全てを失くした、と思っていた頃のことをサイラスはまだかろうじて覚えている。
ソールズベリ子爵家の嫡男として生まれ、自由と安全と栄華を保証された日々だった。厳格だが筋の通った父。貞淑でいつでも優しかった母。そんな二人の人柄によるものなのだろう。使用人たちも皆、気さくで思いやりがあって、サイラスのことを慈しんでくれた。
あの頃の記憶は優しくて、けれど思い出すと切なさが胸を締め付ける。
幸せ、だったのだろう。満ち足りていて穏やかで柔らかな時間だった。
あの夜、あの大火の夜さえ来なければサイラスはきっと幸福の尊さを知ることもなく、ただ漫然と人生を過ごしていただろう。サイラスが九つになった年の春、ソールズベリ子爵家の屋敷、財貨、その全てを飲み込んだ炎の向こうに父母と別離した。父にも母にも兄弟はいない。サイラスが子爵家を継ぐのが道理だったが、どこからか話を聞きつけた縁戚を名乗る男がよくわからないうちに子爵家を相続した。屋敷の焼け跡から出てきた金庫――ソールズベリ子爵家の当主たる証を仕舞った小箱を開ける鍵を持っていた、というのが決め手だった。サイラスはそんなものがあることすら知らない。サイラスが全てを失うことが決まるのにそれほど時間は必要ではなかった。
親も家も、財産も人脈も。全てを失ってサイラスは市井に放り出された。
そのことを呪うだとか、嘆くだとか、振り返って固執するだとか、そういう類の気持ちはもうない。
全てを失ったと思った。だからこそ、サイラスは今、自由に学者の道を歩いている。
シジェドでは幾つかの地方都市に王立学院がある。主には貴族の子弟の為の学習院だが、建前上、平民の為の枠が用意されていた。一定以上の学力があれば入学試験を受けられる。合格ラインよりも更に高く設定された点数を越えれば奨学生として無料で講義を受ける権利を与えられる。家格も財力も関係がない。ただ、純粋に学問に向いていればその長所を伸ばしてくれる。
王都・ジギズムントには思い出があまりにもたくさん残りすぎていて、自分の気持ちを整理出来なかったから、サイラスは縁戚が僅かの同情で与えてくれた荷物をまとめて学術都市・ソラネンへと移住した。ソラネンの王立学院の入学試験は文句なしの満点合格だ。当然、奨学生に認定されて衣食住と学ぶ権利を保障された。
それが今から十年前の出来ごとだ。
それ以来、サイラスはソラネンで天才学者の道をひたすらに歩いている。
「それで? 今度はいったいどこの依頼を受けてきたのだ、リアム」
そんなサイラスにもいつの間にか友人と呼べる間柄の相手がいた。
リアム――ウィリアム・ハーディという名の北国から流れてきた年若い傭兵は年にふた月ほどソラネンの街に滞在するのが通例だ。旅をしているのか、と問うとこの国を巡回して人助けをするのが趣味だと断言したから、サイラスはこのお人好しの傭兵と交流を持つことを容れた。ただ、リアムは本当にふた月きっかりしかソラネンの街に滞在しない。まるで暦のような男だった。
サイラスが今朝早くに王立学院の研究室に顔を出すと、部屋のあるじよりも先にやってきていたらしいリアムが廊下で座っている。リアムが来たということは今年もまたサイラスの慈善活動が始まる、ということでもある。
詳しいことを聞くのに廊下というのも物悲しい。
サイラスは研究室の中へリアムを招いた。
書架の森と化しているサイラスの研究室にも応接という概念が僅かに残っている。小さなテーブルが一つと簡易の椅子が二脚。ただ、サイラスが暦をきちんと確認いていなかったから、応接セットの上にも書類が山積みになっている。それらを適当な――と言いつつ後で復元可能な位置に移動させてリアムに煮豆茶を出した。サイラスは煮豆茶があまり得意ではないのだが、シジェド国民の大半を占めるアルカソリオ系民族はこの茶がことのほか好きらしい。学会などで他地方を訪れるともれなく煮豆茶が振る舞われた。そういう一般常識を踏襲して出した茶をリアムは苦笑いで受け取る。曰く、お前って本当に律儀なやつだな、だろう。
自分の分の香草茶を淹れながら、リアムの今年最初の慈善事業について尋ねると彼は闊達に笑って答えた。
「地下水道の定期点検、だ」
ソラネンの地下には広大な地下水道が広がっている。地下水道はソラネンの南側を流れる河川へと合流するまでにある程度の浄化処置が行われるが、それでも地下には様々な生き物やモンスターたちが跋扈する。ある程度の間隔で定期点検を行う必要があった。
リアムは今日、それを引き受けてきたのだと言う。
「ということは害虫駆除か防鼠処置ということか。ならばお前と私だけでも十分だろう」
「セイならそう言うと思った」
「買い被ってくれるな。私は、お前の頼みを聞いているだけで騎士ギルドからの依頼なら引き受けん」
「でも最終的には騎士ギルドへ報告に行くまで付き合ってくれるだろ?」
「回収した素材がほしいだけだ」
地下水道に跋扈する有害な生物は大まかにわけて三種類だ。
害虫の類、害獣の類、それから無機物系のモンスター。この三種類の生物からは学術研究に必要な素材が採取出来る。ただし、採取した素材を持ち帰るには派兵元のギルドに習得申請をしなければならないという決まりがあったから、一部の商人たちは素材を高額で取引しようとした。もちろん、善良な大半の商人は適正価格で露店に並べているが、サイラスの研究費にも上限があり、素材の全てを商人から買っていたのでは遠からず破綻する。
だから。
素材を直接回収出来る地下水道の定期点検は、サイラスにとっても決して損な提案ではないのだ。
「で? いつ行ける? 俺はもういつでもいいけど」
今すぐでもいいし、昼飯を食ってからでもいい。サイラスの都合が付くまで待つ、と言外にあってリアムのこういった自己中心的な優しさのことが嫌いではないとサイラスは再認識する。
サイラスの職業は学者だ。古の魔術の解読と再構築を専攻としており、駆け出しの魔術師よりもよほど魔術を使いこなしているという自負がある。地下水道に赴くのに必要な術式は頭の中ですぐに正答が出る。ただ、魔術と言うのは媒介を必要とする。その素材がこの部屋の中の備蓄では不足していた。
昨年と一昨年の定期点検のことを思い出す。
その中で推移を予想すると、少しずつだが駆除する生物の量自体が増えているから、今年は昨年より少し多めに持っていく必要があるだろう。
「そうだな。少し待て。倉庫を確認してくる」
輝石と呼ばれる小さな石は魔術の詠唱に必ず必要だ。輝石一つで耐えうる術式の回数は大きさや輝きの強さによって違っていたし、術式の難易度によって必要な魔力の含有量も違う。ただ、ソラネンの地下程度であれば凶暴な害獣と出会う可能性は殆どないから、一番小さな輝石を持っていくのが妥当だろう。
そんなことをリアムの目の前で黙々と考えているとリアムはふっと表情を緩めた。
「セイってさぁ、本当にいいやつだよな」
「お前ほどではない」
「えー、俺は全然いいやつじゃないよ」
「ならばそういうことにしておいてやろう」
研究室内の壁にかけられた台帳を確認する。倉庫に輝石は十分にあるから五分程度で戻って来られるだろう。
その旨を告げるとリアムが言う。煮豆茶のおかわりがほしい、と。
ポットの中にあと三杯分はあるから好きに飲め、とサイラスが返すとリアムがきょとんとした顔をした。
「セイ、お前、割と本当に天才だったんだな」
「トライスターの称号を三年も守り続けているのだ。天才に決まっているだろう」
「えー、それ自分で言っちゃう? 言っちゃう?」
「お前にしか言わんよ」
トライスターというのは学者の名誉称号だ。毎年、冬の終わりに学者の論功を試す試験が行われる。試験が三分野にわたり、その分野の最高得点を記録した学者に「S(スター)」の称号が与えられる。それを三分野とも得ると「SSS」――トライスターという学者の最高峰にあることを示す称号に変わる。サイラスは十六の歳から現在に至るまで、三年間無敗のトライスターを収めていた。
そのサイラスからすれば、リアムが煮豆茶が好きなことも、煮豆茶のおかわりを要求することも想定の範囲内だ。そう言外に含ませるとリアムが破顔した。
「セイ、ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあお言葉に甘えて! 煮豆茶! いただき! ます!」
サイラスが硬質な音を立てて煮豆茶の入っているポットをテーブルに置いた。リアムが大袈裟に両手を叩き合わせて謝意を伝える。
煮豆茶はまだほんのりと湯気が立ち上がる温度を保っているようだった。
「ゆっくりしろ、リアム。今日は一日晴れになる予定だ。地下水道に籠もるにはちょうどいいだろう」
雨なら雨水が流れ込んで話にならない。曇りでも臭気が籠る。晴天が地下水道の定期点検に一番向いている。サイラスの宿舎と王立学院の研究室との間に天文館がある。天文館が観測した情報はソラネンの市民であれば誰でも自由に閲覧することが許されている。天気図は今日の降水確率は一割にも満たないことを示していた。そんなことを考えながら気休めを口にするとリアムはまたしてもぽかんとした顔をした。
「セイ、天文博士の称号までほしいのか?」
「寧ろ私は私の学識で得られるものは全てほしいのだが?」
「お前のその前向きな復讐、応援してるぜ」
「理解があって助かる」
サイラスは九つの時に全てを失ったと思った。
家族も、屋敷も、財貨も、地位も、名誉も全てなくなったと思った。
それなのにどうしてサイラスだけは生きているのかとフェイグ母神を呪った頃もある。生と死を司るなら責任を持ってサイラスまでも殺めていけと思ったことが何度もある。
それでも。サイラスはまだ今日も呼吸をしている。母神が何を思ってこの運命をサイラスに授けたのかは知らない。それでも、サイラスはまだ生きていて、今日の次に明日があることを願っている。
だから。
これはそんな運命を強いた母神への復讐だ。
サイラスは生きて、生きて、どんなに苦しくても生きて、ソールズベリ子爵家をかすめ取っていったやつが持っているよりずっと大きな名誉を得てやると決めた。家柄に囚われない未来を与える為の試練だったとか母神がのたまうのなら鼻で笑ってやろう。手酷い手段でしか人を試せないような神は存在するに値しない。神も人も関係がない。呪われたのだから呪い返す。その為の手段として人を傷つける道は選ばない。そんなことをすればサイラスもフェイグ母神と同類になるから、その一線だけは何があっても越えないと決めた。
だから、これはサイラスの前向きな復讐なのだ。
リアムはそれを知っている。知っていても、復讐が不毛だからやめろなどとは言わない。
そんな理解ある「友人」がいることの尊さもサイラスは知っている。
今ある充実は過去を溶かすだろう。喪失の痛みは決して消えない。それでも今日と明日を生きているうちに別の輝きを見出すこともあるだろう。
それが一年後のことなのか十年後のことなのか、サイラスは勿論、誰も答えを知らない。知らないが、人は生きている以上誰も同じ運命を背負っているのだから、自分だけが特別に不幸だとか嘆くのは無意味だからトライスターの称号を得たあの日、サイラスは悲劇の主人公の座を降りた。
定期点検に必要な素材を倉庫から調達して戻るとリアムは三杯目――最後の煮豆茶を飲んでいるところだった。置き場所を教えたわけでも、使う権利を与えたわけでもないに煮豆茶の褐色は白濁している。どう見てもサイラスの研究備品である粉末乳を使ったのは明白で、一歩間違えば劇毒を誤飲していたかもしれないぞ、と思うと溜息が漏れた。
その説教をして通じる相手か、サイラスは一瞬考えて溜息をもう一つ漏らした。
「リアム。報奨金が出たら酒場に連れて行ってくれ」
「おう、任せろ! 俺がお前の分も支払ってやるから安心して飲め!」
「馬鹿を言え。私は下戸だ。酒など飲めんと何度言わせる」
「じゃあ何だ」
「先週から旅の楽士が来ている。エレレンの名手だそうだ。一度聴いてみたい」
エレレンというのは中振りの弦楽器だ。流麗で繊細な音から、豪快で激しい音まで楽士の腕前によって表現の域は広い。現在では主に大衆音楽を奏でるのに用いられるが、宮廷音楽を奏でることもある。そのエレレンの名手がソラネンの酒場で演奏を披露している、と言われて興味を持たないほどにはサイラスも世間を倦厭していない。
ただ、一人で酒場に行くのが躊躇われたからリアムを巻き込んだ。
その旨を伝えるとリアムの両肩が落胆で下がる。
「はいはい、トライスターの学士さまはご健全なご趣味をお持ちで」
「リアム、お前も楽士を見れば意見が変わるかもしれん。何せ、当代一の美女だと学生たちが騒いでいたからな」
「美女? セイ、お前そういうことは早くに言えよ!」
意気消沈から興味津々へとリアムの顔色が変わる。どちらが健全な趣味だ、と揶揄ってやりたい気持ちに駆られたが微苦笑で打ち消す。
今年もまた騒がしい季節が始まる。
その面映ゆくてくすぐったくて、面倒で退屈で楽しくて輝いている明日をまだ欲している自分自身を知ってサイラスもまた笑んだ。幸福はどこにでも転がっている。そのことを教えてくれる友人がいる幸福を噛みしめてサイラスは研究室の扉にそっと鍵をかけた。
ソラネンの空は今日も青く澄み渡っている。