「如風伝」第二部 五話

 はじめは些細なことだった。「わたし」のいる場所からそっと離れる。ただそれだけで「それ」は均衡を失った。壊すのがこんなにも簡単で――愉しいことだと知っていたら「わたし」はもっと早くに実行していただろう。そのぐらい「わたし」の日々は退屈で陳腐で無為だった。
 「それ」が少しずつ狂って歪んでいくのを「わたし」はただ見ているだけ。
 最後の最後の瞬間に「わたし」すら失われるそのときまで、「わたし」は全てを放棄する。
 ああ、そうだ。「わたし」はもう終わりたいのだ。そんなことも「彼女」に出会うまで「わたし」は知らなかった。

   * * *

 文字、というのは書いた本人の性格を如実に反映する。真面目、誠実、丁寧からせっかち、面倒臭がり、乱暴といったありとあらゆる性格を雄弁に物語るが、それが伝わるかどうかは読者の理解力に一任された。
 戴文輝(たい・ぶんき)は九品四公(きゅうほん・よんこう)の生まれであるから幼少期に教養として筆記法を学んだ。読みやすさと共に美しさという概念を求められ、体力勝負の右官(うかん)らしくない整った文字を体得している。身なりと共に整えられた字体は文輝の出自を暗喩した。やんちゃ坊主の年齢から現在に至るまで、そういう意味で言えば文輝は「優等生」の括りの中にいる。
 その点において柯子公(か・しこう)というのは文輝をゆうに超越する存在だ。軍師を志していたという言葉の通り、子公の文字は美しく整い、無駄がなく、それでいて妙な迫力を持っている。人を惹きつける字体、というのがあるのだとしたらそれはやはり子公のそれなのだろう。
 それでも。

「文輝。墨が止まっているが?」

 続きを早く書け、と子公が促す。
 緊急事態を告げる深紅の料紙に文字を記すのに墨液は不向きだ。明度が低い色同士で判読が困難になる。だから、深紅の料紙を用いる際には白墨を用いた。固形の白墨はどれだけ研いでもすぐに摩耗する。筆記具としての体を保つ為には一行書き終わる度に小刀で削る作業を強いられた。白墨の削りかすはごみとして捨てられることはない。一所に集め、新しい白墨を購入する際に返却する。そうすることで白墨の粉は再利用されるし、購入者は幾ばくかの値引きが受けられた。
 環境保全、という単語を思い描きながら文輝は今一度白墨を削る。先端は鋭利になり、筆記具として十分な機能を備えたから、文の続きを書く作業に戻ることが可能だ。
 わかっている。今、この文を文輝自らが書く利ならわかっている。
 文輝よりも余程美しい字体持った子公が文を綴っても、上官の胸には何も響かない。文輝が初校尉(しょこうい)として――ひいては九品の一氏・戴家の三男として提言するからこそ上官は渡航を思いとどまってくれるのであって、子公が賢しら顔で正論を放っても何の価値もない。
 適材適所だ。わかっているから文輝は文を書いている。
 子公が原案でも読んでいるかのように紡ぎあげる上奏文を文輝の言葉に置き換えながら、最速かつ丁寧に記した。
 伝頼鳥(てんらいちょう)は既に三度往復している。
 文輝の上官は流石は文輝の上官といったところで、文輝の上奏を世迷言と切り捨てずに子細な説明を求め、実利ある判断を下そうとしていた。「どうして文輝がそう判断したのか」の部分さえ上手く説明出来れば上官は本隊の渡航を半月どころかひと月でも待つ準備がある、と文の向こうに含めている。位階を得て、生まれて初めて軍事的判断をしようとしている文輝の一助となろうとしてくれているのは自明だった。文輝の判断が正しければ多くのものの安全が保たれる。右官、というのはそういう職位だとわかっていた。わかっていたが、訓練ではない実務として命を預かる重みの前で文輝は少しだけ弱音を吐きたい気持ちがないわけでもない。
 気が付けば溜息が零れていた。
 既に十分に尖った白墨の先端を見つめていると、赤虎(せっこ)がくわ、と大きな欠伸をする。

「小戴(しょうたい)、善を貫くのではなかったのか」
「華軍(かぐん)殿、哲学の話であれば上官殿が結論に達してからお聞きします」

 もう少しでそこに至る感覚がある。文輝の中で「合理的な判断」が下せそうな予感もある。それでも、結論を述べる段になると文輝の胸中に「これでいいのか」という暗澹とした気持ちが湧いてくるのもまた事実だ。
 赤虎――かつて陶(とう)華軍だったものがそれを見抜いて世の中に曝そうとする。世の中に曝して、それでもなお貫けるものだけが輝くのだというのが真理で、ただその理屈は人の感情の殆どを無視しているということを知らないほどには青くもない。
 理想、というのは何なのだろう。人の命を預かる、というのは何なのだろう。
 守る、というのは独善ではないのか。本当の本当に人を救うというのが何なのか。文輝はその答えを未だ知らない。

「その道程に迷っているのだろう。本意ではないことをして、後になって誰かに責任転嫁をするのがお前の善か」

 迷ったまま結論を急いでは後悔しか生み出さない。腹を括るにしろ、諦めるにしろ文輝がこの先、どういう気持ちで華軍たちに向き合うのか、はっきりとしろというのが華軍の言い分だ。
 それでも。

「そういうことは! やってみないと! わからないんです!」

 自分の行動の結果を先に知ることは出来ない。才子でも、国主でも絶対に出来ない。それが人間の限界だ。怪異となった華軍には未来の光景が見えるのか、それは華軍自身の申告を信じるしかないが彼が明言を避けるのであれば千里眼などやはり巷説の類だろう。
 だから。
 文輝は自らの不足を受け入れ、現実と向き合い、明日を望んだ。
 よりよい明日を願うならばそのきざはしに足を載せずに絵図を描いていくことなど決して出来はしない。
 
「なるほど、貴様の中では既に結論が出ている、と?」
「子公……お前も概念の話がしたいのかよ」
「貴様が今、自ら口にしたのではないのか。『やってみなければわからん』実に道理だ」

 人間が人間である以上、誰にでも限界はある。それ以上を望めば足元が危うくなり、いつかは転落する未来しか待っていないだろう。それでも、願わなければ叶う筈もないし、願った以上最善を尽くしてこそ叶ったときに喜びが生まれる。
 子公が言っているのはそういうことだ。
 やってみなければわからない、だなんて当然だ。その当然のことを認知したのならやっと勝負の出発地点に辿り着いたのだとも言える。
 困難の前で何もせずに膝を折るのか、苦痛に耐えて顔を上げるのか。そこに人としての美徳が映し出される。文輝ならより良い色の景色が見えると子公が信じているのが感触として伝わってきた。

「不安のない愚かな指揮官など私は要らん。だが、不安に押し潰されて戦いもせずに撤退を選ぶ臆病な指揮官もまた不要だ。貴様は将官を目指すのだろう。人の命を背負って、それらを守って戦う道を選んだのだろう。戦う気概があるのなら、私は幾つでも献策をしよう」

 一人で全てを背負い込んで潰れるのなら見捨てる。そんな偽善しか選べない上官は必要ない、と子公が切り捨てた。その容赦もない物言いの裏に、文輝はそうではないだろうという信頼が浮かんでいるのをどうにか受け取る。受け取って、文輝は自らが一人ではないことをもう一度理解した。
 官吏登用試験の実技が始まるあのとき。文輝が母親から託された女物の簪を子公に預けたあのとき。子公は言った。自らの足で明日に向かうものを子公は探していた。明日を共に戦える上官を探していた。不足があれば補い合い、そうして得られるこの景色の向こう側を子公は探している。
 ああそうだ。文輝が探していたのも子公が求めているものと大きな違いなどない。
 あるべき今日を守り、明日に繋ぎ、そしてそのずっと向こう側に幸福があることを望んでいる。
 今、この場所に全ての解を持っているものなど誰一人いない。
 怪異たる委哉(いさい)と華軍が望んでいるものが全て重なり合うとは誰も保証しないが、だからこそ文輝は知っているのだ。共に在るということは、お互いの気持ちが寄り添おうとしているということだ。

「やってみなければわからん。前例のないことに怯えるな。前例がないのであれば貴様がその一例目になればいいだけではないのか」
「――お前、本っ当に正論だけはぺらぺら喋るよな」
「実に頼もしいだろう?」
「鬱陶しいの間違いじゃねえのか」
「悪口が叩けるのなら敵前逃亡は心配せずともよいな。それで? 白墨は十分削れたのだろう」

 上官とのやり取りを再開させる宣言が聞こえた。わかっている。委哉――怪異は何らかの非常事態が起きていても彼らだけで解決する意思はない。文輝――人間が最終的な判断を下し、実行することが暗に求められていた。それが人間の世界と怪異の世界との在り様だろうということは何となくわかる。相互不可侵ではないが、お互いへの過ぎた干渉はお互いの善を損ねるだろう。
 人間を代表して怪異と交渉をする、だなんていうのが右官の役割かどうかは些か怪しいが、それでもこの沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)で起きていることに対処する、というのは国官として誤りではないと感じた。
 区画自体が怪異である、と言われた通りどれほどのときを過ごしても夕暮れが訪れる気配すらない。それでも、湖水の向こう――岐崔(ぎさい)ではとうに陽が落ちているだろう。右官は交代制で労務にあたる。今朝、文輝と共に日勤だった筈の上官の退庁時刻は過ぎているにも関わらず伝頼鳥で返答が届くということ自体が非常事態だ。
 子公の諳んじる説得文を自分の言葉に置き換えて白墨で綴りながら、文輝は正面に座る少年に提案を投げてみる。委哉には不要でも文輝たち人間には必要なものがある。

「委哉、次の鳥が戻ってきたら晩飯が食いたいんだが」
「おや? 小戴殿は小休止をご要望かな?」
「そうじゃない。次の鳥で上官殿が『応』と仰ってくださるだろうよ」
「それは予感? それとも確信?」
「自分が何をしているのかぐらいわかっているつもりさ」

 文輝には二人の兄のように飛び抜けた将官としての素質などない。責任感も任務遂行能力も兄たちには遠く及ばないし、それを持っていると勘違いをしたこともない。文輝は戴家にあってどちらかと言えば落ちこぼれなのだということは何とはなしに理解していた。
 それでも戴家三男という肩書きは決して消えてはくれないし、せめてその名に恥じない自分でありたいと思う。思うからこそ文輝は様々なことに向き合う努力をしてきた。その結果が初校尉という位階だ。
 評価を受ける、というのはそういうことだ。
 人の信を預かった文輝の言葉には力がある。人を守ることも助けることも――万に一つ判断を誤って人を傷つけることも出来る。それと知っていて文輝は言葉を使った。今から起こることの全てを一人で負うことは出来ないだろう。それでも、善なることを願い、独善を行使するということの意味も知らないで伝頼鳥を飛ばしているのではない。
 知っている。委哉たちの抱く純然たる善意が文輝の思うそれと一つのずれもなく重なっている筈もないし、そのことに落胆したり失望したりしなくてもいいことも。だからといって委哉たちの全てを拒絶する必要がないことも今の文輝は知っている。

「委哉。信じてくれると信じるという行為は無為かもしれない。偽善だと思ってもいい」

 それでも。全てを疑って全方位を敵視して生きていくことに文輝は価値を見出さなかった。偽善や独善と嘲笑されてもいい。それでも、どうしても、文輝はこの国の礎たる存在になりたかった。

「そのうえで俺は君に言うよ。上官殿は俺を信じてくださる。だから、少し遅くなったけど晩飯を食いに連れていってくれないか」

 この区画の中でもいい。外――本来の沢陽口の城郭の菜館(しょくどう)でもいい。人間の活動に必要な熱量を摂取したい、と申し出ると委哉は束の間無言で両目を瞬かせた。
 少年の顔をした委哉が赤虎をちら、と見て苦笑いを浮かべる。

「有史以来、初めて外関で修科を受けた九品の面汚し、という評判は知っているかな?」
「怪異の間でもそういった噂話はあるのか」
「貴族社会において『不可』が一つでも付けば二度と這い上がれない、というところまでは知っているよ」
「そうだな。その通りだ。だから、俺はもう九品として成功することなんてないんだ」

 文輝はもう出世街道には乗り損ねた。有史以来、外関で修科を受けた九品の子息は文輝以外にいない。それをもって文輝は落伍者であると認識されているし、多分今後もそういう扱いを受けるだろう。
 右官としてとんとん拍子に位階が上がる、だなんて妄想を抱かないで済むぐらいには文輝も現実が見えている。だから文輝は子公に願った。無理難題を押し付ける自覚を伴って願った。将軍位がほしい、と。
 縁故や忖度で文輝を庇ってくれるものなどいない。
 正真正銘、実績で殴るしかない文輝には有能な副官がどうしても必要だった。
 その泥まみれの奮闘の二年が結果を出した。二十二にして初校尉。九品の直系としてあまりにも遅すぎる昇進にそれでも文輝はくさらなかった。寧ろ、実績を出せば昇進せざるを得なくなるのだという前例が生み出されたことに小さな感動すら覚えた。
 生き汚くていい。醜くてもいい。国の安寧を守ると誓った志に何の変わりもないのなら、文輝はここで戦うことが出来る。
 委哉が文輝の笑みを受けて残酷に微笑む。

「それでもあなたは国官でありたいと思うのかい?」
「いいんじゃないか。広い世界、長いときの流れに一人ぐらい救いようのない馬鹿がいたとして、それが俺であってはならない、だなんて決められるやつはいないだろ」
「まぁそういう稀有な存在だと認識して、僕たちはあなたを探していたのだから詮のないことだね」

 子公殿、あなたの上官は名を体で表して輝いているね。
 感慨深げに委哉が言うと子公は鼻先で軽く笑った。

「当然であろう。私が命運を懸けるに値する男なのだから、陽の光よりなお輝いているのが道理というものよ」
「だ、そうだけれど?」
「取り敢えず、清書終わったんだが?」

 子公が文輝を率直に褒めることはごく稀で、その数少ない機会に子公は真顔で称賛を放ってくるから文輝としては何とも居心地の悪い思いをする。信頼を込めた「馬鹿」だの「貴様」だのの方がずっと聞きなれていた。罵倒の言葉の方が安心する、だなんて口にすると子公は被虐趣味か何かかと勘違いするだろうから言わないが、それでも不器用な優しさが薄皮に包まれた悪口は確かに文輝を励ますのだからどうしようもない。
 そんなことを考えながら、文輝は今、自分がすべきことの最後を告げる言葉を口にした。

「華軍殿、鳥を飛ばしてはいただけませんか」
「無論。『応』が返ってくることを俺も祈っている」

 言いながら夕明――華軍だったものが虎の口腔の中で聞きなれた文言を読み上げる。あの日、あの夜失われたときと何ひとつ変わらない「武官諸志(ぶかんしょし)」の冒頭文だった。四度目の「武官諸志」は赤虎の声の音に導かれるように鳥の形を成して飛翔する。
 布の暖簾を越えて、沢陽口のどこでもない怪異の区画から出でて、どこを経由するのかは想像も付かないが、伝頼鳥は岐崔・中城を目指す。
 文輝の言語能力で可能な限り最善を尽くして説明を施した。多分、上官は「応」と答えてくれるだろう。そんな確信にも似た手応えを感じながら、文輝は卓に突っ伏した。その状況を見届けた委哉が例の嘴の店員を呼びつけて再び熱い茶を注文する。
 西白国では古来「茶」と言えば黒茶――樹木の葉を採取し、細かく砕いたのちに発酵、乾燥させたものを湯で抽出したものを指す。生まれてこの方、西方大陸を出たことがない文輝にとって「茶」はすなわち黒茶であり、産地によって違いはあれど概ね似たようなものだという認識だった。だのに、この怪異である区画で出る「茶」は香ばしさと程よい苦みを兼ね備えた白湯のようなもので、到底黒茶とは似ても似つかない。その「茶」を飲む子公の横顔に幾ばくかの感傷が浮かんでいるから、これはきっと青東国で言うところの茶なのだろう。
 怪異は他国の文化をも解するのか、と子公が言った。
 その問いに文輝は答えなかったのは子公の感傷に付き合ってやりたいと思ったのと同時に、正答を知らなかったからだ。西白国固有の現象である「怪異」のことを文輝はあまりにも知らない。無知、という罪の重さを文輝は岐崔動乱のあの夜、痛切に思い知った。
 世の中は広い。文輝の想像が至る範囲より、ずっともっと広い。一つの知の向こうに十の関連事項があり、その十の向こうには更に百の事象が存在する。全知全能など神の権能でただの人がそれを望んだところで到底御せるものではないだろう。
 それでも。
 文輝は自らの意思で自らの足で立つことを望んだ。
 自らの足で立ち、人々の矛となることを望んだのだから、無知を理由に問題の解決を放棄することなど出来ない。「そう」したときの後悔と心痛をあの夜、思い知ったからこそ文輝は今ここにいる。

「小戴殿。あなたの言う『最後の鳥』が届くまでの間に僕に尋ねることはないのかな?」
「例えば?」
「夜のない区画は一体いつ眠るのか、とか」
「――あぁ、そう言えばそう、だな」
「小戴殿。人間と言うのは疲労する生き物だと僕たちは認識しているよ」

 あなたの上官が本隊の渡航を遅らせてくれるという決定が届いたのなら、あなたたちは休息を取るべきだ、と僕からは進言しよう。そんな声が聞こえてきて文輝は榛色の双眸を大きく見開いた。

「おや? 怪異には思いやりという概念がないと思われていたようだね」
「そんなことはない。そんなことはないんだ」
「小戴殿。そんなに必死に否定しなくてもいいじゃないか。ただの冗談だし、あなたは疲れているのだから」

 冗談を冗談と受け取る余裕もないほど疲労しているのなら、尚更休むべきだ。疲れは判断を鈍らせる。二十二で初校尉の文輝一人で背負いきれる責など高が知れているが、それでも文輝はこの後もずっと判断を迫られるだろう。
 肝心な場面で判断を誤りたくないのであれば休息も必要だ。

「でも! 子公!」
「貴様は何でもかんでも背負い込みすぎだ。それの言う通り、渡航を遅らせることに了解が得られたのであれば休むのは決して非合理ではないと私も判断する」
「華軍殿! 華軍殿はどうお考えですか!」
「小戴。俺と委哉の見立てでは今日明日どうなることでもない。結論を急いてしくじりたいのであれば俺は止めんがお前はどうしたい」

 三者三様に同じ結論が紡がれる。夕食が必要だ、と文輝自らも提案したがそのまま休息に突入するとは思ってもおらず、想定外の展開に文輝は戸惑っていた。
 休んでもいいのか。休むべき場面か。
 副官は休息を提案した。決断をするのは文輝の役割で、誰もそれを奪おうとはしていない。
 ならば。

「わかったよ! わかった! 飯食ってもう一回湯に浸かってから寝りゃいいんだろ!」

 文輝が今、巻き込まれている事象は心技体揃ってこそ解決の糸口を得るのだろう。今日明日どうなることでもない、と華軍は言った。つまり、この問題は中期ないし長期間の対応を必要としているということだ。
 行動の拠点は得た。協力者も得た。問題は早晩解決しない。
 溜息を吐く要素と安堵する要素が両天秤の上で上下している。
 選ぶ、という行為は自身にしか出来ない。不合理に落胆するのも非情に胸を痛めるのも、楽観に安堵するのも全て自らが選んだ結果だ。現実を生きているのはいつだって自分自身で、だからこそ人は選択権を行使する。
 いつだってそうだ。どの瞬間もそうだ。
 自らが選んだ結果が現実と結びつく。
 そんな意図はなかったのだとか、そういう願望は含んでいなかったのだとか後から弁解しても現実は定まっていてもう動かすことは出来ない。
 だから。

「小戴殿。あなたたち人間というのは実に不思議な存在だね。感情という目には見えないものを一等貴び、そうしてあなたたちは事象に善悪の色を塗る。僕たちがその基準を知る日は来ないのだろうけれど、それでも個人的な見解を述べるなら、僕はあなたたち人間のことは決して嫌いではないよ」

 そんな感想を委哉が結ぶ頃合いを見計らってか、深紅の伝頼鳥が板壁をすり抜けて顕現する。文輝の肩に舞い降りた質量を伴わない存在をそっと指先で摘まみあげ、文輝に与えられた復号鍵を暗唱した。かつて華軍が設定した「武官諸志」の前文よりずっと短い文言が文輝の今の所属を暗に伝える。文輝はもう警邏隊戦務班の中科生ではない。それでも文輝の隣には華軍――だったものがいる。
 信奉していないわけでもないのに、どうしてだか神仙の存在を呪いたくなる瞬間がある。多分、この国で過ごす誰もが似たような経験をしていて「自分に都合の悪い運命を強いるもの」に反発をするのは決して類稀なる事象ではないのだろう。
 万民の矛であるであると称したところで、自らもまたただの一人の民のうちなのだと知ることがどうしても歯がゆかった。それがただの感傷であることなど自明で、だからこそ深紅の料紙の中央に大きく記された「応」の一文字を見たとき、文輝は自らの感情を一旦棚上げすることを決めた。

「委哉。約束だ。菜館に案内してもらうぞ」
「小戴殿。あなたにはそういう表情の方が似合っているのではないかな」
「馬鹿の馬鹿たる所以よ。だが、そうだな。貴様の人らしい表情の変化は私も決して嫌いではない」

 誇れ、愚直な我が主よ。言って子公が不敵に微笑む。
 だから、そういう率直な称賛には慣れていないのだ、と言いそうになって、その返答は子公の本意ではないだろうと気付いて、そうして文輝は肺腑の奥に凝っていた緊張感を深くふかく吐き出した。

「行くか。怪異と晩飯とかこんな機会でもなけりゃ一生経験しねえしな」
「開き直るとどこまでも図太いな、貴様は」
「現実主義なんだよ。お前みたいに綺麗な論理をこねくり回すのは俺には無理なんだっつの」
「であれば、私と貴様は実利ある巡り合わせではないか」
「そうだね。僕もあなたたちの噛み合っていないようで噛み合っている会話を聞くのは楽しいと思うよ」

 そんな会話を繰り広げながら文輝たちは湯場の個室を後にする。
 怪異の区画でありながら、沢陽口の菜館と遜色ない料理が運ばれてくるのを視認するまで残り半刻。
 暮れない夜に眠るという奇異な現象の中、寝台に潜り込むその瞬間まで文輝は自らに休息を「意識的に」命じ続けなければならないという現実と向き合えるような気がしていた。