「如風伝」第二部 十六話

「あなたは一度だってわたしのことを顧みてはくれなかった。わたしが何かを学ぶことすら許さなかった。その結果が今でしょう? わたしは同じ過ちを繰り返すのはもういやだ。わたしは人の祈りの為にだけこの命を使いたいの」

 だから。神代のまま生きている白瑛の価値観に沿うことは出来ない。言って至蘭は十歳ぐらいの少女の姿から、もう少し大人びた姿へと成長する。祈り──信じるという概念が天仙の力となる。そのことを目の当たりにして、文輝は至蘭もまた高次の存在であることを痛感した。
 お待ちなさい。半ば叫ぶように怒鳴った白瑛を無視して、至蘭が半身を開く。

「首夏。行こう」
「待て、至蘭。役者が一人足りてねえ」

 そうだろう、委哉。空隙に向かってがなるとどこからともなく、少年の姿をした怪異が出現した。彼もまた雨に打たれている様子もない。神代の存在の前で人間など滑稽なほど小さな存在なのだと突きつけられて泣きたくなったが、今はその感情を精査している場合ではない。感傷に線を引いて無視して、文輝は委哉へと対峙した。

「小戴殿は僕のことなど、忘れているだろうと思っていたのに」
「お前が信梨殿に俺を売ったりしなきゃそうしたさ」
「仕方がないよ。僕としても飢餓ではありたくないからね」
「そのことについてお前を責めてる時間すら惜しい。『どこまで斬ればお前が食える』んだ?」

 文輝が知りたいのはその一点だ。
 崇高なる神々としての務めを主張するだけの白瑛ではもう話にならない。問題を解決する術はたった一つ。多雨の怪異の神威を斬って削いで可能な限り無力化する。文輝と委哉と至蘭の共同作業。それ以外の道はもう残っていなかった。

「雨を降らせる体力を奪ってくれれば、僕でも十分に食べられる。と、思う」
「思う? この期に及んでなお貴様はそんな不確定なことを主張するのか」
「仕方がないんだ、副官殿。白喜がこんなにも不在だったのは何千年も前のことで、僕たちだって驚いている」

 想定外の事態だ、と委哉は主張する。子公はそれに呆れているようだった。閉口した紫紺がこちらを見る。そこには憔悴がありありと浮かんでいて、それでも一柱の神か、と軽蔑しているのが窺えた。
 文輝に向き合った至蘭が彼女のを非を詰られたことに酷く傷ついている。
 そんな責任の在所の押し付け合いがしたくて問うたのではない。文輝は大きく息を吸った。土塊の匂いが鼻腔に充満する。嫌悪してもし足りないぐらい、酷い匂いだ。
 それでも。

「首夏──」
「要するに斬ればいいんだろ、斬れば」

 文輝が成すべきことが変わるわけでもないし、誰かが代わってくれるわけでもない。
 神を斬る神器は文輝をあるじとして選んだ。今更、新しい神器を調達している時間もない。ならば悩んでいるだけ時間の無駄だ。文輝が斬るしかない。神殺しの汚名を背負っても、呪を受けても、文輝がそれを成すしか問題は解決しない。
 沢陽口の城郭の命運を自らの命ひとつで天秤にかけて等しいというのなら。それは右官として誇るべきことだった。
 覚悟を決めて文輝は紅の双眸をゆっくりと閉じて開く。
 委哉が困り笑いの表情で文輝に問うた。

「多雨の怪異の姿は見えている?」
「いや」
「なら僕の眼も貸すよ。灰色の蜥蜴が見えるかな? それが多雨の怪異の本当の姿だ」

 言って委哉の指先がぼう、と光るのを見届けるや否や、文輝の瞼に刺激が生まれる。
 痛みに思わずもう一度瞼を閉じる。何かが眼球に馴染むのを待って再び開くと山頂の付近に向けてへばりついている巨大な灰色の蜥蜴の姿が見えた。
 黒い霧状の雲を纏った蜥蜴がじっと地上を見下ろしている。今からあれを斬るのだ、と思うと己の非力さに絶望しそうになった。前脚ですら文輝の身長をゆうに超えるだろう。何度も何度も斬り方を模索した。直刀の扱いは慣れている。長槍などとは違い、引くときに直刀はその威力を最も発揮する。突き破るのでも圧し斬るのでもない。戴家の調理人がするように、引き斬る。何度も何十度でも、文輝は自らの動きを思い描いてはかき消した。

「小戴殿? 難しそう?」

 断ち斬る瞬間を思い描いて、難しそうな顔をしている文輝に不安を感じたのだろう。少年の姿をした怪異が表情を曇らせる。少し大人びた風情の至蘭を見ると、彼女もまた祈られる側であるだろうに祈っていた。
 それを見ていると白瑛が大きな顔をして自らの正当性を主張してきそうで、文輝は少し迷いながら、それでも返答を口にせざるを得ない。