀師(ぎんし)、王府(おうふ)、内府、中城。そして国主・景祥すらもその対象からは逃れられない。
 文輝の言葉には戴家の命運がかかっている。無責任な発言は許されていない。それと知っていたが、だからこそ言った。文輝は傾きかけてはいるが、この国を真実、愛しく思っている。戴家の末席に名を連ねるものとして、この国の為に何かをしたいと強く願った。

「主上、どうかお答えください」

 景祥の言葉に全てが委ねられている。戦務長の罪を認め、裁き、そして自らもまた進退を問うのか。それとも、まだ偽りの安寧から抜け出さないのか。その返答次第で戦務長と右将軍の心も決まる。
 津は景祥の答えを一様に待っていた。
 永遠にも近い沈黙の後に、景祥がゆっくりと口を開く。

「余は、好んで国主の位を継いだのではない」

 純血の白氏(はくし)ではない。ただそれだけの理由で、景祥とその母である朱姫(しゅき)はは後宮に受け入れられることすらなかった。朱南国(しゅなんこく)において、朱氏(しゅし)の直系は神である赤帝(せきてい)の末裔とされる。凡そ人ではないという扱いを受けてきた朱姫にとって、西白国での待遇には不満もあっただろう。それでも、彼女は郭安州(かくあんしゅう)に留まり、自らの領分を果たした。
 景祥が二十の歳のことだ。先王が倒れ、後継者が必要になった。既に太子として指名していた長男ではなく、そのとき寵愛していた末子に後を継がせる、と先王が病の床で言い出したのが発端だった。当然、長男は納得出来る筈がない。幾日幾夜にもわたって論争は続いた。

「母が伝え聞いた話によると、後継者が決まるより早く父の両目は名どころか何も見えなくなったようであるな」
「それは、陛下の寵を失った――すなわち、先代様が国主としての資格を失った、ということでございますか」
「道義に反することをしたのだ。厳正なる陛下が、父の不義をお許しになる筈がない」
「しかし、お言葉ですが先代様が国主の資格を失われたのであれば、新たなる資格者に目は受け継がれたのではございませんか?」
「余もそう思っておった。顔を見たこともない兄や弟。純血の白氏である子は幾人もおった筈であるからな」

 その誰かが国主の位を継ぐのが道理。誰もがそう思っていた。白帝の加護を受けたものが名乗り出るのを何日か待った。
 そうするうちに先王の命の灯が消えた。
 国主の座は完全に空位であるのに、後継者が現れない。
 その危機感と焦燥感から、後宮は荒れた。正室の子と側室の子、生まれた後先すら無視して血で血を洗う継承争いが起きたのだ。初科ではそのくだりを、非常に軽く習う。骨肉の争いを繰り広げるものを陛下は愛さない。兄弟たちは互いに滅ぼしあい、ことごとくが命を失う。
 その結果、争いに加担しなかった景祥だけが生き残った。

「余の他に国主の血を引くものが残っておらなんだ。その段になるまで、後宮の誰一人として余のことは思い出さなんだというのだからとんだ笑い話だ」

 景祥が冷笑する。暗闇の向こうに見たからではない。その眼差しの昏さに文輝の呼吸がしばし止まる。息をするのも苦しいほどの重圧が全身を襲う。跪いてしまいたいほどの衝動に襲われたが、両足を踏ん張って耐える。晶矢の小さな背中もまた同じように圧力に耐えていた。
 その硬直した雰囲気に戦務長の声が響く。

「認知されていただけそちらの方がまだましだ」
「そなたは羊(よう)の子であったな。羊は健勝か」
「母か。俺が三つの歳に死んだ」
「そうか、羊は死んだか」

 ぽつり景祥が零す。その顔には冷たさがない。心底、残念だと表情で語る景祥に戦務長の語調も落ち着いていた。

「朱氏。俺の罪は俺が負う。瑞丹には何の非もない。小戴も阿程もそうだ。全部、俺が俺の自己満足で仕組んだことだ」
「であるか」
「小戴の無礼は青さゆえだ。俺はそれを利用した。咎めるなとは言わんが、あまり責めないでやってほしい」
「そのものの言は正論である。そなたの父が真実、余の父であるのなら余が裁かれるのも道理。端から余は国主の座など望んではおらぬ」

 謹んで陛下にこの位を返上しよう。
 景祥が落ち着いた顔でそう告げると、大仙が悲鳴のような声を上げた。

「主上! お待ちください! 主上が罪を負われる理由がございません!」
「大仙、そなたにももうわかっておろう。余は余の治世を誤ったのだ」

 偽りに偽りを重ね、先王と同じ過ちを犯した。岐崔の安寧を繕う為に十二州の荒廃に目を瞑った。そうして得たものの虚しさに気付かないほど、景祥は愚昧ではなかった。
 過ちは正されなければならない。律令によって国を治めるのであれば、階級による特権など許されない。
 臣民は幾らでも騙せる。書面の上でなら歴史すら書き換えられる。騙し通しさえすれば治世を延命することは出来る。
 それでも。

「大仙、自らを欺くことは出来ぬ。もうこれ以上、余は嘘を重ねとうはない」

 そなたもそうであろう。
 景祥が悲しみを湛えた目で戦務長を見る。先王の血を半分受け継ぎながら、母親の出自によって日の目を浴びなかった二人。先王の子の中で、最も近い立場の二人に白帝は加護を与えた。残酷な仕打ちだ、と文輝は思う。その加護さえなければ、景祥も戦務長も世間に埋没して一生を終えられただろう。
 だのに、その小さな願いは叶えられなかった。

「『樊(はん)』の姓を受けるのか」
「今更、市井で暮らせるとも思えぬがな」
「朱氏、市井はおまえが思っているほど生易しい世界ではないぞ」

 市井にあって、地べたを這いずるような日々を送ってきた戦務長の言葉には重みがあった。どんな苦渋が待ち受けているか、景祥は想像だにしないだろう。それでも、景祥は眦を細める。偽りの現在より苦しいものはない。それで死ぬのであればそれも運命。受け入れる。景祥が小さく頷いた。

「そなたはどうするのだ、羊の子よ」
「正当に裁かれたのなら、その罪を負うほかあるまい」
「そこな童が先ほど申した通り、そなたのしたことは死罪に値する。それでも罪を負うと申せるか」
「俺が何をしてきたか、その仔細を語ったのちのことは刑部(ぎょうぶ)に委ねよう」

 戦務長の言葉は死罪を受け入れると言っているも同然だった。
 この結末になることはもとより承知していたのだろう。終焉を願いながら、偽りの安寧を守り続ける国に一矢報いる為に、戦務長もまた偽りを積み重ねた。
 景祥は自らの感情や名誉より律令を重んじる、と言外に宣言している。何十、何百と繰り返された偽りが、それで全て消え去るわけではない。それでも、何もしないよりはずっとましだ。
 初科で習う歴学がどこまで改竄されているのか、文輝は明確に知らないが、この百六十年の歴史の中に自ら国主の座を奉還したものはいないということになっている。白帝の寵を賜りながら、それを人ひとりの判断で辞去することが許されるのかどうかもまた明らかではない。
 それでも。
 土鈴を鳴らすことの出来る二人は骨肉の争いを繰り返すことを拒んだ。

「朱氏、兵を退け。俺はもうこれ以上、争い合うつもりはない」

 進慶(しんけい)が伴ってきた御史台の兵たち、そして次兄とその師団の顔色が曇る。反逆者とは何か。動乱とは何か。自らが拝戴したあるじとは何か。何の為に戦い、何を守ってきたのか、その答えが霧散する虚しさを、彼らもまた味わっている。
 景祥が戦務長の言葉を受けて、決意を表明した。
 高圧的に土鈴を鳴らすことなく、景祥は宰相に決定を示す。

「碌生(ろくしょう)、聞いての通りである。余はあのものと共に白帝廟へ参るゆえ、そなたたちは後の始末をせよ」
「それでよいのか、景祥」

 名ではなく字を呼ばれた宰相が静かに溜め息を吐いた。
 たった一昼夜の出来ごとだったが、この場にいる誰もが心身ともに疲弊しきっている。その責を一人で背負うのか、と宰相が言外に問う。景祥は穏やかに微笑むことでそれを否定した。

「余が一人であれば、他の道を選んだかもしれぬ」
「その道で後悔しないのだな?」

 無論。間を置かず景祥が首肯する。宰相が駄々子を相手にするような、苦い顔をした。

「そなたにも色々と無理をさせた。そのことを心から詫びよう」
「詫びるのなら私の方だ。お前が望んでいないことを知りながら、十五年もの間、その場所にあることを強要したのだからな」
「はじめの十年は先の宰相の罪であるがな。まあよい。では余の罪とそなたの罪で棒引きにいたせ」
「承服した」

 宰相が頷く。最終決定が下された。これで、この動乱は終わりだ。誰にどれだけの罰が課されるかはこれから決まるが、これ以上血が流れることはない。
 津に安堵の息が漏れる。戸惑いと躊躇いは今も残っていた。それでも、何らかの形で終わりが示されるだろう。それが明日のことかひと月後のことかは定かではないが、終わりには違いあるまい。平伏したまま、ことの成り行きを見守っていたものたちもゆっくりと立ち上がりはじめる。
 その、一見すると穏やかな空気を切り裂いて二つの声が響いた。

「お待ちいただきたい!」
「納得が出来ませぬ!」

 戦務長を背に守ったままの右将軍。景祥を守って立った大仙。
 背負ってきたものも、経てきたものも全く異なる二人だったが、自らが拝戴したものを守るという矜持には何ら変わりない。その、守るべきものそのものが、壇上から降りようとしている。あるじの意志を尊重して、自らの役割を失うことを肯定して、棒引きを受け入れられるほど、二人の十年が軽くはないことを文輝は知った。
 知ったところで、文輝に出来ることなどない。白帝の寵を受けた二人は既に自らの意志で判断を下した。これ以上、訳知り顔で何を言えるだろう。文輝の言葉など大仙たちには届くまい。わかっている。仲裁の言葉を口にしようとして、唇が空を噛む。

「瑞丹、もういい。お前の言う通りだ。もうこれ以上、偽りを続けたくない」

 俺にとっても、お前にとっても、何の利もない。
 戦務長が静かに言う。右将軍はそれを聞いて、首を横に振った。

「我が申したのはそういう意味ではございませぬ」
「同じことだ。二つで一揃いのものを片方しか持たぬ。俺には端から国主たる資格などなかったのだ」
「それでは、あなたは何の為に我を見出されたのだ! 我があるじはあなたお一人しかおらぬ! あなたはそれをご存知の筈だ!」
「右将軍は二つあるじに仕えぬ。知っているさ。知っているから俺は言っている。お前はもう自由だ」

 景祥と戦務長が国主である資格を奉還すれば、右将軍はただの人に戻る。そうなれば、残った人としての生を姫(き)瑞丹として、思うように過ごせばいい。
 もうそうすることでしか、戦務長は右将軍に報いてやることが出来ない。
 わかっている。戦務長も右将軍もそれを承知している。
 それでも、右将軍は首を横に振った。
 子どものように、一心に首を横に振る右将軍の姿を正面で見ている、大仙もまた悲痛な叫びをあげる。

「主上! 『偽王』が目を還せば残るは主上お一人。今まで通り主上がこの国を統べるのに何の問題がございましょうか」
「大仙、そなたは良くも悪くも愚かであるな。道を誤った国主は責を負わねばならぬ。余は道を踏み外したのだ。それはそなたも承知しておろう」
「わかりませぬ! 小戴ごとき小童の理想論に付き合い、主上がその位を失わねばならぬ道理などどこにもございませぬ!」

 殆ど泣き声に近い怒号に、景祥が束の間苦しそうな顔をする。

「余は、取り戻せることと、取り戻せぬことの区別もつかぬ愚王にはなりとうない。せめて終わりぐらい余に選ばせてくれぬか」
「あなたの治世が終わるのはあなたが見罷れたときだけだ! ご健勝であられるのに、なにゆえ己(お)れたちを棄てようとなさるのか!」
「棄てるのではない。身の丈に合わぬものを手放すだけのこと。余は右将軍も見出せぬ、半端な国主であった」

 その事実から二十五年も逃げ回ってきた。その罪の清算ぐらいは自ら引き受けたい。
 淡々としているからこそ、その痛切な思いは文輝たちに伝播する。景祥の裏の顔も表の顔もよく知っている大仙にも勿論、景祥の思いは伝わっただろう。
 それでも。
 大仙は腰から短剣を抜いた。その鈍い輝きが真っ直ぐに駆け出す。想定される軌道上にいるのが誰かなど確かめるまでもない。大仙は戦務長を力づくで排除しようとしている。戦務長さえいなくなれば今まで通り。それを疑わない狂気を感じて、束の間臆したが、結局は文輝も直刀を拾って駆け出す。隣にいた筈の晶矢の姿が既にないと気付いたとき、右将軍の雄叫びが聞こえた。

「させぬ!」

 右将軍が大仙目がけて長槍を振りかぶる。その間合いに先に飛び込んだのは晶矢だ。大仙と右将軍の間で大仙を庇うように体を張った。右将軍が晶矢に気付いたが、振りかぶった長槍の勢いが止まるわけではない。大仙を殺めてでも戦務長を守るつもりだった穂先は右将軍の咄嗟の判断で僅かに軌道を変える。
 それでも。
 完全には晶矢を避けきれなかった。晶矢の小さな呻き声と前後して彼女の左腕が宙を舞う。それを網膜に焼き付けた瞬間、文輝の動きが全て停止しそうになる。守るべきものの順序など構わずに、晶矢に駆け寄りたいという衝動が湧いた。
 それを見越したように、晶矢の声が津に響く。

「首夏! 迷うな! 行け!」

 迷わない道理がない。迷わないほど文輝は強くない。それでも、今、ぐずぐずと感傷に浸ることが許されていないことだけはわかる。文輝は全ての感情に蓋をして津の石畳を蹴った。一瞬でいい。大仙より一瞬でも早く戦務長のもとへ辿り着いて、守らなければならない。戦務長は勿論、大仙が王弟殺しの罪に問われることも、その結果、再びこの国が行く先を見失うことからも、守らなければならない。
 それだけの大役が文輝に務まるわけがないのは、文輝自身が一番よく知っている。正攻法では無理だ。わかっている。
 だから。
 幾ら文輝が近接戦闘を得意だと言っても、暗殺に長けた大仙の瞬発力を上回ることは出来ない。何の犠牲もなく何かを守ることは不可能だと知っている。
 この瞬間、文輝が懸けられるものは一つしかない。
 晶矢が懸けたものと同じ、文輝の命一つしか自由に使えない。
 己の不甲斐なさを悔いながら、文輝は戦務長と大仙の間に飛び込む。人体の構造なら初科で嫌というほど教わった。どういう角度で、刃に飛び込めば人が死ぬかも知っている。
 遠くで次兄が絶望を音にした。玉英の悲鳴が聞こえる。
 その刹那、文輝の胸に大仙の短剣が突き立つ。大きな衝撃が文輝の身体を襲う。死なない角度を選んだつもりだったが、計算が少し狂っていたらしい。大仙が慌てて身を引こうとする。今、短剣を引き抜かれれば文輝は間違いなく死に至るだろう。わかっていたから、残された力の全てを使って大仙の手を短剣から引き剥がした。

「大仙殿、主上を、お守り出来なかったとき、報いを受けるのは、俺、だった、筈です」

 切れ切れに呟く。大仙の顔色が変わる。そういう意味ではない。彼は全身で文輝の言葉を否定した。背中の向こうから焦った戦務長の声が聞こえる。

「喋っている場合か! 小戴!」
「問題、ありません、戦務長。人が、死なない、程度、です」
「もういい! もういいから、これ以上無理をするな!」

 黄将軍、何をしている。戦務長の叱責の声が響いた。玉英が狼狽している。彼女は優秀な軍医だが、親族が自ら瀕死の重傷を負いにいくような経験をしたことは一度もない。彼女が今、成すべきことはわかっているだろうが、身内の保護の為にここへ飛び込んで来てもいいのかどうかで迷っている。文輝は確かに瀕死だが、晶矢もまた左腕を失う重傷だ。
 次兄が玉英より先に正気を取り戻し、宰相に許可を求める。どちらを先に救えばいい。選べるのは一人だけだ。
 その、やり取りを遠くに聞きながら、文輝は背中を支えてくれた戦務長に語りかける。

「戦務長、あなたは、ご存じではない」
「何をだ」
「どんな、思想も、理想も、行動を伴わなければ、ただの言葉でしかない」
「知っている。知っているから、俺はここにいる」
「いえ、やはり、あなたは、ご存じでは、ない」
「だから、もう喋るな! 本当に息絶えたいのか!」
「俺は、あなたを、信じると、言ったのです」

 ですから、こうして命を賭してあなたを守ることが出来たのなら、俺の言葉は真実に変わったということではありませんか?
 言い終わるより早くに文輝の視界が暗転する。最後に見えたのは文輝の血で汚れた手を呆然と見つめている大仙の姿だ。
 この一日のことで、文輝が覚えているのはそこまでだった。