「如風伝」第二部 七話

 誰も教えてくれなかった。何が真実で何が虚構なのか、も。何が正解で何が誤りなのか、も。誰も「わたし」に教えてくれなかった。
 正しさなんて知らない。美しさも気高さも知らない。
 それでも「わたし」はここに在って、自分自身を認識する。
 そもそも、それが「正しい認識」なのかすら、「わたし」に教えてくれる「誰か」はいなかった。
 「わたし」はここにいる? 本当に? 「わたし」がそう思っているだけで「わたし」なんてどこにもいないのじゃないか。
 恐怖が「わたし」を蝕んで離さない。
 ああ、誰か。誰でもいい誰か。
 「わたし」の非を詰る言葉でも構わない。「わたし」のことを見つけてくれる誰かは一体どにいるのだろう。



   * * *

 季節は巡る。時間の経過と共に日が昇り、沈むように季節もただ巡る。
 天地開闢に際して、始祖神である黄帝は四柱の神々を生んだ。巡る世界の四方にそれぞれを配して、役割を定めた黄帝は何もしない。人の世に干渉をすることもせず、ただ静観を貫いた。
 世界は大別すると何ごとも四種類に分かれる、というのがこの世界における常識だ。
 巡る季節は四つ。治める神も四柱。夜明けから次の夜明けまでも四つの時間帯で区切られれるし、生きものも些か乱暴な気がするが四種類に大別出来る。
 西方大陸の守護である白帝は季節で言えば秋、時間で言えば日暮れ頃を司っていた。
 言い換えれば、暮れていく世界、の象徴であったと言える。

「自らが朽ちゆく存在だ、ということをあなたたちの神は『最初から知っている』というのが僕たち怪異の見解かな」

 天の理、地の理、人の理。それら全てを超越した存在が怪異だ。
 怪異は理の外にあるから神の影響を受けない代わりに恩恵も受けられない。怪異の少年――委哉(いさい)は戴文輝(たい・ぶんき)にそう説いた。そのことはまだ明瞭に覚えているし、文輝自身が持っている「通説」とも相反しない。そういうものだ。その感触が強くなっただけで、本来、関わり合いになるような存在ではないのだから、沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)が忘却と失念から解放されたあかつきには別離するということも十分理解していた。
 利害関係が一致した一時だけの戦友。
 そんな感覚だっただけに、委哉が文輝たちの宗教観に口を挟んでくることが少し意外だった。

「神、というのはどういう存在だとあなたたちは考えているのかな?」

 絶対的に正しく、賞罰を下す存在か。寛大なる慈愛で全てを赦す存在か。或いは、人を試し、その結果の楽しむだけの傲慢な隣人か。
 そんなことを訥々と尋ねられて、文輝は言葉に詰まった。
 怪異の区画で暮らすことに少しずつ文輝は慣れ始めている。日暮れという概念がないこの区画では朝とも夜ともなしに時間が過ぎた。食事も市街で提供されるものと遜色ない。湯屋は毎日使いたい放題で、文輝の副官である柯子公(か・しこう)は献策に行き詰まる度に休憩と称して頻繁に湯浴みに出向く始末だ。
 沢陽口の城郭の東側に屹立した東山の頂上付近にのみ降雨している怪異を認識してからというもの、文輝は沢陽口の城郭に起きている異変を探し求めて毎日のように巡回している。子公の言う、才子(さいし)の総元締めである「信天翁(あほうどり)」という存在を探していた、というのもあるが、概ね城郭の様子を確認したい、という気持ちの方が強かった。
 今朝も茶屋で軽く朝食を取った後は午(ひる)の鐘が聞こえるまで、工匠の工房街を散策していた。腹が減っては判断が鈍る。「武官諸志(ぶかんしょし)」の中段に自らの体調管理についての覚書が記されており、その一節に最低限の休息と飲食の重要性を説いた部分があった。
 右官としての心構えを説いているだけの書物だと思っていたが、存外現実的な要素も含まれているのだな、と文輝が実感したのはやはり非常時を体験しているからだろう。前文から後文に至るまで暗唱出来る
。それでも「知っている」と「理解している」というのは別の事象なのだということを痛切に感じていた。

「陛下は陛下じゃねえのか」

 文輝は九品(きゅうほん)の生まれだ。代々続く武官の家筋に生まれ、国主の矛――ひいては民の矛たることを志して人生を過ごしてきた。才子のような天啓があるわけではない。文輝の中では天上の存在である国主の更に高い場所に在るもの。それが神だ。
 白帝廟が街に在ることも、そこで祈りを捧げるものがいることも、文輝にとってはただの日常の情景で、特別な感慨などない。
 そう答えると、委哉が少し残念そうな顔をした。

「小戴(しょうたい)殿、ではあなたは神について思考したことはないのだね?」
「こんな言い方すると不謹慎だとか自慢だとか思われるかもしれねえけどさ、俺自身の話なら、神に祈ったことなんてないから、いてもいなくてもいいっていうか――多分、今はいるなら腹が立ってるって感じだ」

 神に祈る、というのは自らの無力を嘆き、他者から与えられる救いを懇願する行為だ。だから、文輝は白帝があることこそ否定はしないが、自ら祈ったことは殆どない。神に仕えるだなんて考えたことすらないがゆえに思う。人の一生をかき乱して、悲痛な祈りを捧げなければ助けもしないのなら、そんなものはあるだけ邪魔だ。岐崔(ぎさい)が偽りの安寧を失ったあの日。文輝が持っていた「大切なもの」を数えきれないほど奪っておいて、それは信心が足りないからだ、などと言うのならば金輪際、文輝が祈りを捧げるような事態は起こらないだろう。

「人間の傲慢に神罰が下った、という評を聞いたことがあるよ」
「傲慢じゃねえ人間なんてどこにいるんだよ」
「おや? あなたは自分が傲慢であると自覚している、とでも言うのかな?」
「人の為に生きる、だとか、人を守る為に戦う、だとかさ。色々思わねえわけじゃねえけど、その根底にあるのって結局は自己満足だろ」

 何かを施してやった。何かを恵んでやった。だから、自分は相手よりも優れている。
 そんな感情がない、などと豪語出来るほど文輝は清廉潔白ではない。二十二の初校尉(しょこうい)で、諦めていると言いながら、なお立身出世を願っている。完璧なまでの自己矛盾だ。わかっている。文輝がその役割を放棄したとして、最初のうちは多少混乱もあるだろうが、時間の経過と共に文輝が最初からいなかったかのように穴は埋められるだろう。人間は適応する生き物だ。不変の価値などどこにもない。

「俺が手を貸して助かったやつがいる、ってことは、俺が手を貸さなかったら別のやつが助かっていたかもしれない、ってことだろ。俺は自分が絶対に正しい、だなんて言いたくねえな」
「小戴、それがお前の答えか」
「そうですよ、華軍(かぐん)殿。正しさが救うものもあるし、逆に苦しめるものもある」

 だから、全部自己満足だ。世界中遍く認められる価値観なんてどこにもない。感情を真に共有することもない。それでも、だからと言って自らの願いを否定する必要もまたない。
 あるのは偶然の連続で、人間に出来ることがあるとすれば、それは偶然が発生する確率を多少増減させることだけだ。
 あのとき。白しかない世界で華軍が投げた問いの答えをずっと探していた。
 正しければ何をしてもいいのか。そうだ、と言えない自分が不甲斐なかった。正しさを何よりも尊重する、という価値観を抱いているのに肯定出来なかった。そのことにずっと蟠りを感じながら、文輝は四年のときを過ごした。
 正しさは万民を救わない。それでも、正しくありたいと思うのは文輝の自由だ。価値観を他者に押し付けないのなら、何を信じるのかは文輝の自由だということに気付いた。
 人間は全能の生きものではない。だから、絶対という概念は絶対にない。
 そのことを文輝に伝えたのは、今となっては赤虎(せっこ)に身をやつしている陶(とう)華軍だった。
 燃えるような深紅の体毛に埋もれた黄金色の双眸がそっと伏せられる。
 あのときの問答が四年の歳月を経て、ようやく終幕となったのをお互いが感じていた。
 その二人分の感傷を終わらせるかのように、平坦が飛んでくる。
 三者三様の顔をして、文輝たちは音源を見た。

「知っていて当然のことに気付いた程度で鼻を高くするのは無様だぞ、文輝」
「子公、お前なぁ」

 もう少し場の雰囲気を読め、と苦言を呈するも湯上りの子公には届かない。
 青みがかった黒髪は既に丁寧に乾かされている。日付が「今日」になってから何度目の入浴だ、と文句を挟みたかったが毎回それほど長時間も使わずに身支度を整えて戻ってくる子公を論破出来る要素はなく、溜息を量産することで文輝は気を紛らわせた。

「それで? 哲学の話をしたいのではないだろう。この怪異と神との間に何の因果があるというのだ、委哉」
「子公殿。あなたが今、口にした言葉をそのままあなたに返そう」

 知っていて当然のことに気付いた程度で鼻を高くしては無様なのだろう?
 委哉の反論に子公が口を真横に引き結ぶ。まさか怪異の少年に正論を突き返される未来が待っているとは、天才軍師候補にとって想定の範囲外の出来ごとだったのだろう。眉間に皺を寄せて、大きな溜息を吐き出した。

「なるほど、貴様たち怪異にとっては神も仙も人も関係ないということだ」
「そうとも。僕たちには信心もないから、あなたたちが後生大事にしているものも客観的に把握しているよ」

 話を戻そう。言って委哉が子公に着席を求める。顰め面の子公が不承不承着席し、それに応じることで、本筋の問答が始まった。

「子公殿。あなたにとって神、というのはどんな存在なのかな?」
「貴様の認識している通りだ。私の生まれた国では神は『絶対的な正義』であり、神の意に反することは『罰せられて当然』の愚行だった」
「それは、この国では違う、と言いたいのだね?」
「私の祖国には才子も怪異もない。神に仕えない存在など初めて見た、というのも過言ではないだろう。全く別の文化を持つ国風であるからこそ、そうなのだろう」

 ここは人が神に隷属する神代の常識が通じない国だ。
 子公がそう断言するのを文輝は不思議な思いで見ていた。紫水晶の双眸には強さと弱さが矛盾なく灯っている。未知の世界と相対して臆している気持ちも、それでもなおこの問題の解決に善処するという気持ちも同じぐらいだ。
 文輝の中では西白国はそれなりに宗教色のある国家だと認識されている。神――白帝を天主と仰ぎ陛下と呼び称する。そこには人間を超越した存在に対する畏怖があり、目には見えないが神の存在を認めている。才子という天啓を受けた存在が身近にいるからこそ、文輝たちただ人は神威を常に感じていた。
 その次元の文化を子公は「宗教色が薄い」と判じる。神に隷属する、と子公は表現したがそれは一体どういう光景なのか。文輝の貧弱な想像力では少しも思い描けない。
 ただ。
 青東国と比較し、宗教観が薄れている。文輝と子公のそれぞれの主観を比べ合わせることで導き出す答えがあるのだとしたら。

「子公。委哉。お前たちが言っているのは、陛下の威光が薄まっている、とかそういう話なのか?」
「いい着目点だね、小戴殿」

 その通りだよ。言って委哉は聞き分けのいい幼子を褒めるように大らかに微笑んだ。

「あなたたちには以前、少し話したと思うのだけれど、あなたたちは白帝の加護――と言う名の神の干渉が薄らいでいる存在だ」

 青東国の生まれで青帝に隷属する子公に新たなる従属を強いることが出来ない程度には白帝の力は弱い。一度死の淵に落ちて、そこから死に戻ったものを再び隷属させることが出来ない程度にも白帝の力は弱い。
 論述によりそれが白日の下に晒されて、文輝は自らが主神と敬っているものが全能でないことに少し失望したのを感じる。一介の臣民が神に失望出来るほど、白帝の神威が弱まっていることが更に示されて文輝は動揺した。

「白帝は元々の姿勢として怪異の存在を排除しようとしていたのだけれど、最近では首府ですら怪異を認知している始末なのは小戴殿が一番よくご存知ではないのかな?」
「勿論、あの多雨の怪異についても白帝は排斥しようとしたが、数百年単位で存在し続ける怪異を撲滅することは敵わなかったのだろうな」
「そこで白帝が選んだのは鎮守を置く、という方法だね」

 あなたもご存じだろう。神の威を保つ為に生み出された歪な保全機構のことを。
 委哉と華軍に畳みかけるように言われた瞬間、文輝の脳裏にその存在が思い浮かぶ。

「――二十四白(にじゅうしはく)」
「そう、その通り」

 白帝は自らの神威を保つ為だけに二十四もの天仙の恭順を必要とした。
 天仙というのは神に仕える仙道のことだ。国に仕えるものは地仙、誰にも仕えない埒外の仙道は飛仙と称される。人の身で関わり合うことが出来るのは内府(ないふ)に所属した官吏だけで、それでも地仙が精々だろう。
 そのぐらい、仙道というのは稀有な存在だった。
 その、更に稀有なる存在を二十四も集めるのに苦渋したことはこの国で生まれ育てば誰もが神話の向こうに伝え聞く。そうまでして白帝は西方大陸を守護しているのだ、と。
 西白国の民である文輝は神話と共に生きてきた。今更、そこに神威の失墜を疑わない程度には神話に懐柔されてきた。その大前提が覆されようとしていると知って、平静を保てるだけの剛健な精神力は二十二の文輝には備わっていない。頭の中は混乱を極めた。

「それで? 怪異である貴様らが神を崇拝したいだとかそう言った用件ではないだろう。何故私たち――神威の及びにくいものに目を付けた? ここ数日の様子を見ても、国家転覆を望んでいるようには思えん」
「子公殿。僕は一番最初に言わなかったかな? 怪異は怪異を食らうことでしか存在を維持出来ない」
「――石華矢薙(せっかやなぎ)は昼食程度だとも言っていたな。なるほど、あの多雨ともなれば十分な馳走になる、ということか」
「怪異は消える。神威は保たれる。沢陽口の城郭は守られる。全員に利しかないように思うのだけれど?」

 利害関係が一致している、というのが委哉の言い分であることは明白だった。
 慈善でも偽善でもない。ただ、自らの利の為に他者を用いるというのは合理的だし、文輝としても不要に疑う理由を減らした。
 それでも。

「忘却と失念の根源をどう説明するのだ」

 白帝の力の弱まりと同時に怪異が発生する。そのうちの一つを御する為に天仙を置く。その説明に綻びはない。それでも語られていないことの方がまだ多い。
 多雨の怪異は現在進行形で発露している。鎮守はどうしたのだ、とか、何故この城郭は忘却と失念に囚われているのだ、とか。そういった疑問がまだ山積している。
 その状態で協調を受け入れてしまいそうになる文輝の甘さに釘を刺すように、子公が問いを重ねた。
 委哉が答えるより早く、個室の暖簾の向こうから柔らかな声が飛び込んでくる。

「それについてはわたくしの方から」
「誰だ」
「あら、副官殿のような方をもってしてもわたくしのことは見通せないのかしら?」

 暖簾を潜って言葉では到底筆舌尽くしがたいほどの美女が現れる。子公のものとは違う、よく肥えた土色を更に濃くしたようなしっとりとした黒髪をざっくりと腰の辺りで括っている。西白国では髪の長短で身分の上下は示されない。衣服を多重に纏うことで権威を示すこともない。それでも、文輝は確かに感じた。これは神話の世界で伝え聞く「選ばれたものの容貌」だ、と。
 ぽかん、と見惚れた文輝を他所に子公の詰問が及ぶ。

「――二十四白、か」
「白瑛(びゃくえい)――もしくは信梨(しんり)とお呼びくださいませ」

 桃の花が開くようなたおやかさで二十四白の女は名乗った。
 白瑛、というのが二十四白の筆頭、人間の世界で言う正三位(しょうさんみ)以上に当たる特別な天仙であることを神話は物語る。二十二年、その文化の中で生きてきた文輝にとっては神が顕現したも同義で動悸のする思いだ。
 信梨――という名が何を示しているのかを知らない国民はいない。信梨とは「真理」の読替であり、白瑛が司る権能であることを意味している。

「白瑛様? 本当に?」

 物語の中に伝え聞いたより実物の方が華やかで美しい。声も素晴らしく透き通っているが、そもそも話し方自体が典雅だ。生まれながらにして傅かれる為に存在するような仙女を前にして、正気を保っていられるものはその神話を知らないか、他の神を信奉しているかのどちらかのものだけだろう。
 残念ながらその条件を二つとも満たしていない文輝は二十四白の神話と、想像を軽く二回り以上超越した美の暴力である白瑛の存在に完全に思考が停止していた。
 誰に問うでもなく言葉が音になっていることにも気付かない。
 気付いたのは白瑛が個室の中に入り、空いていた委哉の隣の椅子に腰を下ろして語りかけてきたのをどうにか認知した後のことだった。

「『様』は不要ですよ、小戴殿」

 その呼びかけに文輝は否応なしに状況を理解した。
 この天仙を呼びつけたのが誰で、文輝と引き合わせる為に午を過ぎた頃から哲学の話を続けていて、そうして文輝に拒否権がないことを通告する為に、今、確かに圧力をかけている。

「委哉! お前、この方に俺のこと何て説明したんだ!」
「僕の目的を達成する為に協力してくれる生粋の善人、とか」
「俺の転生を留めるだけの遺恨を作った張本人、だとか」
「華軍殿まで! 俺は! ただの! 出来損ないの右官なんです! 白瑛様に名前を呼んでいただけるような身分じゃない!」

 天仙というのは西白国の民にとっては概ね神の内訳に入る。
 神が自分を認識していると知って高揚して勘違いをしないぐらいには九品の教育と言うのは厳格だった。いつか国主――という神の代理人の補佐をする未来が待ち受けている九品にとって「勘違い」の生む傲慢は失態と失策に何よりも親しい友人であることを知らないで育つことはあり得ない。
 全ては国の為に、と育てられる。無私と豪語出来るほど分岐は秀でていなかったが、それでも分別はある。「概ね神」である白瑛に名を呼ばれて舞い上がらないように自制した結果、頭を抱えて力いっぱい叫ぶことで調和を保っている。

「では小戴殿。こうしましょう。わたくしのことは信梨とお呼びくださいませ。殿、までなら敬称を付けてくださっても構いません」
「――その条件を譲るおつもりはないのですね」
「はい。もう。髪の毛の一本すらございません」

 にこやかな笑顔の下にしなやかな弓矢のような強さを感じる。
 かつて文輝と共に切磋琢磨した「旧友」も十分美しかったし、子公もどちらかと言えば美男だが、本物の神の眷属の前では比べること自体がおこがましいだろう。
 溜息を零し、西白国の女性の大半が憧れる白瑛の美しさと聡明さと強さを実感して、文輝は現実と対峙した。

「では信梨殿」
「どうかされましたか、小戴殿」

 白瑛は穏やかに微笑んでいるが文輝の中では焦燥と高揚で上を下への大騒ぎだ。呼びにくいどころか話しにくいことこのうえない。
 天仙を前にして失態を演じないか、神経をすり減らして言葉を選ぶが、文輝の呼びかけに対して白瑛が可愛らしく頬を膨らせて拗ねたのだから美しさと困惑で文輝の処理能力を軽く超越した。

「……信梨殿は忘却と失念についてどのようにお考えなのですか」
「小戴殿。わたくしは差別を好みません。堅苦しい言葉遣いはお控えくださいませ」
「差別をしているつもりはないのですが」
「それです。委哉殿にも副官殿にもそのような振る舞いはなさらないでしょう? わたくしを信じる、と仰っていただけるのならそのような気遣いは不要です」

 皆さんと同じように接していただきたいのです。
 白瑛はそう言うが、崇拝の対象たる天仙に分け隔てなく接することが出来るものがいるとしたら、それはもう西白国の民ではないだろう。
 その確信を突くように子公が何ごともなかったかのように会話に参加する。

「では白瑛よ。貴様はどう考える」

 まさかの敬称なし。どころか「貴様」呼ばわりに文輝は血の気が引くのを感じる。論破されて逆に諭される未来が見えていたが、慌てて子公の言動を諫めずにはおられなかった。

「子公! お前はもう少し謙遜っていう概念を覚えろ! あと白瑛殿、とお呼びしろ!」
「本人が了承していることに過剰に気を遣うのは非礼だろう。それに私には二十四白への信仰心などないのだから、表面上取り繕うというのも更なる非礼だと考えるが、貴様は違うのか」
「ああ! もう! お前そういうところ本っ当に面倒臭えやつだな!」

 わかったから少し黙っていてくれ。
 そう頼み込むのが精一杯で、斜め向かいに座った白瑛がくすくすと笑っているのに気付くのに少し時間が必要だった。

「小戴殿。小戴殿はお話に聞いていた通りの方ですね」
「怪異の言うことを真に受けないでほしい」

 尊敬の態度を「差別」と受け取られたのは正真正銘、今が初めてだ。
 それでも、文輝は知っていた。己の身を以って知っていた。畏敬の念を装って敬遠される、ということの居心地の悪さも、それを否定することが社会においては無条件で「悪」に分類されてしまうことも。九品に育った文輝は知っている。
 だから。
 神話の天仙を前にして、常と変わらない態度を通すことが苦痛を伴うとしても。同じ痛みを彼女に与えることを回避することが文輝にし得る「最善」であることも、文輝は確かに知っている。知っているからこそ、文輝は苦痛を耐える方を選んだ。あの日、方伶世(ほう・れいせい)が文輝の友情を受け入れてくれたように。

「いいえ。いいえ。怪異である委哉殿の目から見てもわたくしと同じ答えが出る、ということはすなわちあなたの本質を表している、ということではありませんか?」
「そうかもしれないが、もう少し俺のことを観察してからその答えを聞けるとより嬉しい」
「ではもう少し経った頃に――そうですね、問題が解決して別離するときにでも同じ評価をお伝え出来るようにわたくしも祈っております」

 では、小戴殿。副官殿。少し長いお話になりますが最後までお聞きくださいませ。
 言って、白瑛は委哉と目配せを交わし、沢陽口の城郭で起こっている忘却と失念の始まりの話を語ったのだった。