「如風伝」第二部 十六話

「──いや、何とかする」

 無理やり選んだ答えに、難色を示したのは子公で、文輝は自らのことを思いやってくれる副官の存在を頼もしく思った。無理も無茶も無謀も平然と押し通そうとする文輝に適切な歯止めをかけてくれる。子公以上の副官になどきっと巡り合うことはないだろう。
 怒声の形をした気遣いの言葉に文輝はおおらかに笑った。

「おい、文輝。貴様、よもや相打ちでも良いなどと思っているのではないだろうな」
「よく考えろよ、子公。そんなわけねえだろ」
「ならば良いが──」
「相打ちでもいい、わけねえだろ。相打ちなら上等、の間違いだ」

 折角、納得してくれそうだった子公の勘違いを正す。そうしない不実に文輝は耐えられなかった。誠実であるということは文輝自身の首を真綿で締め付けるように苦しめ、そうして周囲にも苦々しさを植え付ける。わかっているのに、表面だけを取り繕うことはどうしても文輝には出来なかった。
 振り返らずに自虐めいて笑う。文輝の平静に反比例して、子公の声が僅かに震えていた。

「──! 貴様、よくも抜け抜けと──!」

 死んでもいいと思っていた。
 この命一つで数え切れないほど多くのものを救えるのなら、そういう存在になりたいとすら思った。
 なのに、いざ死ぬかもしれない、と思うと恐怖で足が竦む。ここに立っていることにすら動悸がして、今すぐにでも岐崔に逃げ帰りたい。純粋にそう願った。それでも。文輝は右官の人生を選んだ。万民の為の矛であり、盾である人生を選んだ。自らの恐怖を優先して逃げ出したらきっと自分のことを一生許せないだろう。漆黒の鞘から凛、と土鈴の鳴る音が聞こえた。神器には魂が宿る。その、心ある直刀が文輝の勇気に応じようとしている。
 だから。
 一人ではないのだ。文輝は一人で全てを背負っているわけではない。
 多くの、余りにも多くの数多数え切れないほどのものの気持ちを背負ってここにいる。
 あの夜のように諾々と流されて後悔をするだけの経験なんてもう二度とごめんだった。

「いいか、子公。約束しろ」
「戯言で誤魔化そうとするな、この愚かもの」
「いいから。聞けよ。いいか? 俺が無事に帰ってきたら、お前の家族に俺を紹介しろ。そうすりゃ、俺は帰ってくる。腕がもげても、足がなくなっても絶対に帰ってくる。命を懸けた手札ってのは、こういうときに使うもんだ。そうでしょう? 華軍殿」

 文輝にそのことを教えた通信士の名を呼ぶ。いつの間にか彼は子公も畑の土の上に下ろして、人の形をしてこちらを見ていた。

「小戴。俺が言えた義理ではないが、お前はもう少し命を大事にしろ」
「していますよ。十分。生きていれば成せることがある、と華軍殿は俺に教えてくださいました」
「それが、相打ちで上等、の根拠か」

 相打ちで上等。それ以上の成果を望んでも心は臆するばかりだ。命を懸けてもいい。命の全てを使ってもいい。
 射程範囲の短い直刀を自らの得物として選んだときから、文輝は決めているのだ。馬上にあり、人に命令する指揮官になるのは諦めた。だから、長槍は要らない。泥まみれで最前線を駆ける歩兵隊であることを受け入れたのなら、技術ひとつで戦場に在れる切れ味の鋭い直刀でいいと思えた。
 その運命の岐路が間違っていないことを神器が示した。
 直刀の神器が文輝を選んだのなら。そこにはきっと意味がある筈だ。

「俺が兄上たちのように強くないことは自分でもわかっているのです。俺は三男で、甘えたがりで、そのくせ妙に要領よく立ち回るのに人から恨みを買わない、愛嬌だけの右官です。人に愛されることに慣れた、弱い人間なのです」
「知っている」
「ですから、愛されたのなら恩を返さねばならないのです。人の信頼を受け取ったのなら、それに相応しいだけの成果を残さねばならないのです」
「その理屈でいうのなら、お前より副官殿の方が余程恩を返さねばならんと思うが?」

 子公が文輝にどのぐらいの恩義を感じているのかは知らない。それでも。恩義だけで子公が文輝の補佐をしてくれているのではないと知っていた。
 子公がいて、悪辣な助言をくれて文輝は初めて前を向ける。子公が信じてくれる。その気持ちだけが文輝の顔を上げ続けさせた。両親でも兄弟でもない。ただの他人の文輝のことを信じてくれる存在に文輝はずっとずっと救われてきた。
 
「だから、子公。俺はお前に命じるんだ。この城郭で待っていてくれ。俺は必ず帰ってくる」
「──それのどこが報恩だ。結局のところ、私は貴様の心配をするだけが役目か」
「そうだ。お前が信じて待っていてくれると言ったら、俺はそれを信じる」
「なるほど、貴様は本当に心の底から甘い男だ」

 いいだろう。貴様が無事に戻ってきたら私の故国を案内しよう。貴様の上官がその余暇を許せば、だが。
 返ってきた声はまだ少し震えていて、それでも張りを保とうとしている。子公らしい強がりだと思った。不可能を可能にすることに何の躊躇いもないような顔をして首から下が傷だらけでも表情を変えない。そういう、矜恃のある副官を得られたことを誇りに思う。巡り合わせと、人の本質を見抜く目だけは文輝でも誰にも負けていないと自負していた。
 好きにしろ。根負けした子公がそう吐き捨てるのが聞こえる。交渉は成立だ。文輝は自らが成すべきことを決めた。
 だから。
 水たまりの中に足を突っ込んだまま成り行きに置いて行かれている美貌の天仙に声をかけた。