「如風伝」第二部 十七話(完結)

「子公。逃げたいだけで俺の国に来るならやめろ。俺の国は逃げ場じゃねえ。遊び半分で国官になったとか言うなら、俺は絶対にお前を赦さねえ」

 どこにいても、何をしていても、成せぬ善は付きまとう。
 泰然自若を気取っても、理想を成すのには果てしもない壁が立ちはだかって、決して人生は自分の思うようには進まない。一人で壁と戦うのは余程の覚悟を必要とするだろう。共感を得られないのに独力だけで前に進むのは困難を極めるだろう。それでも。自分が自分だと言いたいのなら、成したいものがあるのなら、誰かの顔色を窺ってでも前に進まなければならない。
 進んだ先にどんな景色が待っているのか、その答えは誰も知らないが、知りたいと思うのなら道を選ぶしかない。
 文輝は自分の道を選んだ。
 この国の歯車となって果てる道を文輝は選んでしまったのだ。
 だから。不敬は処罰されるだろう。不実は処断されるだろう。
 子公と共に築いてきた校尉という肩書きも剥奪されるかもしれない。
 それでも、文輝は選んだ。

「子公。任期付きでもいい。いつかはお前の故国に戻るでもいい。それでも、お前が一瞬でも心の底からこの国の歯車になりてえと思ってくれるなら、俺はきっとお前を助けられる」

 言い終わらないうちに三人目の衛兵が現れて文輝の頭を蹴りつけた。

「いい加減にせぬか! 分を弁えろと言うておる! 初校尉程度の身分で朝議の間にあることを許されたのはどなただ。その方がおぬしに不遜な態度を取ることをお許しになったのか? 不敬にもほどがある!」

 非礼を詫びろ、と文輝の前髪を乱暴に掴んで石畳に擦りつけた。容赦ない勢いに文輝の額は敷き詰められた石に打ち付けられて酷い痛みを覚える。眉間に何か温かいものが流れる感触があったから、おそらくは出血しているのだろう。
 そこまでして、朝議の間は文輝の従順を求めている。
 国主がそれを止めることをしないのは容認しているからだ、と間接的に理解して国主の座にあることは伶世をも変えてしまったのだ、と遠く思う。人を治める為には友情などあってはならないのかもしれない。友好の情などを抱いて人々の先頭に立って歩くことは出来ないのかもしれない。
 それでも。
 そうだとしても。

「――子公、何とか言えよ」

 子公にとって文輝とはその程度の存在だったのか。信じてくれたから、彼は文輝を援けてくれたのではなかったのか。信じているから、再びこの国へやってきたのではないのか。
 その気持ちを抱き続けているのは文輝だけだったのか。
 頭を抑えつけられながらも文輝は抵抗する。その度に石畳に額を打ち付けられて文輝は少しずつ意識が遠のいていくのを感じていた。
 ただ。

「やめよ。余はそのような暴虐は望んではおらぬ」
「――しかし、主上!」
「そうです! 主上、規律は守られなければなりません!」
「余は『やめよ』と言うておる。それが聞こえぬのであればぬしらも不敬にあたるであろう。それとも、『耳でも聞こえなんだ』か?」

 凛、と土鈴の音が響いたかと思うと国主の流麗な声が聞こえる。御簾の奥から一歩も動くことなく、それでも彼女が静かに檄していることが伝わってきた。文輝の非礼に対する憤りだ、と衛兵たちは認識したようだったが、それすらも否定されて三人は困惑を顔に浮かべていた。

「耳の聞こえぬ衛士など無用の長物である。そこな三人には暇を申し付けようか」

 それが嫌ならば行動を改めろ、と言外にあり衛士たちは飛びのくように文輝から離れた場所で平伏する。お許しください。とそれぞれが額を地面に擦りつけて哀願するのを文輝は遠い情景を見るような気持ちで眺めていた。

「白瑛様。あなた様も。私はあなた様にそのように残虐を望んで同席していただいているのではございませぬ」
「この程度で壊れてしまうような脆弱なものなど、到底天仙足りえぬでしょう? わたくしは試していただけでございます。国主殿におかれましても、是非、お心違えのないよう」
「あなたは、いつも、そうだ」

 人を試しても何の罪悪感も覚えない。人の世はあくまでも白帝の統治に必要な原動力でそれ以上でも以下もない。白帝の為になら誰がどんな悲しみを抱いても、誰がどんな苦しみに責められても構うことがない白瑛の物言いに文輝は苦笑する他なかった。

「そうです。その榛色の輝き。絶望を知らない無垢な両目。小戴殿は本当に純粋であられますね」
「白瑛。俺の後輩にそれ以上無体を働けばこの大陸中の怪異をお前にけしかけるぞ」
「おお怖い。わたくしは何もしてはおりませんよ、赤虎殿」
「愉悦の感情に揺さぶられながら暴虐を看過したのでは何の説得力もないが?」

 小戴、意識はまだあるな。
 言って右側の座所から人の姿を取って降りてくる。かつての反逆者の顔を知るものはここにはいないらしい。獣が人の姿へ転変するのを目の当たりにして神威に怖じている。