「如風伝」それは、風のように<十七>(完結)

 伶世(れいせい)が部屋から出ていくのと入れ替わるようにして晶矢(しょうし)が入ってきた。彼女の母親が手配した部屋だとはいえ、平服を着ていることに違和感を覚える。ここは王府(おうふ)だ。正装である朝服(ちょうふく)を着るほどの必然性はないにしても、武官見習いなのだから右服(うふく)を着ているのが自然だろう。
 決まりごとに厳しい晶矢にしては珍しいな、とぼんやり思う。それを言葉に出来ずに、何となく口籠った。晶矢の方も黙って寝台の横まで歩いてきて、胡床(いす)の上に座った。
 沈黙が部屋を満たしている。
 一陣の風が不意に舞い込んで、寒さに身を固くした。
 多分、それがきっかけだったのだろう。「首夏(しゅか)」と晶矢が声を発する。晶矢らしくない、小さな声だった。

「首夏、まだ体調は万全ではないだろう。横になれ」
「ああ、うん」

 傷口は癒えたのだろうが、つい先ほど意識を取り戻したばかりの怪我人であるという自覚が晶矢の言葉によって生まれる。寝台の上に横たわり、綿入れを首元までかぶると、寒さが少し和らいだ。視線の高さが低くなり、文輝は枕の上から晶矢を見上げる形になる。晶矢は文輝より頭一つ分ほど背が低い。彼女を見上げるのは新鮮な感覚だった。

「暮春(ぼしゅん)、お前、ずっとここにいたのか?」

 こくり、晶矢が頷く。それしかすることがなかったからな。弱弱しく笑みが形作られて、文輝はまた小さな違和感を覚えた。
 それが一体、何に起因するのか。結論は何なのかがわからない。
 ただ。

「ありがとな」

 感謝の気持ちが自然と出てきた。眠っていたふた月の間に起きたことはわからないが、晶矢は文輝が再び目覚めると信じていたのだろう。彼女の大切な時間を文輝の為に使ってくれたことに礼を言わなければならないと思った。
 ただそれだけのことだったが、礼を聞いた晶矢の表情が不意に歪む。泣き出しそうだ。なんて晶矢の泣き顔を見たこともないくせに直感する。

「暮春、どうした」

 何か彼女を傷付けるようなことを言ったつもりはない。礼を言われて感動して泣くほど、晶矢は感傷的ではないだろう。それでも、晶矢は今にも泣きそうな顔をしている。
 文輝は困惑した。
 自分の何が悪いのかもわからずに、言葉を重ねるのは愚行だ。傷口を抉る可能性の方が高い。だから口を噤む。当惑が顔に出ていたのだろう。晶矢はぎゅっと唇を噛み締めて何かをやり過ごそうとしている。視線が床の上を彷徨っていた。

「暮春」

 泣くなよ、とは言えない。言えば彼女の矜持を傷付けるだろう。それぐらいのことはわかる。歪んでいた晶矢の表情が少しずつ落ち着くのを、文輝はただ待った。塞がっている筈の傷口がつきつきと痛む。胸が痛いのか、感情が錯覚しているのだけのかすらわからない。
 俯いた晶矢が、幾ばくかの沈黙の後で、ゆっくりと口を開く。

「おまえは、何も変わらないのだな」

 責めるような声音ではない。それでも、文輝はその言葉に自身が酷く傷付いたのを認知する。暗闇の中で華軍に同じことを言われた。同じことを言った華軍も、今の晶矢と同じような顔をしていたのを思い出す。
 どうしてだろう。
 不変のものには価値があると思っていた。真実は不変であるとも思っていた。
 なのに、晶矢も華軍も、文輝が変わらないことに傷付いている。そして、それを指摘することがまた、文輝をも傷付ける。何をどうすればいいのかがわからない。ただ、漠然と「変わらないこと」と「変われないこと」は別の問題なのだということを知った。

「首夏、お前には何の処罰が下った」
「郭安州(かくあんしゅう)で修科(しゅうか)を受けることになった」
「そうか」

 感情を押し殺した声に、文輝は不安を掻き立てられる。お前も似たような処罰だったんだろう。問えばいい。わかっているのに問えない。俯いたままの晶矢の姿を見るのが初めてで、どうしたらいいのかがわからない。
 胸中で感情を持て余し、言葉を口腔で転がしているだけの文輝と視線を合わせることなく、晶矢が訥々と語り始める。

「皆の処罰は聞いたか」
「いや、何も」

 今、文輝が知っているのは朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)が国主の位を奉還したことと、戦務長――劉子賢(りゅう・しけん)が自害を許されたこと、次の国主の位は伶世が継いだことの三つだけだ。その三つの事実から推察されるのは、今回の動乱についての処罰を決定するのは伶世で、彼女なら一律に心無い判断をしないだろう、ということで、文輝はそれほど心配をしていない。
 だから、複雑な表情をしている晶矢の胸中がわからない。
 それでも、聞いておかなければならない。そんな直感が生まれる。

「暮春、教えてくれよ。皆はどうなったんだ」
「誰から話せばいい」
「お前が話しやすい順番でいい」

 問いに問いを返したが、試しているつもりはない。ただ、晶矢にも話しやすい順があるだろう、と気遣ったつもりだったが、彼女の表情は曇ったままだった。
 晶矢はしばらく、何かを思案していたが不意に顔を上げて話し始めた。
 伶世が「読替(よみかえ)」の罪科(つみとが)を廃止する、と定めた為、朱氏景祥は今後、新たな公族の一人になることで落着した。市井に下る、と当人は主張したそうだが、別の問題を起こすことが懸念され、臣籍降下に留まった。
 右将軍(うしょうぐん)は自らの主を失い、下野した。今後は人としての生を全うして、市井で暮らすそうだ。伶世の右将軍は彼女自身が見出すほかないというのが結論なのだそうだ。
 孫翁(そんおう)――左尚書令(さしょうしょれい)である棕若(しゅじゃく)は引責辞任。彼の副官だった香薛(こうせつ)も降格の上、他部署へ異動。左尚書令の役職自体は棕若の長男が引き継いだ。
 人事を司る部署でありながら、緑環(りょくかん)の動きを見落としていたことが主な理由で、内府・近衛部(このえぶ)に対して越権行為を行ったことについては棕若が一人で負った形になる。
 その、近衛部では長官である少監(しょうかん)が降格の上、異動。陽黎門(ようれいもん)の守衛だった進慶(しんけい)は地方官へ降格。既に岐崔(ぎさい)からは離れている。
 こちらは動乱への迅速な対応が出来なかったことが主に取り沙汰されている。近衛部でも、国主の間諜だった大仙(たいぜん)は職を辞し、東国へ向かった。残りの間諜も順次、国を離れるか自刃するかの判断を迫られるだろう。
 官吏の監査を司っている御史台(ぎょしだい)では更に強い責任が問われた。
 長官である大夫(たいふ)は降格、大夫の通信士だった志峰(しほう)は自主退官。そのほか、全部隊に対して一定の減俸が決定している。
 内府の残り一つ、典礼部(てんれいぶ)に所属する典礼官(てんれいかん)は一律、筆記と面談の再試験が課され、不適格者とみなされたものに関しては免職処分となることが決定した。環(かん)の偽造に関わったものは免職の上、国外追放となる。その際には白帝廟にて「まじない」の才の奉還を行うことも同時に命じられた。この処分に関しては、二人の国主が資格を奉還したことにより、白帝が「才」の奉還を認めることがわかった為、実施されることが決定した。
 ただ、不正に関わった典礼官の数が膨大すぎる為、一度に処分が下るのではなく、新たな典礼官の採用と並行して行われているそうだ。
 右官府(うかんふ)では右尚書(うしょうしょ)で尚書令が引責辞任。あまりにも多くの通信士が反逆に加担していたことを見過ごした罪が問われた。
 工部(こうぶ)、兵部(ひょうぶ)でも一度に全ての処分を行うことが不可能である為、反逆者以外の右官は一律の減俸、降格処分が順次行われることで決着している。動乱に加担した反逆者は官吏としての資格を永久にはく奪したのち、賦役(ふえき)が命じられた。

「戴(たい)将軍と黄(こう)将軍も、勿論降格、減俸の処分だ」
「降格って、具体的にはどのぐらいなんだ」
「概ね二位から三位と聞いている」

 次兄の位階は従五位下(じゅごいげ)だから、降格されれば将軍位を失う。決して軽い処分ではない。
 右官全体の責を問われているのだから、次兄だけが特別に不条理を味わっているわけではないが、それでも、将軍位を得る難しさを思うと気持ちの置き場所がよくわからなかった。
 棕若にしてもそうだ。彼が引責辞任を強いられたのは、正当な手続きなく王陵に立ち入ったからだ。それを提案したのは棕若ではない。文輝だ。
 結論を出したのが棕若なのだから、責任の在処はそれで正しいのかもしれない。
 それでも。

「お前は、どうなったんだ。暮春」

 九品(きゅうほん)の二位・程(てい)家の嫡子である彼女もまた何らかの処分を受けているだろう。一律に位階が下がっただけなのだろうか。中科生(ちゅうかせい)の位階などあってないに等しい。形式だけのものだ。厳重注意で済んだのだろうか。
 期待が胸を巡る。
 その答えを告げる瞬間、晶矢の表情がいっそう曇る。
 躊躇いの後に聞いた言葉が文輝に絶望を与えた。

「廃嫡された。わたしはもう程家の人間ではない」
「よせよ、そういう冗談は趣味が悪い」
「首夏、お前も見ただろう」

 わたしの左腕はもうないんだ。
 言われて晶矢の左半身を見る。そこにはだらりと垂れ下がった平服の袖があるばかりで、中身があるようには見えない。伶世を呼びに行くときに翻っていた袖が網膜に蘇る。
 あのとき――闇夜の津(みなと)で右将軍の長槍は晶矢の左腕を切り落とした。
 あの光景は見間違いではなかったのだ。晶矢の左腕は、本当に失われてしまった。玉英(ぎょくえい)や彼女よりも位階が上の御典医(ごてんい)もいただろうに、と思う。どれほどの技術をもってしても、取り戻せないものがあることを晶矢が示した。
 顔色をなくした文輝を見て、晶矢が複雑に笑った。

「弓を引けぬ程家の当主など必要ない。わたしはもう何の役にも立たぬ。籍を失うのも道理。わかるだろう、首夏」

 わかっている。それが九品だ。それが程家だ。それが家督を継ぐということだ。
 わかっているが、だからといって何も思わずに首肯することは出来ない。
 文輝は晶矢の言葉に必死に首を横に振った。

「だったら、お前の十七年間は何だったんだ!」

 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で首席であり続ける為に、晶矢が犠牲にしたものを知っている。文輝は九品だが三男で、求められるものが少なかった。それでも、ある程度の犠牲を払った。
 人として当たり前の感情の機微。友情を育む機会。好奇心を満たす無謀な挑戦や、大人たちを困らせる悪戯。与えられた多くはない小遣いでするささやかな無駄遣い。その結果、待っているだろう様々な経験。
 その小さな一つひとつを手に入れる権利を放棄して、それでも程家の嫡子たる為に晶矢は研鑽を続けた。
 だのに、努力が何の実も結ばずに、一度足りとも賞賛されることなく、切り捨てられる。
 わかっている。九品は飾りではない。他国との紛争、国内の騒乱。その軍事的困窮の場で力たる為に存在することが許されている。足手まといは必要ない。
 わかっている。
 それでも。

「どうして、お前なんだよ! お前の方が俺よりずっと価値があるじゃないか! どうして、俺が左遷でお前が廃嫡なんだよ! おかしいじゃないか!」

 思わず身を起こす。勢いで綿入れが寝台を滑り落ちた。晶矢が冷静な顔でそれを拾う。
 そして。

「おかしくなんかないさ」
「おかしいだろ!」
「ちっともおかしくなんかないんだ、首夏」

 だっておまえからは奪うべき価値のあるものがないのだから。
 言われた瞬間、文輝は瞠目する。晶矢の言っていることが理解出来ない。罰する価値もない、と言われたのだと気付くのにしばらく時間がかかった。無力さが胸中を満たす。まただ。また文輝は何も出来ないで、大切なものを失おうとしている。
 平静そのものの晶矢の眦が薄っすらと赤くなっていると気付いたときには、文輝の頬を滴が伝っていた。
 苦しくないわけがない。嘆かない道理がない。悔しくない筈がない。
 それでも、失った左手は二度と戻らないし、晶矢が程家を継ぐこともない。
 わかっているから、彼女は泣き濡れて、現実を受け入れた。その現実を掘り返して、文輝の自己満足の為にもう一度泣けというのがどれだけ業の深いことかをやっと察した。
 文輝が察したことを察した晶矢が、片方しか残らなかった腕で、綿入れを文輝に被せる。その、不自由に慣れ始めた右手に、文輝はふた月の時間を感じた。文輝が眠っていた間に、晶矢には色々な出来事があったのだろう。
 そして文輝は晶矢が平服を着ている理由を知った。晶矢はもう程家の嫡子ではない。武官見習いですらない。だから、右服を着ることは許されないし、職務に戻ることもない。そんな晶矢に許されたのが、目覚めない文輝を見守ることだけだった。その役目も、今、終わった。
 だから。
 詫びることはしない。求められてもいない助力をしない。彼女の境遇を憐れんだりもしない。ただ見送ることしか出来ない。
 それが、文輝に許された最大限の友情だ。

「行くあてはあるのか」
「この国にいてもわたしはつらいだけだ。北方諸国に医術に長けた国がある。そちらへ旅しようと思っている」

 そうすれば或いは望みがあるかもしれない。言外に含められた僅かな期待を否定するのは残酷が過ぎる。一縷の望みでも縋りたいのならば、失うべき価値のあるものを持たない文輝に何が言えるだろう。

「そうか。いつ発つ」
「おまえが目を覚ますまで、と主上とお約束した。明日の朝には発つ。準備はもう終わっているんだ」

 思い出の詰まった品は城下の火災で焼失したから、手荷物しか残っていない。そんな声が聞こえて文輝の視界は再び滲んでいく。

「首夏、おまえと過ごした十七年間は薄っぺらいが、わたしにはおまえぐらいしか友人がいない。明日の朝、もう一度ここに立ち寄る」

 そのときにはお互い笑顔で終わりたいものだ。
 無理やりに笑みを作る晶矢に首肯することで、同意を伝える。
 わかっている。文輝が晶矢にしてやれることなど何もないのだ。何かを守ったつもりで、何も守れていない。その現実に気が付いて、絶望の淵を覗いて、そして文輝も決意した。
 翌朝、晴れやかな笑顔で出立を告げる晶矢にきちんと笑顔を送れていたかは定かではない。それでも、晶矢は一人、見たこともない地へ旅立っていった。

 それからの二年はあっという間だった。郭安州の州都・江鈴(こうれい)の修科で必死に学んだ。ときに学生として、ときに武官見習いとして過ごす中で、決して多くはないが友人も出来た。修科の卒業試験で首席になったときには、やっと晶矢の十七年間の重みがわかったような気がしたが、多分永遠に気がしただけなのだろう。二年と十七年を同一視しないぐらいには文輝にも学がある。
 この二年の間に、世間では色々な動きがあった。
 伶世は「読替」の罪科を廃した後、環の持つ役割を少しずつ変えていった。「まじない」の才を持つ「才子(さいし)」たちに全てを委ねる危険性を知った国主の判断なのだろう。文武官の位階を示す記号としての意味だけが残り、それ以外の意味は徐々に失われつつある。
 「まじない」にも変化があった。「才子」が民間でも暮らせるよう、市井にも「まじない」の活躍の場を用意した。「環の作成」、「伝頼鳥(てんらいちょう)による通信」という公の役割はそのままに、技巧として「治癒の手助け」だとか、娯楽として「幸運を授ける」だとか、暗示として「将来を予測する」だとかいう用途が開発された。
 白帝から授かった「才」を娯楽の為に用いるのには反発もあったが、今では概ね受け入れられている。江府(こうふ)でも、民たちは好んで「まじない」の恩恵を受けようとしており、市井でも「才子」が暮らせるという理想は少しずつ浸透しようとしていた。
 二十の春を迎えて、文輝は国官の登用試験を受ける権利を得た。一度しかない機会だ。逃せば、文輝は戴の姓を失う。岐崔を発つに際して、環も失う、と約したが環にはもうそれだけの価値は残っていない。せいぜいが官吏としての人生と別離する程度のことだ。市井で生きるのに環は必要ではない。
 それでも。
 二つの関を越える為の割手形(わりてがた)を作ったのは「才子」で、彼の言う通りならこの手形は片道しか効力を持っていない。登用試験を受け、落第すれば文輝は流民になる。
 そのことに不安がなかったわけではない。
 それでも、文輝は自らの最善を尽くした。今更、怖気づいている場合でないのは自明だ。
 だから、選びうる権利が少なくても、可能性がどれだけ小さくても、文輝は自らの運命と戦うと決めた。その運命の岐路はもう目の前だ。
 岐崔へは正当な手続きで船に乗る。眉津(びしん)で環と手形の両方を提示した。工部治水班(ちすいはん)の官吏がそれを確かめ、迎えが来ている、と告げる。その言葉通りに、二年ぶりに見る次兄の姿があった。

「久しいな、文輝」
「小兄上(あにうえ)もお久しぶりです」

 登用試験を落第すれば、この次兄に会えるのも今が最後だ。感傷に浸るわけではないが、今まで押さえつけてきた不安と緊張が体を巡る。それを機敏に察した次兄に乱暴に頭を撫でられた。かつてはそうされることが当たり前だと思っていた。たった二年しか別離していなかったのに、永遠にも近い時間、次兄の顔を見ていなかったような気がする。

「母上が首を長くしてお待ちだ。親孝行と思い、嘘でも必ず受かるとお約束してさしあげろ」
「嘘にはいたしません。俺は、必ず受かる為にここにいます」
「言うようになったな。まぁ、お前は昔から口だけは達者だったか」

 闊達に笑って、次兄が石畳の上を歩き始める。その背を追って、岐崔の城下に足を踏み入れた。大火に見舞われて以降、復興した首府の姿を見るのは今が初めてだ。十八年の時を過ごした岐崔が、たった二年で別の都市のようになっていることに驚く。農家も商家も皆、真新しい様相で、文輝は時間の経過を感じた。
 次兄の案内で辿り着いた戴家の屋敷は、以前とは別の場所に建っていた。官街(かんがい)と呼ばれていた地区はなくなり、九品の屋敷は城下の方々に分散して建てられているのだと聞いて、新しい国主――伶世が首府防衛についても施策を巡らせていることを知る。公務の効率の面で言えば、九品の屋敷が密集している方が便利だ。だが、それは同時に、災禍に見舞われれば主要機能が停止することを意味している。一極集中の危険性を知った国主らしい施策だ、と文輝は思った。
 戴家の屋敷は真新しい風貌をしていたが、白木の香りは既に失われている。門をくぐり、表の間を経て回廊を歩く。戴家の当主はまだ父親から代替わりしていない。その正室である母親の居室は屋敷の奥まったところにある、というところは以前の屋敷と変わっていなかった。その道中で一つの空き部屋があることに気付く。倉庫として使われているわけでもなさそうなその部屋が誰の為に用意されているのか、ということは割合すぐ見当が付いた。
 これは文輝の部屋だ。
 新しい戴家を建築する為に図面を引いたのは、工部造営班(ぞうえいはん)の所属である長兄だろう。都市計画や建築については長兄の本職だ。国の方針は長兄が反映させる。それでも、建築の許可を出すのは家長である父親だ。その二人が決裁した図面に文輝の部屋がある。自らの存在を望まれているのだと知って、文輝は胸を熱くした。まだ、文輝には戻る場所がある。

「小兄上」

 ありがとうございます。空き部屋を通り過ぎ、自らの中で結論が出たところで次兄に声をかける。振り向いた次兄は複雑な表情だったが、それでも笑みを見せた。何に対して礼を言ったのか、明言はしなかったが次兄には通じていたらしい。

「お前は変わったな」

 自分で答えを出すことが出来る。もう子どもではないのだな。
 言った次兄の声色には後悔が僅かに滲んでいた。十七の文輝を守ることが出来なかった後悔と、成長期の二年を見守れなかった後悔だ。
 その言葉に、文輝は郭安州に左遷になった後も、次兄が文輝の心配をしていたことを知る。そうと知って、何も感じないほど、文輝は自らを殺していない。瞼が熱を帯びる。それでも、涙を流す瞬間はまだだ、という理性がそれを留めた。
 返す言葉に詰まった文輝に、次兄は更に笑みを深くする。

「今のお前になら、渡せそうだな」
「何を、でしょうか」
「『まじない』の使途が増えたのはお前も知っているな」
「是(はい)、存じております」
「岐崔では昨年の春頃から、娯楽の『まじない』が流行していてな」

 官吏登用試験を受ける際に、異性の装飾品を持っていると合格の可能性が上がる。そんな「まじない」だ。言った次兄は効果を真実、信じている風ではなかったが興味は持っているようだった。

「母上がその『まじない』を受けたものを持っておられる。受け取ってさしあげるといい」
「それで母上のお心が休まるのであれば、そうさせていただきます」

 「まじない」などに頼らずとも合格するだけの研鑽を積んできた。その自負がある。それでも、文輝の為に何かをしたいと願う母親の気持ちを否定してまで、自らを肯定したいと願うほど、文輝はもう青くはなかった。
 次兄が苦々しく微笑む。

「本当に、お前は変わったな」

 変わらないものを必死に求めていた。変わらないものに価値があると思っていた。
 それでも、今の文輝は知っている。変わっていくものにも、変わらないものと同じぐらい重要な意味がある。そして、人は移ろう生き物で、何一つ変わらずにときを過ごすことなど出来ない。
 変わらないと評された過去を思い出す。今の文輝が華軍に出会ったらどんな評になるのだろう。その答えは一生わからないが、それでも文輝は生きて、前へ進んでいる。
 前に進み続けて二年が経った。
 ときの流れというのは無慈悲だが、それに抗う術はない。
 だから。

「小兄上もお変わりになられましたよ」

 正六位下(しょうろくいげ)に降格された後、昇進試験を受け続け、この春からようやく従五位下――将軍位に復帰する。と風の噂で聞いた。動乱の処分で殆どのものが降格になった。その中でも格別の昇進であることは間違いない。
 前を向いて走っているのは文輝一人ではない。
 そのことに勇気付けられたと言外に告げると次兄は気恥ずかしげに後頭部を掻いて、先へ進むことを促した。
 そして、文輝の帰着を待っていた母親から一本の簪(かんざし)を受け取る。母親が使うには若すぎる意匠で、文輝は母親の持ち物に「まじない」を施したのではなく、「まじない」を施した新しい簪をわざわざ買い求めてくれたことを知った。
 その簪を懐に仕舞って、文輝は二日後の筆記試験に臨む。
 試験内容は決して易くはなかったが、それでも郭安州の修科で首席を修めた文輝には難しすぎるということはなかった。筆記試験の五日後、試験場の正門に掲げられた高札の前から二列目に文輝の名はあった。
 筆記試験に合格すれば、次は実技だ。右官府の中で、武官を目指すものと事務官を目指すものとが二人一組になるように抽選され、模擬戦闘が行われる。
 合格発表の後、午後に右尚書の広間で抽選のくじを引く。文輝の割札(わりふだ)には「五」と記されている。事務官志望者の中から同じ「五」を持つものを探した。向こうも文輝を探しているのだから、お互いが出会うまでにそれほど時間は必要ではない。
 広間の中にその相手はいた。
 西白国では見ることのない、青みがかった黒髪の持ち主で、一見して白氏(はくし)ではないことを知る。朱氏(しゅし)の血を引く、国主――伶世ともまた違う。青は東の貴色だ。そこまでを一拍で理解して、文輝はこの黒髪の男もまた、登用試験に懸けているのだということを知った。
 素性はわからない。目的も知らない。それでも、文輝は直感した。多分、文輝はこの男を信じてもいいのだ。紫水晶のような美しい瞳に文輝が映っている。その肖像がどんなものかはわからない。わからないから、文輝はこの異国の志願者を理解することを望んだ。
 不安に蓋をして、笑みを浮かべる。そして、文輝はその男の肩を叩いて言った。

「なぁあんた。緊張しているのか? 俺は二回目の試験だが、うん、やっぱり緊張するもんだな」

 文輝が着ているのは郭安州の修科の制服だ。中科生だった三年間で着慣れた右服も、厳粛な場で着る朝服も、今の文輝には着る資格がない。だから、せめて公的な服をと選べば制服しかなかった。
 右肩に郭安州の徽章が付いているから、文輝がどこから試験を受けに来たのか、わからないものは流民ぐらいだ。岐崔の修科に進んだものは、動乱の記憶と共に文輝の顔を覚えている。
 郭安州の田舎者か九品の子息かのどちらか。どちらにしても進んで親しくする理由はない。だから、文輝はこの試験場にあって敬遠されていた。
 だのに、緊張した異邦人は生真面目な顔で応える。
 
「そうだな、これは文字通り私の命運がかかっている試験だからな」

 異邦人の顔色には真実、試験に対する緊張感しかない。彼は本当に文輝のことなど何も知らないのだ。そのことを理解した瞬間、文輝の胸中に希望が灯った。
 彼なら。この異邦人なら。
 文輝を敬遠することも軽蔑することもない、この相手なら文輝の最善を引き出してくれるのではないだろうか。
 そんな勝手な希望を抱く。
 だから。
 母親が託した簪を懐の中で握る。この簪に込められた思いを考えれば、今から文輝がすることは間違っているのかもしれない。それでも、文輝もまたこの簪に願いを託したいと思った。
 腹を括って簪を懐から引き出す。そして。

「そうか、だったらいいものを持っているんだ」
「何だ」
「試験に必ず受かる『まじない』だ」

 文輝は異邦人の右手にそっと簪を握らせた。房飾りが彼の手のひらから流れ落ちる。簪の一番上で深紅の貴石が輝いていた。
 簪を受け取った男の反応で、彼は本当に「まじない」を知らないのだということを察した。白帝の加護を受けた「才子」は西白国にしかいない。だがそれは同時に西白国で生きていれば誰でも「まじない」を知っているという側面も持つ。
 試験に受かる「まじない」は伶世が取り組んでいる新しい「まじない」の形で、文輝もまた岐崔に戻って来るまでは知らなかった。知らなかったが、男の驚きは文輝がそれを知ったときの表情とは決定的に違う。
 感心ではない。ただ、本能的に焦りを感じている。
 そのことが、彼には何か伏せておきたい事実があるのだということを思わせたが、顔を合わせて四半刻も経っていない文輝が尋ねてもいい案件かどうかは判断出来る。今、それを聞けば全てが終わる。そう直感した。
 だから、文輝は軽い口調で男に尋ねた。

「知らないか? 男は女の、女は男の装飾品を持っていると受かると言われてる」

 その説明に男は静かに首を横に振った。
 これ以上、詳細な言い訳を聞くのは野暮だろうと思い、文輝は大らかに笑ってみせる。次兄が文輝にそうしたように、許容の態度を取った。

「そうか、じゃあこれはあんたにやるよ」

 最初からそのつもりだったが、改めて明言する。異国の男はさっと顔色をなくして否定した。文輝は更に笑みを返す。

「何を言う、まじないなのだろう」
「どの道、あんたと俺とは一蓮托生って奴だ。あんたが受からないことには俺も受からない。策を立てるのはあんただ。あんたに幸いがある方がいい」

 政道、兵法、用兵術。十三年間にもわたる教育課程でそれらは嫌というほど叩き込まれてきた。将軍位を目指す文輝には必要な知識だが、それでもそれがただの学術的な知識でしかないことは文輝が一番よくわかっている。知っているだけでは何の意味もないのだ。
 その無力さを嘆くのは後でも出来る。
 正しいことを押し通したいのなら、文輝は強くならなければならないことをあの日知った。誰の顔色も窺わず、誰の機嫌に一喜一憂することもなく、それでも公の為を志して生きるのなら、ここでつまづいている場合ではない。
 異国の男がどれだけの知識と策謀とを持ってここにいるのかはわからないが、信じてもいい相手ぐらいはわかる。この双眸は困難に立ち向かう志を灯している。
 だから。
 文輝は大丈夫だと重ねて笑った。
 紫紺の双眸が不意に憂いを帯びて、そして矢継ぎ早に問うた。

「名は? お前の名は何と言うのだ」

 その問いが文輝の直感を肯定する。本当に、彼は文輝のことを何も知らないのだ。
 新鮮な響きに若干の感動を覚えながら文輝は自らの名を告げる。戴の姓を名乗れるのは九品だけだ。中でも光に関する名を与えられているのはその直系だということを意味している。これで新鮮さとは別離するだろう。わかっていたが、それでも名乗った。
 文輝の幾ばくかの感傷を肯定するかのように、男は両目を見開く。
 そして。
 今度は彼の方こそが双眸を絶望に染めて言った。

「そうか、私は柯子公(か・しこう)という」

 柯氏と言えば東国によくある貴族の姓だ。更に言えば、「子公」という字はかつての名君の字で、こちらも東国では一般的だろう。「子」は成人男性を意味する冠詞、「公」は公明正大の頭文字で優れたものに育つようにという願いを込めて付ける名だ。
 絶望に満ちた顔で告白するだけの名ではない。ただ、子公の様子を見るに彼はこの名前に後ろ暗い気持ちを持っている。それもそうだ。東国の貴族が西白国の国官を志願するだけの正当な理由などありはしない。国元にいれば何ら不足ない生活が出来るだろうに、それでも子公はこの国へ来た。
 探られて痛くない腹を持つものは一体どれだけいるのだろう。
 叩いて埃の出ないものなど殆どいない。それでも、皆、上辺だけでも身綺麗にして毎日を生きている。
 名を告げるだけで一喜一憂する文輝も子公も、生きている痛みを知っている。
 だから。
 子公の身の上を根掘り葉掘り訊くことはしない。いい名前だ、と言うと子公は信じられないものでも見たような顔をして問いを重ねた。

「お前、国から出たことはないのか」
「恥ずかしながら、まだ一度も。遠くまで行ったって郭安州がせいぜいだ。世間知らずで呆れたか」

 文輝が答えるのを待って、子公の問いは幾つも繰り返される。

「青東国(せいとうこく)は知っているな」
「名前だけだ。どんな国か、見たこともない」

 東方を治める大国の名が聞こえて、文輝は子公の出自の一部を知る。柯氏だと聞いたときに、それは予想していた。だから、新たな驚きとは出会わずに返答を紡ぐ。

「その青東国の皇太子が行方不明だそうだ」
「そいつは大変だな。で、それがどうかしたのか? まさか、うちの国に亡命したとかそういう話なのか?」
「そうだとしたらどうする」

 子公の双眸が不安に揺れている。次の答えを間違えば、子公の心は永遠に背を向けてしまうだろう。わかっている。わかっていたから、即答した。

「どうもしないさ」
「何?」
「この国は力のあるものが生きる国だ。家名だけを頼りに生きることなんか、誰も許しやしない。その、青東国の皇太子にしたってそうだ。実力がないなら、きっと尻尾巻いて帰ることになるだけだろうさ。俺がどうこうする話じゃない」

 環はその機能を失った。六色の文様。幾百、幾千の輝きに分類された貴石。それらを伶世はただの石ころとして扱うことを選んだ。赤の文様を失った環を文輝は今も肌身離さず持っている。持っているが、もう何の役にも立たない。
 九品四公(よんこう)、その系譜に名を連ねることが許されるかどうかは、子公と臨む試験が決める。
 だから。
 生まれ持った身分も、蓄えた財貨も、培った経験も、生かすことが出来ないのなら何の価値もない。
 その価値観に基づいて子公の問いに答えた。子公の紫紺に小さいが希望が灯るのが見える。

「あんたが何を確かめたいのか、俺にはわからない。だから、正解は出来ないかもしれないが、答えることぐらいは出来る。気が済むまで試すといい。俺はあんたに命を預けると決めたんだ」

 だから、何度問われてもいい。子公を信じると決めた。決めた以上、文輝の言葉が子公の不安を払うのであれば、痛い腹を探られることを拒まない。
 それが、文輝の決めた正道だ。
 希望を灯した子公に微笑むと、紫紺の瞳が揺れる。
 そして。
 子公は不意に俯いて、ぼそぼそと問うた。

「願いとは望めば叶うものか」
「欲しいのならば、手が届くまで伸ばし続けるものだろ? 手前の分に見合わないものを誰かから貰っても、すぐになくすだけだ。俺は、そんなものは欲しくない」

 そう決めたのはいつだったのかはもう思い出せない。
 それでも。
 与えられるものを強請るのに夢中で、手に入れたものを守るのに必死で、その結果、別の誰かを傷付けてもいいとは思わない。
 あの日、文輝は知った。正しさは全てを肯定しない。優しさもまた全てを守らない。
 全てに向き合いたいのならば、傷だらけになることを厭うことは出来ない。
 だから。
 理想論だとわかっていたが、胸を張って答えた。子公がゆっくりと顔を上げる。

「お前にとって必要なのは、私か、それとも才のある軍師か」
「あんたを判じるには時間が足りない。才がある軍師と組めるに越したことはないが、それよりも俺自身の腕を磨くことの方が重要だ。手前で努力もしないで、誰かの才に頼ったりはしたくない」

 文輝に許されているのは今年の試験、たった一度だけだ。この試験に受からなければ文輝は全てを失って野に放逐される。
 一度しかない機会に強がっている場合ではない。わかっている。
 それでも。
 理想に蓋をして、未来の目標を見失って、それで安泰を得たとして文輝の中に何が残るだろう。何も残らない。わかっているから文輝は子公の問いに馬鹿正直に答えた。多分、子公もそれを求めている。
 その証左に、子公の双眸は文輝の答えを聞いて限界まで見開かれ、そして出会って四半刻で初めて穏やかに弧を描いた。

「戴家の人間とは、皆そういうものか」
「うん?」
「お前は優れた人間だなと言っている」

 その言葉の意味がわからずに首を捻る。子公はそんな文輝を見て慈しみを込めた眼差しを向けた。

「なるほど、確かにお前は文輝足りえる男だ」
「言っている意味がよくわからないんだが、褒めてくれているのか?」

 そうだ。
 子公が満面の笑みで首肯して、不意に文輝の名を呼ぶ。

「何だ、子公」
「お前の望みは何だ」
「俺か? 俺は将官になりたいと思ってるんだが、まぁ、俺の裁量じゃ死ぬまでに何とか昇格できればいい目標だな」

 有利不利で言えば、圧倒的不利からの挑戦だ。
 二年の間、伶世の政治を見てきた。彼女が昔馴染みを理由に、文輝を贔屓してくれるような軟弱な国主かどうかはもうわかっている。伶世は彼女の出した条件を一分も譲ってはくれないだろう。
 だから、母親は人事官たちに根回しをするのではなく、ただの娯楽でしかない「まじない」に懸けた。その気持ちを文輝は子公に託した。女ものの簪一本。子公にその意味が全て伝わっているとは思わない。
 それでも、この試験に受かると決めた。
 将軍位を得れば国主に謁見する権利がある。伶世は文輝がそこまで上ってくるのを待っている。その日が来るのを待ちながら、彼女は国という重みを背負って戦っている。
 何かを奪う価値すらないと判断された。罰を下すだけの意味もない存在だ。
 そこから抜け出したい気持ちと、何かと別離することに怯えたくはない気持ちの両方がある。矛盾している。大切なものを失いたくないのなら、大切なものなど持たなければいい。
 わかっている。それでも、そんな虚しい生き方は嫌だ。
 だから、文輝は傷付いても、何かを失うとしても、戦い続ける道を選んだ。
 子公にその経緯を全て詳らかにするには時間がない。
 覚悟だけを両目に灯した。子公が不敵に笑う。

「ならば、私がその目標を叶えてやろう」
「あんたが?」
「そうだ、私が、お前を将軍にしてみせる」

 ここは彼の知っている青東国ではない。西白国の常識も知らないで、「まじない」の一つも理解出来ないで何を成すのだ、と思う。
 思ったが顔には出さない。郭安州で暮らすうちにそのぐらいの分別は付くようになった。成長したのか荒んだのか。判断に困ることへ厳密な答えを求めることもやめた。
 子公が何ものかはわからない。
 わからないが、紫紺の双眸は虚言や偽りの類でからかっている風には見えない。
 だから。

「そうか、ならよろしく頼む」
「いいのか」
「何が」
「そんなに簡単に私に命運を託していいのかと尋ねている」

 その問いを聞いた瞬間、文輝は堪えきれず噴出する。
 面白い男だ、と思った。
 文輝に強気の提案をしたのと同じ顔で、不安を口にする。信じられることに慣れていないのだろう。それでも、自らの能力が秀でていることを確信している。試すような言葉を重ねるのは確かめたいからだ。
 文輝は子公の持つ人としての徳を信じられるが、子公は信じられることに怯えている。
 だから。
 信じた相手に信じてほしいのなら、誠実を貫くべきだ。重ねる言葉は一歩踏み込んだ答えがいい。同じことを繰り返しても、何度「信じている」と言っても、子公の心が動かせないことを察した。

「それで? 俺は何をすればいい? 理屈はわかっているが、実践したことはない。謀略は苦手だし、駆け引きもそれほど上手くはない。得意なのは模擬戦闘で相手を薙ぎ倒すことだけだが、それでも大丈夫か」

 駆け引きは苦手だと言った口で駆け引きを始める。
 弱さを晒すのは信頼の証だ。子公を信じている。そう示してくれる。馬鹿正直も使い方を間違えなければ立派な武器だ。その価値を二十の文輝はやっと理解した。
 だから、文輝は痛い腹を敢えて探らせる。
 腹を割って話し込んでいる場合ではない。「五」のくじを引いた文輝たちの試験は、間もなく始まる。
 だのに、子公は紫紺の瞳を見開いたまま、次から次へと涙を零している。

「おい、子公、あんたどうしたんだ。どっか調子でも悪いのか?」
「お前が、そんなだからだ」
「俺か? 困ったな、俺はいつもこんななんだが」
「構わない。お前は、そのままでいい」
「どっちなんだよ。まぁいい。あんたが落ち着くまで付き合うさ」

 目元を拭うこともせずに、ただ涙を流し続ける子公を見ていると不思議な気持ちになった。不安定なやつだなと思う。駆け引きを先に持ち出したのは文輝だし、その結果、子公の心が動いたのなら喜ぶべきだ。
 文輝の言葉の何が子公に届いたのかはわからない。
 それでも。
 不安定でそのくせ馬鹿みたいに強気なこの男を信じると決めた。
 いつか。いつかでいい。子公が身の上を語りたいと思ったときに、真実を話してくれることを期待しながら、子公の頭を優しく撫ぜた。どこからどう見ても一人前の大人なのに放っておくことが出来ない。文輝に弟がいたとしたらこんな感じなのだろうかと想像して、やめた。ほんの四半刻しか接していないが、子公はひと癖もふた癖もありそうだったし、彼は甘えるような気質ではないだろう。末っ子根性の座っている文輝に子公の面倒を見るのは不可能だ。
 そうこうしているうちに模擬戦闘の順番は回って来る。「五」の札を持った文輝たちの初戦は「六」の組だ。
 真っ赤に腫らした眦で、子公が立てた策謀を文輝が実践する。
 組み合わせと状況を変えて都合六度。国官登用試験の模擬戦闘が繰り返された。決められた陣地の奥にある壺を割るか、相手が降参の旗を上げるかするまで戦闘は続く。得物は真剣で、相手が負傷するかどうかは厭わない。文輝はこの試験を受ける為に、打ち直した直刀を持参した。その直刀を子公の指示した通りに振るう。時には文輝の機転も求められた。
 それでも文輝たちは最善を実践した。
 言葉にすればそれだけのことだったが、文輝たちの模擬戦闘は全戦全勝にも関わらず、敵方の負傷者数が最少という結果を収めた。そのことが高く評価され、文輝と子公は揃って合格。右官府兵部に配属されることが決まった。
 城下にある右尚書の出張所にその高札が掲げられる。沸き立つような気持ちで、それを子公と二人で見ていると、不意に誰かが文輝の肩を叩く。そして、本当に小さな声で「よかったな」と言ってすぐに立ち去った。二年の間があったが、文輝には誰の声か、すぐにわかった。

「暮春!」

 振り返っても、雑踏があるばかりで晶矢の姿は見えない。きょろきょろと辺りを見回して、必死に姿を探した。突然、挙動不審になった文輝に子公はただ驚いているが、その埋め合わせをする余裕は今の文輝にはない。
 雑踏を抜けて眉津の方へ駆けた。程家の屋敷があるのは反対方向だ。文輝の勘が当たっていないのなら、晶矢に追いつくことは不可能だろう。わかっている。それでも眉津を選んだ。文輝の知っている晶矢なら、程家に戻ることはしない。そんなことをすれば望郷の念に囚われて、またこの岐崔で深く傷つかなければならない。晶矢はその痛みに負けるほど弱くはないが、それでも、無視出来るほどには強くもない。
 晶矢が何をする為に岐崔へ戻ってきたのか。その理由を問わなければならないほどには文輝も愚かではない。晶矢は、文輝の運命を見定めに帰ってきた。そして、その結果を見届けたのだから、彼女にはもう何の心残りもない。文輝の知っている晶矢なら、再び国を出て、そして二度とここへは帰ってこないだろう。
 わかっていたから、眉津へ駆けた。街路のどこにも晶矢の姿はない。
 必死に駆け、眉津の船着き場で想像していたのとは違う晶矢の姿を見つけた文輝は全身で叫んだ。

「暮春! 待てよ!」

 その声に華奢な背中が立ち止まって、そしてゆっくりと振り向いた。流れるような黒髪は短く揃えられ、肩口で揺れている。西白国では見かけない意匠の服が、彼女が異国で暮らしていることを暗に告げた。穏やかな榛色の瞳には複雑な感情が浮かんでいる。二年会わない間に、晶矢はずっと美しくなった。

「首夏、久しいな」
「そう思うなら、ちゃんと会ってから帰れよ」
「おまえにはおまえの道があるだろう。わたしはそれを見届けにきただけだ」
「そうかよ」

 ああ、そうだ。
 答える晶矢は文輝の知っている晶矢で、だのに目に見えない隔たりがあるようで歯がゆかった。

「首夏、伶世殿によろしく伝えてくれ」

 わたしはわたしの役目を休んでここまで来た。もう帰らなければならん。
 何でもないことのように晶矢がそう告げる。わかっている。この国は晶矢を切り捨てた。その国の為に尽くせというのは身勝手が過ぎる。それでも、文輝はこの国を守ることを選んだ。晶矢の道とは違う道を歩いている。
 だから、文輝はここで晶矢を見送らなければならない。
 どこで暮らしているのかとか、誰に仕えているのかだとか問いたいことは山のようにある。山のようにあるのに、文輝の言葉は喉の奥で詰まって音にならない。文輝の視界が不意に滲む。泣いている、と自覚したが何の解決策も思いつかない。

「暮春」
「首夏、おまえはわたしの中にたくさんのものを残してくれた。どれだけ言葉を尽くしても、この気持ちはきっと表せないだろう」

 おまえ一人がわたしを暮春と呼んだ。その思い出と別離出来なかったのでな。
 苦笑いの晶矢が不意に告げる。

「わたしは今、『丁圃竣(てい・ぼしゅん)』と名乗っている」

 おまえがわたしにくれた名だ。皆がわたしを圃竣と呼ぶ度におまえを思い出せる。
 本音を言えば、晶矢のことは敬遠していた。生真面目で額面通りで融通が利かない。こんな堅物と一緒にいて、同じように敬遠される前に先回りして敬遠した。晶矢がそれを知らないとは思わない。文輝は晶矢の評価に見合うような男ではない。
 それでも、晶矢は文輝の運命を見届ける為につらい思い出の残る西白国へ戻ってきた。
 そのことが遠回りに彼女の充実を告げる。今、晶矢は満ち足りているからこそ、痛みと向き合っている。
 だから。

「暮春、いつかまた会おう」

 目元を拭って無理やりに笑った。晶矢が艶やかに微笑む。次に、その瞳に文輝が映る瞬間がいつ訪れるのかはわからない。それでも、別離を泣いたまま迎えたくなかったから笑う。その拙い努力が晶矢に伝わっている奇跡をいつまでも覚えていたい。つらい思い出も楽しかったことと同じように明日へ持っていきたい。
 願いを込めれば晶矢はひと際鮮やかに笑って踵を返した。髪がふわりと踊る。衣の袖が弧を描いた。その瞬間、文輝は気付く。晶矢の左腕がある。目を見開いて幻ではないことを何度も確かめて、そしてゆっくりと瞼を伏せた。

「そうだな。いつかまた会おう、文輝」

 首夏ではなく文輝と呼ばれたのは、一人前の国官として認められたからだ。どこの国に仕えているのかは結局聞けなかった。それでも、晶矢は文輝を対等な存在として扱った。生まれの早さを驕ることはもうしない。ここから先はそれぞれの道に分かれるが、それでも同じように研鑽したいという思いが伝播して、文輝の目元は再び熱を帯びる。
 それでも。
 それでも、今度は頬を濡らさずに堪える。
 小さくなっていく背中が振り返ることはない。それを納得がいくまで確かめて、文輝もまた踵を返した。そして、目元を強くこすって涙とも別離した。文輝の人生はまだこれからが本番だ。運命と戦い続けることを選んだのだから、休んでいる暇はない。
 この国で共に戦う友を右尚書の出張所の前に置いてきたことを思い出す。全てを子公に話すことは出来ないし、子公もそれを望んではいないだろう。
 それでも明日はやってくるし、文輝は子公と共に戦い続けなければならない。
 ひとまず、今は子公と合流して中城へ向かう。そこで国官として正式に登用されることから文輝の運命は再び始まる。
 文輝にとって特別で、その実ただの一日でしかない今日を忘れない。
 風が吹いている。その風を肩で切って歩く。
 今年もまた偏西風に吹かれながら、十五の中科生が中城にやってくる。せめて彼らに恥じることのない国官であることを心得えていたい。

 百官に説く。力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。武官とは至誠を旨とし、利を分かち、弱きに沿い、強きを戒めるものなり。常に自らを一振りの刃として努めよ。その刃は己に非ず。もし過ちて刃を振るわば我ら進みてその首を刎ねん。百官に説く。武官は私に非ず。何時(なんどき)も忘るることなかれ。

(了)