魔術師の見る夢には意味がある。
サイラスは純然たる魔術師ではないが条件を箇条書きにするとギルドの規定上、かなり高位の魔術師の扱いを受けることになる。潜在的な魔力の強さ、だとか、短詠唱で放てる術式の多さ、だとか、術式の持続力、だとかそういった基準で高スコアを叩き出し続けていることもあり、魔術師ギルドはいまだにサイラスをギルドの管理下に置きたいと思っている。
そんな高位の魔術師と同等のサイラスの見る夢には必ず意味がある。
暗闇の中小さな明かりが浮かんでいた。赤みを帯びた橙色は幾つかの光の塊であり、学術的な言葉でいう複眼であると気付く頃にはその化け物はサイラスの眼前に巨躯を晒していた。黒鉄色の外殻、炎の片鱗を纏ったような体毛、サイラスの頭上高くに煌々と輝く橙色の複眼。どこをどう見ても巨大な蜘蛛のモンスター――ダラスだった。
昨晩、スティーヴ・リーンに問われたからか。本当にこのソラネンの近郊にダラスが現れたのか。この映像がサイラスの懸念の発露でなければ、ダラスはサイラスに思念を送れるだけの距離にいる。ダラスというのは概ね生きた年月の長さに比例した成長を遂げるとされていた。サイラスの視界に映っているものを目測すると約十フィート。三十年か、三十五年程度のまだ年若いダラスに見える。真に長命なものは尖塔の高さをゆうに超えるから、これでも小さな方だ。ただ、これだけの大きさのモンスターが都市近郊に存在するという時点でもう既に大問題だ。ダラスは人を喰う。ソラネンの街を取り巻く城壁などこの大きさのダラスの前では何の障壁にもならない。石積みの壁を突き破って終わりだ。黒鉄色の外殻はそれだけの強度を持つ。サイラスの脳裏に最悪の事態が想起された。
困惑の境地にいるサイラスを更に困惑させたのはダラスから「声」が聞こえたことによる。
「マグノリアを知っているな」
通常、ダラスは知性を持たない。知性がないから言葉を発することもない。ヒトと相互理解をする為に呼応したりもしない。ただ何も言わず、何も告げず一飲みにして終わりだ。にも関わらずこのダラスは「声」を発した。身体構造上、声帯がないから声といっても思念波に近い。サイラスの聴覚に直接干渉してきているようだった。
「お前は何者だ」
ダラスに問いなど意味がないとわかっていたが、サイラスは問わずにはいられなかった。ソラネンの街を襲う危険の予知夢であれば、少しでも詳細な感覚を得たい。真にダラスがソラネンの近郊にいるのであるのだとしても同じだ。サイラス自身に問うのか、実在する脅威――ダラスから引き出すのかの違いがあるだけで、サイラスが行わなければならないことに変わりはない。サイラスはソラネンの平穏を守りたいと思っている。この泥のような夢から覚めた後に何をするべきか。段取りをしながら、見上げるほどの大蜘蛛と対峙する。恐怖心は勿論ある。今、夢の中だったとしても、このダラスがサイラスを飲み込めばサイラスの精神は死に至るだろう。精神の死は現実世界の肉体の緩やかな死を意味する。そして、今、サイラスは徒手であり、短詠唱の魔術の幾つかが使えるに留まる。目の前のダラスが真に害意を持っていればサイラスは生きて二度と朝日を見ることはないのは確実だった。
それでもなおサイラスは大蜘蛛に問う。お前は誰だ、と。
その問いかけなど聞こえていないのか、あるいは聞くつもりがないのか、でなければダラス自身の言葉を発するので精一杯の状態にあるのか。答えを巡らせながら可能性を一つずつ潰していく。ダラスはただ「マグノリアを知っているな」と一方的に尋ねるのみだ。となるとこのダラスは送信専用なのだろうと察する。マグノリアというのは花の名前だ。木蓮の学名であることまでは一拍で理解出来たが、ダラスが問うているのは樹木のことではないのだろう。知っている、と一言でも答えたが最後、ダラスはサイラスに襲いかかってでもサイラスの知っているマグノリアに関する情報を引き出そうとするのが目に見えている。
だから、サイラスは否定を繰り返した。夢の中の暗闇が薄明かりに変わるまで、サイラスは何十回も否定した。夢の時間はじきに終わる。この無限に続くかのような悪夢も日が昇れば強制的に終了されるのがわかっていたから、サイラスは耐えた。
空間の端が白み始める。ダラスの姿が少しずつ半透明になり、サイラスは待ち望んだ朝の到来を知る。これで終わりだ。そう思ったからサイラスは最後の「知らん」を放り投げた。それと入れ違いでダラスの言葉が変化する。
「知らん。知っていたとして、お前にそれを教える利もない。ゆえに答えは一つだ。『知らん』」
「三日後、もう一度来よう。マグノリアにそう伝えておけ」
そう言い残すとダラスの姿は完全に消失した。酷い倦怠感を残して、サイラスの夜が明ける。隣の部屋のウィリアム・ハーディは無事だろうか。瞬間、考えてサイラスは自らの思考で打ち消した。リアムは魔力を持たない。魔力のないリアムに魔力的干渉を行うのはどれほどの賢者をもってしても事実上不可能だから、彼は心地よい微睡みの中にいるだろう。そのことだけがサイラスを酷く安堵させた。眠っていたのに眠る前よりも疲労感が強い。それでも。サイラスは自らがすべきことがあると知ってしまった。それをなすのがこの街でトライスターの座にあり、魔術師になりきれない学者という中途半端な人生を許されているサイラスに課された使命であるとわかっている。
わかっているから、サイラスはゲストルームにいる友人を安らかな眠りから引きずり出す罪悪に耐えた。
「リアム、話がある。起きろ」
毛布を剥ぎ取るとリアムが毛布にくっ付いてくる。サイラスに膂力はない。あるとしても純粋剣士であり、細身ながら筋肉の塊であるリアムを支えられるだけの力があるのなら、サイラスは今頃魔術の研究ではなく機械工学や自然工学の研究をしているだろう。そのぐらい、サイラスはひ弱だ。
ベッドの下に半分ずり落ちた状態で、それでもなお睡眠を継続しようとリアムが寝ぼけた声を出す。
「うーん、何か用?」
「私とソラネンの街とお前とそれからテレジアの人生に関わる大問題が発生した。談話室へ向かうぞ」
「えっ? 何、どういうこと?」
「相談に先立ってお前には詫びておきたい。すまない、騙すつもりはなかったんだ」
「だから、どういうことなんだよ、セイ」
「詳細は追って説明する」
ここで寝起き半分のリアムに話を始めるのは卑怯だ、とサイラスはわかっている。右から左へ聞き流している状態のリアムに洪水のような情報を与えて、混乱させて有耶無耶のうちに承諾させるのはそれほど困難ではないだろう。
ただ、それをやるとせっかく数年かけて築いてきたリアムとの友情が一瞬にして崩壊するのがわかっていたから、サイラスはそれを避けた。
サイラスにはリアムに告げていないことが幾つかある。友人だからと言って全てを理解し共感出来なければならない、だなんていうことはない。友人だからこそ言わないでいることもある。わかっているが明言しないことが人と人を結ぶこともある。
それでも。
「リアム、お前には迷惑をかける」
「んー、よくわかんないけどさ、セイ。そういうときは泣きそうな顔してないでさ『よろしく頼む』って言えばいいんじゃないかな」
サイラスが今から何をしようとしているのか。何の話があるのか。聞きたいことがある筈なのにリアムは穏やかに笑ってみせる。そうして彼は言うのだ。多少の迷惑を被る苦痛より、頼られることの方がずっとリアムにとっては重要なのだ、と。
「何を頼まれるのか、わかってもいないのにそんなことを言うものではない」
「ほら。セイは絶対そう言うと思った。俺のことを心配して、俺のために黙ってたことなんだろ? だったら、俺だってセイに言ってないこといっぱいあるしさ、もし本当にセイが後悔でいっぱいいっぱいなら今日の昼飯、奢ってくれればいいよ。それで全部、一回真っ平らにしちゃえばいいんだって」
だから、一人で荷物背負うのやめよう。な?
言ってリアムの右手がサイラスの左手を握る。悪夢の中で冷え切ったサイラスの指先は冷たいだろうにリアムは温かい掌を決して離そうとはしなかった。
知っている。そうやってサイラスの荷物を平然と背負ってくれるのがリアムなのだと知っている。知っていて、サイラスはリアムを頼った。
だから。
「トネリ屋の揚げピザを好きなだけ」
「コークのお代わりも自由とか」
「そうだな。ジェラートも付けよう」
「いいね、いいね! じゃあセイ、俺はセイの条件呑んだから今から共犯者ってことで」
「後悔しても知らんぞ」
「嫌だなぁ、後悔なんてさせる筈ないだろ。だって、お前はサイラス・ソールズベリ=セイ、名実共にトライスターで俺の大事な親友なんだから!」
「リアム。お前の、そういうところが度し難いが、それでも私もお前の意見に賛同する」
そうだとも。サイラスは自らが負ったトライスターの名に恥じない為の研鑽を積んできた。一人で戦ってきたわけではない。だから。ソラネンの街に脅威が迫っているのなら、それはサイラス一人が背負うことではないだろう。
「行こう、セイ。女将のピンチなら俺だって寝てる場合じゃないからな!」
言ってリアムはブーツを履くと部屋の外へ向かった。その背を追って、サイラスもまた部屋を後にする。ソラネンの寄宿舎で起居するものは皆、窓も扉も施錠しないのが常だ。それだけソラネンの治安がいいのだが、今日は敢えて戸締りを完璧に行う。そうした方がいい、という直感があった。念の為、結界魔術を施してから階下へと向かうと早朝の為か、まだ起き出している住人はいない。都合がいい。そう思ってサイラスはテレジアの部屋の扉をノックした。
「テレジア、緊急事態だ。『我々の安寧』が終わる」
反応が遠いのは想定内だ。だから、サイラスはより危機感を煽る言葉を選んで口に載せた。安寧が終わる。その言葉を聞き取った部屋の中からばたばたと音がして、宿の女主人が姿を見せる。昨日より顔色が悪く映るのは寝起きだからか、サイラスの発言に肝を冷やしているからか。どちらにしてもテレジアにとって負の感情が働いているのには間違いがない。
「ボウヤ、それはあんまりな起こし方じゃないかい?」
「事実だ。そしてもう一つ、事実確認をしたい。テレジア、お前は少し痩せたのではないか」
そう、言うとサイラスの前後で噴出する音が生まれた。テレジアもリアムもサイラスの言葉選びのセンスの無さに苦笑している。本当の本当にテレジアのことを心配しているのだとしてももっといい言い方があっただろう。それをサイラスの肩越しに二人が共有していた。
「起き抜けの女を口説こうだなんて、人としてどうかと思うよ、あたしは」
「テレジア。私は言った筈だ。『事実確認をしたい』と」
「リアム、あんたからも何か言ってやんな。このボウヤに色ごとは三十年早いのじゃないかい」
「女将、セイが冗談でも女を口説くと思ってるなら残念だけど女将の方がやばい」
「やばいって何さね。全く。気の利かないボウヤたちの子守なんてあたしはごめんだね」
面倒を持ち込むのなら帰れ、と言外にある。それでも、サイラスは眉一つ動かさずに結論だけを淡々と告げた。ここで言葉遊びをしている余裕はない。そういう次元に達しているのだと告げなければならなかった。
「テレジア。ことは急を要する。談話室は空いているか」
「ボウヤ、わかってるんだろう。この寄宿舎にあんた以外、こんな時間に起きてるような変人はいない」
「ならば話は早い。四十秒で支度して談話室に来い。施錠を忘れるな。絶対に、だ」
言って何度も釘を刺して、サイラスはテレジアから談話室の鍵を受け取った。鍵には小さな星型の飾りがついている。サイラスが十五の年に初めて受け取った「S(スター)」を示すバッジを学院で鋳造を研究しているものに依頼してチャームへと作り変えてもらった。そのスターがこの寄宿舎では今でも燦然と輝いている。あれからもう四年だ。月日の流れというのは実に早いものだ、と思いながらサイラスは談話室に入る。
「リアム。目測でいい。テレジアは去年と比べてどのぐらい痩せて見える」
「そうだな、十ポンド以上は確実だけど、でもそれって自然増減の範囲内じゃない?」
リアムの目にはそう映るのか。一年にふた月しか顔を合わさないリアムですらその認識ならば、ソラネンの住人の大半はテレジアの身体に起きている異変には気付いていないと考えるべきだ。
「自然増減するにしてもあれの基礎代謝では余程のことがなければ不自然だとは思わないか」
「セイは余程のことがあった、って思ってるんだ?」
「三年連続で十ポンドずつ体重が減るのが普通のことだというのなら私の考えは杞憂で終わる。寧ろ、そうだと言ってほしいぐらいだ。そうだろう、テレジア」
ちら、と談話室の入り口を見る。そこには毎日顔を合わせている筈のテレジアが苦笑いを浮かべながら立っていた。そうしてまじまじと改めて見ても、テレジアの痩せ方は普通ではない。三年で実に三十ポンドもの減量をしたのが彼女の本意ならばサイラスは何の心配もしない。寧ろ無神経なやつというレッテルを貼られるのすら喜んで受けようと思う。
だが。
「ボウヤの目は誤魔化せないねえ。そうさね、最近は食欲もなくて」
「知っている。お前の食べ残しが毎年増えていたからな」
「善良ってのは案外難しいもんだねえ」
そうしてサイラスは後悔と罪悪で胸が押し潰されそうな感覚を味わった。
十年前のあの日。サイラスには選択肢などなかった。テレジアにとっても負荷の高い行為だとわかっていた。それでも、サイラスもテレジアもこれしか選べなくて今日まで来てしまった。ヒトと世界の理を無視している。許されないことだとわかっていた。それでも、どうしようもなかったのだ。そうしなければ、サイラスもテレジアも今日という日を見ていないだろう。
神など信じていない。救いなど期待もしていない。それでも神罰は下る。世の中は本当に不条理の連続だ。そんなことを噛み締めながらサイラスはテレジアと言葉を交わす。
ただ、リアムへの詳細な説明を割愛したから、彼もまた別の意味で混乱の渦中にいた。
「ちょっと待って! 待って! セイも女将も何の話をしてるんだ?」
「リアム。いつか言わねばならんと思いながら五年も黙っていてすまなかった」
「だから! それが何の話なんだって!」
「お前のいう女将は私と使役契約を結んだ魔獣だ。わかりやすい言葉に言い換えればこれは私の使い魔ということになる」
「えっ?」
「ダラスの生態についてはどこまで知っている。繁殖期を迎えたダラスに自我が芽生えることは? 魔術師と契約したダラスがヒトに擬態出来ることは?」
知らないだろう。なぜなら、これは全てサイラスが王立学院の書庫の奥で見つけた禁書に記された古の魔術の在り方だからだ。魔獣との棲み分けが進み、現代魔術において魔獣を使役する必然性は下がった。ヒトはヒト、魔獣は魔獣。そういう風に暮らす場所を分け、相互不可侵とした。だから、お互いの領分を犯すことがあれば、そのときはどんな手段を使ってでも侵入者を排除することが許されている。勿論、侵入者の生死など問わない。
シジェド王国は魔術的に進んだ国家であり、王国領土内における魔獣は魔獣でギルドを作り、言葉や感情などの知性を持つものはその代表を定め、代表同士でやり取りをすることが取り決められている。
シジェド王国に暮らしていてこのことを知らないものはいない。
無法者と懇意にすることなどあってはならないのだ。
サイラスのしていることは誰がどう見てもその規律に抵触するものであり、トライスターの研究員として決して許されることではない。
風来坊を気取っているリアムをしても理解は得られなかったのか。そんな冷たい感情が胸の内に滑り込んで来そうになる。もう間もなくサイラスの心が凍る。その僅か手前、リアムの太陽の声が聞こえた。
「セイ、話してくれてありがとう」
「――リアム」
「そんなの、普通話すことじゃないと俺も思うよ。それにさ、セイのことだから何か事情があったんだろ」
「リアム」
「女将もさぁ、化けるの上手すぎるだろ」
二人とも機会があったら是非演劇の舞台に挑戦するべきだ。そんなことを言うリアムの両頬の上を輝きが流れ落ちていく。知っている。リアムは優しいやつだ。こんな風に秘密の暴露をされて、サイラスやテレジアを責めたり出来ないぐらいには優しいやつだ。それでも、本当の本当に信頼されていたなら、もっと早くに相談してくれればいいのに。そう思ってしまうのも仕方のないことだ。わかっている。それでも、サイラスが真実を告げればリアムはこの禁忌の共謀者に名を載せてしまう。それがどれだけ危険なことなのか、サイラスが苦悩したことをリアムは知っている。知っているから、彼は一言も二人を責めないでただ己の無力に悔し涙を流している。いいやつだ。本当にいいやつだ。本当なら一生サイラスが黙っているべきことだったのに、巻き込まれて、その段になってようやく事情を知らされて激昂したりしない。リアムの優しさに甘えている自身を知って、サイラスの胸はまたつきつきと痛んだ。
それでも。
もうことは始まっている。
その瞬間はリアムがこの街を発つふた月後まで待ってはくれないだろう。
だから。
「リアム、私とテレジアの昔話を聞いてくれ」
多分、そこから全てが始まっているだろうから。
そう、言うとリアムは上腕で目元をぐっと拭って、そうしていつも通りの太陽の笑顔で応える。その双眸には真実、強さが輝いていてサイラスはいい友人に恵まれたことを一瞬だけデューリ父神に感謝した。
ときは十年前にさかのぼる。その夜、サイラスが経験したことをどんな言葉で伝えるのがいいか。判断に悩みながらもサイラスはゆっくりと語り始めた。