「如風伝」第二部 十六話

 人というのは感情で動く生きものだ。
 理を説くものもいるが、それでも最後の最後に結論を定めさせるのは感情で、条件上全くの同格であれば二者択一を行うとき、直感──感情の好悪が優先される。そのことについて議論をする段階は遥か昔に終わった。この国が──西白国が始まった頃には既にそれは固定概念であり、人の世における真理の一つだった。
 だから。
 沢陽口の城郭の東側の土砂崩れの裾野に立っている人影を見てとると戴文輝は赤虎の背を降りた。
 「信天翁」の施したまじないは強力で今も十分に雨を弾いている。どこに保管してあったのか定かではないが、乾いた平服を身に纏えるだけで十分に文輝はありがたい話だった。その「信天翁」の思いを受け取って文輝はここにいる。雨土の匂いとなぎ倒された植物の青い匂いで充満している地に降り立つと遠目に見たときよりずっと悲惨な光景が広がっていた。
 隔壁が決壊した畑の畔に汚れ一つない姿で白瑛が立っている。彼女もまた多雨の影響を無視して髪も衣服も何一つ汚れてはいなかった。

「信梨殿、そこを退いてもらおう」

 白瑛が立っている畔はちょうど堆積物と元の城郭との境になっており、この崩れた山肌を登るには白瑛の存在を無視することが出来ない。争う姿勢はない。ただ、退いてほしいと伝えると多雨の中女仙はたおやかに微笑む。

「で、あれば白喜をこちらへ」
「それは出来ない。あなたに至蘭を引き渡しても何の問題解決にもならない」
「いいえ。白喜さえ戻れば後のことはわたくしがどうにかいたします」

 それはこの国が戴いた天帝を遥か以前から補佐してきたという矜恃が口にさせる暴論だ。
 白瑛がどうにかする。
 その言葉を何の疑いもなく飲み込めたらどれほど良かっただろう。
 天仙と天仙の諍いに首を突っ込むだけの覚悟を持った人間に出会ったことがない、と感じさせる傲慢に文輝は苦く笑う。白瑛がどうにか出来るのなら、どうして彼女はこんなところで突っ立っているのだ。白喜を生んだときのように天仙の威光を最大限活用して文輝に人であることを辞めさせればいい。それが出来ないぐらいには白瑛も弱っている。全ては人々が祈りという行為を手放した結末だ。
 どうにか、なんて出来やしないのだろう。
 至蘭に急場を凌がせて、その間に文輝を犠牲とする。
 どの道「無」か「死」かしかないのならどんな選択肢が用意されているのか。知りたいと思って何が悪い。
 その強気な判断を言葉にすると白瑛は文輝を鼻で笑った。

「具体的には?」
「それを小戴殿に明かす利はあるのですか? わたくしどもの定めに口を挟むのはおやめなさいませ」

 その返しには流石の文輝も失笑を禁じ得ない。
 得意げに胸を張り、文輝たちに威厳を示そうと努めてはいるが、所詮は人の祈りを失った天仙だ。天帝と共に滅ぶのが定めの存在に今更大きな顔をしていられるのも些か不愉快が過ぎる。傲慢と不遜で覆い隠してきた綻びはもう臨界点を超えた。今更、権威などで人の心を縛ることは出来ない。人にそれだけの文化と文明を預けたのもまた白帝なのだから。

「あなたたちの定め、とは随分と大きな目的語を使うのだな。その定めも人の祈りあってのこと。俺たちの感情が整わなければあなたも本領を発揮出来ない。勝手に人を蚊帳の外に追い出して自分たちだけで問題を解決できるかのように振舞うのはもうよしてほしいものだ」
「『神龍の一族』に何をどう吹き込まれたのですか? 天仙のことは天仙で解決するのが筋というもの。人の身である小戴殿のお役目はもう終わったのです。安全な場所にお退がり下さりませ」
「断る」

 柯子公というのはそういう理を超えた存在ではない。分を弁え、公平を重んじ、沈着に物ごとに向き合う、文輝などにはもったいなさすぎるほどの副官だ。「神龍の一族」に名を連ねていたとしても、本当に人ではない高次の存在だとしても、今は文輝の副官で、子公が彼の私欲のために文輝を利用する筈がないのだ。その信頼を疑うというのなら、今度こそ文輝は神になど祈る意味を見失うだろう。
 第一、安全な場所というのはどこにあるのだ。
 沢陽口の城郭は既に多雨の怪異に飲み込まれようとしている。
 重石が取れ、積年の恨みを晴らそうと猛威を奮っているこの豪雨の中、どこに安全な場所などあるのか。
 ここまでの荒天ともなれば湖水を渡ることも不可能だろう。今から岐崔へ逃げ帰ることは事実上不可能なのだ。
 ならば、最後まで戦ってから帰りたいと思うのが武官というものだろう。
 文輝は白瑛の猫撫で声を一蹴した。

「小戴殿が白喜をどう思っているのかはわたくしには測りかねますが、それは天仙なのです。天にあって陛下の御為に人の世の調和を保つのが役目。感情の機微などという甘えた戯言を口にして良いものではないのです」
「お言葉を返すようで申し訳ないが、それはあなた自身のことを言っているのか?」
「──今、何と?」
「陛下のため、万民のため。あなたはそう言うが陛下は本当にそんなことを願っておられるのか? あなたが、その耳で聞いたことはあるのか? ないのだろう?」

 白瑛は多分、白帝のことしか眼中にないのだろう。白帝が何よりも優先される存在で、白帝の為ならば何が犠牲になったとしても彼女は美しく笑っている。そんなふうに感じた。だから、白帝の威厳が保たれるのであれば人の命がどれだけ失われようと、誰が悲しもうとそんなことは些末なことなのだ。自分と白帝が在る。それだけは死守すべき命題で、それ以外の一切を白瑛は持っていない。
 それが愛なのか、恋なのか。或いは敬いなのか祈りなのか。形容することはまず意味がなく、ただ、白瑛は西白国が滅んでも白帝が在ればずっと微笑んでいるのだろうことに、文輝は気付いてしまった。