大包平にとってその任務はある種、特命調査の一つにすぎなかった。
少なくとも自らの主から受託したときには「破棄された本丸に邪気が溜まっているのでそれを討伐してこい」という指示だった筈だ。大包平は自らの本丸の近侍になったことはない。もし、近侍として政府に出入りすることがあれば、ある程度、下準備が必要な任務だと判じられたかもしれない。大包平に任を与えた審神者と近侍は今頃、狼狽えているだろうか。偽りの夜空の中に星一つ瞬かないのは希望など端からないと婉曲に告げられているかのようだった。
三日前。時の政府の管理官である九重何某という男によって六つの本丸に特殊な任務を与えられた。各本丸からは一振ずつ刀剣男士を選出し、ある執務室へ向かうこと。それだけしか明示されていなかったが、大包平の審神者は地縁から彼を指名した。地縁というのは付喪神である刀剣男士にとっては所謂ブースター装置のようなもので、縁ある土地では本来の力量を上回った活動を可能にする。20世紀の頃、国宝となり世界遺産ともなった白亜の城。そこに出向くのならば確かに大包平は適任と言えなくもなかった。かつての主との記憶の残る城を根城に邪悪なものが蔓延るのは確かに許しがたく、同時にどこか寂寥感を与える。寂寥感、などという感覚を得るぐらい大包平は今の本丸での生活が長い。初期刀、初鍛刀、初太刀。そのどれ一つにもかすらない己であったが、確かに帰属意識がある。審神者とは彼女が学生の頃に出会った。近侍と添い遂げるであろう審神者は大包平にとって確かに主で、同時に親のようなものでしかない。何かにつけ面倒を見てくれ、修行にも送り出してくれた。不甲斐なく燻っていた自分と向き合う力をくれたのは間違いないのだから、思慕はせずともそれなりに敬愛の念を抱いている。
今、大包平が二度と戻らなければ慟哭してくれる、と確信出来るぐらいには大包平の方としても信頼しているのだ。
悲しませたくはない。悲しんでほしい。同時に相反する感情が渦巻いて葛藤という概念を理解した。
そう、白鷺の城に巣食っていたのは邪気の範疇にはとても収まりきらない、邪神——複数の頭を持つ大蛇であり、人の作った刀剣の付喪神では到底及びもつかない、という現実の前で新たな発見をしたのである。
「九重。お前だけでも戻り、政府に増援を依頼しろ——!」
刀剣の横綱という別称を得てこそいるが、大包平の逸話はそれほど神域には及んでいない。
天下五剣であれば或いは可能性が残っているかもしれない。逸話には逸話をぶつける以外の方策はないと大包平も理解している。六振一部隊としてこの場所へやってきたのは、大包平以外は無名の——20世紀以降の刀工の作ったまだ新しい刀剣の付喪神だった。23世紀からすれば100年以上、過去の刀剣ではあるがやはり千年単位の逸話と比べると圧倒的に弱い。短刀、脇差と順に欠けては折れた。あとは九重を護衛する剣と大包平しか残っていない。
大蛇、というのは古事記より以前の——神話の時代の存在だ。
何かの手違いで時間を超えたか——或いはこの白亜の城に根差していた何かが空間を捻じ曲げ、連れてきたかのどちらかだが、遭遇したが最後で、捕捉され圧倒的な攻撃に防戦一方だ。今のところ、勝てる見込みはない。増援が来ても、勝てるという確証はないのもまた事実だろうから悔しさ余って憎さすら感じる。
「九重! 聞いているのか!」
「——」
「貴族なんだろう! 陰陽術の一つでも使ってさっさと逃げ帰れ!」
「——きみはどうするんだ」
九重久遠などという仰々しい名を持った青年は全体的に質素な姿をしていた。適当に流した黒の前髪。黒曜石の瞳も今は暗闇の中、輝かずに地面を射ている。服装は23世紀の官僚としてあるべき範疇に収まっているし、今、こうして徳川の世に赴くにあたっての和装もそれほど違和感を与えない。年のころはおよそ二十代半ば。判断力が不足しているのは若輩ゆえか。打刀のように見える刀剣を佩いているが、一切抜刀する気配がないところを見るに、あれは「なまくら」なのかもしれない。
大蛇はその膂力がすさまじいだけでなく、嗅覚も鋭い。
暗闇の中でもかなり正確に大包平の位置を捉えて攻撃を加えてくる。
認めたくはないが、防戦一方で大包平の刀身も幾らか欠けてきている。剣に癒しの力があるが、彼の疲弊から考えれば二振とも折れるのにそう時間は必要ではないだろう。
守るものを背負って戦うのは二倍以上の消耗を強いる。
戦力になれないのならせめて連絡役ぐらいは務めろと怒鳴ると九重の口からこの三日の間で聞いたこともないような低音が紡がれる。その感情を言葉で表現するのならまさに、憤怒以外の何物でもなかった。
「ぼくはきみたちのあるじに約束をしたんだ。『必ず刀剣はお返しする』と」
その約定はもう既に四度破綻した。
帰ることの出来ない——折れた刀剣の鍔を九重が必死の思いで拾っているのは視界の端で見た。
弱弱しい貴族の青年然としているのにそんなことには気が付くのだなと思ったが、結局は自己保身からだったのかと思うとどこか落胆の気持ちが湧いた。
「受け入れろ! お前はもう約束を破っている」
「少なくとも、きみと彼についてはまだ間に合う。ぼくは政府のものとして、約束を破るわけにはいかない」
「それでお前が死ねば俺の主が政府から非難を浴びるだけだ!」
「そうならないための方策を今、考えているんだ」
「剣! そこの馬鹿を連れて転送陣へ退避しろ!」
呆れて閉口することすら大包平は失念した。
約束。約定。その綺麗ごとの為に生死を左右するのは無駄死にを増やすだけだ。
刀剣男士として——或いは刀剣として。人ならざる経験と記憶を有しているからこそ、大包平は理解している。三人全員が無事で助かる方策などない。誰かを犠牲にしてでも、情報を政府に伝えるものが必要だ。
そうすれば。今の大包平が折れてしまっても。別の誰かがこの大蛇を仕留めてくれるかもしれない。
戦とは常に取捨選択の連続だ。だから、刀剣男士の二振は優先順位を一瞬で共有した。
昭和後期に鍛えられたという、大包平は名前すら知らない剣が九重の意思を無視して、彼の体躯を担ぎ上げる。
剣といえども刀剣男士。ほんの数メートルなら貴族の青年ぐらい抱えて走れるらしいのが今は唯一の救いだ。
担がれた九重が焦りと憤りを込めてこちらを睨んでいる。あぁ、これは本当に腹の底から憤っているな、と直感した。そうだ。それでいい。その目でこの刀身が折れるところまで見納めて23世紀に戻ってくれ。そうすれば——きっと、彼はこの大蛇を確実に仕留めるだけの戦力を伴ってこの戦場へ戻ってきてくれるだろう。
微かな希望を剣と分かち合って、転送陣が無事作動するまで大蛇を引き付けるべく覇気を新たにする。
神代の邪悪か何だか知らないが、この白鷺の城を汚すのも——何の取り柄もなさそうな貴族の青年を播州怪談の新たな一ページにするのも反吐が出るというものだ。実に業腹とはこういうことだろう。
人の子は——九重は刀に守られていればいい。
そんなことを思いながら刀身で大蛇の打撃を受ける。反動を付けられるほどの距離などないだろうに大蛇の尾打は重く、鋼にひびが入る音がした。そうだ。これでいい。これで、大包平は本分を全う出来る。
そう、思っていたのに。
「大包平!」
「——っ! まだいるのか! この馬鹿も、の、っ?」
縋るような声が聞こえた。
そして。
守護の剣の刀身と大包平の刀身が瞬間、入れ替わり、転送陣が効果を発動した。
最後に綺麗に微笑んだ昭和の剣が折れる瞬間を九重と大包平の視界に焼き付けて。鼓膜の奥の更に奥で「大包平様、あとはお頼みいたします」と聞こえたのすら幻のように一瞬で涙を流す暇すらなかった。
虹色の溢れる光が満ちて、白の世界を通る。そうして、生き残りの一人と一振は23世紀の九重の執務室の床に投げ出される。光輝が収束してお互いが満身創痍ながら存命であることを確認するや否や、大包平は腹立たしいやら情けないやら呆れるやら、悲しいやらで両手が震える。
「——九重。どうしてさっさと逃げなかった」
「気付いて、なかったのか」
「何に」
「大蛇は、一匹でなかった」
「——っ! なんだと!」
「ぼくが術式を構築していたら、全滅だった」
「何故それをさっさと伝えなかったんだ、お前は!」
「言えばきみたちは一振ずつ大蛇と対峙するだろう」
「当たり前だ!」
「だから、言わなかった」
言えなかった。すまない。
俯いて、すまない、を何度も繰り返す青年の肩もまた震えていることに気付いたとき、大包平の身体の震えは止まっていた。自分たちとは違う、たった二十数年しか生きていない若輩で命を三つ抱えて最善を選ぼうとしていた九重の重責は十分ではないかもしれないが想像が付く。
刀剣を借りているだけの彼に実戦経験などある筈もない。
23世紀のぬるま湯の世界で育って、人を斬ることも斬られることも何も知らないで指示だけ出している空っぽの指揮官だと思っていた。勝手に決めつけて、勝手に彼を侮っていた自分に気付いて九重だけを責めるわけにはいかないことを知った。
本来、審神者と刀剣男士の間には信頼関係があるからこそ最前線に出て行くことが出来る。
より多く、より苛烈な経験をしたものがより前に立ち、後背から来るものを守るのが23世紀の戦だ。
その、一番最初に必要な信頼関係がこの青年と自身の間にあったか、と問われると明確に否、だった。
信じられていないことは九重自身が一番よく知っているだろう。
それでも、最善を尽くすためにその命すら懸けて黙秘を選んだのは愚かもしれないが、それを責め立てなければ己を保てないぐらいには大包平も軟弱ではない。
天下五剣にこそなれなかったが、刀剣の横綱なのである。
心の広さには一家言ある。
力なく震える九重の両肩からゆっくりと手のひらを剥がして背中の方へと回す。そして決して優しくはないだろう両手でしっかりと九重の肩甲骨を抱き締めた。体格差で大包平の肩口辺りに九重の頭が収まる。
「——馬鹿ものめ、一人で背負えんことを一人で預かろうとするのは百年早いというものだ」
「——そうか、ぼくもまだまだ未熟だなぁ」
短刀。脇差が二振。打刀。折れていった20世紀の刀剣たちの名を確かめるように順繰り呟いて、九重は慟哭していた。衣服が汚れるだの、女々しいだの。思わないでもなかったが、頑なに最後まで抜刀しなかった九重にも何か事情があるのだろうことは理解出来てしまった。こういうときにもっと素直に憤れればいいのに、と大包平は自身の不器用さに苦笑いする。折れてしまった五振とはもう二度とまみえることはない。そのことを五回も説明し、五回分の惜別と叱責を受けるだろう九重のことを少しだけ不憫に思った。
「九重、あれは何だ」
「呪詛が、かかっていたんだ」
ひとしきり咽び泣いた九重の呼吸が落ち着いて来た頃を見計らって彼の身をゆっくりと剥がす。
目元が真っ赤に腫れていたが、黒曜石の瞳はまだ戦う意思を失ってはいなかった。そのことが意外で、内心「おや?」と大包平は胸中で首を傾げるが、今はそれを取り沙汰している場合ではないのもわかる。
九重が言うには徳川時代、怪談の類がまだ現役だった井戸に呪詛をかけた「何か」を沈めたものがいる、という話で調査が回ってきたらしい。城の井戸を穢すというのは即ち、水を介して城全体を呪うに等しい。邪気が蔓延るのに時間は必要ではなかった。生気を奪われた城内で更に呪術を行使した誰かがいる。勿論、史実にそんな記録はない。つまり、時間遡行軍が関係している可能性が高いとされた。遡行軍に対抗し得るのは刀剣男士か検非違使ぐらいだ。
最初はひとつの本丸に調査を依頼した、という記録が残っている。という言い方を九重がしたのに違和感がある。
「九重。お前の前にあの空間を担当したものがいる、という認識で合っているか」
「記録に残っているだけでぼくで六人目の担当だよ」
「なるほど、審神者でも政府の役人でもお手上げということか」
「陰陽寮の名簿に載っていたぼくが引き受けたけど、僕は審神者ではないからね」
誰かから刀剣男士を借り受ける必要性が生じた。そこまでは大包平も理解した。
「なぜ別の本丸から俺たちを集めようとした」
「——きみ以外の男士の本丸は内通の疑義がかかっている」
「! なんだと!」
「本当はもう一つ怪しい本丸があるんだけれど、六振を一部隊に編成する——内通者の刀剣男士が一堂に会するとぼくは暗殺されて終わる。無関係のきみがどうしても必要だった」
要するに相互監視の為に無関係の大包平が巻き込まれた、ということだ。命を懸けさせられた以上、これは十二分に怒っていい話だ。九重がもう少しふてぶてしいやつだったら躊躇いなくそうした自信がある。
「……その、もう一つ怪しい本丸というのはどうする気だ」
「別の担当者が調べるとしか聞いていない。ただ——」
「ただ?」
「折れた五振は全員『白』だった」
どうやって確認したのか、についても九重は誠実に説明してくれたが、大包平には凡そご都合陰陽術で調べただけ、としか理解出来ず、この点についてこれ以上言及する無意味さを察した。
必ず返すと約束した。その約束を反故にしたことを謝罪に行かなければならない。蒼白の顔面のまま九重が立ち上がろうとするのを腕を引いて留めた。
「九重。その顔で審神者に会うのはやめろ」
「けど——」
「その顔で来られたら審神者はお前を心の底から憎めん」
そんな憔悴して心の底から後悔をしている相手を憎悪出来るだけの相手ばかりとは限らない。九重が彼本来の役割を——大切な愛刀を喪った憎しみをぶつける相手として機能しないような状態で出向くな、と言えば九重は曖昧に微笑んだ。
「——きみは、意外と辛辣な性格をしているね」
「昭和の剣にお前を託された以上、俺にも道義的責任がある」
「いいんだよ。きみはもうきみのあるべき場所にちゃんと送り届けるから」
一つでも約束が守れて良かった。哀悼の意を灯した漆黒が不意に大包平の向こうのどこかを見ていると気付く。
調査地点から全員無事に帰還していたらきっとそんなことはなかっただろう。
大包平も何も気付かず、何の疑問も抱かずこの貴族と別離して終わりだった。
折れた刀剣たちのことを思うとこういう表現をするべきではないから胸中で思うに留める。
留めたが、大包平は確かにこの出会いを僥倖だと思った。
刀剣の付喪神としてこの世界に顕現した以上、大包平も感情という概念を内包している。
己の主以外に興味を抱いた人間は九重が初めてだ。演練相手も、政府の会合も何の感慨も抱かなかったのに、九重の存在が大包平の中で意味を帯びている。その答えを——理由を知りたい、と心の底から思った。
「お前の話を要約すると、つまり、大蛇を二匹も手引きした巨悪がいるということになる」
「そうだよ。その諸悪の根源は今からぼくじゃない担当官が処罰しに行くから、ぼくの仕事は君を送り届けてお終い——」
「という顔をしていないが?」
返す言葉で斬り付けると九重は黒曜石を大きく見開いて、そうして「きみも神様だったね」と苦く笑う。
「——本当に、辛辣だね、きみは」
「残念だが、手加減出来る性質ではないらしい」
「そうだよ。ぼくは約束を反故にさせられた責任を追及したいと思っている」
幻術が解けて和装から政府の制服の姿に戻った九重が上着の内ポケットから取り出したのは五つの鍔だった。それを見る九重の眼差しには純粋な憎悪が宿っていて、政府所属の貴族でもそういった感情があるのだと教える。
人である以上、誰かを強く憎むことがある。
そして、同時に。人はその鋼鉄の理性を以って憎しみを抑えることが出来ることも九重は体現していた。
「——その鍔を媒体に刀剣男士を顕現させても、それは『やつら』ではない」
「そう。あの瞬間に消えて、もう二度と誰も会えない。それが『死ぬ』ということだよ」
「お前も時間を書き換えたいのか」
「そんな馬鹿なことは思わない」
「——ほう」
「彼らはあの瞬間、ぼくやきみの為に命を使って、心の底からぼくたちのことを慮って散っていった。その尊厳ある最期をぼくが書き換えることが彼らへの冒涜にあたることぐらいぼくにだって理解出来る」
命が尊いのはその瞬間を生きたからだ。
この瞬間に「在る」ことこそが本質で、次の瞬間に「不在」を観測して過去の輝きはときを経るごとに増していく。
過去になった存在。決して書き換えられないからこそ確定し、美しさを増幅していく。
大包平が池田輝政を拠り所としていた原理とまるで同じように。
「だから、きみの言う通りなんだ」
ぼくはまだ彼らの主に会っていい存在じゃない。
ぼくの事情を汲んでほしそうな顔をして審神者に会うのは僕の贖罪でしかない。
「教えてくれてありがとう」
「罵倒されて礼を言うやつは初めて見た」
「安心するといい。意外と一定数存在するから、きみの長い刃生の中ではもう四、五人出会うんじゃないかな」
「それで? お前はどうするんだ」
「そう難しいことじゃないさ。仇討ちをしたい。それだけだ」
一部の揺らぎも、畏れもなく言い放った九重をまるで怪異に出会ったかのような感覚で見つめる。
何を言っているのだ、この馬鹿は。なまくらしか持てないような虚弱の身で大蛇を討つというのか。一体どんな縁故があればその戦力を調達出来るというのだ。陰陽寮の貴族というのはそれほど大した身分だったのか。
そんな思いが瞬間、大包平の中を駆け巡る。
「——やはりお前はまだ本調子ではないぞ」
「きみにだけは言われたくないな」
大丈夫だよ。今すぐ駆け出したりしないから、離してくれないか。
言われて大包平は九重の腕を掴んだままだったことに気付く。手のひらを開いて開放すると、九重の生白い腕には薄っすらと赤く跡が残っているぐらいだ。本当に本当の弱者だ。負傷した状態の大包平でも十分に首を刎ねられる。
だのに。
「仇討ちをするのに体力勝負じゃないと駄目だ、なんて誰が決めたんだい?」
今すぐ絶命させてもらった方が楽だ、と思ってもらいたいじゃないか。
ぞっとするような冷酷な笑みが一瞬だけ見えて元の質素な九重に戻る。
何かの見間違えのような錯覚すら抱かせる手負いの九重は政府官僚によく見る手のひらの半ばまでしかない手袋の具合を何度か確かめていた。
「——九重、お前、何をする気だ」
「大包平。そう怖い顔をしないでほしいな。上官殿から布都御魂を借り受けに行くだけだよ」
「待て! おかしなことを口走るのはよせ!」
「嫌だな。おかしなことなんて一言も口にしていないよ。布都御魂。借り受けに行ってくる」
十分すぎるほどおかしなことしか言っていない。
布都御魂と言えば神剣だ。神霊と言ってもいい。国家神道を極めた23世紀のときの政府の中枢に三振の神剣が祀られているのは大包平も何とはなしに知っているが、そのうちの一振——神の系譜の本流が易々と貸し借りされていいかどうかの常識ぐらいは明確に持ち合わせている。
「九重! 落ち着け、布都御魂は借りるものじゃない」
「大包平。いいかい、ぼくは九重久遠という人格と肉体を伴っているけれど、本質はただの情報集合体なんだ」
「うん? あぁ、いや? 何を言い出すんだお前は」
「それは別にぼくだけに限ったことじゃなくてね。陰陽寮の貴族なんていうのは皆ぼくの同族だよ」
つまり、九重の主張を容れるなら陰陽寮に所属している政府官僚は人間ですらないということだ。
審神者とは違う領域で人ではないとは察していたが、流石に実体を伴った情報の末端だと言われて即座に受け入れることが出来るほどには大包平も常軌を逸していない。だが、九重が嘘や偽りを言っているという雰囲気でもない。
「ぼくたちの上官殿は分霊、という言い方を好まれるね」
「分霊?」
「そう。きみたちと何も変わらない分霊。本体は歴史の中のどこかで一つだけ存在して、そこから無限に分離した百万通りの可能性の存在さ」
それを当世の言葉で表すのならプログラムやシステムと言ってもいい、とすら九重が言う。
生憎、大包平はその方面の知識がないから、情報処理の仕組みなどを説明されたところで到底理解が及ばない。定義を深堀りするのをやめて、例え話を消化することに努める。
「餅は餅屋というやつさ。大蛇を狩るのなら霊剣と相場が決まっている。いわば、ぼくたちは霊剣の写しの写しになれるということかな」
「写しの写し……最早別の刀剣の気もするな」
「きみは本当、見かけとは違って細かくて真面目だね」
「俺のことはどうでもいいだろう! それで? 布都御魂を借り受けて大蛇を討てると言うのなら何故、最初からそうしなかったんだ」
「ぼくたちは専守防衛なんだ。防衛するためにしか戦力を行使出来ない」
そうでなければ専横の為に霊剣の写しの写しを作ろうとするものが後を絶たないのは自明だ、と九重は言う。
要するに先んじて威嚇する為や純粋な攻撃の為に霊剣を持ち出すことは出来ず、自らを攻撃した相手にだけ霊剣を振るうことが許されている、という理屈らしい。それはそれで偏った思想の一つだと大包平などは釈然としなかったが。
「なぜ、それを俺たちに説明しなかった! そういう手段があるとわかっていれば誰も折れるまで戦ったりは——」
「神剣を行使するプロセスは本来陰陽寮の外に漏らしてはならないんだ」
「今! 俺に聞かせているのはだったら何なんだ!」
「……ぼくの小さな自己満足だよ。あとで、きみには忘れてもらう」
「お前……!」
「許されないんだ! 政府が神剣を持っているとか、必要に応じて使えるだとか! そんなことが明るみに出れば無用な争いを助長してしまう!」
力とは守る為に行使されるべきだ、と九重が半ば叫ぶように言い切る。
その認識について刀剣男士である大包平も否定する要素はない。ただ、共通認識があればもっとお互いに生きやすいだろうと言っても九重は規則だからと頑なに拒絶する。
「きみも分かっているだろう。人が互いに信じあうには秘密の共有が一番結び付きが強い」
「こんな暴露のされ方で俺がお前を信じるとでも?」
「きみはもう本質的に『知らなかったきみ』に回帰することはない。それでも、秘密を秘密のまま一人で抱えきれるものはごく限られている。人という存在そのものが脆弱性を孕んでいるんだ。だから、本当に機密性を保持したいなら秘密は存在そのものを語らない、以上の防衛手段がない」
まさに今、その脆弱性が露わになっているだろう?
秘密を知ればその情報を行使したいと思うのが人間の心理だ。
それは大包平も同意する。ただ。
「そういうことはもう少しましな顔で言え、この大馬鹿もの」
九重の張り詰めた糸を断ち切ってしまう寸前まで追い込まれた表情を見ていて、彼の危うさを感じはするもののこれ以上責め立てる気持ちは到底湧いてこない。そこまでを計算した言動なら大した扇動者になれるだろうが、どうにもこれまでの九重を見るに彼自身、そういった気質でないのは自明だ。溜め息を漏らすしかない。
「座れ」
「いや、だから——」
「座れと言っている」
「……ぼくは謝らないし、布都御魂は借り受けるつもりだ」
「別にそんなことはどうでもいい」
そうだ。そんな常識だの概念だのの話がしたいわけではない。
秘密を背負いきれるものは多くない、と九重が言った通り、彼も秘密を持ち続ける重圧と戦ってきたのだろうことは想像に難くない。それを束の間——最終的に記憶から消し去るという人道的に最低の行為を伴ってまで共有したのは、多分、おそらく、きっと、九重が九重なりに大包平のことを信頼したからだ、と大包平は判じた。
信じた相手を次の瞬間には裏切って罪悪感に魘されながらそれでも道義的に責任を果たそうとしているこの馬鹿ものの気持ちを「上官殿」は汲み取ってくれるのだろうか。
もし、そうなら。九重はきっと秘密の暴露なんてする必要はなかっただろう、と察する。
数多の情報が通っていく場所で誰とも相容れずにただ浪費される「死」を抱え続けている。次代に受け継ぐと不利益なものを只管抱えてそのまま九重本人すら死に行こうとしている。
その在り様は人としてとても美しく、そして同時にとても哀れだった。
「九重、俺の記憶を消したいのなら好きにしろ」
「……言われずとも」
「ただ、一つだけ約束しろ」
「……何を?」
「お前が大蛇を討つときに俺も連れていけ。主のところに返すのも、記憶を消すのもその後で問題ないだろう」
「いやだ」
「いやだ、じゃない。お前の都合ばかりが叶うわけないだろう。きちんとお前も対価を支払え」
巻き込んだのだから最後まで見届けさせろ、と言外に求めるともう一度はっきりと「いやだ」が返ってくる。
「九重」
「だって、きみはもう『重傷』なんだ。何か手違いがあってきみまで折れてしまったらぼくはもうこれ以上は抱えきれない」
何に固執しているのかと思えばそんなことか、と思うと同時に大して知りもしないのに九重らしい言い分だ、と思って大包平は自身の認識を少し改めた。
大包平の目の前で五つの命が失われた。
九重はもっと以前から命の失われる瞬間に立ち会ってきたのだろうか。
時間遡行軍だ、検非違使だ、と斬り捨ててきた相手にもそういう瞬間があったのだろうか。
考えれば考えるほど答えが出ない。
それでも、大包平は知っていた。その答えを知らずとも己の道を走っていける、ということを。
そして、この目の前の馬鹿な青年には今、大包平の助力が必要だ、ということも。
「仕方ないだろう。主のところで手入してもらって、もう一度俺をお前に貸し与える理由がない」
「だから! ここで——」
大包平の記憶を消して、一人で大蛇を討ちに行く。
本当に九重がそれを望んでいるのならこんな問答が成立する筈がないのだ。
大包平の気持ちなどどうでもいいと心底思っているのなら、言い訳をする必要はどこにもない。
大包平が納得しなくても、ここで無視をして勝手に好きなようにすればいい。
だのにそうしないのはきっと、九重の中で迷いがあるということを意味している。
「同情を引きたいだけだったのか?」
「——なに、を」
「それの何が悪い。疲れているなら疲れていると言え。一緒に苦しんでほしいならそう言え。愚痴の一つも言えないで完璧な人間のような顔をするのはやめろ。お前の正体が何なのかなど俺は興味がない。九重久遠という馬鹿な政府官僚の知人が出来た、ただそれだけだ」
ぽかん、と間の抜けた顔で九重がこちらを見ている。
まるでこちらが馬鹿なことを言っているかのような態度に少し腹が立った。こんな馬鹿な会話をする必要が出来たのは誰の所為だ。お前じゃないのか。言ってやりたくて、言わない方が優しさだと思って言わずに堪えた。そのことを九重はどこまで理解しているだろう。
世界の全てを知っているような顔をして、政府の一部だの分霊だのと嘯いて、彼が何を守りたかったのかはまだ知らない。それでも、大包平の世界に九重が現れたことまでなかったことにされるのは納得がいかない。十人並みの同情。それでいいじゃないか。こんなに馬鹿なほど真面目に生きている馬鹿がちょっとぐらい報われてもいいじゃないか。
その一筋の僥倖になれるというのなら、それはやはり人として誇るべきことであり、大包平の美しさを一つ裏打ちしてくれる要素になるだろう。
「九重。俺は試されるのには慣れているんだ」
「刀剣の——横綱、だから?」
「天下五剣になれなかったから、かもしれん」
自分を試して、試して、鍛えて、励んで、期待して、裏切られてまた期待して。
人より多く傷付いてきた自負がある。
それでもなお、今、ここで九重の双眸と向き合っていられるのは審神者が——大包平の主が大包平を見つけてくれたからだ。九重にはそういう存在がないのだろう。九重の刀剣男士になってやることは出来ない。それでも。主従でなくても、人は人と信頼関係を築いていくことが出来る。その優劣を競いたいのなら、勝手にすればいい。優越感に浸りたい気持ちも否定しない。馬鹿げたことを言っている。それでいい。
「九重。約束を守れなくても——お前の人生がここで終わるわけじゃない」
約束を反故にした。その罪悪感を背負っていくことすら多分自己満足だろう。
審神者に憎まれれば心地よい傷心に溺れていられる。許されていないと思えば思うほどその味は甘いだろう。
「お前が本当にしたいのは何だ? 世直しか? 人助けか? 違うだろう。そんなことの為にお前は生きているのか?」
「——ない」
「うん?」
「わからないんだ。どうしてきみとこんな立ち入った話をしているのかも。本当にぼくが仇討ちをしたいのかも」
力なく呟く九重の表情に誇張も欺瞞もなかった。心の底から迷っている。それが伝わってきて、この男に会ってから初めて、本当の九重を見たような気持ちすらする。
「取り敢えず、だ。大蛇が跋扈しているのは問題だ。討伐してから、俺の記憶を消しても間に合う」
「——きみは変わったやつだな」
「お前ほどじゃない」
「普通、こういう頭おかしいこと言ってるやつは煙に巻いて適当に話合わせてサヨウナラだ」
「俺がそんな狭量に見えているのか? 心外だ」
実に、心底心外だ。
立腹したような顔を見せると九重は黒曜石の瞳をあちらこちらに彷徨わせて、最終的に剣呑さではなく穏やかさを灯して柔らかな表情で問う。
「布都御魂、本当に借りて来るけど……見たい?」
「ああ! もちろんだ!」
「こういう話をしておいて何なんだけど、大蛇って討伐しなきゃ駄目かな」
「政府の人間の言うセリフではないぞ」
「まぁ、そうか。そりゃそうか」
じゃあちょっと上官殿と話してくるから、そこで後十分ぐらい座っててよ。
言って九重は何かの重圧から解放されたような顔つきで執務室を出ていった。
布都御魂が実在することも、その権能を行使出来ることもまだ未来のどこかにしかない大包平の中で、九重久遠が審神者の次くらいに重要な人間になるのはそう遠くないような気がしているのだった。