地産地消:シャルドネ

 世界、という定義があるとしたらその条文は何になるのだろうか。
 時折、鶴丸国永はその問答に興味を惹かれる。自身——ここにいる鶴丸国永自身と他の場所で顕現した同位体との差異の定義も明文化出来ないのに個の集合の最上位概念である世界の定義など出来ようか。美しい反語だ。出来る筈がないとわかっている。
 出来る筈がないことに執心するような情熱は持っていないが、それでも時折考える。自らを内包する最上位概念にも意思があるとしたら。その苦悩は如何ばかりなのか、と。
「やぁ、鶴丸国永。久しいね」
 あるとき、政府の会合が開かれた。省庁の代表者と各本丸の情報共有を目的としていると案内状には書かれていたが、内実はただの交流会だと誰もが認知している。そのぐらい、よくある公式の会合だった。
 鶴丸国永の本丸からは鶴丸国永と燭台切光忠が主の供として参加した。燭台切光忠は近侍として主の傍に付いている。団体行動が得意ではないと自負している鶴丸国永は立食パーティーなのをいいことに料理をつまんでは壁際でゆっくりとしていた。
 そこに現れたのが政府の貴族——九重久遠である。
 内務省直轄の陰陽寮の所属で23世紀の陰陽師だのなんだの仰々しい肩書で粉飾しようとしているが、鶴丸国永は彼の本質を知っている。知っているが、彼が語ろうとしない以上、秘匿するのが礼儀作法というものだ。
「久しいな、九重久遠。きみも健勝だったかい?」
「きみは本当に形式的儀礼が好きだね。知っていると思うけれど一応答えておくと、とても健勝だよ」
 でなければこの会合は開かれることがなかっただろうからね。
 九重がどこか鶴丸国永の存在より遠くを見遣ってそんなことを口にする。
 知っている。彼の視野は鶴丸国永の視野よりずっと広い。彼にも見通せないものがあるとしたら、それはきっと未来そのものと、既成概念というフィルターで隠された一部の過去、そしてそれらの間にある相関関係の最初の紐づけぐらいだ。九重はゼロを一に出来ない。その代わり、一を百の手前にするのは容易に成し遂げ、そしてまた百を達成することは九重には不可能だ。
 九重はそれを公言しないが隠そうともしていない。
 付き合いの長いものは勝手に気付くし、そういう細やかなことに興味のないものは一生気付くこともない。
「それで? ぼうと突っ立ったままお喋り、って柄でもないだろ。飲み物でも貰ってきたらどうだ?」
「開会してから烏龍茶を何杯飲んだと思っているんだ。付き合いでももうこれ以上は消化器の容積上辞退するよ」
「きみは本当に学ばないな。グラスに注がれたものを挨拶の度に空にするからそうなるんだ」
 九重は生真面目なのか何なのか。アルコールの類を一切、辞退している。
 パーティーでよくある光景なのが、ソフトドリンクとアルコールの1グラスの容量がイコールではない、というやつだ。烏龍茶はグラスワインの約三倍以上も注がれている。
 それなのに九重は声をかけて挨拶をする度、必ず新しいグラスを受け取り、別れるまでに飲み干す。利尿作用という概念を教えてやっても、律義に会期中は手洗いにも行かない。鋼鉄の信念と言えばそれまでかもしれないが、鶴丸国永からすればただの不器用にしか見えなかった。
「近々、また大規模演習を実施する予定なんだけど、きみの本丸を指名してもいいかな?」
 一番近くを歩いていたウェイターから白ワインのグラスを受け取る。
 鶴丸国永の主は元は日本酒の杜氏だったらしい。清酒には一家言あり、本丸では基本的に日本酒しか購入されない。たまにこうして政府の会合に出てきて洋酒を飲むのが鶴丸国永にとってはいい気分転換だった。
 今日の白はシャルドネだ。久しぶりに当たりの会合だ。そんなことを思いながらほぼ香りのないワインを口に含む。シャルドネの甘みと酒特有の熱を伴って「酔い」を体感していると九重が「きみは本当に美味しそうに酒を飲むね」とどこか微笑ましさのようなものを湛えながら、本題に入った。
 大規模演習、というのは年に一回程度実施される最新のセキュリティ教育の一つだ。
 仮想敵からサーバ単位で外部攻撃を受け、サーバ機能の一部がダウン。セキュリティが低下した状態で、本丸の防衛をする。仮想敵は基本、今までに検知した時間遡行軍の情報から作成されるが、稀に乱数で強敵が設定される。
 シミュレータで実行するため、刀剣破壊こそ発生しないがそれ相応には疲弊させられるのが常だ。
 本丸個別で実施する演習の他に、他本丸及び政府との連携を求められる演習パターンがあり、今度は後者らしい。当世の言葉で表すならスキル・トランジションに他ならない。古参審神者と新米審神者との組み合わせで経験、判断基準、戦闘技術などを共有伝達させるのが目的だろう。
「おいおい、備前サーバの最古参本丸だからって当てにしすぎじゃないか? もっと中堅も育成してやってくれよ」
「きみの本丸は主さんもしっかりしているし、刀剣男士も手ほどきが上手い。若手審神者から名指しで指導依頼が何件も来ているんだ」
 だから、まぁとても久しぶりなんだけどグループ演習にしようかと思っているよ。
 それは内部情報の漏洩ではないのか。まだ決まっていないことを当事者に相談するのは政府の内規に抵触するだろう。そんなことぐらいわかっているだろうに九重はまるで今日の料理は美味かったね、と同列の熱量で鶴丸国永に話しかけている。まぁ、確かに今日の料理は美味いが問題はそこではない。
「褒めたぐらいで流される刀剣男士に見えているのかい、俺は」
「残念だけどそこまで盲目的ではないね」
「だろ? だから——」
「だから、『ぼく』が『きみ』と話している、と言ったら?」
 政府の陰陽師——九重と古参中の古参——鶴丸国永とでしか語れない何かだと含んでいた。
 厄介な問題が裏にあるのが示唆されて、無視出来るほどには九重のことを嫌悪していない。
 頼られるのが全て嫌いなわけでもないし、「友人」の頼みなら耳を貸すのは決して吝かではなかった。
「——貧乏くじは好きじゃねぇんだ。本当の理由を聞かせてくれ」
「情報漏洩の最悪のケースが発生している可能性がある。内部データを人質に第三者が身代金を要求した後、データ改竄したログが見つかった」
「最っ悪な状況だな。全部終わってから『可能性』の検証かい?」
「詳しいことはこれから情対で特別調査班を組むから話せないんだが、基本的なリテラシーを伴わない新任審神者が増えているのが問題視されている。『死なない程度』に最悪の難易度を設定して演習を実施したい」
 情対——情報管理対策室の略称だ。政府内でも特別な組織で、九重が所属する陰陽寮とは兄弟の関係にあたる。
 そこまで問題になっているのならいずれ事案の共有と新たな教育メニューが打たれるのは間違いがない。
 だが。
「基本的なリテラシーって言ってもなぁきみ。そもそも俺たちの本丸は別に文部省の配下じゃないんだぜ」
「わかっているよ。リテラシーの根本は文部省に教育プログラムを考えさせるとして、『どうして』それを『学ばないといけないのか』とか、具体的に『何が危険』なのかは実体験してもらった方が教育効果が高いだろうというのが神社庁の公式見解だ」
「それで、俺たちやきみに丸投げかい?」
「丸投げならまだよかったんだけれど。そもそも文部省にリテラシーがない可能性が浮上しているから陰陽寮は火消しで残業祭だよ」
 論理的に説明出来る人材がいない。
 対策を講じる以前の問題が噴出している。
 陰陽寮は基本、貴族しかいない筈の部署なのに大体いつも残業でデスマーチをしている風情がある。
 ただの古参本丸所属の刀剣男士である鶴丸国永をしてその認識なのだから、九重の労苦は推し量りがたいものがあった。
「きみ、そういうときには歴調に投げたらいいだろう」
「歴調は今、必死に改竄の火消しをしているんだ。これ以上投げると多分、本作長義くんから正式に抗議書類が到来するだろうね」
 歴調——歴史調整課所属の「本作長義」と言えば九重の数少ない友人だ。
 お互い過労で死にそうになると本庁の1階にあるカフェでよく鉢合わせると以前に聞いた。
 そのときにはそこでしか休憩が出来ないのか、と全く歓迎出来ない感情で驚いたものだ。
「政府も広いんだ。俺の本丸以外でも何とかならないのか」
「前代未聞のセキュリティインシデントが発生して、きみの本丸だけに協力依頼をするとでも思っているのか?」
「うん?」
「陰陽寮総出で頼れそうな本丸に順次声をかけている。今日もきみで三人目だ」
 この交流会が始まってちょうど一時間半。つまり、九重は三十分間隔で協力者となってくれる男士を口説き落とし続けている計算になる。正直なところ、三人目――上から数えて三番目の優先順位しかなかったのには内心、釈然としないがそんなことを吹き飛ばすほど九重の言葉は衝撃的だった。
 政府の影の立役者たる陰陽寮の貴族たちは皆、個性的だ。
 九重も例に漏れず個性的で——鶴丸国永は彼のことを内向的だと認識していた。立食パーティーなぞただ飯を食らうだけのイベントのつもりで参加しているのだと。
 だから。
「こいつは驚きだ! きみ! 意外と社交性があるな。この立食パーティーは内々に白羽の矢を立てる隠れ蓑か」
 木を隠すなら森の中。人を隠すならパーティーの中は過去の前例からしても適切だろう。
 白羽の矢を立てる為に交流会が行われることよりも、真の主催が陰陽寮であり、口下手で有名な——表舞台に立てない筈の貴族たちが人を口説いて歩いているということに心底驚いたものだ。
「そういうことだよ」
「予定では何人勧誘するんだ?」
「それを口外するとぼくがインシデントになるから黙秘するよ」
「俺ときみの仲だろう。教えてくれ」
「きみの本丸に監督してもらうのはぎりぎり二桁乗るか乗らないかの数だとだけ言っておく」
「なぁ、きみ。九重久遠」
「報酬はおって神社庁から正式に通達がある。それに加えてぼくからきみに個人的にシャルドネを融通するのは内規に抵触しないから、気にせず受け取っておいて構わないよ」
 気に入ってくれたんだろう、その白。ぼくが選んだんだ。
 九重が彼自身の働きを誇示することは殆どない。
 政府の一部として——貴族の領分として彼はいつも控えめにしか自己主張をしない。
 成功は寮の功績。失敗は残業をしてでもカバー。誰かの尻拭いをしても愚痴りはするがくさらない。己の立場を誰よりも理解していて、欲得はあまり表面に出さない。それが九重久遠だ。
 だのに。
「きみが選んでくれたのか?」
「そう。きみが出席名簿にいたから、きっと気に入ってくれるだろうと思って」
「今日は驚きの連続だな。きみは俺が白ワインを飲まなかったらどうするつもりだったんだ」
「どうもしないよ。きみは白ワインを飲んだ。それが事実でそれ以上のことは何もない」
「九重久遠。どうしてきみはすぐそういう言い方をするんだ」
 企みが成功したのならもっと無邪気に喜べ。
 心遣いが功を奏したならもっと素直に笑え。
 想いが届いたことを寿いで、そうして分かち合えばいい。
 そうすれば——九重の生涯はもっと彩りに満ちるだろう。
「それとも、今日ここに来る鶴丸国永は全員白ワインを喜んでくれるやつばかりだったのか」
「個人情報にあたるから詳しくは話さないけど、少なくともぼくはきみの為だけにそのワインを選んできたのは間違いないよ」
 シャルドネ種だけを用いた白ワイン。
 シャルドネ種は個性的な香りではないのが一般的だが、今日の白ワインはほんのり柑橘のフレーバーを帯びている。
 備前国——備前サーバの由来となった地だ——は瀬戸内気候に恵まれ、柑橘の国内名産地の一つでもある。鶴丸国永の感覚器がどこか懐かしさを覚えたのはきっと香りだけが原因ではないのだろうが、それでも。鶴丸国永の本丸にもやはり柑橘の果樹園があり、桑名江をはじめとした江の男士たちが献身的に手入れをしている。内番とは別にそうやって賑やかしくしているのを鶴丸国永は大切に思っていた。
 そこまで見透かされているのかどうかは定かではないが、少なくとも九重は彼の目の前にいる鶴丸国永という個体自体への心配りをしてくれた。どこの産地なんだ、と尋ねると「国内の——あとは秘密」と茶化して濁された。
「そうまでして俺を口説いておいて三番目だなんてつれないじゃないか」
「——きみの気が少しほぐれるには三番目ぐらいがちょうどよかったのじゃないか?」
 一番目はきっと気が張っているだろう。政府の安全な交流会だとは言え、数多の刀剣男士たち、そして審神者が集って諍いが全く起きない、という保証もまたない。主が主の旧知の審神者と対面し、和やかな会話を近侍たちと広げていくのを確認しながら鶴丸国永は宴の喧騒から抜け出た。
 二番目——開始三十分後はきっと食事と飲み物を夢中で貪っているだろう。鶴丸国永はこう見えて食欲が旺盛だ。色素の薄い外見とは裏腹に結構な大食家だ。洋食、和食、中華と次から次へと料理を味わっていた。勿論、横やりなど入れられるような雰囲気ではない。
 三番目なら。鶴丸国永は料理を一通り楽しみ、デザートが後から追加されるのを壁で待っている。
 違ったかな。と全く間違った懸念すら感じさせない穏やかさで九重が鶴丸国永に告げたとき、自然と鶴丸国永も笑顔を分けてもらった気がした。
「ははっ。きみは天性の人たらしか何かだったのか?」
「似たようなことを本作長義くんにも言われたんだけど、そうだったら苦労しなかったのに、とは思うよ」
「よし。わかった」
 きみの依頼、必ず光坊と主に承諾させよう。
 気が付いたらそう言ってしまった後で、鶴丸国永はどうにも利用された気持ちしかないのに満更騙されたとは感じなかった。九重のことは不思議なやつだと思う。他の陰陽師たちとは何かが決定的に違っていて、それでも23世紀によくいる貴族だ。矛盾しているのに不快感がない。言葉などで表せないほど複雑怪奇で他人を俯瞰的に見ている。そのくせ自分自身への理解は中途半端で、若さで許されるギリギリの範囲内だ。
 いにしえの時代。
 戦の華が刀剣だった時代。
 その時代からずっと人の世を見てきた。武器として道具として守られる宝物として。鶴丸国永はこの国をずっと見てきた。その中で見てきた己の審美眼が伝える。この馬鹿の鑑のような若者は守られるべきだ。人を物を同じように愛し、慈しみ、そして守ろうとしているやつの手助けをするのが物としての——付喪神としての鶴丸国永の美学と相反しない。
 世界、というのが明文化され、定義されることはこれからもきっと未来永劫ないのだとしても。
 自分を尊重してくれる相手を概念として扱うことの不実さを理解しているのなら。
「なぁ、きみ。本当は酒も行けるんだろ?」
「どうかな。きみが思っている通りでいいよ」
「いやー、会合の度にこのシャルドネがもらえるなんて、俺はきっと恵まれているなぁ」
「鶴丸国永。ぼくは毎回贈るとは言ってないのだけれど?」
「いいだろ? 地産地消ってやつだよ、ご馳走さん」
 読み切れない距離を無理に数値化する必要はどこにもない。
 口約束のまた口約束で構わないし、感情を定義する必要もまたない。
 そのことを何度でも証明する九重久遠という存在にこの国の未来はまだ明るいのじゃないか、と思いながら、シミュレータ上とはいえ死地を味わうのは何とも言えない気持ちになるなと笑って受け入れる鶴丸国永なのだった。