「如風伝」第二部 四話

 全てが満ちているか、あるいは全てが欠けているか。
 「わたし」が選べるのはそのどちらかだと「彼女」は言った。「わたし」の人生にあったのは無だけで、全てが欠けている。答えを迷う必要は微塵もなかった。有を。全てが満たされた有を。「わたし」の人生が有るという充足を「わたし」は願った。
 答えを聞いた「彼女」は微笑んで言う。
 なら、この世の全てはあなたのものね。と。
 その響きの何と甘なることか!
 「わたし」のもの。「わたし」が持っているもの。「わたし」の望みを満たしてくれるもの。この全てが「わたし」のものなら。
 さぁ、世界の全てを「滅ぼしてしまおう」!

    * * *

 沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)はある意味では首府・岐崔(ぎさい)の城下にあたる。岐崔に至るには湖水を渡る必要があり、船が離発着する津(みなと)は沢陽口を含めた三か所しか認められていない。ゆえに、人や物が沢陽口には多く集まった。その賑わいは西白国においても十二州都と並び立つものであり、沢陽口のことを湖水という広大な濠(ほり)を擁した城下の一部のように扱うものも少なくなかった。
 東山の麓から湖岸までの平野部を切り取った匣のような城郭にも貴賤は等しく存在する。
 戴文輝(たい・ぶんき)たちが滞在する予定だった旅籠(やど)のある区画は華々しく、菜館(しょくどう)や酒家(さかば)のようなものもあった。人気の多い通りを折れて路地を入っていくのはどこか薄気味の悪さを与えたが、それでも何気ない風景の一つひとつが人の営みの気配を感じさせる。街路の両側にせり立った建造物が文輝たちを見下ろしていた。人の姿を見たわけでもないのに、どこからか「見られている」という感覚を与える。怪異の発生とどんな因果関係にあるのかはわからないが、それでも文輝の直感は確信していた。非常時でなければ、この街路の住人たちは右官である文輝たちの出入りを拒むだろう。
 文輝は安寧の岐崔で育った。
 岐崔の城下にも貧困街はあっただろうが、沢陽口のそれとは決して比べられるものではないだろう。飢えて死ぬものも飢えた末に肉親の遺骸を食すこともない。
 修科(しゅうか)を受ける為に郭安州(かくあんしゅう)へ下ったが、州都・江鈴(こうれい)ですら飢えは恒常化していた。そもそも雨が降らない地域だから、飢えよりも渇きの方が厄介だった。
 その、苦く苦しい風景が沢陽口の路地裏の景色に折り重なって映る。
 衣食足りて礼節を知る、という言葉がある。
 文輝が道の正しさなどという高尚な概念を持て余しているのも己が九品(きゅうほん)の生まれで、金品に何の不自由もなく育ったからだと今ならば理解出来た。
 城下の延長、などと言ってもこれが現実だ。表通りを一本逸れるだけで人々の暮らし向きは一変する。怪異の発生がなければもっと賑わっているのだろうか。そんなことを束の間考えたが、そうであれば文輝がこの路地に立ち入る正当な理由はない。
 衣食足りて礼節を知った文輝に出来ることは世の中の歯車として大なり小なり噛み合って動き続けることだけで、今、まさにそれを求められているのだとひしひしと実感していた。
 文輝たちを先導して委哉(いさい)という名の少年と赤虎(せっこ)が路地を奥へ奥へと進んで行く。
 帰り道も案内してもらわねば迷うだろう。その確信を植え付けるのに十分なだけの複雑さを伴った道順に閉口しながらも、文輝たちは濡れた右服を煩わしく思いながら歩き続けた。
 委哉が立ち止まり、後方を振り返ったのは袋小路となっている、路地のどん詰まりだった。
 西白国の一般的な建造物の範疇である石組みで作られた総二階の民家。その軒先に湯屋の目印である黄色の旗が揺れている。建物の中に三つの湯場があり、男女別の交代制で一日中、いつ来ても湯が浴びれるのだと委哉が説明した。

「湯代は中で?」
「こんなところで商売をする奇特な人なんていないのじゃないかな。少なくとも、僕が湯代を支払ったことはないから、相場すらわからないよ」

 こんなところに来てまで遠慮をすることなどない、と委哉は断言して文輝と柯子公(か・しこう)を中へと誘った。怪異の実年齢などどうやって判ずるのかもわからないが、見た目上、自分たちよりずっと幼い少年に一から十まで世話を焼かれるというのがどことなく居心地が悪い。
 そんな真っ当な文句を言っていられるのが「正常な日常」の中だけだったと知るのは湯屋の木戸をくぐってすぐのことだった。
 外観はどこからどう見てもただの石造りの民家だ。なのに。湯屋の中は想像以上に広く、豪奢な様相をしている。木材が敷かれた床は美しく磨き上げられており、建屋の奥が一見では視認出来ない。壁土は黒く丁寧に塗られ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
 束の間、見入った文輝の隣で子公が眉根を寄せる。
 番頭と呼ばれた管理人が一段高い床板の上の手前で軍靴を脱ぐことを要求してくる。その横顔には人間のものとは一線を画した「耳」が生えており、彼もまた怪異であることを言外に物語っていた。
 その番頭の指示に従って、靴を脱いでいると子公が今にも泣きだしそうな顔で湯屋の中をぼうと見ているのに気付いた。子公。呼ぶと彼は弾かれたように文輝を見て、そうして一時の感傷の沼から両足を引き上げる。

「文輝、怪異と言うのは他国の文化を解するのか」
「青東国(せいとうこく)の湯場ってのはこんな感じなのか」
「ごく限られたものしか立ち入れなかったがな。よく似せたものだ」

 その紫水晶の向こうに映っている景色を文輝は知らない。
 知らないが、それゆえに知っている。どれだけ彼が否定しても、子公は青東国の生まれで、そして彼は青東国の湯場に立ち入れるだけの高貴な身分だった。その全てを棄てた、と子公は何度も言うが、それは多分子公が彼自身に言い聞かせているだけなのだろう。
 文輝は九品四公(よんこう)の生まれだ。国の恩恵を享受して二十二年の歳月を生きてきた。勿論、文輝が国の為に失ったものもある。それでも、文輝は国が国と言う体を成しているがゆえに生きているのであり、国の為に生きるというのは当然の義務だった。その連鎖から逃れたい、と思わなかったと言えば嘘になる。それでも、文輝の中には愛国心という概念があり、多分、どこにいても何をしても文輝は九品の文輝なのだと今では感覚的に理解していた。
 子公についてもそれは同じなのではないか、と文輝は思う。
 生まれについて彼は明言しないがそれなりに高貴な身分だったのだろうことは疑う必要すらない。そのぐらい、子公の立ち居振る舞いは洗練されていた。思考の方向も全体の利益を最優先しているし、どこからどう見ても民草ではないのは自明だ。
 帰りたいのか、と文輝は一度も訊けたことがない。
 その解を子公が自覚すれば袂を別つことを本能的に察していたからかもしれないし、そうでなくとも否定の言葉を必死に紡ぐ相棒の苦しげな顔を見たくなかったからかもしれない。

「子公」
「憐憫を垂れる必要はない」
「なら教えてくれよ。この湯屋ではどうやって過ごすのが『正しい』のか、をさ」
「貴様というのは、実に――いや、何でもない」

 救いようのない馬鹿、と言われると思った。
 文輝のことを馬鹿と詰って、いつも通りの子公が戻ってくるのなら道化を演じることなど苦でもない。そう、思ったのに頭の回る副官殿は文輝の言いたいことを一足飛びで理解して、結局は曖昧な苦笑いで済ませてしまった。

「文輝、行くぞ。湯を楽しむのは別の機会にしろ」
「別に楽しんじゃねえだろうが」
「貴様はもう少し自分の表情について再考しろ。私からの忠告は以上だ。急ぐぞ」

 言うなり子公は板の間を何の迷いもなく進んで行く。その言動を一通り見守って、そうして文輝もまた理解した。この湯屋に長く留まるには事態が不明瞭だ。好奇心に負けそうになっていたが、文輝たちに残された時間はもう多くない。一刻も早く委哉たちから話を聞き出して、岐崔で待つ上官に報告しなければならないだろう。
 それでも。

「子公、待てよ」

 先へと進む子公の背中にごくわずか、本当に見落としてしまいそうな程度にだけ喜色が浮かんでいると気付けたのだから、今はそれで十分としようじゃないか。
 そんなことを収穫として得ながら、文輝は子公のあとを追った。
 湯から上がって、委哉が用意してくれた新しい衣服を着て髪を乾かす。
 その一連の流れを見守りながら委哉は文輝たちの疑問に一つひとつ答えてくれた。
 結論から言えば、この湯屋を含めた区画一帯が怪異そのものであるらしい。西白国ではこの世のあらゆる理を越えた存在のことを包括して怪異と称するから、委哉の説明には何の不備もなかったが、文輝たちはどことなく釈然とした思いがあった。

「あなたたちはさっき、風切鳥(ふうせつちょう)でこの城郭を見下ろしたでしょう。僕たちからはあなたたちが見えていたけれど、あなたたちが見た景色の中にこの区画はないんだ」

 見えない、だとか、見落としている、だとかいう次元を超越した言葉が聞こえて文輝は無意識的に生唾を飲んでいた。区画がない、と委哉は断定した。区画そのものが怪異である、としか説明出来ない状態なのは何とはなしに理解出来たが、それが文輝の人生でどの概念に含まれるのかが判然としない。
 何か大きな流れに呑み込まれようとしている。その感覚があったが、文輝の中で今更岐崔に逃げ戻る選択肢などない。
 湯屋の二階にはちょっとした卓と長椅子が置いてあるそうだ。子公が言う「脱衣所」で話し込むのも気が引け、取り敢えずは二階へ移動しようという提案に応じる。
 それなりに斜度のある木製の階段を上りながら、外観は石造だったのに内装は木造で統一されているのだな、とふと思った。
 二階は落ち着いた雰囲気の個室が幾つか並んでいるらしい。その中の一つを選んで委哉と赤虎が布製の暖簾を潜った。後を追って個室に入ると確かにそこには卓と椅子がある。そして、この部屋もまた木造の調度品で統一されている。岐崔で言えば豪農相当の豊かさだろう。
 長椅子に腰を下ろすと嘴の生えた店員が用訊きに訪れ、委哉は温かい茶を三つ注文した。
 間もなく湯気の立ち上る湯飲みが運ばれてきて、嘴の店員は無言で消える。
 その背が完全に暖簾の向こうに消えたのを確認して、文輝は委哉――とその足元に伏せた赤虎と対峙した。

「君たちがここにいるのは東山の怪異が発生したことと関係があるのか」

 ならば東山の怪異を解消するすべを知っているのではないか。そんな期待を抱いた文輝の勢いが前のめりになる。子公も文輝程ではないが、話が漂着する地点については興味を持っている雰囲気だった。
 そんな右官二人を前にして、怖じることなく委哉が苦笑する。

「小戴殿。正直に言うよ。『僕たち』は怪異と怪異との足取りを追って流転しているんだ」
「流転?」
「そう、流転さ」

 怪異と言うのが何なのか、文輝は知っているか。そんなことを不意に尋ねられた。
 正確なことは何も知らない、というのが事実だろう。全ての理を越えた存在。天の理、地の理、人の理。そのどれにも属さず、何の法則性も持たない。
 そのぐらいしか、理解していない。と返すと委哉はそれが一般的な認識だよと朗らかに笑った。

「怪異というのはあなたたちの言う通り、理を外れた存在だよ。その代わり、この世界の全ての恩恵を受けられない」

 何らかの存在である、ということは何らかの熱量を持っている、ということと同義だ。理がどうであろうとその根底は変えられない。理の軸の相違で相互干渉が可能かどうかが変化するだけで、熱量を持たないものが「在る」ことは不可能なのだと委哉は言う。

「あなたたちは理の中で生きているから、世界そのものがあなたたちの存在を裏打ちしてくれる。だから、あなたたちは熱量を保つことが出来ているんだ」
「君たちは違う、と言いたいのか」
「そう。その通り。僕たちは自らの熱量を保つ為に、第三者の熱量が必要なんだ」

 そして、それは文輝たちの概念にある言葉で表すなら「捕食」であろう、と言われる。
 怪異が在る為には怪異を食うしかない。それ以外の方法で怪異が存続し続けることはない、とまで断定されて文輝は形容しがたい感情に襲われた。
 文輝たちは――人間は生き続ける為に何かを食べる。それはときに植物であったり、動物であったりするが、それでも他者を食すことでしか人間は生きながらえることは出来ない。
 怪異の生き様もそれと何ら変わりはない。ただそれだけのことだと理解したが感情が追いついてこない。

「納得が出来ない、という顔をしているけれど、僕たちは世界の仕組みについて語り合う為にあなたたちに声をかけたのではないんだ」
「――忘却と失念の城郭、というやつか」

 文輝が夕明(せきめ)に気付いたときに委哉が口にした台詞だ。忘却と失念の城郭・沢陽口へようこそ。この城郭は違和感に満ちている。寧ろ違和感しかないと表現した方が適切だろう。異常なまで他人に関心がない。当たり前に起こり得る日常だけを無限に繰り返し、違和には全て無関心だ。まるで違和などないとでも言わんばかりに住人たちは「平時」を生きている。
 そのことについて、委哉は何らかの解を持っているのか、と問う。少年は真剣な顔をして、文輝の問いに応じた。

「そう。この城郭は怪異に浸食されている」
「東山の石華矢薙(せっかやなぎ)のことか?」
「あの程度なら僕の昼食で十分足りるよ」

 石華矢薙の発生はごく最近の出来ごとで、十日前に岐崔から派兵された工部(こうぶ)治水班(ちすいはん)の測量組とその通信士を飲み込んだ以外の犠牲はない、と補足される。怪異は自らの保身の為に人を攻撃することはあっても食料とすることはない。ただ、測量組は石華矢薙の性質上、窒息死または圧死しているだろう。助かる見込みはない、と言った委哉の平坦な表情にこの少年が見た目通りの若輩でないことを何とはなしに理解した。
 ただ。

「四阿(あずまや)には信天翁(あほうどり)という才子(さいし)がいたと聞いているんだが、無事なのか」

 そもそも文輝が東山を上ろうとしたのは才子の総元締めであるという人物に会う為で、怪異の発生を知っていたら神器(じんぎ)も持たずに対峙した筈がない。
 委哉の説明が真実なら信天翁は生きている、ということになる。ならば、文輝は当初の目的を果たすことが出来る筈だ。そう、思い問うと委哉が不思議そうな顔をした。

「翁? 翁ならこの城郭のどこかでいつも通りに暮らしているよ。用向きがあるのなら探そうか?」
「用向き――というか、俺に宛てて伝頼鳥を飛ばしてきた相手を探しているんだ」

 才子の総元締めである信天翁ならば差出人に心当たりがあるのではないかと考えている旨を告げると、委哉が茶をすすりながら文輝の説明の先を言う。

「深紅の料紙に白墨で綴った『小戴殿』宛ての鳥かな?」

 その通りだ。だが、どうして委哉がそのことを知っているのか。疑問から表情が硬くなる。出会ってから未だ感じたことのなかった緊張が満ちる。これは秘密の暴露だ。秘密の暴露をする目的はそれほど多くない。交渉における力関係を示したいのか、或いは自らの言葉により説得力を持たせたいのか。何にせよ、ここから先はただの世間話でも何らかの施しでもないことだけは確定した。文輝はぐっと腹に力を込めた。

「委哉、俺はまだその説明をした記憶がないんだが?」
「説明なんて不要さ。だってその鳥を飛ばしたのは他ならない僕だからね」

 文を書くのは初めてだったけれど、きちんと読めていたようで安心しているよ。
 言って、委哉が朗らかに笑う。その笑みは外見相応の無邪気さを伴っていて、緊張感から身を硬くしていた文輝を拍子抜けさせる。隣で成り行きを見守っていた子公が不意に口を開いた。

「なるほど。つまり貴様はこの馬鹿を探していた。この馬鹿もまた貴様を探していたがお互い顔を知らぬ。ゆえに我々は半日を無駄にした、ということか」

 伝頼鳥は宛先さえ正しければ面識の有無に関わらず飛ぶ。文輝はその仕組みを完全に理解しているわけではないが、白帝の庇護下にある――つまりは白帝に管理されたもの同士であるから結び付けられており、その目には見えない繋がりを辿ることによって通信が成立しているのだろうと思っていた。
 才子、というのは白帝が定めた末端機関だ。自らの意で生きているようにも思うが、その実、白帝の影響を最も強く受ける。
 西白国は律令によって統治されているが、実質武断国家に近い。
 というのも西白国の主神である白帝自身が武神であり、西方大陸は武力によって統一されたという歴史を持っていた。今でこそ律令などという決め事があるが、この国が始まった頃は武力が全てだったという史書も残っている。それらを紐解いても未だ才子が何であるかの合理的な説明は不可能だが、それでも、彼らは殆どの民草とは一線を画した人生を強いられている。
 その、激流の人生において文を届ける相手の顔までも知れる能力などあっては苦悩は増すばかりだ。白帝の最低限の配慮なのだろうと文輝などは勝手に思っている。
 それでも、文輝は確かに不審に思っていた。「小戴」を知る誰かから届いたとしか思えない伝頼鳥の向こうに陶華軍(とう・かぐん)の姿が透けて見えて、何かの図り事かと思った。
 あの日、岐崔動乱のただ中で文輝の直刀は華軍の胸を刺し貫いた。その感触は幾ばくか薄れたが、決して忘れることはないだろう。四年の歳月が流れても、文輝は瞼の裏にあの日を思い出してしまう。
 この世に生まれた命は等しく巡る。人の道、獣の道、草木の道、数えきれないほどの道を巡り、そうして命の答えを得たものから順に昇華する。それまでの間、命は姿かたちを変えて巡り続ける。それが五書(ごしょ)「礼経(らいきょう)」によって説かれた西白国の宗教観だ。
 死ねば巡る。
 人の命の次に人に生まれるかどうかは誰も保証しないし、何らかの法則性があるわけでもない。
 巡る前の命のことを覚えているかどうかも定かではない。
 何しろ、文輝は「巡ったもの」と会ったことがないのだから、明確な答えが得られる道理もない。
 生まれて初めて「巡ったもの」として文輝の世界に現れた華軍だったもの――夕明を伴った委哉が鳥を送った、という暴論は暴論であるにも関わらずただそれだけで信憑性を伴っていた。
 人というのはあまりにも埒外であればあるほど、疑おうという気が失せるらしい。
 文輝の中で、委哉の筆跡は夕明に教わったのだろうという推論が美しく成立してしまった。
 それを察した子公が役にも立たない文輝を放置して建設的な問題の解決に乗り出す。
 緊急事態にあって子公の言動の方が正しいのだろう。文輝はそれと理解しながらも思い出という感傷の沼の中に足を突っ込んでしまった。いつもそうだ。肝心な場面で文輝の緊張感は役割を放棄する。それでも、文輝は知っている。文輝は一人ではない。一人ではないのだから、それぞれが必要とされる場面も違う。今少し、文輝には寂寥感に流される権利がある。状況はまだ文輝を必要としていない。
 だから。
 だから、委哉の横に伏した夕明の向こうに過ぎ去った昨日を照射しながら、子公と委哉が建設的な話をしているのを遠く聞いていた。
 委哉が子公の悪口を不快に思った様子もなく彼なりに必要だと思った言葉を投げかける。それでも彼はまだ子公の名も知らない。

「無駄ではないのではないかな、えっと――」
「子公だ。貴様が真に怪異であるのなら位階など何の意味もない。好きなように呼び捨てるがいい」
「では子公殿。僕からあなたたちへ一つ提案があるんだ」
「聞くだけは聞こう」

 柯子公というのはそういうものの言い方を好む男だ。
 聞くだけは聞く。その後のことは確約しない。それでも真に必要だと思うのであれば、子公を動かせるだけの説得をしろ。そういう尊大なことを何の躊躇いもなく言う。
 生まれについて子公は何も明言しないが、彼の一挙手一投足は雄弁に高貴な身の上であることを物語った。他人に何かを強要することに抵抗を覚えないだけの立場で生まれ育った。その代わりに彼が支払ったもののことについて、文輝は未だ何一つ知らない。知らないからこそ思うのだ。この数奇な運命を共にする相棒が柯子公であったことがそもそもの僥倖だ、と。
 その、尊大を受けて委哉が当意即妙という顔をした。
 なるほど、自らを怪異と称するだけのことはある。委哉もまた一般常識とは縁遠い存在なのだろう。どちらが先に言質を取るのか、というのが本題になりつつあるのを感じ、ならばやはり文輝はこの駆け引きに不要な駒であると判じる。
 好機とばかりに委哉が自らの主張を掲げるのを聞いて、文輝は納得に近い感情を抱いたが子公が同じものを得るのには数手不足であるらしい。言論の言論による論争が続いた。

「あなたたちの上官に宛てて、本隊の渡航を半月ほど待ってくれるよう文を書いてほしい」
「期日の根拠と我々の利を説いてもらおうか」
「根拠かぁ。僕たちが今まで対峙してきた経験則から来るものだから、はっきりと説明が出来るわけじゃないんだ」
「ならばせめて我々の利だけでも明確にしろ」
「忘却と失念に浸食される犠牲者を無駄に増やしたいのなら僕たちは止めないけれど?」

 笑みと呼ぶには些か狂暴すぎる手合いの表情を纏って委哉は「善意」を主張した。その言葉の向こうには何らかの根拠がある。根拠はあるが、それを言葉を尽くして丁寧に説明するつもりはない、と同時に伝わってきた。おそらく、それこそが経験則から来るものなのだろう。
 そして、同時に彼はこう言っているのだ。

「貴様の中では渡航してきた本隊は怪異の影響から免れることは出来ない、と確定しているわけだな」

 子公もまた確認の形をした確信を伝える。
 委哉の顔面に輝きが満ちるのを視認して、そうして文輝は二人の中にある「根拠」の部分が理解出来ないでいることに幾ばくかの焦燥を覚えた。

「委哉、待ってくれ。なら、俺たちは『どうして怪異に浸食されていない』んだ?」
「奇跡的な出来事が起きている、という大前提の上で話すけれど、あなたたちは多分、僕たちに近いのじゃないかな」

 文輝と子公は白帝の庇護が薄い存在である、と委哉は言う。

「死に戻りの小戴殿。他国の生まれである子公殿。あなたたちは僕たち程ではないけれど、理から外れているようにお見受けする」
「貴様の言う『理』というのは白帝の庇護を受けているということと同義ということか」
「その説明をしていたら夜が明けてしまうよ。どうなのかな? 小戴殿、出来ればあなたに文を書いていただきたいのだけれど」

 本筋に触れつつも詳細は語らない。自らの主張に必要な説明はするが、脱線も許さない。
 子公と同程度、もしくは委哉の方が幾ばくか上手の印象を受けた。
 紫水晶が鋭く文輝を射る。安請け合いはするな、と言外にあったが事態は急を要している。文輝の判断が必要なことは自明で、その責を負うのであれば他の誰にも委ねることは出来ないだろう。

「子公、お前どう思う」
「委哉の言を頭から呑むことは出来ないだろう。だが、ある程度の確証はあると見た。それをいつ明かすのか、というのがそれの気分次第だというのが一番気に入らんが、感情論に振り回されている猶予もないのもまた明白。ゆえに結論は『いいだろう』だ」

 それの主張を酌もう。子公はそう判断した。つまり。

「委哉、深紅の料紙と白墨の用意を頼みたい」
「あなたたちならそう言ってくれると思っていたよ」

 少し待っていてくれるかな。すぐにでもこちらに用意しよう。
 大別すれば笑みとしか呼びようのない、それでも何重にも裏がある表情を浮かべて委哉が個室を出ていく。室の中に残った夕明がむくりと首をもたげて、そうして低く「小戴」と呼んだのは委哉の離席から一呼吸した後のことだった。

「か――じゃない、夕明殿。どうかしたのですか」

 かつて陶華軍だったもの。今の名は夕明だ。わかっている。わかっていても、記憶の中の声とさほど違わない彼の声を聞いていると唇が無意識的に華軍の名を紡ぐ。違う。華軍はあの夜、命を終えた。わかっている。わかっているのに文輝の感傷が時間をあの夜で留めようとしている。無益だ。何の実利もない。それでも、文輝にとって目の前にあるものはどれほど姿かたちが違おうとも華軍でしかないのを強制的に自覚させられた。
 華軍、と呼ばれそうになった赤虎が委哉の笑みよりも比べ難いほどの慈しみを伴って微笑む。

「小戴、無理に夕明と呼ぶ必要はない。お前が呼び易いのであれば、名などどうでもいい。華軍と称したいのであればそうしろ」
「いいのですか?」
「その代償をお前はもう支払っているからな」
「委哉が俺を『小戴』と呼ぶ、ですか」
「委哉だけではない。俺もお前をそう呼称しよう。それが嫌でなければお前も俺のことを華軍と呼べばいい」

 人の感情という御し難いものを無理に御そうとするからこそ蟠りが生まれる。
 文輝ももう少し肩の力を抜け、と夕明――改めかつて華軍だったものは鷹揚に笑った。

「小戴。あれはあれでよかれと思ってやっていることだ。ただ、害になるのであれば切り捨てろ。武官というのはそういう存在でなければならん」
「害にならなければ?」
「お前の御せる範囲で利用しろ。俺も。お前の副官も、委哉も。何の線を引く必要もない。お前はお前の善を貫け」

 怪異だから、だとか、人間だから、だとかそんなことは大局の前では些事だ。武官とは万民の鉾でなければならない。最良を選ぶ為に心を殺すのが悪か善か。そうして成した自己犠牲の果てに世界は何を享受するのか。考え、悩み、それでも瞬きの間にその答えを生み出し選ぶ。それが出来ないのなら、将軍位など望んでも重たいだけだ。
 だから。

「小戴。どのようなかたちであれ、俺は再びお前と見えたことを幸運に思っている」

 あの夜の詫びを告げる予定はない、と華軍は言う。それでいい、と文輝は思った。あの夜にあったことを今更否定されても文輝の心痛が増えるばかりで、だのに謝罪は許容を強要する。許さなくてもいい、と華軍に告げられたことで四年間の凝りが少し薄れたように思った。
 そんな文輝を子公は溜息で評価する。馴れ合うな、と言っているのだとすぐに理解出来たが、文輝にとって人と人との間に生まれた交流は決して無価値ではなく、子公のように実利で態度を変えることは出来ない。そして、そんな文輝のことを呆れながらではあるが、子公も受け入れていると知っている。
 室の中の空気がほんの少し和らいだ。
 その頃合いを見計らったように委哉の声が聞こえる。

「小戴殿。夕明と仲良くしてもらえるのはいいのだけれど、今、あなたは僕のお客なのだから僕のことも忘れずにいてもらわないとね」
「委哉、戻ったのか」
「さて、小戴殿。あなたの上官たちを納得させる名文は思いついたかな? 子公殿の力を借りてもいい。とにかく、今日中に派兵の延期を決定していただこう」

 僕たちには時間がない。そう言う委哉だったが表情は決して暗くない。それが逆に文輝を奮起させた。正体もわからない。本当に自分と同じ未来を望んでいるのかもわからない。それでも、委哉は今、確かに文輝のことを信頼しようとしている。
 人の信に応えるのが怖い、だなんて言わないで済むぐらいには文輝にも九品(きゅうほん)としての矜持がある。西白国で公用語として用いられているのは複雑な成り立ちを持つ言語だが、その由来として最も多いのは表意文字だ。意味ある文字と意味ある文字を組み合わせて別の概念を表す。
 だから、文輝は知っている。
 「人」が思いを「言う」とき、それは相手を「信じた」ことに他ならない。
 信じられたのなら、その期待に応えるのが文輝の思う善だ。それをまず、自らが実践してこそ、次の信を得られる。文輝が今ここにいるのは称賛がほしいからではない。西白国で暮らす人々の生活を守る武官を志したからだ。諍いがあれば矢面に立ち、天災があれば助ける。そういう存在であることに誇りを感じていた。
 ならば、文輝のすべきことなどそう多くない。

「誰が鳥を飛ばせるんだ?」
「それはもう。あなたの目の前にいる赤虎が」

 華軍は何を引き継いだまま赤虎となったのか。その答えも未だ判然としない。それでも一つだけ確かなことがある。文輝は今、底の見えない「何か」に巻き込まれようとしている。
 岐崔動乱のあの日と同じように、昨日と地続きの今日が突然に牙を剥く。本当は突然でも何でもなくて、昨日と地続きの一昨日や、もっと前から起きている事象の因果が今日に結ばれ始めただけで不思議なことなんて一つもないのかもしれない。
 時を告げる鐘の音が湯屋の二階にも鳴り響く。数え間違いでなければ、間もなく夕刻と相成るが、区画自体が怪異であると説明された通り、沢陽口の城郭の一部ではないのだろう。この区画には日没という概念がないようだ。
 溜息を吐いた子公が文の草案をすらすらと暗唱し始めるのを頼もしく思いながら、文輝は上官に宛てた依頼を白墨で書き綴る。
 どうか文輝の取り過ごしであればいい。
 その願いが次の瞬間に霧散するとわかっていたとしても。文輝は文輝であるがゆえに願ってしまうのだということを文輝はまだ認知していない。