「如風伝」それは、風のように<三>

 何の前触れもなく、屋外から爆発音が聞こえた。
 午(ひる)の鐘が鳴る前で、そのとき文輝(ぶんき)は暮春(ぼしゅん)と暇つぶしに碁を始めたところだった。突然の異音に文輝の行動は停止し、一拍遅れで頭が異常事態であることを認識した。それは文輝が滞在した部屋だけに限ることではないのだろう。文輝の思考が戻るのに前後して左尚書(さしょうしょ)の中がざわつき始めた。現状を報告する鳥が飛び交うのはもう少し後だ。今は混乱だけが場を支配している。
 西白国の首府・岐崔(ぎさい)の国府が置かれた中城(ちゅうじょう)の内部で爆発が起きたという前例はない。爆発の原因を悪意による事件だけではなく、不慮の事故まで広げても一度もなかった。そんなものがあれば必ず歴学の教本に記載され、首府防衛を担う武官や武官見習いには周知されるに決まっている。既知の弱点を放置していては守れるものも守れない。軍学舎の初科の歴学で、つらつらと優位性を説いた後「以上の理由から岐崔は安寧を保っている」などと教えるのだから、事実上、岐崔ではそのような事態は起きたことがないと考えるのが順当だ。
 前例のないことが起きている。
 それだけでも文輝は困惑し、思考が停止した。頭の中が真っ白になって碁盤は勿論、その向かいにいるだろう暮春も見えなくなる。
 その後の対処は見習いとはいえ、武官と文官の違いなのだろう。ざわつき、取り乱した様子がありありと伝わる外からの雑音が室内に充満していたが、文輝は状況把握に努めることが出来た。
 文輝と暮春が控えた部屋には灯かり取りの窓しかなく、そこから頭を突き出して外界の様子を探ることこそ出来なかったが、音量と音源の方向から爆発が起きたのは右官府の中央辺りであることを察した。文輝の知識の中にその近辺の情報はない。
 そこで自らの限界を知り、碁盤の向こうにいる暮春に視線をやった。そうして初めて、文輝は暮春が寸分たりとも動じていないことを知る。暮春の表情は澄み渡った湖面そのもので、さざ波一つ立っていない。岐崔を取り囲む河面でもこれほどに澄んでいることはあるまい。

「暮春?」

 文輝は暮春に何を問おうとしていたのかを束の間忘れる。澄み渡った彼女の榛色の双眸の奥で輝いている何かに気付いたからだ。この輝きに名前があるのだとしたら、多分それは「信念」であるか「確信」であるかのどちらかだ。
 外界の音が聞こえなくなるほど、文輝の鼓動が早鐘を打つ。力強く、小刻みに響く自らの生の証である音が文輝を支配した。それと同時に文輝の無意識が告げる。暮春は「これから何が起こるかをわかって」この場所にいる。

「暮春、お前――」
「首夏、先に聞こう。『おまえはどうする』?」

 そのあまりにも端的な問いに文輝は返答に窮した。榛色は妥協を許さない強い力を伴って、文輝を映している。
 暮春が何を知っていて、その結果どうしようというのかを説明するつもりがないのは彼女の眼差しを浴びればそれだけで十分にわかる。棕若(しゅじゃく)の言葉に従い、戦務長(せんむちょう)の駒としての任務を全うする。或いはそれを一方的に無視して、暮春と共に彼女の「確信」に触れる。どちらの選択をするとしても、警邏隊の戦務班からはもうじき伝頼鳥(てんらいちょう)が飛んでくるだろう。
 暮春の眼差しは鳥が来る前に結論を出すように促している。一刻一秒を争う事態なのだということはそれだけでも十二分に理解出来た。
 それでも、文輝には右官府の中央付近で爆発が起きたことしかまだわからない。
 厳密に言えば、違和を感じる点はそれ一つではないが、点は点でしかなく、暮春のように線や面で把握することが出来ていない。
 たったそれだけの情報で身の振り方を決めるように強要する暮春を見て、文輝は寧ろ安堵した。変わらない。何も変わらない。暮春は昔からこの性格だ。頭の回転が速く、理知的で、毅然としていて、そして常に自分中心だがほんの少しだけは周囲に対する思いやりがある。今もそうだ。多分、暮春は文輝の知らない何らかの「答え」を持っている。だから彼女は決断している。彼女は今から「何か」をしようとしているのだ。それを文輝に一から十まで手解くつもりこそないが、ここで足手まといだと切り捨てることもしない。そしてそれが彼女の中における最上の優しさなのだということを本人は自覚していないから余計に性質が悪い。
 文輝は苦笑交じりで一言だけ問う。
 一言だけなら尋ねても答えてくれるだろうと勝手に決めた。

「暮春、『いいのか』?」

 目的語も主語も副詞も省いた。文輝と暮春の間なら、その漠然とした問いで十分に伝わる。案の定、暮春は少しだけ眦を緩め「おまえなら構わん」と言った。
 その断片的な返答一つに込められた暮春の感情をひとまとめで受け取って、文輝は深く息を吐く。混乱、躊躇、不安、憤慨、そして漠然とした恐怖。暮春から受け取ったそれらがないまぜになったものを無理やりに一旦落ち着かせた。
 暮春の目に見えているのが何か、というのはそれほど問題ではない。
 文輝の知らないところで大きな力が働いているのはもう疑う必要すらないからだ。
 その何かに文輝が関わることを暮春は拒否しなかった。
 十日前に間諜の審査を受けたと言った暮春に対抗意識があったことは否定出来ないが、それ以上に文輝は彼女からの信頼を感じた。だから、文輝の中にある感情は負けたくないでも劣りたくないでもなく、力になりたいという純粋な気持ちだった。
 迷っている暇はない。悩んでも答えなど出ない。
 だから。

「いいぜ、暮春。行こう」

 勝負が始まったばかりの碁盤をそのままにして立ち上がる。好奇心がなかったわけではない。戦務長の駒として振る舞う責務を忘れていたわけでもない。
 それでも、文輝もまた確信していた。暮春の目算の向こうにあるものの重みは文輝が一生を懸けるに値する。
 冬を感じさせる冷たい風が僅かだが異臭を帯びている。左尚書の風上にあるもの――東風が伝わってくる右官府を守るのは武官としての責務だ。出入り口の外で侍っていた左尚書の官吏が二人の行動に慌てふためいて制しようとしたが、阿程(あてい)である暮春の決断を覆すことは出来ない。文輝は鋼のように固い彼女の意思の前では自らが如何に矮小であるかを知る。九品の一つを継ぐ覚悟がない小戴には重く、そして煩雑すぎた。
 左官の困惑を無視して暮春は部屋を出た。文輝もその後に続く。その背を追って薄桃色の小鳥が文輝の肩に舞い降りた。尾羽に混じった猩々緋の文様を見るまでもなく、警邏隊の通信士からの伝令であることはわかったが敢えて開封しない。今から暮春と共に向かう場所――左尚書の筆頭官吏たちが顔を突き合わせて返答を協議している部屋のただ中に行けば、伝頼鳥の中身よりも一歩踏み込んだ内容を知ることが出来る。文輝は合理主義者ではないが二度手間は好んでいない。
 回廊を巡る長靴の音が硬質に響く。暮春の歩幅に合わせようという気配りをしたが、その行為に意味がないことはすぐに分かった。暮春の歩幅は文輝のそれと変わりない。性差を意識する必要がない段階で、文輝は彼女の背負っているものの重みを改めて知った。西白国において女性が就けない職はない。あるとしたら国主ぐらいのものだ。それでも、いや、それだからこそ彼女は誰よりも高潔に生きている。
 やはり、文輝と暮春は対等ではない。
 文輝の一歩先を同じ速度で迷いなく歩く小さな背中を尊敬の念で見る。高く結い上げられた黒髪が艶やかに揺れた。その肩にもまた伝頼鳥が止まっている。尾羽の文様は朱色で八弁の花が一つ。八弁以上の花の文様はすなわち九品であることを示している。あれは城下の程家から来たのだろう。戴家からの鳥も来るかもしれない、と未来の可能性を考慮した。そのうえで文輝は警邏隊から来た鳥を開封しないことを今一度決断する。急いでいるのはこちらの方だ。胸中で一人毒づいている間に回廊の終着点が見えた。
 その終点を視界に映した暮春の足がぴたりと止まり、そして小気味のいい音を立てて長靴が回れ右した。
 いきおい、文輝は暮春と差し向うことになる。
 曇りのない榛色が問うた。

「首夏、一つだけ、いいか」
「何だ、暮春」
「これからわたしが言う言葉の中にはお前の信念に反するものもあるだろう。それでも、見届けろ。おまえにはそう出来るだけの強さがあるとわたしは信じている」

 そんな風に念を押さなければならないのなら最初から連れてくるものではない。信じているのなら確かめるな。刹那、反駁が文輝の中に生まれる。それでも文輝はそれらを全て黙って飲み下した。
 文輝には今、中城で何が起こっているのかさっぱりわからない。誰も教えてくれないから知らないだけだという言い訳は軍学舎の学生でも言わないだろう。それぐらい馬鹿げていて、自らの品位を損なう言葉だと誰もが無意識的に学ぶからだ。
 身の上に起こっていることも正確には把握していない。
 それでも、文輝は暮春に同道することを選んだ。今から起こる「何か」と差し向うことを選んだのは他ならない文輝自身だということぐらいはわかっている。
 だから。

「なら早く連れて行けよ、程晶矢(しょうし)」

 文輝はもう腹を括った。
 晶矢というのは暮春の本当の呼び名だ。西白国では十五で中科(ちゅうか)を受け、環(かん)を賜るときまで子どもには名などなく、男子は「小」、女子は「阿」を姓に付して称される。文輝が小戴と呼ばれるのはその名残だ。名は体を表し、本質を見抜くと古来伝わっており、親と君主にしか真名(まな)を呼ぶことを許さない。それが西白国に生きる万人の矜持であると同時に慣例である。
 だが、名がなければ個を識別することは出来ず、社会生活上の呼び名が生まれた。それを字(あざ)と言い、二つの名は環と共に下賜される。文輝で言えば、字が文輝で、名は耀(よう)という。首夏というのは愛称で、この名で呼ぶのはこの世に程晶矢一人だけだ。暮春もそれと同様に二つの正式な名前を持っている。文輝は彼女の真名を知らないが、字は知っていた。次兄がそれとなく耳に入れてくれたのだが、それが今生きることになるとは文輝も次兄も思ってもいない。
 名を呼ばれた暮春――改め、晶矢は不意に破顔する。愛称の暮春ではなく、阿程でもなく、彼女自身を一人の人間として認めるその名で文輝に呼ばれるのはどこか居心地が悪いのだろう。笑うことで帳尻を合わせようとしているのを感じた。

「なんだ、わたしの名前を憶えていたのか」
「お前と違って人脈で生きてるんでな」
「『人、すなわちそれ財なり。重(ちょう)すれば益し、過すれば損す。信なるは言にあらず、その心(しん)なり』。お前の為にある言葉だ」

 晶矢から送られたのは五書(ごしょ)の一節だ。経典の向こうにいる聖人たちがいにしえの時代に真理と見定めたその一続きの文句を文輝も軍学舎の初科で学んだ。偉人の理想論に準えられるという過大評価に文輝もまた苦笑を浮かべることで応える。
 晶矢の長靴がもう一度短い響きを立てて回れ右した。彼女の肩にとまった声のない小鳥と刹那目が合う。
 そして、彼女は寸分の揺らぎもない声で言う。

「では行くぞ、戴文輝」

 ああ、と答えて文輝は瞼を閉じる。なんだ俺の名前を知っていたのか。先刻彼女が口にした言葉と同じ感想が胸中に満ちた。その何とも言えない感情にそっと蓋をして文輝もまた回廊の終着点へと向かう。
 過去、現在、未来。その全ては自らの足で赴くものだと知っている。
 朝から続いていた不安がほんの少しだけ薄れていることが不思議だった。
 回廊の果てには緑色に塗られた扉と、その前に控えた棕若の従臣――香薛(こうせつ)の姿だけがある。香薛は近づいてくる文輝たちを見るやあからさまに落胆の意を表した。

「小戴殿はそちらに乗られたのですね」
「すまない、香薛殿。俺に籠の鳥は土台無理な話だった」
「構いませんよ。主も多分、ご承知でしょう」

 あなた方は右官の中の右官と自負されるといい。
 皮肉めいた口調で香薛は二人を代わる代わる見て、そして左官府では当たり前の緑の扉をそっと開いた。「孫尚書令殿に申し上げます。使者がお二人参られました」と奏上する声には寸分の揺らぎもない。多分、彼自身も、彼に待機を命じた棕若もこの未来を知っているのだろう。その予感を肯定するように部屋の奥から「通っていただきなさい」という棕若の声が聞こえる。棕若の声もまた落ち着いており、寧ろ他の左官たちが慌てふためく空気の方が異質に思えるほどだった。

「阿程殿に小戴殿。君たちが来たからには返答は夕刻では許されないということだね?」

 棕若が上座で両手を組み合わせたままこちらを見ている。その双眸に宿った冷徹な輝きに文輝の背を悪寒が駆け上がる。臆したと言ってもいい。好々爺とした彼しか知らない文輝には一人の老翁がこれほどまでに強い敵意を放っているという事実を即座に飲み下すことが出来なかった。息を呑む。生唾一つ飲み下すのにこれほど苦渋するのは生まれてこの方初めてのことで思考が散じていた。
 文輝の前に立つ頭一つ分も背の低い晶矢にも同じようにその敵意は浴びせられているだろうに彼女が動じる気配はない。落ち着いたまま彼女はゆっくりと拱手した。

「左尚書令殿におかれては現状を把握しておられましょうや?」

 棕若が放つ冷や水のような空気を凛と切り裂いて晶矢が言う。形ばかり整った敬語が鋭さをより際立たせる。左官たちは齢十七の晶矢のその態度に紛糾した。これだから右官は、だとか、中科生の分際で、などという雑言が文輝の耳にも届いた。棕若が黙って右手を上げてそれを制する。
 室内の動揺も晶矢の敵意も何もないような顔で老翁はゆっくりと瞼を伏せた。

「君の持ってきた薄紅の意味を理解しているか、という問いになら是と答えよう」
「ならば話は早い。今すぐそこに名のあるものを揃えていただきたく存じます」

 棕若の表情が刹那、敵意から困惑へ変貌する。彼の両側に座した左官たちがそれぞれの形で晶矢の要求から目を背けようとしていた。

「今はまだ事実確認を行っている段階だよ。捕縛は出来ない」
「なるほど、左尚書令殿は左官府でも事件が起こってほしい、と仰る」
「そこまでは言っていない。裏付けもなく、官吏を捕縛するのは律令に反する、と僕は言っているだけだよ」
「その裏付けとやらを取るのに一体、何刻が必要なのです。私(わたくし)がここに参じた後、速やかにそこに名のある十五名を捕縛しておられれば右官府で事件が起こることはございませんでした」

 晶矢の声に含まれているのは怒りだ。
 晶矢と棕若の会話に追いつけず、事態の把握に努めるだけで精一杯の文輝にもそれだけはわかる。晶矢は左官府が齎した何らかの手落ちを責めているのだ。そして、その結果、右官府で爆発が起きている。回廊の西の果て、王陵の裾野であるこの場所にも東風は吹き付ける。風が運ぶ異臭とその場にいるであろう右官たちのことを思うと、文輝の胸中も穏やかではない。
 事態が見えていない文輝ですらそうなのだから、文の中身を知る晶矢のそれは比べるまでもない。彼女は静かに激している。
 それらの点と点を文輝は脳裏で何とか結び付けようとした。
 会話は文輝を置き去りにして進む。

「右官府に非はない、と君はいいたいのかな?」
「そうは申しておりません。現に何の文を運んでいるかも知らない伝(てん)もおりますゆえ」

 それは間違いなく文輝のことだと気付いた。誰から何の用件で薄紅の文を預かってきたのかも知らない。勿論、晶矢のように交渉の決定権を持っていることもない。それどころか戦務長――劉校尉が文を書いたのか、もっと上のものが出した文を劉校尉が預かったのかすらわからない。
 晶矢と文輝の間には目に見えるだけでもそれだけの差がある。
 ばつが悪くなり、不意に視線を正面から逸らした。
 棕若が気の毒そうに苦笑する。

「本人の前でそれを肯定するのは実に君らしい決断だね」
「事実の指摘にすぎません。右官府にも手落ちはございます。その一点においてのみ一方的にこちらの要求を通すつもりはございません。我々は最大限の『妥協点』を示したつもりでおりましたが、正しく伝わっておられないのなら今一度申しましょう」

 晶矢がすっと姿勢を正す。西白国では位階の上下は絶対的な尺度だ。下位のものが上位のものへ礼を失することは決して許されない。彼女がそれを知らない筈がない。それでも上八位下の晶矢は上二位の雲上人である棕若に対し対等の振る舞いをしようとしている。多分、今、彼女を突き動かしているのは程家の嫡子であり、いずれ国を背負う九品の家督を継ぐ者としての責任感だ。

「『中城に変異あり。郭安州(かくあんしゅう)より流れ来たるもの多し。黎陽門(れいようもん)にて十五、宮南門(きゅうなんもん)にて二十一、環を確かめり。この間十日ばかり。州牧(しゅうぼく)、無事と言えど、いずれかに難ありと見受けるものなり――』」

 晶矢が諳んじているのが彼女の持ってきた文そのものであると気付くのに時間は必要ではなかった。毅然と胸を張り、一言一句言いよどむことなく、晶矢は朗々と彼女の目の前にない文を読みあげていく。文輝には決してこのような真似は出来ない。感心の溜め息を吐くと同時に文輝は知った。晶矢は自らに課されたものを知ってこの場所にいる。文輝とは何もかもが違うのだ。最初から文輝と晶矢は対等などではなかった。そのことを今更になってようやく理解して気後れから表情が曇る。
 文輝の変化に気付いたのだろう。途中で棕若が困ったように笑い、掌で晶矢の朗読を止めた。
 そして、彼もまた手元の薄紅の文を落ち着いて音読した。
 文の中身も知らない哀れな伝に対する憐憫なのは疑う必要すらない。

「『右官府案内所にて左官府の案内を受けるもの三十。併せて薬科倉(やっかそう)を問うものあれど、うち十五、当地に現れじ。いずれも無官(ぶかん)にあらず。緑環なりて、左尚書の判断を請う。なお、当該者の名は以下の通りである』だろう?」
「不審とわかっておりましたが、十日泳がせておりました。それを手落ちと指摘されれば反論はございません。ですが、裏付けはその間に右官府でも取っております。そうでなければ私がこうして文を運ぶこともございません」

 決して折れることのない晶矢の態度に棕若が今一度溜め息を吐く。
 ここまで来て、岐崔で起こっているのがただごとではないと文輝にもわかってきた。
 郭安州、というのは岐崔の西側の山々を越えた向こうにある土地の名前だ。州都に定められた僅かな緑地の他は果てのない砂原が続いていると聞く。遊牧と交易で得られる収入に頼っており、経済も治安も非常に不安定である為、郭安州の官に任じられると岐崔の国官たちは一様に落胆する。それほど郭安州は貧しい。自然、郭安州から岐崔へと上れるものは限られた。
 首府で生まれ、首府で育ち、首府に配属された文輝にはその辺りの実感が乏しいが、それでも一応は知っている。郭安州から岐崔に上ってくるだけの財貨を持つものはほんの一握りしかいない。十日で三十六。それがどれだけ異常な数値であるかは考えるまでもない。
 郭安州の州牧が何を思い、或いは何を隠そうとして「無事」の返答を続けているのかは文輝にはわからない。文輝だけがわからないのではない。岐崔にありながら地方のことを正確に知る術などないのだ。伝頼鳥は確かに飛ぶ。相手がそれを復号したことまでは通信士を使えば知れる。だが、その向こうで意図して伏せられた実情を知ることは出来ない。だのに岐崔は安全だと誰もが信じて疑わなかった。
 そして、今、その見せかけだけの安寧に守られた岐崔には変異が起きている。
 文輝は生唾を呑みこんだ。拱手したままで留めた両手に汗がにじむのを感じる。
 唐突に示された事態に左官たちが戸惑うのも無理はない。それでも、緑環――文官の不始末なのであれば左官府が責を負うのが筋だ。そしてそれは任官を行った左尚書の責任だということを同時に意味している。
 棕若が重い息を吐いた。

「一つだけ、尋ねてもよいだろうか」
「その結果、左尚書令殿が我々の要望を満たしてくださる、と仰るのなら何なりと」
「手厳しい。君が程将軍の懐刀というのは本当らしいね。全て君たちの望むようにとは約せないけれど、善処はしよう。孫家の家格に誓ってもいい」

 程将軍、というのは晶矢の母だ。地方府の師団長を歴任した後、銀師――中城を守る師団の弓兵隊を率いている。その事実を以って、右官府は晶矢に甘い、と世間は揶揄するが程将軍を知るものであればそのような発想は絶対に出て来ないことを文輝は知っている。程将軍――晶矢の母は文輝の父よりも余程厳正な性分で親の七光りだなどと言わせないが為に晶矢を教育してきた。
 棕若は九品の家長だ。だから彼は程将軍を知っている。そのうえで晶矢を評した。多分、棕若に残された意味のない抵抗だったのだろう。室内の左官たちは得心なり侮蔑なり感心なりしたが晶矢はそれでも決して俯いたりしなかった。
 それを見届け、棕若はふと表情を緩める。文輝もよく知る孫翁の顔だったが、これ以上ないほど倦んでいた。

「阿程殿、『君』は僕に何を求めているのだい?」

 その問いを聞いた瞬間、文輝の世界から全ての音が消えた。
 晶矢が文輝の隣で瞠目するのを感じる。棕若の問いは簡潔で、先ほどまでの晶矢なら容易く答えられただろう。それでも、抑揚が告げる問いの真意は晶矢が建前で語ることを許しはしなかった。文輝にすらその意味が分かるのだから、晶矢が意図を汲みかねている筈がない。
 九品の嫡子である晶矢。程将軍の娘である晶矢。工部案内所の案内係である晶矢。中科生としての晶矢。そして、文輝の朋輩としての晶矢。
 棕若の指した晶矢は多分そのどれでもない。もっと根源的なものを指した。だから、晶矢は返答を上手く紡げない。
 そして、文輝は改めて知る。
 文輝には――或いは晶矢をしても、棕若の国を思う気持ちを否定することは出来ない。彼もまた国官としてこの国を守ろうとしている。緑環を示した三十六名が文官であることは間違いないが、それが真実である保証はどこにもない。環を偽るのは罪だ。しかもただの罪ではない。重罪だ。程度が酷ければ死罪を言い渡されることすらも覚悟しなければならない。だから生半な気持ちで環を偽るものはいない。
 それでも、棕若はそれを疑っている。
 文官と武官、西白国を支える二つの柱の一つが腐り落ちてようとしている。その事実を認める前に他に出来ることがないかを必死に探している。その結果、右官府の事件が起きるのを止められなかった。そのことに罪悪を感じているが、それでもなお、彼は彼の朋輩である文官を疑う以外の答えを求めている。
 反対の立場なら晶矢もそうしただろう、とやんわりと言っている。彼女にはその意図が正しく伝わっているから返す言葉を探せないでいた。
 返答に詰まる晶矢と、彼女に向けられた問いの重みにたじろいでいる文輝の耳にその次の言葉が聞こえたとき、文輝は目の前が真っ暗になるのを感じた。

「小戴殿、どうして僕が君に文を運ばせたのか、君は知っているかな?」

 陶華軍(とう・かぐん)という名の通信士にはこの三十六名の誰かと密通している、という嫌疑があるからだよ。劉校尉もそのことはご存じだ。疑うのなら、その猩々緋の紋の小鳥を復号してみるといい。嫌疑は確信に変わるだろう。
 沈痛な面持ちで、それでいて瞳の奥では勝者の自信を輝かせながら棕若が言う。
 この岐崔で猩々緋の紋の伝頼鳥を飛ばせるのは二人しかいない。そのうちの一人は間違いなく、棕若が名指した陶華軍であり、残りの一人は夜勤を終え、今は官舎で深い眠りに就いている筈だ。
 肩にとまった小鳥は鳴きもせずにじっと文輝を見つめている。
 この鳥を復号したことが引き起こす「何か」を予測することが出来なくて、だのにどうしようもない不安ばかりが膨らんで文輝は俯くことすら忘れて、ただ硬直していた。
 回廊の向こうで午を告げる鐘が鳴る。鼻腔を突く不快な臭いは少しずつ薄れようとしていた。