「如風伝」第二部 十六話

 苦笑しながらも華軍は文輝の望むように中空を駆けてくれた。背骨を超えて反対側へ。身体能力の高さを駆使してもう片方の後ろ脚も落とした。再び、どう、という音が響く。蜥蜴自身は声を持っていないのか、呻きすら上げない。もぞもぞと身を捩り、矢の隙間から逃げ出そうとするが、それが叶わないと知るや、自由になる尾を跳ね上げる。目を借り受けた状態の文輝であっても、俊敏に動く尾の切断点を見つけるのは困難でしばらくは蜥蜴に翻弄される。前脚を落とせ、と華軍は言うがその緊急性は高くない、と文輝は判断した。それよりも尾だ。尾が自由だから文輝たちの行動が制限される。

「華軍殿! 十数える間だけ、蜥蜴の意識を受け持ってはいただけませんか!」

 尾の切断点さえ見つかれば十分に勝機はある。それを十数える間に見つけられるかどうかは、正直なところ賭けでしかなかったがこのまま手を拱いて逃げ回っているよりはずっと前向きだろう。それに。子公が最初期に放った水色の矢が時間の経過につれ半透明化しようとしている。物理的な矢尻でない以上、半永久的に蜥蜴を留め置くのは不可能なのを察した。
 もう一度、子公に矢を射かけてもらう、というのも手の一つだが、子公が持っているのが神器の類なら相当に精神力を擦り減らしているだろう。愚直なまでの武官である文輝ですら神器を握る右腕がもう疲労を感じ始めていた。鍛錬の嫌いな文官まがいの子公にこれ以上戦闘に参加させるのは現実的ではない。
 頭上を足元を暴れ回る蜥蜴の尾に翻弄されながら、それでも文輝は必死に切断点を探した。
 華軍が呆れたように一笑に付して、そうしてごう、と吼える。

「結論が出ているのななら問うな! 他者の行動を制御したいのであれば、命じろ!」
「では遠慮なく! 任せました! 一!」

 言って文輝は赤虎の背を蹴った。空中に身体を投げ出して重力すらなかったかのように勢いのまま滞空する。二つ目を数えるときには頬のすぐ側を蜥蜴の尾が跳ねた。三つ目を数えてその尾の一部に手をかける。息を呑んで四つ目で尾の途中から断った。斬られた尾の先が霧散する前に文輝の横面を殴る。口腔の中が裂けて鈍い鉄の味がした。それでも、唾液ごと血液を飲み込んで文輝はまだ戦闘態勢を維持する。背びれのような棘を掴まえて、もう一度体勢を整えた。五、六。数えて刺すのが得意ではない直刀を光点に突き立てる。ここだ。確信を得て、文輝は滑るように直刀を引いた。尾の根元から右側の半分だけが削ぎ落される。反動が文輝を襲う。それでも、華軍が約束通り尾の狙いを引き受けてくれていたから、地に投げ出された次の瞬間には回転して足を踏みなおすだけの余裕があった。ただ、あばらが突き刺すような痛みを覚えている。折れたか。息はまだ吸える。致命傷でないのなら攻勢に臨まなければならない。再度跳躍する。それに合わせて華軍が中空を踏む。それを足場にして文輝はもう一段階、跳躍した。光点を刺す必要はもうない。骨が削げて見える、その場所を目がけて引き斬る。九、十。数え終わる頃には神器は蜥蜴の尾を根元から断っていた。
 轟音が響き、巨大な黒い靄に辺りが包まれる。少しずつ空気と馴染んで靄が薄れるのに従って、雨脚が弱まり始めた。怪異の神威が弱まっている。喰らうなら今だ。
 受け身を取った文輝の上空を越えて赤虎が疾駆した。

「華軍殿!」
「委哉! お前の出番だろう!」
「際どいけれど試してみるよ」

 空間移動でもしたかのように土砂の裾野へと疾駆した赤虎の顎が委哉の衣を咥えると中空へと放り上げる。少年の輪郭がじわり、と雨雲に滲んだ。かと思うと紅の色をした翼のある大きな狼へと変貌する。知っている。これは天馬だ。幼い頃、神話の中によく見た姿が目の前に顕現したことに文輝は息を呑む。

「委哉――?」
「言ったでしょう? 僕たちは食事がしたいだけ。あなたたちを害するつもりなんて最初からなかった」

 狼の姿で委哉が不敵に笑う。鋭い牙と牙の間から、聞きなれた少年の声に重なって低い声が漏れるのがどうしても不可解だった。重なった高音と低音の響きが遥か頭上から鳴って、のたうち回る蜥蜴を飲み込んだ。ごうごうと空が音を立てていたがしばらくするとそれが収まる。口元をどす黒く染めた天馬から小さな、文輝も現実に知る程度の大きさの灰色の蜥蜴が零れ落ちる。雨は――止んでいた。

「白喜。その大きさならあなたでも封じられるでしょう?」
「――あなたに指図されるのは不満。でも、わたしは首夏と約束したもの。ちゃんと自分の役目ぐらいこなしてみせるよ」

 首夏。呼んで少女の姿が光に溶けていく。ありがとう。至蘭の声が響くやいなや、凛、という土鈴の音と共に光が弾けて蜥蜴を包む。輝きが収束した後には雲間から射す光と――無残に抉られた山肌だけが残っていた。

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