「如風伝」第二部 十七話(完結)

「すまない。急用を思い出した」

 それはどんな用件か、と問うのも聞かず文輝は陽黎門を潜った。守衛の老いた方が先に我に返り「校尉! 手続きをお忘れか!」と怒鳴っていたがそれどころではない。環の不要になった西白国では代わりに入門台帳に手型を押す決まりになっていた。まじないの施された特殊な料紙に手を押し当てるとそのもの独自の生命の波長が記録される、ということだったが華軍から借り受けた目を持ってしても、文輝にはただの紙の綴りにしか見えない。そのことを華軍に相談したのは三ヶ月前のことだ。華軍はそのことについて、彼がその手続きとなるまじないを学んでいないからだ、と笑った。学んでいないものは見えない。そんな風にからりと笑う華軍を見ていると、彼は彼なりにここにいることを割り切ったのだと伝わってきて少しだけほっとした。
 文輝は今朝、陽黎門の外で待つようにとの指示だったからまだ手型を押していない。典礼部の才子たちといえども、記録されていないものを判別することは不可能で、そうなると守衛の職務怠慢を問われることになる。彼らが慌てるのも理解出来たが、文輝もまたそれどころではない。

「本っ当にすまない! 始末書なら代わりに俺が書くから諦めてくれ!」

 副官もいない。通信士の代わりをしてくれる赤虎もいない。そんな文輝に出来るのは大して良くもない頭を使って、どこが最短距離かを考えることぐらいで、内府で待っているだろう来訪者の顔を見る為になら、始末書の提出に明日の執務を独占されてもいい。心の底からそう思ってしまった。
 陽黎門は中城の東壁の真ん中にある。碁盤の目のように正方形に区切られた城下をその通りに走るとそれなりの時間を必要とする。
 だから。

「華軍殿の眼を借りっぱなしにしてると、こういうときは便利だよな」

 榛色の双眸を二、三度瞬かせる。その間に紅の光が灯もり、文輝の眼には華軍が辿った軌道が可視化される。手前の建物の壁を登って屋根の上へ。そうしてそのまま屋根伝いに直線距離を跳躍していく。猫の大きさではない文輝が通ると当然のことながら大きな足跡がそこかしこに残る。高楼の中層階で職務に当たっていた官吏の一人に見つかって「戴校尉! また貴殿か!」という苦情を食らっても今日だけは何も気にならなかった。
 人であるならば道を歩け。その言葉を文輝はもう何度聞いたか知れない。
 そのぐらい、華軍の眼を借り受けているということは人の世界の常識を超えた情報を文輝にもたらした。
 最後の建物の屋根の先から石壁を伝って内府の正門前へと着地する。正門の守衛は落下してきた物音に一瞬だけ長槍を構えたが、その正体が文輝であると見てとるや呆れたように声を漏らす。

「戴校尉。今日は主上のお言葉があるゆえ黙認するが、次は始末書を書いてもらうぞ」
「では二つ手前の角で降りてくることにしよう」
「校尉。肩書きのあるもののすることではない、と言っている」
「何を言っているんだ。肩書きがあるからやっているに決まっているじゃないか。そんなつまらない律令を少しでも減らせるのなら、俺は寧ろ願ったり叶ったりだ」

 あなた方にとっても、取り締まる対象が減るのは利便性が高まると思うが。
 開き直ってそう反駁すると守衛の二人は諦めたように大きな溜め息を吐く。
 そして。

「──開門。客人は王府でお待ちだ。行かれるがいい」
「感謝する」

 感謝はいいから律令の遵守をしろ。聞こえよがしにそう吐き捨てられても「頭は柔らかい方が生き易いと心得ている」と笑って済ませられた。お返しに、とばかりに後方を一切振り返ることなく大きな独り言を零すと今度こそ守衛たちは閉口したようでそれ以上の追撃は来ない。
 大理石の敷かれた鏡面のような路の上を多くのものが通ったのだろう。霜が水滴に変わり、軍靴の底と大変相性が悪く、文輝が右官でなければ今頃は何度も尻餅を着いていたのが想像に難くない。薄暗闇の中、石の白さがぼうと浮かび上がっている。それを奥へ、奥へと向かうとどんどん入り組んできて、華軍の通った軌跡がなければ間違った方向へ進んでいってもおかしくはなかった。
 紅の光となって続いてる軌跡を辿って、一度も迷うことなく王府の正門へと辿り着く。王府というのは王──国主の政と生活をする府庁でここで暮らせるのは一部の国官と女官、それから国主の家族だけだった。文輝のように肩書きがあってないに等しい程度の官吏が気軽に立ち入っていい場所ではない。
 なのに、今日、ここに来られたのは真実、来訪者が文輝の知己であり、二十四白の一である白瑛が言葉添えしたからだ。「小戴殿にも同席していただきたいのですがよろしいですね?」と白狐の姿をした石像が口を聞いたときの上官の顔は今でも鮮明に思い出せる。あれは息苦しくなった池の鯉が水面に顔を突き出して口を開閉させるのと本当に酷似していた。そのぐらい、突拍子もないことだったのに、文輝が驚きもしなかったのは雪栗鼠の神像をかき抱いて土砂に埋もれたという経験が成したものだろう。
 あのとき雪栗鼠の神像──白喜を守っていなかったら、きっと文輝も上官と同じように池の鯉だったに違いない。