「如風伝」それは、風のように<五>

 内府(ないふ)・御史台(ぎょしだい)の中は文輝(ぶんき)が想像していた以上に広大だった。鏡面のように磨かれた石畳がずっと続く。左尚書(さしょうしょ)の回廊も随分長いと感じたが、御史台のそれは比べるべくもない。回廊のない右官府(うかんふ)の方が異質なのかと思うほど、果てが見える気配がなかった。
 楓が終わると竹、竹が終わると椿という風に季節を逆に追っていくように並木が変わる。その変化を興味深く観察していると晶矢(しょうし)が苦く笑いながら「首夏(しゅか)」と名を呼んだ。彼女自身も御史台の中へ入るのは初めてのことだろうに落ち着き払って凛としている。

「首夏、御史台の中が珍しいのか」

 珍しくない道理がない。内府の中に入るには正当な理由が必要で、たとえ九品(きゅうほん)といえどもそう簡単に許可が下りることはない。内府に三つある役所の中でもとりわけ御史台は敷居が高く、係累を辿っても戴(たい)の家に大夫(たいふ)――御史台の長官に公務で面会したものはいない。
 百六十年続く系譜の中で文輝がその最初の一人になろうとしている。
 この事実が心を浮かせないのなら、それはもう官吏としての名利を失っているのと同義だ。あらゆる意味で官吏然としている晶矢でも、幾ばくかは心が揺れるだろうと反論する。晶矢はそれに大らかに笑って答えた。

「暮春(ぼしゅん)、お前はどうなんだ」
「珍しいとも。だが、わたしはその好奇に勝る宿命を負っているからな」
「またそれだ。俺はてっきり、お前も『何の文を運んでいるかも知らない伝(てん)』の仲間だと思っていたんだがな」
「伝えそびれたことは詫びる。だが、今はときではない」

 左尚書の控室で彼女と対面したとき、文輝は晶矢もまた家格を盾に取った中身のない伝なのだと判じた。だが、事実はそれと異なる。右官府で爆発事件が起き、晶矢はそれを皮切りに伝ではなく、実権を持った使者として振る舞った。文輝一人が勝手に勘違いしていた。それを悔いる間もなく事態は進展している。

「なぁ暮春。お前は誰と戦ってるんだ」

 晶矢は本当に左尚書を相手に大立ち回りをする気なのだろうか。同じ九品のものである棕若(しゅじゃく)の面目を潰すのが彼女の本懐なのだろうか。文輝にはその辺りのことが今も理解出来ない。造反の証左を集めて左尚書に乗り込んで、左官(さかん)たちの非を糺して、そのあと、晶矢がしたい何かが見えてこない。大義は、と問えば晶矢の足が止まった。つられて文輝の足も止まる。晶矢の先を歩いていた棕若が興味深そうな顔で、彼もまた立ち止まって二人を見ていた。

「おまえにはいずれ知れることだ。先に言っておく」

 不意に厳しさを増した眼差しで晶矢が文輝を見た。その輝きの強さには可能性ではなく、確信が滲んでいて文輝は思わず及び腰になる。

「不安を煽るような言い方はやめろ」
「仕方がないだろう。おまえが幾ら大らかな性質をしていると言っても武官としての素養がある以上、この話を聞けば無関心ではいられまい」
「だから――」

 そういう不確定要素を切り取って誇張するのはやめろ、と反論するより早く、強く、晶矢が次の句を放った。

「首夏、これは国家の根幹を揺るがす可能性を持った事件だ。このまま黙認していればこの国は荒れる」

 国ならばとうの昔に荒れている。荒れていないのが首府(しゅふ)である岐崔(ぎさい)だけだということは幾ら半人前の見習い官吏といえども、文輝もまた承知している。だから、晶矢が言っているのはそのことではないのは理解出来た。
 ただ、それ以上のことが伝わらない。
 文輝が頭の上に疑問符を浮かべたのに気付いた棕若が回廊を少し戻ってきて会話に加わる。

「阿程(あてい)殿、小戴(しょうたい)殿に配慮したにしても表現が柔らかすぎると僕は思うのだけれど?」
「孫翁(そんおう)、事実をありのまま伝えても問題のない相手と問題がある相手の区別をなされよ。そこな小戴は九品の三男の育ち。ぬくぬくと守られて育った貴族の坊ちゃんに有事の重みは些か過ぎるとはお思いになれないのか」

 晶矢の言は表面上、文輝を庇う形になっているがその実小馬鹿にされているのとさして変わらない。同じ十七の中科生にこれほどまでに慇懃無礼な誹謗を受けるのは心外だ、と表情で伝えると、晶矢の顔色が曇る。彼女の失態を認知したのではない。文輝が棕若の挑発に乗った、という失望が晶矢の顔色を変えさせた。
 文輝もまた自らの失態に気付いたが、挽回の機会は与えられない。
 棕若が苦々しく言葉を続ける。

「九品の出ならば有事の重みに耐えるのが必定。僕は小戴殿も等しく現実を知る義務があると思うのだけれど、どうなのかな、小戴殿」

 挑発的な問いを向けられる。晶矢が眼差しで上手く躱せと言っているのが見えたが、そう出来るほど文輝はまだ成熟していない。九品の品格を盾に取られれば当然、それに恥じぬだけの振る舞いをしなければならない、という義務感に駆られた。

「それは岐崔をも災厄が襲う、という意味でしょうか」
「災厄と言えば災厄だけれど、天災ではないね。人が引き起こす。動乱だと言えば小戴殿にも伝わるかな?」

 その予兆を文輝以外の二人は知っている。文輝は安寧の岐崔しか知らない。動乱など峻険な山々の向こうだけで起こる、いわば伝聞の産物だと思ってきた。
 それが今、岐崔でも起ころうとしている。
 非常事態だということをようやく文輝も理解し始めていた。
 棕若が左官府(さかんふ)の全権を持って左官の潔白を証明しようとしている。晶矢はその疑惑の一欠けらを確証に変える為に詮議の場に出ようとしている。
 これは紛れもない有事だ。
 だが、いやだからこそ、というべきだろう。
 文輝の胸中には一つの疑問が浮かび上がった。

「敢えてお聞きしたいのですが、孫翁。その非常事態にこのように悠長に言葉遊びに興じている余裕があるのですか?」

 右官府で起きたのだろう事件の全容もわからない。左官府のどの官吏が何の罪科(つみとが)で罰せられようとしているのかもわからない。
 それでも、一つだけはっきりしていることがある。
 有事は文輝の理解を待ってはくれない。
 それを肯定するように棕若は静かに首を横に振った。

「ない、と僕は思っているよ」
「わたしもその見解に同意する」
「ならば――」

 先を急ぐべきではないのか。そう反駁しようとした文輝の言葉は棕若の微苦笑で遮られる。晶矢が呆れた顔をしていたから、多分彼女は棕若の意図を知ってそれでも文輝に忠告を与えたのだろう。
 棕若が不意に真剣な眼差しで射る。文輝は棕若の持つ雰囲気がぴりと引き締まったのを感じた。

「気を悪くしないでほしい。僕は君を試そうとした。そのことについては深く詫びよう。ただ」
「ただ?」
「九品の矜持がないのであれば僕は君を大夫のところへ連れて行くわけにはいかない、と思ったからね。もっとも、それは僕の杞憂だったようだけれど」

 物見遊山にはならない。棕若は言外にそう言っている。
 有事の重みを自らの目で確かに見る。その経験を与える為に文輝は同伴された。だから、遊びの気分はここで置いて行けと言われているのだ。
 遅ればせながらそれを理解した文輝は背筋を正して棕若に応える。
 晶矢の望みは棕若を論破することではないのだろう。その過程を経るかもしれない。それでも、その先には岐崔の益たる結論が待っている。二人はそれを確信しているからここに来た。

「状況はわたしと孫翁の陳述を聞けばおまえにも伝わるだろう。納得が出来たなら先へ進むぞ、首夏」

 晶矢が促し、三人は再び回廊を歩きはじめる。
 彼女のその覚悟と胆力はどこから来るのだ、と感心すると同時に家格の差と立場の差を感じた。世間は九品を一括りにするが、二人の間にはこれほどまでに距離がある。
 ほんの少しだけ無力感を覚え、そしてそれは感傷にすぎないと自嘲してかき消した。
 鏡面の石畳はまだ続いている。

 門兵の案内で辿り着いた回廊の果てには白木造りの正殿があった。案内はそこで終わり、門兵は階段の手前で叩頭する。棕若がそれを目線で受け止め、黙って段を上った。晶矢に続いて文輝も段を上るとそこには見たこともない荘厳な広間が三人を待っていた。
 言葉もなく、その光景を受け入れる。最上段に座っていた男が「大夫がお話を伺うそうです。中へ」と案内を引き継いだ。促された三人は揃って正殿の中へ踏み入る。室内は薄暗く、大夫が上座に座っていた。向かって左手に大夫付の通信士、右に副官が二人並んでいる。副官の後ろには大きな椋の扉があり、そこだけが何の装飾も施されておらず、豪奢な部屋の中で逆に存在感を持っていた。

「おかけになられよ」

 文輝たちが中に入ったことを確かめた大夫が上座で発言する。御史大夫(ぎょしたいふ)の位階は左尚書令(さしょうしょれい)のそれよりもやや劣る。にも関わらず、大夫が左尚書令である棕若に高圧的な態度を取れるのはひとえに棕若の管理能力を問うているという右官府からの書状があるからだ。御史台にとって疑わしき相手、罰すべき相手に振る舞うべき敬意はない。たとえ出自が九品三公(さんこう)であろうとも、平民であろうとも、関係がないし、位階の上下に臆すこともない。御史台の詮議の前には出自など大した意味を持たないというのを大夫は言葉一つで表した。
 棕若はその高圧的な態度に臆することも不快を顕わにすることもなく、用意された三脚の胡床(いす)のうち、前列に置かれた一つに座る。晶矢がそれに続き、棕若の右斜め後ろに着席した。消去法で残った胡床が文輝の場所ということになる。恐る恐るそこに腰を下ろすと、全員の着席を確認した大夫がゆっくりと口を開いた。

「『国家存亡の危機』を懸念して来られたとお聞きしておりまする。まずはその主張をお聞きいたしまするが、よろしいか」

 大夫の問いに「是(はい)」が唱和する。棕若と晶矢が一様に緊張感を持って詮議の開始を受け入れた。

「程案内官(あんないかん)殿。右官府は何を懸念しておらるるのでしょう」

 晶矢を阿程と呼ばず、肩書きが呼ばれる。大夫が晶矢を一人の官吏として扱おうとしているのがそこに見えて文輝は御史台の品格を感じた。呼ばれた晶矢もそのような呼称が用いられるとは思ってもみなかったのだろう。短く息を呑む音が聞こえる。それでも、流石は晶矢といったところか。彼女は次の瞬間に再び鋭い眼差しを取り戻し、自らが運んだ薄紅の内容を再び諳んじはじめた。
 大夫は顔色一つ変えずに晶矢の訴えを聞いている。副官の片方は書記官を兼ねているのだろう。訴えが記録として残されていく。棕若がそれをどんな表情で見ているのかはわからなかったが、彼の背中には確固たる信念が宿っているように見えた。
 晶矢の凛とした声が、捕縛すべき十五名の名を挙げる。
 そこで彼女の主張は終わった。

「なるほど、承知いたした。つまるところ、右官府は左官の造反により首府である岐崔の安寧が脅かされている、とお考えでありまするな?」
「包(ほう)大夫もよくご存じの通り、岐崔に入る為には三つの港を使うほか手立てはございません。工部(こうぶ)治水班(ちすいはん)が乗客及び船荷の検閲を行っており、環(かん)の提示がなければ貴賤を問わず、上陸の許可を出さぬ、というのが律で定められております。私(わたくし)が申し上げた内容は治水班より、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)へ報告が上がっておりますゆえ、疑わしき点がございましたら如何様にもお調べください」

 自らには何のやましいところもない、と晶矢が主張する。大夫はそれを聞き届け、通信士に内府典礼部へ緊急の伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばさせた。と、同時に副官の一人を傍らへ呼び、何ごとかを耳打ちする。副官はそれに拱手し、椋の扉から御史台へと続く回廊へと出て行った。

「案内官殿、貴官の報告では陽黎門(ようれいもん)及び宮南門(きゅうなんもん)の守衛の証言も上がっておりましたな。中城の警護は近衛部(このえぶ)の任。いかなる手段を以って右官府は近衛部の証言を取り付けたのでありまするか?」
「おそれながら、大夫。現在の近衛太史(このえたいし)は三公の一つ、和(わ)家ご出身であれば、岐崔に変異ありと陳情致したところ、快くお力をお貸しくださいましてございます」
「なるほど、貴官が九品ゆえ、可能だったと申さるるのでありまするな」
「いかにも」

 多分その問答は形式上だけのものだったのだろう。大夫は晶矢の言で納得し、追及の矛先を緩めた。晶矢が今、主張したことの全ては彼女一人でやったことではあるまい。彼女の上官や右尚書(うしょうしょ)の上級官吏たち、或いは程家当主である晶矢の母などが尽力した結果だ。文輝以外で今、岐崔に残っている戴の嫡流は次兄ひとりだが、九品に名を連ね、将軍位を得ている以上彼もまた今回の右官府の提言に関わっていると考えなければならない。
 そんなことをひしひしと実感していると文輝の視界で棕若が苦笑いの溜め息を吐いた。

「郭安州(かくあんしゅう)の文官が揃って叛旗を翻し、武官に抗う。その構図があり得ない、とは僕も断言することは出来ない。それでも、僕から言わせれば右官府の主張は穴だらけだ」

 そうだろう、包大夫。言って棕若は後方へ半身を捻った。文輝には完全に棕若の背しか見えなくなる。それでも、彼が静かに激しているのが伝わってくるのだから、棕若の視界に納まっている二人はよりいっそう苛烈な空気を感じているに違いない。

「大夫、僕の反論を申し述べてもいいかな?」
「お聞かせ願えまするか」
「勿論だとも」

 いいかい、阿程殿。棕若は聞き分けのない子どもに説くように晶矢の主張を否定し始める。

「そもそも、右官府の言っている『郭安州から上ってきた文官』が『突然に増えた』のはいつのことなのかな?」
「徐々に増えておりますので、一概に断定は出来ませんが敢えて線を引くとすれば十日前でございましょう」
「では敢えて問おう。郭安州から岐崔までの旅程は一般的にどのぐらいだい?」

 その問いへの答えもまた一概には断定出来ない。
 郭安州から岐崔までには通常二つの関と一つの過酷な峠が待ち受けている。
 地方官で上京の必然性があるもの、或いは十分な富を持つものであれば馬、及び宿舎を利用することが出来る為、最短では二十日ほどの旅程が想定される。だが、私事で上京するもの、或いは宿舎を用意するだけの富がないものは馬しか利用することが出来ず、旅程は十日延びるのが一般的だ。
 官吏ですらそれだけの日数を要する。優先的に関を通ることが出来ない残りの四環(しかん)であればふた月かかることもあるだろう。
 だから、一般的という抽象的な範囲で正答を口に出来るものはいない。それでも、晶矢は口を開いた。彼女が非凡である、ということを文輝はまた実感する。

「左尚書令殿が仰っているのは緑環(りょくかん)、それも国府に用向きのあるもの――即ち私が只今申し上げた十五名の場合でございますな」

 その事案であれば二十日、とお答えいたしましょう。
 晶矢は淀みなく応える。棕若はそれをも見越していたのだろう。「阿程殿は計算も出来ないとお見受けする」と皮肉さを隠しもせず、鼻先で笑った。

「郭安州の州牧(しゅうぼく)の報告が一様に『無事』であるようになったのはいつからかな? ひと月前ではあるまい」

 晶矢の主張では不審な文官が上京してくるようになったのが十日間ということだった。つまり、最短時間――二十日で郭安州から岐崔にやってきたのだとすると彼らの進発は三十日――ひと月と少し前のことになる。変異が始まったのだとすればひと月前にも何らかの兆候があったのではないか、と棕若は言っている。どちらの言にも反応を示さない大夫に代わり、晶矢が自ら答弁した。

「ひと月前に進発した緑環が一つ目の関に辿り着くまでが十日。その間、我々には異変を察知するだけの要素がございません」
「ではどうして二十日前に君たちは『不審な』緑環の通過を許可したのだい?」
「州牧からの返答が『無事』であったからに相違ございません」
「そう。それは致し方がないね。けれど、関はもう一つあるように僕は思うのだけれど?」

 十五名の文官は同日に岐崔に入ってきたわけではない。船守からは怪しまれるか怪しまれないかの際どい数に分散して船に乗ったという報告があった。ただ、一つの州からそう何日にもわたって続けさまに同じ色の環ばかりが上京することはあり得ない。
 そして、船守がその事態を異常だと感知する以前の問題として、二つ目の関で通過を許可しなければことは起こらなかった、と棕若は言っているのだ。
 晶矢の方も当然それは承知していたのだろう。棕若の言及に苦虫を噛み潰したような顔をして溜め息と共に次の句を継いだ。

「大変申し上げにくいのですが、件の十五名の緑環が二つ目の関を通った、という記録がどこにも残っていないのです」
「それは右官府の手落ちを認める、ということかな?」
「その点に関しては否定いたしますまい。ただ」
「ただ?」
「右官府は環の偽造を疑っております」

 晶矢の発言に正殿の中は一様に動揺した。晶矢、或いは棕若の主張を聞いているだけだった大夫の目の色が変わる。
 環の偽造は重大な罪だ。何人たりとも、たとえ国主その人であろうとも環を偽ることは許されない。出自、及び所属を証す環は偽りがない、偽れないという足場の上で均衡を保っている。間諜が持つ仮の環だけが唯一の例外だった。任務上、必然性があるから支給される。それ以外で環を偽ることは決して許されない。環の偽造が発覚すれば一族郎党死罪が申付けられる。
 西白国(さいはくこく)建国以来、百六十年の歴史の中には環の偽造を図った事例が幾つか残っている。その全てにおいて偽造した環は一つ残らず回収され、僅かでも偽造に関わったものは罰せられた。偽造は年月を経るごとに巧妙になり、現在では環を管理している典礼部でなければ真偽がわからないほどになっている。
 郭安州から上ってきた緑環が二つ目の関では別の色の環を提示していれば――殊にそれが流民の証たる白環(びゃっかん)であれば、関の通過は容易い。白環に記録されているのは血統と出身地だけだ。住居や職務が定まるようであれば他の五色の環に分類される。白環が関を通る為にはある程度の金銭さえあればいいのだから、誰かが何らかの意図によって組織的に地方のものを岐崔に送り込もうとしているのならそのぐらいのことは容易いだろう。
 環の偽造が真実ならば、一つ目の関を越える際にも白環を使えばいい、と晶矢たちも最初は考えた。文輝もそう思いながら晶矢の説明を聞いていると、ことはそう単純ではないという現実に遭遇する。

「偽造が行われたのが真実であれば、そこから先の可能性は二つございます。緑環が白環を偽ったか、白環が最初から緑環を装ったか。そのどちらであるかによって対応が全く異なる為、私ども右官府の手には余る、ということで左尚書に陳情させていただきました」

 そこまで言われて何故工部が左尚書に伝を出したのか、文輝もようやく理解した。白環の来歴を調べる為には典礼部に掛け合わなければならない。だが、緑環であれば左尚書に人事録がある。一つ目の関を通ったときに緑環の持ち主は身分を詳らかにした筈だ。そこから実在の人物であるかどうかを調べることが出来る。緑環が実在したのならば偽造されたのは白環、という順に仮説を潰してくことが出来るからこそ、工部は案内所を訪い薬科倉(やっかそう)の場所を確かめた「不審な」緑環の所有者の確認を伝で依頼した。万事形式が重要視され、何重もの確認の手順を踏まなければならない典礼部への確認よりこちらの方が解決までの道のりは短いだろう。
 そして。

「左尚書令殿、私の申し上げた十五の緑環の持ち主は実在しておりましたか」
「その質問へ一概に返答することは困難だね。でもはぐらかしていても何の解決にもならないのもまた明白。貴官が申し述べた十五名は左尚書の人事録に名が残っている」

 では、と晶矢が意気込む。それを棕若は眼差しで制して「話は最後まで聞いてほしいものだね」と続けた。

「右官府の訴状にある十五名は確かに存在している。これは嘘偽りのない事実だ。けれど、左尚書の記録ではそのものたちは数年、或いは十数年以上前にそれぞれ別の地方府へ配属になっている。左尚書が彼らに上京を命じた記録も、転属を命じた記録も存在しない、という事実もまた覆しようがない」

 だから、今、その十五名が岐崔にいる筈はないと棕若は言う。
 その主張が正しいのだとすると郭安州から上ってきた緑環すら偽造の可能性がある。となるといよいよ左官府、右官府の手に余る事態であることは間違いない。
 左尚書の控室で待っている間、晶矢はこの結末を予見していたのだろうか。このあまりにも重大な事件を知って、それでもなお文輝の雑談に応じていたのだろうか。
 答えは晶矢自身しか知らないが、それでも文輝にも一つの事実が見えた。
 晶矢も棕若もお互いの主張を矛盾なく解決する手段として御史台を選んだ。
 内府典礼部への白環の来歴確認。そこに至る為だけに晶矢は棕若と軋轢があるように振る舞い、そして御史大夫を巻き込んだ。それを理解した瞬間、文輝は今までに味わったことのないほどの緊迫感を覚える。

「つまり、貴官らは私を典礼部での手順を省く手段としてお使いになった、ということでありまするな」

 その声は感嘆にも諦観にも聞こえる。呆れの要素が一番大きかったが、それでも大夫は自らに求められていることと、今彼が何をすべきかは正しく理解しているようだった。
 確認の形で問われた言葉に棕若と晶矢が真顔で返す。

「そうだね、大変不遜ながらそうさせてもらったよ。初めからこちらの主張だけを伝えたのなら君はきっと鳥を飛ばすことすらしてくれなかった、と僕は思っているのだけれど?」
「環の偽造は重罪でありまするぞ」
「ですからこちらへ参りました」
「郭安州の関で提示された環の詳細をいただけまするか」
「是、こちらに」

 晶矢の懐から新しい桃色の紙が現れる。表書きの筆跡を見るにどうやら晶矢本人の手によるものらしい、と文輝は判断した。
 その桃色を受け取ることなく、大夫は更に言葉を続ける。次は棕若の番だった。

「左尚書令殿。貴殿の主張する『本来の』環の記録――も当然お持ちでおられまするな?」
「勿論。これがその写しだよ」

 こちらは若草色の紙で、左尚書の書記官がしたためたのだろう。文輝の知っている棕若の筆跡ではなかった。
 二つの書状が既に用意されている現状を受け入れた大夫が、ただの傍聴者で終わろうとしている文輝に一つの役割を与える。

「戴庶務官(しょむかん)殿、その二つの書状を運んでいただけまするか」
「は、是!」

 その声に文輝は起立し、桃色と若草色を回収して上座の大夫のところまで運んだ。用を終え、元の胡床に戻るのと前後して通信士の下へ若竹色の鳥が舞い降りる。文輝の位置からは見えなかったが、多分典礼部からの返答だろう。
 内府の復号は典雅だということを思い出して、少し期待したが通信士は略式復号を行い、伝頼鳥は瞬く間に一通の書状に変貌した。
 通信士が書状に目を通し、そっと大夫へ提出する。若竹色の中身を見た大夫は今度こそ苦難に顔を顰め重い息を吐き出した。

「治水班の報告は確認いたしましたぞ。案内官殿の陳述と合致した、とのことでございまするな」
「馬鹿なことを言わないでいただきたいものだね。典礼部の記録と上京した緑環の記録が合致する道理がないだろう。本来の緑環の持ち主は全く関係がない地方にいるのだよ?」
「典礼部の報告では左官府に『確かに』その緑環がある、とのことでございまするぞ」
「そんなはずがない。そんなことがあってはならない」

 もう一度、鳥を飛ばして環の偽造の可能性を考慮した調書を送り返してもらえないか、と進言しようとした棕若の言葉が途中で止まる。

「包大夫、まさか」
「左尚書令殿、そのまさかでございまするな」

 環は典礼部の「まじない」を受けており、持ち主以外のものの手に渡れば色も紋様も抜け落ちるようになっている。だから、環の譲渡や強奪は事実上不可能だ。
 環の色味は独特で偽造をするには同じように「まじない」を用いるしかない。
 「まじない」を使えるものの多くはその才を糧に国官を目指す。国官という肩書きにはそれだけの価値があるからだ。だから、才人は基本的に典礼部の官僚か通信士として国に属している。
 今までの環の偽造は記録に残っている限り、国官ではない所謂「在野」の能力者が「まじない」を施していた。晶矢も棕若も、大夫ですらその線しか考えていなかったが、今回の環にまつわる不祥事はどうやらその限りではない、という可能性が出てきたことで彼らは戦慄している。
 つまり。

「左尚書令殿、私の口から申し上げるのは大変遺憾でございまするが、典礼部にも内通者がいるようでありますな」

 偽りの環が正当な手段で作られているのなら、それを偽造だと断定出来るものはどこにもいない。その最たる例が治水班の船守と二つの城門の守衛だ。毎日何十何百という環を見ている彼らでも区別出来ない。
 内府典礼部に内通者がいる、というのはそういうことだ。

「包大夫、阿程殿の言う十五の緑環は間違いなく、この岐崔にあるのだね?」
「典礼部の通信士が内通者でない、という前提が今も有効ならばありましょう」

 御史台と典礼部は同じ内府の役所同士だが、お互いに行き来はない。御史大夫といえども、典礼部の詳細な事情には通じていないし、彼は今、自らが統括している役所の潔白をどうすれば説明出来るかという危機感に襲われている。典礼部がどれだけ腐敗しているのか。それはこの場にいる誰もが把握していない。
 棕若もそのことを承知しているのだろう。重い溜め息を一つ吐いて彼は言った。

「その『不審な』十五の緑環を捕縛してもらおう」

 決意に満ちた言葉に正殿の中がざわめいた。黙々と議事録を残していた書記官が筆を取り落とす。それぐらい、棕若の言葉は衝撃的だった。
 九品の一つ、孫家の当主にして左尚書令を務めている。棕若がそれをどれだけ誇りに思っているのか知らないものは中城の中にはいない。人を好み、才を見出し、官吏を守る。必要があれば彼は矢面に立ち、どんなときでも公正の為に戦ってきた。
 その棕若が偽りであるかもしれないとはいえ、緑環の捕縛を自ら進言する。
 文輝はまるで別世界の出来ごとを見ているかのような印象を受けた。
 彼の心中を図る余裕もない。それでも高官たちはすぐに正気を取り戻し、沈痛な面持ちになる。晶矢もそちら側に含まれていた。ただ、彼女も動揺しているのだろう。言葉遣いが普段通りに戻っている。

「孫翁はそれでいいのですか」
「御史台が文官を捕縛する。それは僕たち人事官からすればこの上ない屈辱だけれど、岐崔の安寧に関わるのなら話は別だ。そうだろう、阿程殿」
「建前は結構だ、孫翁。要は緑環の偽造が認められれば左尚書は難を免れる。律を犯しているのは環を偽造したものだけだ、という結論がほしいのだろう?」
「否定はしないよ、阿程殿。でも、一つだけ覚えておいてほしい」
「何を?」
「僕たち文官にも国を守る為には自らを危険に晒す覚悟がある、ということかな」

 柔らかい声で語られた一つの事実に文輝は胸を突かれた。背中しか見えない棕若が今、穏やかに微笑んでいることが声音から伝わる。棕若は真実自らの矜持よりも国の大事を選んだ。何もやましいことはない。だから、彼が庇護すべき文官を御史台に引き渡すことを受け入れた。御史台が必ずしも信じられる機関であるかどうかは既に誰も確かめられない。それでも、棕若は御史大夫を信じて左官府に御史台が立ち入ることを許した。

「さぁ、大夫。十五名、きっちり揃えてもらえるかな? 一体どんな顔で僕の庭を汚しているのか確かめたいものだからね」
「左尚書令殿、私は貴官の報復の道具ではありませぬぞ」
「それでもこれが君たちの仕事だろう? 御史台まで腐敗が進んでいる、だなんて言い訳は聞きたくもないね。君は君の矜持にかけて君の公務を遂行するんだ」

 それが出来ないと言おうものなら、棕若自らが言を実行に移してしまいかねない雰囲気だった。晶矢が隣で目配せをする。孫翁は本気で怒っているからこれ以上虎の尾を踏むようなことはするなと何重にも含んでいて文輝は顔色をなくして必死で首肯した。
 大夫が今一度大きな溜め息を吐いて手元の鈴を鳴らす。椋の扉の向こうで控えていた官吏が合図を受けて入室した。通信士が「伝を使いますか?」と大夫に確かめながら、一通の文を書き上げる。この正殿に入ってから二通目となる文だったが、それを見てようやく文輝は大夫が武官上がりだということを認識した。物腰、口調、声音、話の筋立て。どれをとっても文官上がりにしか見えなかったが通信士は普通、自らの上官の環の色の料紙を使う。薄紅の文は武官の証だ。
 大夫の出自を語る文はそのまま新しく入ってきた御史台の官吏の手に渡り、大夫が言う。

「一刻待って返答がなければ戻って参れ。手段の如何は貴官に一任する。刃傷沙汰もやむなしと心得よ」
「承知」

 言って薄紅を受け取った官吏が典礼部への伝として出立する。
 この部屋に入ってまだ一刻ほどしか経っていないのに部屋にいる一同は皆同じように疲れ切って倦んだ顔をしている。
 半身を捻っていた棕若が正面に戻り、大夫に言う。

「包大夫、我々にはまだ次の問題が残されているよ。阿程殿、君の懸念は環の偽造だけではない。そうだね?」
「是。続きましては午(ひる)に起こりました爆発事件の真相の究明をお願いいたしたく存じます」

 晶矢の目に再び強い輝きが宿る。どうして彼女はこれほどまでに強く、前向きに立ち向かえるのだろう。尊敬の念を抱く、を通り越して圧倒的な距離感を覚えるばかりだ。
 それでも。
 文輝はこの質疑の場にあることを許された。
 だから無駄に時を過ごしているわけではない。それはわかっているが気持ちが急く。文輝が学び取るべきことは何だ。そんなことを考えながら晶矢と棕若の口上を耳朶で拾う。
 中城では小休憩を知らせる鐘が鳴った。今日の御史台に休憩はない。質疑は今もまだ続いている。