23世紀。ときの政府組織は過半数を占める人ならざるもので成り立っていた。
金が余りある資産家は政治家となり、今も表舞台を仕切っている。官僚の殆どは異能者であり、最低でも人ならざるものへの耐性がなければ国家公務員として採用されることはない。各分野に精通した付喪神たちが実務を担う中でただ人の身はすぐに病んでしまう。
それでも国民の大半はただ人であり、異能など持たない。
その橋渡しをする為だけに人の官僚は存在している。
山姥切長義が所属する歴史調整課では付喪神が半分。異能者がその半分。残りが普通の人間であり、まぁ平均的な23世紀の政府庁と言えるだろう。
付喪神といえども疲弊はする。歴史調整課は24時間365日対応だから完全シフト制、三交代で成り立っている。今日、山姥切長義は夜勤を終えて朝8時、無事引継ぎを終えて一旦休憩が許された。
この庁舎の一階部分にはオープンカフェがある。
政府の関係者であれば利用料はかからない。何時間でも居座ってOK。勿論店員たちも政府に雇用されている。だから、刀剣男士が接客をしているのもときどき見かける。自分の同位体が店頭に立っていることももちろんあって、そういうときはお互いに関わらないようにするのが政府内のマナーの一つだった。
「ホットのブレンド珈琲、Mサイズが一つ」
「拝承するよ」
開庁時刻まで間がある午前8時台のシフトは基本的に一人——世俗的にいうワンオペというやつだ。今日は山姥切長義がそれを受け持っているらしい。そこそこ広い店内に自分と自分の同位体のみが存在するというのはどうにも気まずいが、改善する気もない。
山姥切長義はオレンジのランプの下からホット珈琲を受け取るとカウンターから一番遠いテーブルに着席した。
政府官僚の貴族、九重久遠が相変わらずほやほやとした顔でやって来たのは珈琲が半分以下に減った頃のことだった。
「今日のオススメは何だい、山姥切長義くん」
「あぁ。あなたの好きそうな甘いラテが一昨日から登場したんだ」
「モンブランかぁ。いいね、じゃあそれを一つ」
「九重久遠。あなたのお気に入りの『本作長義』が端のテーブルにいるから教えておくよ」
「あっ。本当だね。相席、大丈夫か聞いてみるよ。教えてくれてありがとう、山姥切長義くん」
「どういたしまして」
そんな遣り取りが途切れ途切れに聞こえてきて、一瞬、歴史調整課の山姥切長義は何の会話なのか左の耳朶から右の耳朶へ音が貫通したような錯覚にとらわれる。
間もなくクリーマーの音がしてもう一つ二つ遣り取りをしたかと思うと、白いホットの蓋をしたカップを持った九重が山姥切長義の座るテーブルの隣へとやって来た。
「本作長義くん。隣、いいかな」
「——断ったところで座るんだろう」
「中々見抜かれているなぁ。じゃあ正直にお願いしよう。向かいの席に座るよ?」
「……どうぞ、ご自由に。九重久遠」
九重とはかれこれ十年ぐらいの付き合いになる。
政府付の付喪神として顕現してからというもの、何だかんだと職務を全うしていたら九重と同じ業務を担当することが多くなった。今では歴史調整課の課長と九重の利害関係が一致しているから、一般の審神者や官僚たちでお手上げの状況になればよくお互いが駆り出されている。
「それで?」
「『それで?』とは?」
「俺があれほど『本作長義』と呼ぶのを辞めろと言っても聞く耳持たなかったあなたが、あそこの山姥切長義のことは山姥切長義と呼んでいる合理的な理由を聞かせてもらいたいものだね」
「そんなに難しいことじゃない。ぼくにとって『本作長義』はきみ一振だというだけのことだよ」
己の刀身に銘打たれた文字数は国内では最長の類に入る。
あまりにも長すぎる銘を呼ぶことが不可能で、20世紀の終わりごろから山姥切長義のことを本作長義と通称する流れが生まれた。特に彼の刀身を所蔵した徳川美術館が展示の際、そう表記した、それが一番の理由だろう。
九重が20世紀の文化をどうやら好ましく思っている、ということは彼と業務をするうちに自然と理解した。
21世紀、22世紀と情報の速度は加速度的に増す。その直前の豊かでありつつもある程度自然な流れ方をする時代を山姥切長義もガラスケースの中で見守ってきた。こうして刀剣男士となり、今もまだ刀身のすぐ傍で来館者を見守っている同位体がいることも特別に嫌悪しているわけではない。
ただ。
「きみたちは同位体といえど、個性がある。何振かのきみと出会った中できみが一番本作長義だと自認しているからそう呼んでいる」
「あそこにいる俺は違う、と?」
「彼は山姥切長義くんだね」
「どうしてそう思うんだ?」
「きみはまだ知らなかったかな。山姥切国広くんの保護者になりたいんだよ、彼は」
「偽物くんの——保護者?」
「そう。わんぱくの本丸の山姥切国広くんやもちもちマスコットの本丸の山姥切国広くんのことを見守りたい不器用な保護者だから、山姥切長義くんと呼んであげるとどこか安心した顔をするよ」
きみはそういう気質じゃないだろう。言われて山姥切長義は胸の奥で何か靄がかかったのを感じる。
どうして九重が自分のことを断定的に語るのだ。彼を——23世紀の陰陽寮の貴族のことを詳細に知っているものは政府内でも限られている。どこから来てどこへ行くのか。知っているからこそ、山姥切長義は——九重の言う本作長義は彼と任務を共にした。
決めつけられて先入観だと憤りたい自分と、そこまで深く理解されている同位体と、九重自身の無神経を装った優しさを知っていたからこそ全ての文句を嚥下した。
「九重久遠。どうせ陰陽寮は昼行燈なんだろう? 歴史調整課の月末処理を手伝って行かないか」
「本作長義くん。報告書は毎日書けと上長に言われなかったのかい?」
「書いても書いても書いても書いても書き手が圧倒的に不足しているんだ」
職務怠慢と責められれば言い訳がましい愚痴が零れて止まらない。九重は一見抜けているように見えるが、これでも事務処理のエキスパートだという噂だ。23世紀にもなって肉筆の書類が山のように残っており、21世紀の頃のデジタルトランスフォーメーションの方向性が明後日の方向を見ていた余波を感じる。手順の類を最適化することなく見た目だけをデジタル化し、無計画に増改築を繰り返してきたデータベースは、はっきり言って最早混沌そのものだった。
税法や道路交通法を代表とした場当たり的な改修は政府業務をより煩雑化させただけで、救われたものがどこにもいない。顕現して最初に六法を読んだときには眩暈すら感じたほどだ。
「リソースが足りないのなら正式にうちへ依頼すればいいじゃないか。別に、ぼくの上官殿なら職務派遣するのに手当てを取るような真似はしないと知っているだろう?」
「その稟議書を上げる時間すら惜しい」
「相当追い込まれているようだね」
「どこかの愚かな政治家が盛大に歴史改変しようとしたんだ」
知っているんだろう? おかげで歴史調整課は全員15連勤でひどいものに至っては36時間、連続で勤務にあたっている。人の姿を取っているだけの付喪神の同僚でももう限界に近い。勿論、山姥切長義も例外ではない。17時間ぶりの休憩が間もなく終わってしまう。手が空いているなら力を貸せと率直に要求すると九重は柔和な顔立ちをいつも以上に綻ばせて、そして言った。
「本作長義くん。納期も大事だけれど偶にはきみたち刀剣男士もきちんと休まなきゃ」
「残念だが俺が一番耐久性が高くてね」
「知ってる。だから言っているんだ」
36時間勤務なんかになる前にきみの方からうちに来れば良かったのに。
陰陽寮の貴族たちは皆、人知れず属人的な案件を抱えている。今、誰が何をしていてそのエンドがどこなのか。九重の言う上官殿ぐらいしかそれを把握していない。つまり、陰陽寮は事実上スタンドプレーの部課ということだ。
その陰陽寮の貴族で刀剣男士に好意的なのは九重と幾人かだけで、彼らの不在時に訪おうものなら蔑視を浴びる。勿論、九重の個人的な連絡先など知らないから内々に救助要請を出すことも出来ない。
「九重久遠。俺はあなたの個人情報が欲しいわけじゃないんだ」
「個人内線にかけても、ぼくが『こちら側』にいなければ結果は同じだろう?」
「23世紀の無能の政府が個人情報保護法を悪法に変えたのは知っているね?」
「だからだよ。休憩時間に知人にメッセージを送ることまで歴史調整課では職務違反とされているのかな?」
「……つまり、あなたは『本作長義』である俺と友人になりたい、と?」
「認識不一致で悲しくなるね。その質問への答えはノーだ」
ここまで土足で関わっておいて今更認識不一致だの何だのと否定されて傷付くぐらいには山姥切長義も人の心を持っている。やはり貴族と付喪神の間において情など育めないのか、と少し歯がゆい気持ちがした。
その嫌悪感と寂寥感が表情に出てしまっていたらしい。
甘ったるい香りのするモンブランラテのカップに蓋をして九重は優しく、山姥切長義の眉間をつい、と押した。
「本作長義くん。ぼくときみは既に友人なんだから、今更何になると言うんだい? やっと今、ぼくときみの認知が一致したのかと思うと流石のぼくも泣けてくるよ」
「——あなたは、ずるいひとだ」
「知らなかったのかい? なら今知ってくれないか。ぼくはずるくて酷くて厚かましくて強欲なんだ」
世界に一振しかいないきみの——友人の手助けをする権利を持っているぼくをちゃんと利用してほしい。
政府の刀剣男士として顕現した山姥切長義は自身だけではない。凡そ一つの部に一振程度。希少性の高い男士といえどもそのぐらいには分布している。カフェの同位体が一番よく対面するけれど、それ以外の同位体のこともお互い、関わり合って憎まなくていい程度には認知していた。
歴史調整課は少ない人員で重要度の高い案件の処理が求められる。
どうして自分だけこんな苦労をしなければならないのか、呪ったことが一度もないと言えば嘘になる。
本当は——山姥切長義も知っている。歴史調整課の手に余る案件に化けたものが陰陽寮へ申し送られていることも。目の前にいる朗らかそうな貴族が何十、何百、何千の涙を流しながら任務にあたっていることも。
だから。いや、だからこそ、と言うべきだ。
事務処理や後片付けといった彼でなくても手数さえ打てればかたが付くことに巻き込みたくなかった。
九重が頼りに思ってくれる能吏の自分でいたかった。
そう、思っていたのが自分だけで九重の目にはもっと前から不格好な己が映っていたことを一瞬。ほんの一瞬だけ恥じて、そして次の瞬間に論理で割り切る。
「九重久遠。昼行燈のあなたに事務方が務まるか、是非試してもらいたいものだね」
「理論値上、何とかなる筈なんだ。案件定義がきちんとされていれば、だけど」
「案件定義? きちんと? 歴史調整課を甘く見ているよ、それは」
「ははぁ。なるほど、マンパワーでどこにも何の手順書もない、と来る」
「稟議書を上げてほしい案件が山のようにある。あなたを借り受ける稟議書を作りながら説明しようか。まぁ、でも」
そのラテが飲み終わるまで、もうしばらく友人として休憩と行こうじゃないか。
不器用に蓋を押さえていた九重に向けてそう言えば、彼は一瞬、きょとんとした顔をしてこちらを見た。
してやったり。そういう類の気持ちが山姥切長義の中にもあることを認知して気が付いたら笑い声を抑えることが出来なかった。
「九重久遠、あなたが無理に蓋をしようとしたから、せっかくのモンブランが無様を晒している」
俺の同位体が見目好く作ってくれたものを無下にするものではないよ。
笑いながらそう言えば、九重も何がおかしいのかくすくすと笑い出し「手柄の横取りだ」と少しだけ皮肉げに視線をカフェの同位体へ投げているのが見える。同位体の自分が爽やかに微笑んで九重と手を振り合っているのがどこか悔しくて「俺もそういうのにすればよかった」と誰に宛てるでもなく一人ごちる。ここまでの会話が聞こえているだろう自分の同位体が苦笑いをしていた。能吏の自分しか見せてこなかった同位体の前で恥を連発して、次からどういう顔で会えばいいのか、悩みそうになって九重の満面の笑みに気付く。
「本作長義くん。これはきみが思っている以上にカロリーの暴力だから、気の迷いで注文すると大変な目に遭う」
「女性や若年者じゃないんだから、気の迷いで注文することはないよ」
「そう? 今のきみは帰り際に同じもの、テイクアウトしそうだったけど?」
「しないよ。気の迷いで口走っただけで、俺も飲み物を破棄するのは良心の呵責があるからね」
どう? あなたの味覚は充足したのかな。
開き直ってカップの蓋を外して直接ラテを飲み始めた九重にそう声をかけると彼は上唇の上にクリームの泡のひげを作って満足げに頷いた。
「九重久遠。あなたは本当に若年者そのものだね」
「まぁ、きみなどと比べられると清々しいまでに幼子だよ」
「逸話が力となるのなら、あなたもいつかその一つになるんだろう」
「ぼくは歴史に残りたいとは思っていない」
「じゃあ、俺の逸話の一部になってくれればいいじゃないか」
「……本作長義くん。それは、愛の告白かな?」
「は? 笑えない冗談を聞いてあげられるほど暇じゃないんだけれど?」
「無自覚が一番ひどい。まぁ、いいよ。いつかぼくがこの命を終えるまで、きみの逸話は幾つでも増やしていこうじゃないか」
日の本の国は想いの国だ。
人の願い、人の気持ち、人の祈りが集まって神となる。
かつて始祖の三柱から始まった国造りの物語から23世紀の現在に至るまで。
人は想いを込めて祈り、その強さに応じる形で神威は示されてきた。
善悪の別すらなく。ただただ強い想いだけを受け取って神の一種——付喪神、道具の妖異が神格を得て山姥切長義たちは刀剣男士と呼ばれている。本来の天津神たちから見れば微弱で何の強さも持ちえない小さな神を集めて、労使してこの国はまだ国体をなしているのが滑稽で、それでも何故だか同時に愛おしい。
想いを形どるのはいつだって物語で、それは心が生み出した幻影だ。
眼球、そして網膜。視神経の奥の奥でつながった脳漿だけにある真実を抱いて人は皆、今日を生きている。
幻影が実体を伴うとき。口伝で後世に残り、共通認識となったとき。
「そうだね。俺たちを作るのはあなたたちなのだから」
その果てしのない未来へは、今あるこの場所の足元を片付けていかなくては決して届かない。
「九重久遠。この身がある限り、俺もあなたの物語を覚えているよ」
己が身を顧みない官僚らしからぬ九重。損得勘定が下手糞で、情動的で標準偏差の中にいない九重のことも、誰かが覚えていてやりたい。誰もその任を引き受けないのなら。今ここにいる歴史調整課の山姥切長義の中でだけは遺しておこう。いつか政府の方針が転換して同位体の集合が義務付けられない限り。九重久遠は確かにここにいる。
すっかりぬるくなったブレンド珈琲の残りを飲み干して、正面を見ると九重はまだLサイズのラテと格闘していた。
そのまま待っているようにと言い残して、山姥切長義はカウンターに向かう。
政府関係者ならカフェの飲み物は何杯でも無料だ。
わかっていたから、店員の山姥切長義にブレンド珈琲を二つ、持ち帰りで注文した。店員の同位体は流石、彼の同位体だけあって意思疎通がスムーズで何も言っていないのにミルクとスティックシュガーを三つ紙袋の中に入れた。
「残業から解放されるといいね」
「ありがとう。是非、彼がそうしてくれると願っているよ」
そんな何でもない会話が成り立つのも過労で荒んでいる心には温かかった。
ルーチンワークは得意だと豪語した九重が瞬く間に煩雑な事務処理をこなし、そして可能な限りの自動化を図ってくれるまで残り一時間。取り敢えずはまぁ、稟議書の作成方法をOJTする段取りを考えている歴史調整課の山姥切長義なのだった。