「如風伝」第二部 九話

 その台詞の次に続くものには心当たりがある。
 獣の身では不可能で、それを可能にするものを既に失ったという前置きがある。順接がそれらを美しく結ぶなら、結論は一つしかない。

「人の身に戻れるのですか?」
「お前は、本当にときどき一足飛びでものごとを理解する傾向にあるな」
「違っているのですか?」
「違わん。違わんが、もう少しこちらにも説明をさせろ」
「はぁ、そういうものですか」

 話の主導権を握っているのが誰なのか、というのは重要で大事なのだと華軍が溜息を漏らす。ここは戦場ではない。議場でもない。ただ利害関係が一致したものが情報を共有するだけの場だ。それでも誰の発案で、誰が言葉を紡ぐのかには価値がある。
 そんな説教じみたものを口にする華軍を見ていると、本当に時が巻き戻ったかのような錯覚を感じる。

「夕明(せきめ)殿、こやつは以前からこうなのか」
「そうだとも。中科で半年ほど付き合っただけの俺より君の方が詳しいだろう、副官殿」

 そんな悪口じみた賞賛が聞こえたかと思うと、不意に赤虎は引き締まった顔をする。
 何かを要求されるのだ、と本能的に感じた。文輝だけが持っていて、文輝だけに成し得る何かを求められるのだとわかってしまった。
 緊張感が文輝を襲う。その張り詰めた雰囲気を切り裂いて、華軍の柔らかな言葉が耳朶に届いた。

「俺の名を呼んでほしい」
「――えっ?」
「気付いていないとでも思っていたのか。『見えて』いるんだろう、お前には」

 それはどういう意味だ、と問うよりも早く文輝の脳裏に文字が明滅した。陶宵(しょう)。その文字列の意味など聞かずともわかる。華軍の名だ。その文字列の向こうに華軍の二十数年間が流れて消えるのも見た。三十年に少し足りないだけの昔、春の宵に華軍は生を受けた。読替を背負って、陶の氏を継いでいくだけの華軍にそれでも彼の両親は名を与えた。親と国主しか呼ぶ権利のない真実の名だ。華軍を育てた祖父母ですらその名を口にすることは許されなかった。劉子賢(りゅう・しけん)は多分、知っていただろう。それでも、その名を質に取ったりはしなかった。でなければ、成人する彼に華軍という字を付けたりはしなかっただろう。花の季節に生まれ、花とともに育つ、そんな人生を彼に与えたりはしなかった。
 だから、文輝は今、網膜よりももっと根源の部分で「見えた」ものが何なのか、理解が追いつかなかった。凛、と音が鳴る。土鈴の音だ、と思うと同時に文輝の唇は音を漏らさないまま華軍の真実の名を紡ぐ。陶宵。そう呼んだ瞬間、燃える体毛の赤虎から光が溢れて室内から全ての景色が消えた。その光は徐々に落ち着き、そして文輝の隣には在りし日の陶華軍の姿がある。
 そのあまりにも泰然とした姿に文輝はときが逆回りしたのではないかとすら思った。感傷が絶え間なく文輝を襲う。
 号泣の一歩点前で踏みとどまっている文輝を一瞥して、華軍は文輝の隣の椅子に腰を下ろした。その仕草は四年前と何一つ変わらず、彼が真実、陶華軍なのだということを全力で肯定する。本当の本当に泣き出したくて、文輝は奥歯をそっと噛み締める。

「名を呼んだ、ということがどういうことか、お前にはわかっているだろう」
「俺が、あなたのあるじだ、ということでしょうか」
「そうだ。一生に一人。二つあるじを戴かない俺たち右官にとってお前が最初で最後のあるじだ」

 今後、お前の為に身命を賭そう。そう言われて、当然のように受け入れるには文輝は未成熟だった。子公ですら文輝を軽んじるような態度を取る。そうしないと文輝が責を負いきれないと知っている子公の優しさなのだと文輝は気付いている。だから、文輝は子公の不遜を許した。許すことを許されているのだと知りながら、それでも文輝は許すしかなかった。

「ですが」
「怪異のあるじだ、なんて恥ずかしいのかい? 小戴殿」

 華軍が忠誠を誓う言葉を口にしたことに戸惑っている文輝に対して、委哉が横槍を入れてきた。
 嘲っているのでも、本当に哀れんでいるのでもない。揶揄われているだけだとわかっていた。なのに馬鹿正直に怒鳴り返す自分しかいなくて、文輝はそうなってようやくもう一人の旧友のことを思い出した。
 忠誠を誓い、頭を垂れ、拱手される相手の気持ちというのはこういうものだ。
 相手を無条件に降伏させるというのはこういうことだ。

「違う、そんなことはない」
「なら、あなたは何に気を揉んでいるのかな」
「どうして、俺に『見えて』いるのですか」
「俺が見えてもいい、と思ったからだろうな」

 それが怪異というものだ。一番逃げ道の多い答えが紡がれたとき、文輝はまた知った。陶華軍というのが真実、優しいだけの先輩ではなかったということと、その認識以上に華軍が優しかったということを。

「嘘は言っていない。現に、お前の目に委哉の名は見えんだろう」
「それは、そうなのですが」
「俺の名ももう見えん筈だ」
「華軍殿がそれを拒んだから、でしょうか」
「いや。俺の名が既にお前のものとなったからだ」
「意味がわかりません」
「わからずともいい。この先のお前の人生がいつか答えをくれるだろう」

 さあ愚かでとても聡い我があるじよ、望みを言え。その願いを全身全霊で叶えてやろう。その言葉が聞こえたとき、文輝はやっと本当の陶華軍の姿を見たような気がした。
 噂に伝え聞くより、精悍としているではないか。子公の小さな呟きを文輝の耳朶が拾う。誰も華軍が見栄えのしない小男だっただなんて語っていないだろう。心中でそう否定して、文輝は四年ぶりに邂逅する通信士の姿を見た。
 美男子とまではいかないもののある程度整った顔立ちを悪戯げに微笑ませて華軍が言う。

「それで? お前の望みとは何だ。水瓶でも汲みに行けばいいのか?」
「えっ?」

 想定してもいない問いが飛んでくる。文輝はおろか、子公ですらも束の間何のことを言っているのか判断に困ったが、流石は子公と言ったところだろう。文輝よりも先に正答に辿り着いて苦虫を噛んだように顔を顰めた。
 正答に辿り着けない文輝は馬鹿を体現して疑問符を頭の上に羅列するので精一杯だ。
 そんな二人の反応を喜んで、華軍の表情は更に喜色を増す。