「如風伝」番外短編<三> 孫棕若の回想

 人の成長を長く続く上り階段に例えるものもいるが、それは見当違いもいいところだ、と孫棕若は思っている。大小様々な経験を積み、蓄え、それがあるとき突然理解につながり、成果を導き出す。だから、同じ経験をしたとしても、成長の度合いは固有だ。決して誰かと等しくなどなりはしない。一様に育てたから一様に育つ、だとか考えながら人と接しているものがいるとしたら、それはただの馬鹿だ。人というものを少しも理解していない。人というのはもっと繊細で、緻密で、そして同じぐらい大胆なものだ。
 その棕若の論理を実証してくれる若人が虎吼にやってきたのは、まだ風の冷たさの残る四月。真円から少し月の欠けた夜のことだった。
 虎吼、というのは九品の身内だけで行われる宴の呼び名で、この国を象徴する獣――白虎にちなんで名付けられた、と棕若は先達から聞いている。国を護る獣と国を護る家臣をかけたのだろう。古来、この国では勇猛さと果敢さが重んじられてきた。九品においても、武官が上位を占めるのがその最たる例だ。どれだけ望んでも、孫家――文官の家流に生まれたというだけで棕若の位階が今より上がることはない。
 年若い頃はその不条理に憤ったりもしたが、一度そういうものだと受け入れてしまうと存外抵抗感は湧いてこないものだ。世間ではそれを順応能力と呼ぶと知ったとき、棕若は自らもまた平凡な存在であることを知った。「不条理に憤る」から「諦めて受け入れる」までが様式美なのだからどうしようもない。
 両親も祖父母も皆、同じような思いをしてきた。棕若一人が特別に不幸なのではないのなら、自らを美化するのは無駄だろう。
 そう思って四十年が経った。
 美しいわけでも、彩りに満ちているわけでも、特別な輝きを放っているわけでもない四十年だった。
 国官は一部の例外を除いて、六十の歳を最後に退官することが決まっている。棕若に残された任期は残り三年だ。成人の儀である中科を十五の歳に受けてから、修科に進むこともなくそのまま国官として残った。順調なときばかりではなかったが、妻を娶り、三人の男子と二人の女子に恵まれた。子供たちもまた育ち、親となり棕若は孫を得た。人として、親としてそれなりの人生だったと自負している。
 ただ。

「酒気はまだ早かったかな、小戴殿」

 今宵の酒宴の輪に入らず、壁に寄り添っている一人の少年に声をかけた。彼の名は戴文輝といい、九品では三位、戴家の三男にあたる。この春から中科が始まり、虎吼に顔を出すことが許された。その、幼さの残る顔立ちに刻まれた眉間の皺は深く、どこからどう見てもこの宴を不本意と感じているのがわかる。見習いとはいえ、官吏足ろうとするものがする顔ではない。一刀両断に切り捨てることは簡単で、だが棕若はその簡単な答えを選ばなかった。文輝の傍らに寄り、問う。虎の子は若人らしい鋭利さを伴った眼差しで棕若を射たが痛くもかゆくもない。これが齢を重ねるということか、と棕若は他人ごとのように感じながら文輝と対峙した。

「孫翁、これは何なのです」
「おや? 小戴殿ともあろう方がご存知ではないのかな? これは虎吼と言って――」
「そんなことはわかっています。俺は、この、くだらない騒ぎは何だ、と聞いているのです」

 ぶすっとした顔のまま文輝が問い返してくる。義憤に駆られた青い言葉だ。それでも、己が九品であるという気高い誇りを持っていなければこんなことを言えはしない。そして、その美しさは真実、評価するに値するものだと棕若も知っている。

「未知のものを君の狭い物差しで測るのはどうかと思うけれど?」
「なっ」
「それとも、君がこの宴よりも素晴らしいものを見せてくれるのかな?」

 敢えて煽るような物言いをした。心の底から、十五の少年に宴の華となることを求めていたわけではない。ただ、自分で何かを変えるつもりもないのに不服だけを口にするなと伝えようとした。文輝にその概念はまだ難しいだろうという感覚がある。それでも、自分で答えを求めようとしないものに九品を名乗ることは許されていない。
 そう、含ませれば大抵の虎の子は黙る。聡ければ聡いほど反論の言葉は紡がれない。
 なのに。

「四半刻いただけますか」
「うん?」
「四半刻と衣裳部屋をお貸しいただけたら、きっと皆さまに意味のある何かを見せてご覧にいれます」

 顔を上げて、胸を張って、双眸を自信の輝きで彩って文輝が言う。
 その、自信はどこから来るのか、だとか、九品の大人たちを黙らせるには並大抵のことではないが正気か、だとかそういった戸惑いの感情が棕若の中に生まれる。棕若が十五の歳を振り返った。それでも、十五の棕若は目の前の虎の子ほど無謀でも勇猛でもなく、どうしても文輝の強気の返答が理解出来なかった。

「小戴殿、本気なのかな?」
「孫翁がおっしゃられたのではないのですか」

 酒を浴びるように飲み、くだを巻くだけの一見無意味な集まりを有意義に変える機会を与える、とあなたがおっしゃられたのでしょう。
 だから、文輝は虎吼の現実と向き合い、決して逃げたり迎合したりしない。そう、はっきりと言い切る。
 その青さが眩しくて、輝いていて、羨ましいような微笑ましいような複雑な気持ちを棕若に与えた。
 世間のことなど少しも理解していない。誠実で真摯なだけでは世間を生きていくことは不可能だ。それを知った棕若は妥協という概念を手に入れた。文輝にはまだその諦めがない。若い、というのはそれだけで十分価値のあることなのだと文輝の存在が示している。その、挫折を知らない榛色がどんな理想を描いてくれるのか、棕若はその未来を見てみたい、と心の底から思う。
 だから。

「四半刻と衣裳部屋だけで十分かな? それ以外に必要なものがあれば僕が何とかしてあげよう」
「では暮春――阿程をお貸しください」
「本当にそれだけでいいのだね?」
「はい。暮春も多分、俺と似たような感想を持っている筈ですので、その感想を二人で覆してみせます」

 それが九品の子息として生まれた意味だと虎の子らしい強かさを伴って文輝が言う。
 生まれてこの方、ずっと親兄弟の言葉伝いにしか知らなかった虎吼。初めて招かれて実体を知って失望を手に入れた。それでも、文輝は心を折らずに前を向いている。戴家の直系、という前評判が決して誤ってはいないことを彼はその身で証明しようとしていた。戴家というのは代々そういう家流だ。彼の二人の兄もそれぞれの方法で自らの存在を証明し続けている。
 この若人は棕若に一体何を見せてくれるのだろう。
 そう思うと期待に胸が躍った。
 齢六十を目前にしてこんなにも高揚する気持ちを味わうことが出来るだなんて少しも期待していなかった。
 棕若の四十年はどこにでもある、ありふれた四十年だった。文輝が見せてくれるのは何なのだろう。四十年の間に手放した彩りともう一度出会うことが出来るのではないか。そんな楽しみが生まれる。
 文輝の三つの要求を飲むことを伝えると、若人の顔はぱっと輝いて「暮春! ちょっといいか」と阿程――程晶矢を捕まえに向かった。棕若もまた今日の虎吼の主催に話を通しに出向いた。主催――楊家の当主が文輝の条件を快諾すると広間にはちょっとした余興への期待感が高まる。ここまで要求の度合いが上がっていると文輝は想定しているのだろうか。もしも。もしも、文輝の興したものが期待外れだったら。そのときは棕若が庇ってやらなければならない。
 そんな段取りを考えていると四半刻などあっと言う間だった。
 酒と愚痴と雑談にまみれた広間の明かりが落ちる。
 そして。

「さあて皆さま、今宵ご覧じあれ。ときは百六十年の昔。未だ戦乱の続くこの大地を照らす一筋の光をお目にかけてしんぜましょう」

 文輝の朗々とした声が広間に響く。暗闇の中、ざわめきが止んだ。何が起きるのか。その好奇心が酒よりも愚痴よりも文輝と晶矢の生み出すものを楽しもうとしていた。
 酒杯を盆の上に置く音が続く。
 誰もが文輝の口上の続きを待った。その頃合いを見計らったかのように広間の中央、九品たちが円座した正面にぽっと明かりが灯る。そこには華麗な衣装を身に纏い、白塗りの艶やかな装飾を施された仮面を被った人影が浮かび上がった。体格から鑑みるにあれは晶矢の方だ。その認識を十分に与えてから、晶矢の低い声が紡がれる。

「あな情けなや。どなたもこなたも無頼と我欲ばかリ。嗚呼、民を思う志はいずこにあらんや」

 この口上は誰もに聞き覚えがある。この国に生まれれば幼い頃から何度も聞かされて育つ。これは白帝と初代国主の対話形式で紡がれる国生みの剣舞だ。通常は男の役者が二人で演じるものを文輝と晶矢は男女の対の形に編纂して舞おうとしている。文輝が国主、晶矢が白帝という配役がどう生きてくるのか。広間はその展開の先を想像して、ぐいぐいと引き込まれていく。晶矢――白帝の嘆きが終わると国主――文輝の舞が始まる。白帝とは違い、一見質素に見えるがその実白帝と同等かそれ以上の工夫の凝らされた衣装を纏った文輝が松明の明かりで広間に浮かび上がった。彼もまた白磁の面を被っているが、こちらにはあまり装飾はない。
 民を思うがゆえにただの武人だった初代国主が立ち上がり、その人望から人を集め、いつしか国の形を成していく。
 九品というのは蜂起した国主に仕えた九人の武人がそれぞれの家の祖となっている。一番最初に仕えたのが李閏進。仮面を変えた晶矢が閏進を演じる。文輝と晶矢が交互にその出会いを朗々と謳うと李家のものたちは食い入るように演者の二人を見つめていた。高祖と敬い誇りとしてきた閏進を晶矢が演じるのをどう評価するのだろう。そんな心配をしてみたが、国生みの舞は九人の武人との出会いを順に九度繰り返す。棕若にとっての高祖である孫万旦もまた演じられるのだ、と気付いて李家のものたちの心配をしている場合ではないことを理解した。
 ただ。

「孫翁、愚弟が突拍子もないことを始めてしまって大変申し訳ない」
「仲昂殿は阿程殿の演じる戴陽翰に不満でもあったのかな?」
「不満も何も。十五にして一人十役。十分すぎるほどの度胸と力量ですよ」

 あれらは役者にでもなりたかったのでしょうかね。
 言って文輝の次兄である戴仲昂が困ったように笑った。
 仲昂の言う、愚弟である文輝の演技力と表現力もまた十分すぎるほどで、その演舞を通じて彼らがこの演目に特別な思い入れがあり、そしてそのことを誇っているという事実を理解しようとしていた。豪奢な衣装を身に纏って、美しく舞う。剣舞だから二人がそれぞれ雌雄の剣を一振りずつ持っている。その捌き方一つを取っても、武官として十分すぎるほど美しい所作だ。

「孫翁、あれは愚直でまだ手加減という概念を持ち合わせてはおらんのです」
「だろうね。でも、微笑ましいし、頼もしい、とも僕は思うよ」

 十五にして九品の一部であることを自覚し、それを誇れるほど理解もしている。
 初代国主に仕えた九人の武人のうち、四人はのちに文官に転じた。その筆頭が孫万旦――棕若の祖だ。いつの頃からか孫家は武器を手放して、智謀を捧げるようになった。そのことすらも誇りに思っていた筈なのに、位階や肩書に主眼を奪われて、いつの間にか妥協と迎合の毎日をただ流すように消費していた。
 人と人の間で生きる為には必要で、棕若の妥協と迎合の毎日には価値がある。それとわかっていても、正しさを正しさとして認知し、振舞う若人を見ていると棕若が失ったものを突き付けられているような感覚が生まれた。

「仲昂殿。若さというのは実に無限の可能性を秘めているものだね」
「そうですね。俺も国生みの剣舞を弟があんな風に解釈出来るのだと知って、実際、少し羨ましいと思いましたね」
「おや? 仲昂殿も十分に若いのではないのかな?」
「三十も過ぎて妻帯して子を成そうかという歳なんですが」
「それでも、君たちは幾つの歳になっても僕からは若造にしか見えないよ」
「それは、実に、何というか。手厳しいですね」
「耄碌した爺の妄言だから気に留めることはないよ」

 ただ。

「ああいう若人がまだ虎吼にも残っている、というのは誇らしいことだと僕は思う」
「孫翁。そういう感想は孫翁の胸の内に留めておいてやってください」

 でないと、愚弟はきっと舞い上がって失敗しますので。
 冗談めかして笑って仲昂が棕若の隣で立ち上がる。
 その頃には剣舞は終盤に差し掛かり、初代国主が白帝と剣を交換する場面を迎えていた。

「あの二人なら、きっとこの国をもっとよくしてくれる。そんな予感がありますよ」
「おや? 君はこの国をもっとよくしてはくれないのかな?」
「俺は兄上と違って戴家を継ぐという覚悟もありませんし、文輝のように真っ直ぐに道を進む覚悟もありません。ただ」
「ただ?」
「俺の暮らすこの国が平らかであるようにと願う気持ちだけはちゃんと九品の標準の範囲内ですね」

 言ってはにかむように笑った仲昂もまた戴家の直系らしい温かさを持っていて、棕若は安堵する。
 棕若の五十七年の人生は決して彩りに満ちた道のりではなかった。
 苦しいこともつらいことも、投げ出したいことも数えきれないほどあって、なのにそれらを覆い隠してくれる幸福感を差し引きすればどんなによく見積もっても、正負どちらにも傾かないと思っていた。
 それでも。
 気持ちがどこを向くのかは自分の心ひとつで決めることが出来る。
 そんな当たり前で陳腐なことを棕若は忘れていたようにも思う。虎吼の若人――文輝と晶矢の二人が熱演した剣舞が盛り上がっているのは、ここにいる誰もがその忘れていた感情と再会したからだ。人の心に訴えかけるだけの熱量を持っている彼らの存在はきっとこの国の為に良い方向に作用するだろう。
 硬い金属音が広間に響いて、終幕を告げる。
 仮面を外した文輝と晶矢が一礼をした瞬間、広間がどっと沸いた。
 人が成長をする瞬間、というのに立ち会えた喜びを虎吼全員で共有している。長い長い道のりの途中で、こういった彩りがあるのは僥倖と言って差し支えないだろう。ただの子どもと思っていた文輝たちが一人前の官吏としての自負を持ち、その自負に負けないだけの研鑽を繰り返している。
 国官としての残りの三年間を文輝と同じ中城で過ごすことが出来る幸福と、その残りの三年間で何か有意義なことを残したい。
 そんな気持ちを棕若に与えてくれた一夜が更けていく。
 ときは四月。花霞の頃。少し欠けた月の下、棕若はよき朋輩を得たことを白帝に感謝した。