「如風伝」第二部 九話

 委哉に教えられた通りの道順を守り、再び怪異の区画に立ち入る。沢陽口の城郭と怪異の区画との接合面を跨ぐとき、いつも不思議な感覚があった。委哉が言うには区画を形成している怪異が立ち入ることを許した存在かどうかを瞬時に選別しているからだそうだ。一歩進むだけの時間で怪異は文輝が委哉の招いた客人であることを認識し、受容する。沢陽口の城郭のものが誤って立ち入ろうとしても、怪異はそれを許容しない。怪異の区画を瞬間的に通り越して沢陽口の城郭と再接続されて終わりだ。招かれないものは決して立ち入れない。
 そんなことを茫洋と考えながら、文輝は湯屋の二階へ上がる。この数日ですっかり文輝たちの本拠地として認知され、怪異たちからもそう受け入れられてしまった個室に白瑛が座っていた。委哉と華軍の姿が見えないことを指摘すると典雅に微笑んだ白瑛が「茶屋へ行くとおっしゃっておられましたよ」と答えるので文輝は委哉に自分が言った小さな我がままのことを思い出した。この区画には黒茶はないのか、と文輝は問うた。西白国にあって最も一般的で文輝の世界にあった唯一の茶である黒茶を所望した。そのときは米茶では不満か、と問われて終わったが委哉は文輝の意を汲んでくれたらしい。茶屋でそう長く滞留する筈もない。ならばここで待つのが合理的だろう。そう判断して文輝は白瑛の斜向かいに腰を下ろした。子公は手洗いに行くと言って室内に入りもしない。名実共に個室の中は文輝と白瑛の二人きりとなった。

「小戴殿はどうして黒茶にこだわっておられるのですか」
「こだわってはない、と思うが」
「わたくしがまだ人であった頃は白茶、というのがこの大陸の定番でしたね」
「白? それはまた米茶以上に白湯に見えそうだが」
「ご明察の通り、白茶と白湯を見分けることは非常に困難でした。杯を近づけて香りで判別するしかなかったのですから」
「それは何から煎れるのか聞いても?」
「黒茶と似たような植物の葉と聞いています」

 黒茶は植物の葉を完全に発酵させてから乾燥させるが、白茶の発酵度合いは半ばだという。途中で止めて乾燥させる。そうすることで白茶は色が薄くなるが一杯の茶葉で何度も何度も茶を出すことが出来る。また、半発酵であるがゆえに生産開始から出荷までの時間も短く、農家はより多くの茶を生産することが可能だった。文化も物資も輸送手段も未発達であった過去の西方大陸において、黒茶のように一回きりで使い捨てる飲みものを愛飲する余裕はなく、朝用意すれば午も夜も使える白茶は大変重宝されたのだそうだ。

「ですから、わたくしからすれば委哉殿のお出しになる米茶というのは存外良いと思っております」
「いや、だから、俺も別に黒茶以外を飲みたくないと言った覚えはないのだが」
「そうでしょうか。菜館(しょくどう)でも小戴殿は黒茶をよく頼んでおられるようにお見受けするのですが」
「よくそんなどうでもいいことを観察しているのだな。飲み慣れているから飲んだ気がする。それ以外の理由は特にない」
「自国の文化に固執する。人の身ではよくあることでしょう? 小戴殿も副官殿も良くも悪くも人の域に収まっていて可愛らしゅうございますよ」
「あなたはそれが言いたかっただけだろう」
「あらあら。嫌味にもきちんと気付いていただけてわたくしとしても光栄です」

 それで、己が出自を誇りたいお二人は何の成果を得て戻ってこられたのですか。声色は美しく、透き通るのにその向こうから何かがちくちくと刺さる。この仙女が心の底から文輝を対等な存在と認めていないのが透けて見えて、その度に文輝は神仙の傲慢さを突きつけられる思いだった。強権的に何かを押し付けてくる存在。敬うべき雲上の存在で霞と同等だったときには曇りのない畏敬の念しか抱いていなかったのに、こうして対面してみると欺瞞的な存在であると認識を上書きするほかない。
 主語を大きくするのは文輝も本意ではない。神仙などと十把一絡げにしたところで様々な性格のものがいるのだろうということは察するに余りある。異教の神――怪異にしてもそうだ。文輝のことをあからさまに侮蔑して関わり合いにならないものもいるし、委哉や華軍のように冗談のようなものを交わすことが出来るものもいる。その中で何を信頼するのかは文輝のさじ加減一つにかかっていて、その根拠において人が人を信じるのと似たような基準があるのも何となく実感し始めていた。

「あなたが二十四白を探すのが一番、早い結論なのだと俺は思っているのだが」
「それは出来ません。『あれ』はわたくしの神気を知っておりますから、わたくしが近付けば『あれ』は余計に逃げようとするでしょう」

 ですから、ご自慢の策をわたくしにも教えてくださいませ。
 白瑛がその言葉を淡々と、起伏一つなく口にするのに間をおかず暖簾の向こうから鋭利な声が飛んでくる。子公だ。

「それとわかっていて罠を張るでもなく、対案を提示するでもない貴様が一番怠惰だという他ない申し開きだな、白瑛」
「子公!」

 あなた、で、白瑛殿、だ。何度目かもわからない訂正の言葉を口にしようとする文輝を文字通り眼光一つで黙らせて子公は深々と溜息を漏らした。

「白瑛、貴様の目的が何かはこの際どうでもいい。利用しているものに敬意を払うつもりすらないのなら、私はそこの馬鹿を連れて山を越える選択をするのも吝かではないことよく心に留め置け」