中城(ちゅうじょう)は今なお混乱している。
平時であれば、右服(うふく)を着たものが左官府(さかんふ)の小路にいればそれだけで悪目立ちするものだが、今はその気配すらない。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の書庫に火が放たれたことで、工部(こうぶ)防災班(ぼうさいはん)から右官が派兵されてきたことが大きな要因となっているだろう。
王陵の入り口に辿り着くまでに、何人もの左官とすれ違ったが誰も文輝(ぶんき)たちを気にかけていないようだった。左官である棕若(しゅじゃく)の先導で迷うことなく最短距離を進む。怪我を負った文輝は勿論、二人の左官の足は重い。体を鍛えてもいない文官が中城を駆け回ること自体に無理がある。三人ともそれを理解していたが、足を止めてしまうものはいなかった。
大仙(たいぜん)が王府(おうふ)に辿り着き、戻ってくるまでに約束した場所にいればいい。焦る気持ちを抑え、三人は息を乱しながら駆けに駆けた。
大路の終着点、内府(ないふ)の正門の前では次兄が反逆者と相対している筈だ。出来るだけ大袈裟に騒ぎ立てて反逆者たちの気を引く。兵部(ひょうぶ)の師団がたとえ一部でも武装して対峙すれば、無視することは出来ない。或いは中城に散らばっている残りの内通者をあぶり出すことも出来れば一石二鳥だ。そこまでを望んでいたわけではないが、次兄のことだ。想定の内には置いているだろう。
それを信じて文輝は脂汗を流しながら走った。
大義姉に縫合してもらった傷口から再び血が滲み始めている。わかっていたが、決して足を止めることはなかった。
左官府に面した王陵の入り口は刑部(ぎょうぶ)の書庫の西隣になる。書庫には過去の判例や、審議の為の調書が保管してあるだけで、優先度は低い。都合五棟ある書庫は塀の内側にあり、通常であれば門兵が配置されているが、今は戸部の火災の善後処理の為に駆り出されているのだろう。人影は見当たらなかった。
その門の前、塀が少し窪んだ部分に文輝たちは身を寄せる。この小路に入る前に明かりは消した。足音を立てないようにそろそろと進んだから、まだ王陵の衛士(えじ)には気付かれていない。
そこまでをどうにか確認して、文輝は長い息を吐いた。
「孫翁、大仙殿が来られるまでに少し時間があります。ひとまずお休みください」
大仙が駆けて行ったのはこの場所とは正反対に当たる。間諜の足がどれだけ速くとも、再会までにはしばらく時間がかかるだろう。手負いの右官と左官二人。その足が遅くとも王府に潜入し、地図を得てくるのにはまだ早い。
その安堵から文輝は気を散じていた。
ぽかりと口を開けた土塀。その後ろには百六十年の賞罰を記憶した書庫。
門兵がいないのなら誰もいない。その状況に気が緩んでいた。
不意に暗闇の中から「首夏(しゅか)」と呼ばれて、文輝は思わず叫びそうになったのを必死に堪える。本当に叫んでしまわなかったことだけでも賞賛に値する、と思ったのは音の意味を理解したからだ。
「首夏、わたしが内通者ならおまえは既にこの世と別離しているぞ」
もっと慎重になれ。言われて振り返るとそこには声の主――晶矢(しょうし)がいた。憤然としながらも、小声で叱責されて文輝の鼓動は大きく波打つ。左の脇腹がひと際痛んだ。
「暮春(ぼしゅん)、来るなら来るって言えよ、お前」
「仕方がないだろう。『わたしの通信士』はいないのだから」
おまえたちの動向は知れても伝える術がない。不満を顕わにした晶矢が不意に横を向く。その横顔に浮かんでいるのは焦燥感と無力感だ。文輝も概ね同じものを顔に浮かべているだろうから、彼女一人を責める意味がない。
嘆息して、文輝は大きく息を吸った。疾駆と驚愕で乱れた呼吸を少しずつ整える。棕若がほうと溜め息を吐いた。
「阿程(あてい)殿、志峰(しほう)殿とは別行動だったのかな?」
右官見習いとは言え、女性が単独行動を取るのは問題がある。と言外に含めた棕若の嘆息に晶矢は「なるほど、老体に鞭打つ方が人道に沿っているのだな」と皮肉を返す。棕若と通信士は左官。唯一戦力として数えられる文輝は中科生(ちゅうかせい)で手負い。この顔ぶれに比べれば女性とはいえ、一人で中城を駆ける方が何倍も安全だと言外にあった。
その皮肉を棕若が曖昧な笑みで受け流すのまでが想定の範囲内だったのだろう。晶矢は別段気分を害した様子もなく、肩を竦めた。
「戴(たい)将軍の指示だ。志峰殿は戴将軍が伴われた」
「お前は今までどうしてたんだ?」
「陶華軍(とう・かぐん)の遺書の分析の補佐だ。要は右尚書(うしょうしょ)の雑用だな」
昨年の中科で書記官を務めていた彼女には適した任用だと文輝は受け取る。次兄はそこを見越して指示を出したのだろう。人を采配する立場にある次兄らしい判断だ。
右尚書にいるのなら確かに通信士は必要ない。右尚書令(うしょうしょれい)が国を売っていない限り、身の安全を危惧する必要もない。
そして、文輝が転送した華軍の文から何かが読み取れるのなら、それに越したこともない。
「何かわかったのか?」
期待を込めて問う。
晶矢が暗闇の向こうで苦笑したのが伝わってきた。
「わたしがいても何も進展しないということがわかった」
「暮春、悪辣な冗談を言っている場合じゃないんだが」
不意に湧いた頭痛に顔を顰めると、晶矢も不本意そうに溜め息を吐く。
「事実だ。母上に送った鳥の返答もない。銀師(ぎんし)は本当に静観を決め込むようだ」
程家の嫡子である晶矢の文をもってしても、程将軍を動かすことは出来ない。或いは晶矢が嫡子であるからこそ、程将軍が動かない可能性が残る。文輝は程将軍が王陵(おうりょう)の地図を手配してくれる方に賭けて大仙を走らせた。
銀師の静観が確定事項なら大仙の強行は無駄足になる。
そのことを一息で把握した棕若が先に口を開いた。
「それは確定なのかな、阿程殿」
「主上と宰相閣下は禁裏。右府(うふ)様は城下。内府様は公地(こうち)。指示の出しようがない。右尚書令殿が頭を抱えておられる。確定でないに越したことはないが『新王』を推されることこそが最悪の事態だろう」
「その『新王』は今どこにいるのか、君は知っているね?」
「公地の津(みなと)から上陸する予定だと御史台(ぎょしだい)の斥候が報告してきた」
今は河面に三艘の船が浮かんでいる。津の衛士は完全に混乱しているが、上陸の許可はまだ出していない。
それはつまり、文輝たちに残された時間が少ないということを意味している。
大仙の戻りを待つべきだ。わかっている。それでも気持ちは逸る。脇腹の傷がつきつきと痛む。軍医である玉英(ぎょくえい)にもう一度、処置をしてもらわなければならない。
焦りと緊張が判断力を奪う。
これ以上、棕若に駆け続けろというのは不可能だ。彼の通信士にしてもそうだろう。
そうなると文輝と晶矢の二人で王陵に飛び込んでいくことになるが、それは自殺行為だ。通信士を伴わず、内部の情報もない夜の王陵で迷わない確率、を計算すること自体が無意味だ。王陵の中は深い森になっている。
少なくとも、大仙の持って帰ってくる地図か、別の通信士――望ましいのは赤環(せきかん)だ――かのどちらかが必要だ。
「孫翁、この付近で信じるに値する通信士はどこにおられますか」
戦務長(せんむちょう)の企てが始まってから、幾つの環が偽造されたのか未だ定かではない。定かではないが、多くの通信士に嫌疑がかかっている。どの通信士を用いるのかを誤れば、動乱はより昏迷を極めるだろう。
だから文輝は人事官である棕若に問うた。
視線の先で、棕若が肩を竦める。
「緑環(りょくかん)であれば、息子たちが知っているだろう。そのぐらいの調べは済んでいる筈だ。ただ、君はそれを望んでいない、そうだろう?」
「王陵を俺たちと同じ速度で全力疾走出来る方であれば環(かん)の色が何でも構いません」
「その条件なら、黄(こう)将軍の通信士を待つのが一番早いと判じるしかないね」
文輝が何をしようとしているのか、棕若はもう気付いている。大仙が戻り次第、文輝や晶矢と共に通信士が王陵へ飛び込む。体力の限界を超えた棕若と大仙は王陵の前に残るしかない。棕若の通信士は文輝たちと同じ速度では駆けられないから、同道するだけ無意味だ。
地図と通信士、どちらか一方でも欠けてはならない。
だから今は待つべきだと棕若は言う。
文輝もそれは理解したが、解決には至らない。
返す言葉で晶矢に問うた。
「暮春、志峰殿は今どちらにおられるんだ」
「孫翁の鳥を受けておまえの小兄上(あにうえ)の通信士の一人を務めている。今から呼ぶのは黄将軍の通信士を待つのとさして変わらん」
「じゃあどうしろって言うんだ!」
焦燥が喉元から飛び出る。語気を荒げて、その切迫した音に文輝自身も少なからず驚く。棕若が文輝の両肩を宥めるように叩いたことで、ふと我に返る。晶矢が「衛士に聞こえるぞ」と声をひそませた。
「冷静になれ、首夏。お前は大仙殿を信じたのだろう。間に合うと思ったのだろう」
「そりゃそうだが」
「おまえの大義姉上(あねうえ)にしてもそうだ。孫翁から鳥を受け取って、のんびり歩いてこられるような方か。わたしは黄将軍をよく存じ上げないが、少なくとも動乱の岐崔にあって無条件に信じてもよい方のお一人だと思うが、お前は違うのか」
その問いには首を横に振ることで否定する。晶矢が言うのは正論だ。わかっている。冷静な顔をしているが、その実、晶矢も焦っている。それは彼女が通信士も伴わずにここまで赴いたことが証明していた。
わかったよと一つ息を吐いた。
「それよりも首夏。傷はいいのか」
「衛生班の下働きをした経験で言えば、非常にまずい」
「本物の馬鹿だな、おまえは。どうしてそれを先に言わないんだ」
「言っても何も変わんねぇし」
「馬鹿を言え。わたしを誰だと思っているんだ」
怪我の応急手当も工部総務班付き案内官の業務のうちだ。
非常に心外だという顔をして彼女は右服の懐から白布を取り出し、文輝に上着を脱ぐように求めた。その表情には否定を許さない強さがあって、文輝は自らが折れるという選択肢しか残っていないことを悟る。右官には有事の覚悟がある。今更、相手が年頃の乙女だから素肌を晒すのに抵抗があるだとか、気恥ずかしいことを言うつもりもない。
お互いそれは大前提として理解していた。
応急処置をしてもしなくても、玉英の到着を待つのなら大きな違いはない。それでも、失われる血は一滴でも少ない方がいい。
だから、結局のところ文輝は肌寒い気温の中、右服の上着を脱ぐことを選んだ。
棕若の通信士が何羽か鳥をやり取りする合間に、晶矢の手当てが終わる。業務のうちだと言った台詞に偽りはなく、衛生班に所属していた文輝の目にも彼女の手当ては適切に見えた。文輝自らの希望で、布を少しきつめに巻いてもらう。
そうして、焦燥と再び出会う頃、その気配が文輝たちの眼前に現れた。
「小戴」
切れ切れに文輝を呼ぶ声に目を凝らす。
暗闇の中に大仙の輪郭がぼうと浮かんで見えた。少しずつ鮮明さを持つ彼の姿は大きな怪我こそないものの、概ね満身創痍と呼ぶに相応しい。右官府の小路で別れたときとは全く違う衣服を身に纏っているが、その眼差しは何も変わらない輝きを放っている。地図が得られたのだ、と察するのに数瞬。そして、文輝は感謝の言葉を口にするより早く右手を差し出した。自らの血で汚れたその手のひらに一通の書状が乗る。この状況に置かれるのは何度目だ。既視感と安堵でないまぜになった胸中を無視して、文輝は書状を握る。
「大仙殿はここで孫翁を」
「わかっている。だが、小戴、お前が己れのあるじを損なうようなことがあれば、絶対に許さん。九品も戴家も律令も関係がない。己れはお前に必ず報いる」
大仙は報復の意で報いると言った。それは理解している。
だから、敢えて言った。
「前向きに報いていただけるよう、善処します」
「善処ではない。確約をしろ、この大馬鹿もの」
これだけ軽口が叩けるのなら、大仙はまだ戦力のうちに計算出来る。その確証を得て、文輝は棕若と対峙した。朱色の鳥が文輝の目の前で棕若の肩に舞い降りる。尾羽の紋が文輝の希望をいっそう強く輝かせた。
棕若が迷いなく伝頼鳥を復号する。彼の表情にもまた安堵が浮かんでいた。
「孫翁」
「黄将軍も、間もなく来られるそうだよ」
その言葉通り、東の方から二人分の足音が響く。王陵の衛士がその音に気付いて警戒しはじめたが、通信士を伴っていないことは既に確認している。衛士が内通者であっても、見習いも含めて五人の武官で取り押さえられない筈がない。棕若は書庫の前をそっと離れた。
「誰だ。当地に何の用があって出向いている」
「ここは王陵である。典礼部の許可なく立ち入ることは認められん」
二人の衛士が異口同音に進入を拒む。
それに臆することなく、棕若が対峙した。
「左尚書令、孫棕若である。非常の事態ゆえ、押し通らせていただこう」
「典礼部の許可はお持ちか」
「その是非は全てが終わったのち、この首をもって問うていただく。小戴殿、あとのことは君たちに任せたよ」
棕若の横顔が文輝たちを振り返り、目配せする。それを合図に、文輝たちは王陵へ向けて駆けだした。棕若のことは大仙がどうにかしてくれるだろう。
だから、今すべきはこの王墓を抜けて、当代の国主を守ることだ。そう言い聞かせて駆ける。背中の向こうの喧騒があっという間に遠ざかっていく。
「文輝殿、王陵の地図を」
その声に文輝は握っていた地図を玉英に渡す。彼女の通信士が「まじない」で明かりを灯し、二人が先導する形になった。道と呼べる道のない森の中を僅かな手がかりだけで駆ける。誰も何も言葉を口にしない。それでも気持ちは同じ方向を向いていた。
王陵の中は広い。中城の西側を占める王陵から国主の住まう禁裏までは最短距離を駆けても、四半刻はゆうにかかる。しばらく体を休めていたことで、幾らか回復していた文輝の体力もあっという間に尽きそうになる。それでも誰も足を緩めない。広大な森の中へ四人分の足音が吸い込まれては消える。いつ終わるとも知れない暗闇の中を駆け続け、そして、とうとうその石門が一行の目に飛び込んできた。
「大義姉上」
「衛士は私と彼にお任せなさい。あなたたちは一刻も早く主上のもとへ」
玉英と彼女の通信士が文輝たちを残して先に門へと飛び込む。門柱の両側に立っていた二人は言葉を発する間もなく、二人の右官に拘束された。速度を緩めることなく、文輝と晶矢はその間を駆け抜ける。再び現れた石畳の上を全力で疾駆すれば、靴音が暗闇に響いた。
玉英の脇を通り抜ける際に、文輝は王陵の地図を再び受け取った。その裏に禁裏の地図が書かれている。非常事態に見舞われた禁裏はあちらこちらに松明が灯されている。通信士の明かりがなくとも、十分に駆けることが出来た。
「暮春、津(みなと)か」
「津へは次の角を北だ」
その指示通りに角を曲がる。そのあとも地図の通りに禁裏を駆け続けた。
しばらく駆けると城壁の向こうから人の声が聞こえる。津だと二人は直感したが、地図を見ると次の門扉がある場所まではまだ遠い。だが、城壁は文輝たちの伸長を遥かに超え、とても登れる高さではない。二人は顔を見合わせ、逡巡した。次の門扉まで駆ける方が早いという結論に達し、駆け出そうとすると不意に人の気配を感じる。内通者かと思い、身を固くした。中科生二人では分が悪い。最悪の事態が二人の脳裏をよぎった。
が。
「判断を逸るな、若人よ」
松明に照らされたその顔には確かに見覚えがある。彼が内通者であればこの国はもう滅んだに等しいから、疑うのは馬鹿げている。それを一拍で理解して、文輝たちは警戒を緩めたが、同時に別の意味で緊張感を強いられた。
「宰相閣下であられますか」
「いかにも。私が黄碌生(こう・ろくしょう)である」
その名乗りに二人は脊髄反射で拱手し、膝を折る。雲上人に対して顔を上げていられるほど、文輝たちは無礼ではない。九品の子息として生まれたその日から、礼儀作法はとことん叩き込まれた。今、文輝が相対した初老の男は間違いなく宰相で、この後宮に立ち入ることを正式に許されている。律を破り、無断で侵入した文輝たちはこの場で首を刎ねられても文句は言えない。生家である九品もまた、そのことに抗議する権限すら持たない。
だから、膝を折った二人は正真正銘、その命を懸けて宰相に相対した。
宰相が二人の頭上で「よい、面を上げよ」と鷹揚に言う。礼儀を守れば、文輝たちはあと三度、同じ言葉を聞かなければならないが、宰相の声はそれを求めてはいなかった。視線で晶矢とやり取りして、間をおかず揃って顔を上げる。
儀礼の際に段上で見た尊顔が目の前にいる。そのことに緊張しないものがいるのなら、それはきっと国主一人だけだろう。
宰相が問う。
「九品の子息が揃って造反というわけでもないだろう。禁裏に何用か」
返すべき答えのわかりきっている問いだった。それでも問われたのだから答えねばならない。今度は目配せすらせずに同じ文句を揃って紡ぐ。
「主上をお助けに参りました」
中科生の分際で生意気だと言われてもよかった。
お前たちに何が出来ると嗤われても構わなかった。
多くの人間の気持ちを背負って、文輝たちはここにいる。戦務長に真意を問いたかったのではないかと聞かれると否とは答えられない。疑いたくないという気持ちもまだ残っている。
それでも、文輝は官吏である以前に、国主が治める民の一人だ。
戦務長が引き起こしたことで多くの民が災厄を被った。万民、万官。その代表で来たなどと傲慢なことを言うつもりはない。
ただ、自らが拝戴したものを守りたいという気持ちに偽りはない。その正道の為にここまで来た。戦務長がしてきたことは、文輝の守るべきものを傷つけている。文輝は自らの為に民を犠牲にする道を選ぶことは出来ない。自らの為に犠牲になるべきは自らだけだと確信している。
だから。
「そなたは右将軍も持たぬ主を拝戴すると申すか」
宰相の問いに晶矢が躊躇いなく答える。
「それでも主上は二十五年間、我々のあるじであられました。陛下のお心がないのであれば、いっときたりともそれは許されなかったと存じております」
「陛下が変革を望まれたとは思わなんだか」
「閣下はご存知の筈です。主上に、あるじたる不足はございません」
「その理由をきこう」
「大義名分に酔い、無為に民を傷つけ、自らをのみ顧みるものを陛下は望まれません」
それとも、閣下は主上を拝戴することを拒まれるのですか。
挑発めいた問いで晶矢が言葉を締め括る。彼女の視線と宰相のそれが重なり合ったまま、数瞬がすぎた。
そして。
「よい。九品を疑った私が間違っておった。そなたらは実に不思議よ」
息をするように正道を説く。私もその生まれがあればと何度望んだことか。
宰相が不意に表情を緩めた。その眼差しの中には慈しみがある。ほんの少し、羨みもあった。その全てを正面から受け止めて、文輝たちはゆっくりと立ち上がる。
「閣下、主上は今、いずこにおられますか」
「主上は後宮におられる。『新王』を名乗るものが津から上がったという報があった。そなたらも共に来るがよい」
そして見定めろと言われているのだろう。「新王」に会って、それでも九品が当代の国主を選ぶのか。試されているような気がした。
銀師――晶矢の母は静観を選んだ。お前はどうする。問われた晶矢はぐっと胸を張ることで答える。それにつられて文輝も顎を引いた。宰相の眦が不意に細くなる。
それは一瞬のことで、次の瞬間には彼は冷徹な能吏の顔をして文輝たちの地図とは異なる方向へ歩き出した。
「閣下、津へ行かれるのでは?」
「こちらの方が近い。そなたらの持っている地図は銀師に用意させたのであろう? あれらには知らぬ道があるのでな」
宰相しか通れない道があるということも、静観を選んだ筈の銀師が王陵や禁裏の地図を流出させたことを見抜かれていることも、二人を困惑させたが、今悩んでいい問題かどうかぐらいの分別はつく。あとで大仙や程将軍から叱責を受ければ済む話だと片づけて、二人は宰相の後を追った。
津では三人の男と十数名の官吏たちとが睨み合っている。貴色である白襟の官服を身に纏っている方が禁裏の官だ。それを裏付けるかのように、攻囲された三人のうちの一人はよく知る顔だった。
「戦務長」
呟いた声が絶望に近い響きだったことに文輝自身すら驚く。
心のどこかで、華軍も戦務長も無実であれと願っていた。この動乱自体が何かの間違いで、二人は利用されただけだと信じたかった。
だのに現実は非情だ。見間違えることのない上官の顔。彼らの後ろに控えるのは九尺の大男で、筋骨隆々としている。その一番奥で偉そうにふんぞり返っている、少なからず気品を持つ男。誰が誰かなんて問うまでもない。
それだけでも十分に絶望出来る状況だったが、戦務長が盾のように羽交い絞めにしている少女の姿を見て、文輝は絶句した。
どうして。唇が音を紡がずに空を切った。
文輝が視認したのと前後して、少女の方も文輝に気付いたのだろう。切実な声が文輝を呼ぶ。
「小戴殿!」
その声には十二分に救助を求める響きがあって、文輝は不意に胸を打たれた。どうして伶世(れいせい)がここにいるのだろう。彼女はただの女官見習いの中科生で、文輝よりよほど分を弁えている。そういう結論に達して、彼女を戦務班に残してきたのではなかったか。記憶を手繰って、何度確かめてもそれ以外の答えが見つからなくて、気付けば文輝は叫んでいた。
「戦務長、伶世は関係ないはずだ!」
戦務長がどうして国家転覆を願っているのかは知らない。彼の後ろに控えた右将軍を名乗る男も、その後ろで状況を見ているだけの男も、どうやって戦務長と知り合ったのか知らない。文輝は岐崔の外のことを何も知らない。
それが罪だというのなら、直接文輝に問えばいい。
それでも。そうだとしても。
国主や国官と対峙する盾として、無関係な少女を用いるだけの正当な理由を文輝は知らないし、知りたくもない。憤りが胸中に満ちた。
文輝が顔色を変えたのに晶矢が気付く。背中しか見えない宰相は怒りを通り越して呆れているようだった。
「首夏、彼女は誰だ」
「岐崔で十代続く由緒正しい農家の娘だ」
中科が終われば、別の農家へ嫁ぐことが決まっている。女官見習いは花嫁修業だと告げると晶矢は怪訝そうな顔をした。
「その肩書きでは人質としての価値を見出せないが?」
その意見には文輝も同意する。だとしても、現実問題として伶世は人質に取られているし、禁裏の官吏たちは伶世を見捨てるわけでもなく躊躇している。戦務長の主張する真なる国主の扱いだけに困っているのではないことは明白だ。
国主と宰相を守るのが禁裏の役目なのだから、民間人の少女一人を切り捨てるのに迷う必要はない。国防の為の犠牲にいちいち心を痛めるのは後で十分に間に合う。
それでも、官吏たちは伶世の存在に動揺している。
文輝と晶矢の逡巡を嘲笑うように戦務長が一歩前に進んだ。
攻囲していた官吏たちが同じだけ後退する。違和感しかないその光景の中心で戦務長が嘲笑った。
「小戴、九品とは哀れな存在だな」
九品であることに縛られ、人よりも優れていると誤解し、全てを手のひらで転がしているつもりでその実何も知らない。初代国主に付き従った譜代の将たちは真実名将だったかもしれない。それでも、文輝はおろか程家を継ぐはずの晶矢ですら知りえない事実がある。
宰相と禁裏の兵たちはそれを知っている。知っているから、血相を変えて誰かの指示を待っている。その間にも戦務長はまた一歩前に進む。攻囲はまた一歩後退した。
「閣下!」
背中を見せたまま何の指示も出さない、この場の最高責任者を呼ぶ。宰相は「中科が終わればそなたらにも知れること」と言いながら文輝たちを振り返った。その眼差しには複雑な色が浮かんでいる。
「そなたらが農家の娘――『方(ほう)伶世』だと思っているあの方は、主上の姫君であられる」
「主上の」
「姫君、だと?」
宰相の言葉が持つ重みに文輝と晶矢は顔を見合わせる。歴学の講義で国主の子に女はいないと教わる。今年齢二十になる太子(たいし)を筆頭に男子ばかりが世に生まれた。御史台で文輝たちの横面を強か殴りつけた新しい現実が、今一度襲ってくる。歴学の講義は何の役にも立たない。
宰相の言う通り、国主に娘がいるのなら匿う必要はない。女子というのは概ね婚姻による政略を担う存在で、西白国にあってもそれは何ら変わりない。まして国主の娘ともなれば外交の駒として利用されるのが当然だ。
首府で暮らす以上、農民といえども一定の格式はある。
だとしても、国主の娘という立場を伏せ、農家で育てることに何の意味があろうか。
そのことが文輝たちの表情に浮かんでいたのだろう。宰相が若干の淀みを残した声色で語る。
「そなたらも知っておろう。主上は二十五年もの間、御身の正当性を自ら問うてこられた」
純血の白氏ではない、右将軍を伴わない。朱氏の血統を現す色味の明るい瞳。その瞳に何を映し、何に心を痛めてきたのかは国主自身しか知らない。宰相が知っているのは、国主が憂えているということだけだ。その痛みの程度も、悩みを解決する術も国主以外には見つけられない。宰相はその二十五年、痛みを抱え続ける国主に寄り添ってきた。
宰相の淡々とした言葉を遮って、暗闇に嘲笑が飛ぶ。誰のものかは確かめずともわかる。戦務長がまた一歩前に進んだ。
「滑稽なことだ。俺が今日、ここに来ることを知っていたとでも言いたいのだろうが、それがわかっているのなら速やかに王位を奉還するべきだろう。二十五年もの間、自らを偽っておいて今更偽善者ぶるなどと甘えも甚だしい」
ただ娘が可愛かっただけだ。欺瞞だと戦務長が切り捨てる。宰相がわかりきっているだろうに戦務長に問う。そなたの望みは何だ、と。
「陛下の寵を受けていない偽りの国主の廃位と、本来そこにあるべきものへの祝福。民を偽った国官の一新。俺が求めているのはその三点に尽きる」
「右将軍を伴うその男が新王であると?」
「いかにも」
先の国主が朱姫(しゅき)を訪った際に下女と身分違いの恋をした。その証が新王を名乗る男であり、新王は白氏の血統を保っている。白帝の与えた右将軍を伴っているのが、その最大の証明だと戦務長は主張する。
右将軍を右将軍足らしめる要件を文輝は知らない。
文輝の生まれたときには既に現在の国主の治世になっており、右将軍の姿を見たことがない、というのが最大の理由だ。右将軍が右将軍と称するその名の通り、右官――武官の最上位にあるとされる。だから、右官に任命されたのなら無条件で右将軍を敬う。その、志すべき最上の存在を知らずに文輝は十七になった。
父や兄たちは右将軍を知っている。知っているが、彼らが現在の国主が右将軍を伴わないことを批難したことは一度もない。それをもって、文輝は現在の国主を自らが奉戴すべきあるじであると認識したし、今でもそれは変わっていなかった。
大仙に問うた言葉を胸中で反芻する。
あるじをあるじ足らしめる合理的な理由を求めるほど文輝は武官としての道を踏み外していない。
それでも、一つだけわかっていることがある。
国主の座にあるものがあるじだ。文輝たちは白帝の庇護のもとにあり、白氏の共通認識としてあるじと親以外の存在に「名」を呼ばれることを本能的に許さない。その最大級の侮辱を受けたのなら、位階や環の色に関係なく報復することが律令によって認められている。
だから。
戦務長の擁立した男が誰かの「名」を呼べば全ての問題は解決する。
当人と名を付けた親しか知らない「名」を知っているのは国主の座にあるものだけだ。どういう仕組みかはわからない。それでも、百六十年の間、国主はその特権を許されてきた。
特権が既に失われ、新たな場所へ移動したことを証明したいのならなおさら新王は「名」を呼ぶべきだ。それを見せつける相手として、十分に不足ない宰相という存在がここにいる。
宰相はそれを承知しているのだろう。戦務長の返答にも鷹揚に構え、慌てることがない。
「そなたの後ろの男が真実、新王足りえるのであれば右将軍の名を知っておるはず。どれ、ひとつ名を呼んでみせよ」
歴学、礼学、志学。国の成り立ちと神話については初科の講義で学ぶ。だが、右将軍の名はどこにも記されていない。神の範疇にあるが、人の中に生まれ、人と同じ感情の機微を持ち、そして人と同じように老いて死ぬ。ただ、先代の右将軍と同じ魂が巡っているとされる。先代の記憶を受け継ぐかは白帝しか知らない。それでも、魂と紐づけられた「名」が失われることはない。
宰相はその「名」を見出したからこそ、右将軍が新王に付き従っていると判断した。
それ以外に国主としての正当性を主張する術はない。
戦務長が薄く笑う。彼もまた、その正当性を主張出来ると言わんばかりの酷薄な笑みだった。ゆっくりと振り向いて、新王を名乗る男に目配せする。新王が躊躇いながら、その名を紡いだ。
「瑞丹(ずいたん)、近う寄れ」
「是(はい)、主上」
新王の呼びかけに答え、右将軍が一歩下がり膝を折る。
ただそれだけのことだったが、白襟の官吏たちが動揺するには十分すぎる効力を持っていた。ざわめきがあっという間に伝播する。津はそれだけで十分に混乱を極めた。
その、喧噪の渦中にありながら、宰相の眼差しだけが冷え冷えとしているのに気づいたとき、文輝の背中を悪寒が駆けあがる。多分、宰相はまだ何かを隠している。
自らの優位性を示した戦務長が得意げに言う。
「これでわかっただろう。お前たちの守るべきものはどちらだ」
道から外れたあるじを奉戴するのがお前たちの矜持か。畳みかけるような言葉の攻勢に攻囲が三歩退く。白襟の官吏の一人が宰相と戦務長を交互に見た後、雄たけびを上げて剣を抜いた。
そして。
「死ね、逆賊!」
困惑を瞳に浮かべたまま、白襟が罵声を吐く。抜き身の剣が宰相を襲うのを、文輝も直刀を抜刀することで応じる。宰相は左官出身だ。戦闘など出来る道理がない。今、文輝に出来ることがあるとすれば、石門で別れた大義姉が通信士と共に追いつくまで、宰相を信じ守ることとだけだ。
斬撃を直刀で受ける。華軍と戦ったことで刃こぼれしているが、防戦に徹するのならそれほど不利でもないと判じた。二度、三度と斬撃は続く。
状況が戦務長の優位を告げる。その気の緩みが彼の腕の中にいたものを拘束する手の力を抜いた。伶世は女官見習いだが、右官府の見習いだ。戦えずとも、諍いの場でどうすれば己の身を守れるかは理解している。逃げるなら今しかないことを見抜き、全力で戦務長の二の腕に噛み付いた。
戦務長が思わず悲鳴を上げる。
それを合図に晶矢が白襟をかき分けて攻囲の中へ飛び込んだ。そして、彼女の最善で伶世の手を引く。戦務長が再び伶世を拘束するだけの余裕を与えずに、今来た道を全力で駆け戻れば怒号が響く。戦務長が人質を失って激昂している。
「何をしている! 捕えろ!」
しかし、その怒号に応じたのは文輝が対峙した白襟の官吏だけで、残りは今も正当なる国主が誰か、判断しあぐねていた。その隙間を縫って晶矢が伶世を保護する。防戦の合間、横目で彼女を見ると青ざめ、がたがたと震えている。女官見習いの伶世の人生は暴力とは縁遠かったに違いない。生まれに偽りがあったことも知らないだろう。その伶世を捕まえて、動乱に巻き込んだ戦務長に対して怒りが湧く。
伶世が真実、国主の娘なのだとしたら公地にいる余(よ)内府を動かすのは簡単だっただろう。津にあって、新王の上陸を許可させたのにも伶世の存在は影響した筈だ。
ただそれだけの為に、彼女は平穏と未来永劫別離した。その罪は誰が背負う。その罰は誰が受ける。国主の是非を問うのなら、自らの手腕で臨めばいい。
それも出来ないで、万民万官を巻き込むなどというのはどうあっても許されるべきではない。その程度の志ならばさっさと折ってしまえばいい。
自らの欲の為に積み上げる感情を志と呼ぶことは出来ない。そんなものは志である筈がない。
だから。
斬撃を繰り返す白襟の胴に回し蹴りを放つ。錯乱していた男は勢い余って後方に飛んだ。立ち上がろうとした白襟の肩めがけて矢が放物線を描く。美しい曲線で飛んだ矢が、彼を地面に縫い付けた。誰が放ったのかなど確かめる必要もない。
初科の実技でどうやっても敵わなかった弓手が一人だけいる。譜代の弓兵の家系、その血統を継ぐために育てられたのが晶矢だ。
「劉校尉(こうい)、貴官は九品を哀れだと嗤ったな。その言葉をそっくりそのまま貴官に返そう」
目先のことしか考えられない。大局の見えていない宰相などわたしは認めない。
中科生がどの部署に割り振られるのかは、左官府戸部適正班(てきせいはん)の資料をもとに各部署が出す人事希望届に拠って決まる。
文輝や伶世が兵部警邏隊戦務班に任じられたのは、戦務班の長である戦務長が望んだからだ。各部署の希望する人材が重複する場合、公正を期すためにくじ引きが行われる。二人を求めたのが都合よく戦務班だけだったということはあるまい。にも関わらず戦務班に文輝たちは任じられた。今年の人事が決まった時点で戦務長は既に動乱を企てている。偽りの環を持った右尚書の官が裏で手を回したのだと推測するのはあながち間違っていないだろう。
九品の子息。国主の娘。
この二つの駒を得て、戦務長が動乱の実行を決めた。
華軍が知っているだけでも十年以上、水面下で計画されたこの動乱がいっときの気の迷いでないことは確かだ。十年以上の間、戦務長はただ一心に国主を呪い続けてきた。文輝にその感情は理解出来ない。何を求めて文輝を戦務班に呼んだのかもわからない。
わからないのに、文輝は気づいてしまった。
新王を擁立して、右将軍を招請して、城下を焼き、公地の安寧を乱し、禁裏に押し入った彼は自らが望まれることを切望している。晶矢の否定を聞いた瞬間の絶望と憤怒が、何よりも雄弁に語る。
そして、その怒号が津に響いた。
「たかが九品の子息が大口を叩くな! 将軍、その武を愚民どもに見せつけてやれ!」
戦務長の激昂に押された右将軍が長槍を構え、白襟たちを急襲する。国主を守るべき右将軍の膂力は尋常ではない。数人がかりで対峙した白襟たちが一瞬で地に伏す。文輝は宰相を、晶矢は伶世を背に得物を構えた。本能が死を予告したが、逃げるという選択肢はない。ここで宰相を守らなければ戦務長の企ての一部は叶い、華軍の託した希望は霧散する。
九品だからではない。
右官としての使命に文輝と晶矢は身構えていた。
勝算のない戦いだ。わかっている。それでも戦わなければならない。文輝の直刀にはもう攻撃に耐えられるだけの力が残っていない。弓兵の一人から奪った弓矢を構えている晶矢にしてもそうだ。中科生二人で何が出来るわけでもない。
白襟の最後の一人が吹き飛ばされ、右将軍の双眸が文輝たちを射る。その殺意に文輝は戦慄した。それでも、九品の矜持だけが直刀を握らせる。晶矢が深く息を吸って長弓の弦をゆっくりと引く。矢羽が一瞬だけ鳴いて弧を描く。長槍が寸分の狂いもなくそれを叩き落とす。槍を振るった間隙を縫って文輝が右将軍の間合いに飛び込む。直刀の刃が右将軍に触れることなく、石突で払われる。その力の強さに文輝の足元がぐらついた。体勢が崩れる。右将軍はそれを見逃さず、長槍で突きの挙動を取る。晶矢が二本目の矢をつがえ、放つことで文輝を守ろうとする。間に合わない。
その、絶望を極めた状態で津に長靴の音が響いた。
「文輝殿!」
飛刀(ひとう)が立て続けに五つ、右将軍を襲う。それらもまた彼の長槍によって全てが弾かれ、石畳の上に転がった。固い音が響き、その瞬間機を察した文輝は直刀を拾って全力で後退する。
将軍位を持ちながら、人を傷つけることを厭い、人を守ることを選んだ玉英の姿がある。彼女は軍医だ。それでも、西白国で将軍と呼ばれる以上、有事の際には戦うだけの覚悟がある。玉英は「新王」ではなく当代の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)をあるじと選んだ。だから彼女はここで景祥を守る為に得物を構える。
「大義姉上、ご助力ありがとうございました」
「遅くなりましたが間に合って何よりです。衛士殿は私たちの通行を黙認してくださるそうですよ。と言っても、閣下がここにおられる以上、黙認で済む次元は既に超越してしまったようですね」
複雑な表情で玉英が宰相を見る。宰相は目の前の出来ごとに顔色を変えるでもなく、ふっと息を吐いた。
「久しいな、玉英」
「叔父上におかれましてはご武運長久にて祝着至極、と申し上げたいところですが、それは後にいたしましょう」
武運がいずこにあるかは、この難局を乗り切った後に知れることです。
言って玉英の目の色が変わる。
文輝を先頭に通信士、玉英、そして晶矢が陣形を成す。宰相が伶世の手を引いて、後方に下がった。
「小戴殿、私は――」
「伶世、気にするな。お前が本当のことを知ってても、何も知らなくても、お前は間違いなく『方伶世』だ。それでいいじゃないか」
「でも」
「じゃあ、伶世。全部終わったらゆっくり話そう」
伶世が知っていることも知らないことも、文輝が知っていることも知らないことも。
全部ぜんぶ、終わったあとで宰相や国主を交えて答え合わせをしようと文輝が言うと伶世が泣きそうな声で小さく「是(はい)」と返すのが聞こえた。