Wish upon a Star * 08:Take my hand

 真実は人の数だけ存在する。人の主観を通して見たものが真実で、それ以上も以下もない。そして主観を共通化することは不可能だから真実を共通化することはどんな高等魔術を使っても、どんな国家権力を使っても不可能だとしか言いようがない。
 それでも。
 人は真実を追い求める。受け継がれてきた伝承、習慣化した日常。それらの向こう側にある真実を探して、人は日々探求を続ける。
 それが、学術都市ソラネンの学術都市たる所以だ。
 根っからの学者気質であるサイラスにはあまり体力がない。ちょっとした依頼を引き受けたり、素材を調達する為だったりして、ソラネンの外周を半日歩き回る程度の体力はあるが、瞬発力に関しては数値化すると虚しくなるぐらいしかなく、尖塔に辿り着いた頃にはへとへとになっていた。
 ウィリアム・ハーディが苦笑しながらサイラスの為に蒸留水の入った瓶を運んできてくれる。尖塔の蒸留水は市場の蒸留水とは少し違う。生体強化魔術が施されたガラス玉が沈めてあって、水を飲むだけで体力の回復力が向上する仕組みだ。尖塔の方針によりここでしか買うことが出来ず、魔術師、騎士、ハンターと職を問わず買い求めるものが途切れることがない。
 その蒸留水を飲みながらサイラスはソラネンを代表する指導者たちと会談に臨んでいた。
 騎士ギルドの副団長であるシェール・ソノリテ、尖塔の長老であるクラハド・カーバッハの二人を前にしてリアムは少し緊張しているようだったが、サイラスにとって彼らは怖じる相手ではない。
 概況を説明し終わったサイラスにクラハドが問う。

「トライスター。おぬしはどうやってこの街を守ったらいいと思うかね?」
「私への魔力の供給量が十分であればそれで解決すると思っているものがいるが、それは一時しのぎに過ぎない、と先に申し述べよう」
「そうでしょうね。外敵を根本的に排除しなければ恒久的な対策にはなりえないと僕も理解しています」

 クラハドの問いに否定的な要素の指摘で返したサイラスの横顔を見て、リアムが目を見開く。談話室ではそれが最善であるかのように振舞っていたのに何なのだ、という困惑だろう。わかっている。ただ、暫定的な解決をする為にはリアムの提案も真に必要となり、サイラスは彼の意見を否定しなかった。それだけのことだ。
 クラハドとシェールがお互いに顔を見合わせて、大きな溜息を零した。

「そもそも、トライスター。君ほどの魔力の持ち主が枯渇している、というのはどういうことなのです」
「それよ。おぬし、どこで魔力の無駄遣いをいたした」
「無駄ではないだろう。マグノリアの能力では結界魔術を施しながら、自らの餌を獲るだけの才覚がない。討ち漏らした魔獣の類を私が処分していたらいつの間にかこうなっていた。それだけのことだ」

 マグノリア・リンナエウスはダラスとしては未熟で縄張りの張り方も、餌の獲り方も知らなかった。だからサイラスは王立学院の図書館から禁書を何冊も持ち出してひたすらに魔獣の生態について学んだ。ファルマード司祭に正答を教えてもらえればよかったのだろうが、彼とグロリオサ・リンデリは人柱としての役割をサイラスたちに移譲すると青い大きな輝石を残してこの世から消失した。
 消失したものに助言を乞うことは出来ない。
 サイラスは必死に実験に次ぐ実験を繰り返して、マグノリアに生きていく為のすべを教えた。マグノリアの魔力が安定するまでの間は殆どサイラスの魔力だけでソラネンを守護していた、というのが実情だ。都市を丸ごと守護する為の魔力を考えると十年間、持ちこたえただけでも十分奇跡に近いだろう。
 近年、ようやくマグノリアも自活出来るようになり、サイラスは彼女に魔力を与える必要がなくなったが、マグノリアの捕食頻度ではとてもではないが、ソラネンの城壁の向こう側にいる魔獣たちの全てを退けることは不可能だ。結局、サイラスが自身の魔力を使って小物の魔獣たちを駆逐した。
 そう、説明すると指導者たちは顔を見合わせて更に大きな溜息を零す。

「トライスター。困窮する前にもっと早く僕たちに相談する、という選択肢はなかったのですか」
「言えば、あなたたちは私に協力してくれただろう」

 シジェド王国は国王と魔獣たちとの間で密約が交わされているから平和なのだと国民は信じきっている。魔獣たちが襲ってこないのは国王の威光が保たれているからだ、と信じているのにその足元を崩すような言葉を口にすることは出来ない。それでも。事実、魔獣たちはソラネンの市民たちの預かり知らぬところでソラネンを蹂躙する機会を狙っている。街を大混乱の中に放り込んでどうにかなる可能性に賭けるより、サイラスが自助努力をする方がよほど建設的だと思っていたことは否定しない。
 それでも。
 多分、遅かれ早かれ今日のような混乱が起きるのは避けられなかったのだろう。と今は思う。
 責任感に凝り固まった青さから全てを引き受けようとしていた自分を見つけて、サイラスは胸の内で苦く笑った。

「わかっているなら――」
「わかっているから言えなかった。あなたたちにはあなたたちの理想を追う権利がある。あなたたちこそが私の思う理想の体現だ。なのに、自らの理想を自らで傷付けて喜ぶ馬鹿ものが一体この世界のどこにいるというのだ」

 ソラネンの街は不思議なバランスの上で成り立っている。
 各々が各々の理想を追いながらも、究極の部分ではお互いを尊重することが出来る。思いやりを忘れていない、それでも実利や真理を追い求める姿勢がある。サイラスはそういう街に生かされてきた。だから、これはただの報恩なのだ。
 サイラスの中では既に処理の終わったことを淡々と告げると向かいの椅子に座っていたシェールが「失礼」と前置いてサイラスの頬を平手打ちする。瞬間、乾いた音がしたと思ったらサイラスの頬が急激に熱を持った。

「馬鹿ですか、君は。君の理想の為に多くの人が迷惑を被っているのですよ。切羽詰まるまで自分で抱えて、抱えきれなくなったらから人に頼る、だなんて馬鹿もののすることだと王立学院では教わらないのですか」

 シェールは騎士ギルドの中で最も穏やかな騎士であると名高い。
 そのシェールが語調を荒げてサイラスを叱責している。状況が呑み込めなくて混乱するサイラスを置いて二人の指導者たちはそれぞれの表情を見せた。リアムは苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらを見ている。頑張れ、とリアムの唇が音もなく動いたのが見えた。

「シェール副団長殿。それは、トライスターの座にあるがただの十九の若造だ。もう少し手加減をしてやらんか」
「いいえ、老師。こういうことははっきりと言っておくべきなのです。この大馬鹿ものがソラネンの街を守護している、と皆知りながらそれを傍観していた僕たちも同罪なのですから、きちんと言っておくべきなのです」
「えっ――?」

 今、シェールは何と言った。聞き違いだろうか。サイラスがこの街を守護していると皆知りながら、という台詞が聞こえたような気がしたが聞き違いではないのだろうか。
 混乱がサイラスの胸の内を満たす。
 こんなどうしようもない気持ちになったのは多分十年前のあの夜以来、初めてのことだ。
 尖塔は魔術師ギルドだけあって暗澹としている。小型の魔術ランタンが部屋の四隅で青白い炎を灯しているのは自然な光景なのに、どうしてだか急に冷や水を浴びせられたような感覚を与えた。

「サイラス・ソールズベリ=セイ。君の傲慢を責められるほど僕たちは清廉ではありませんが、僕は敢えて言いましょう。君は君の自己犠牲に酔っていただけで、皆、君が人柱であることを知っていました」
「なら――どうして」
「君がソラネンの住人であろうとしているからに決まっているじゃありませんか」

 王都ジギズムントを離れ、単身ソラネンの街へやってきた。その新天地で元々は子爵家に生まれたのだと驕らずに自らに何が出来るかを必死に探していた。自らの居場所を勝ち取るための戦いを続けてきた。その姿を評価されたのだ、とサイラスはぼんやり理解した。学問を追ってきてぼんやりとしか理解出来ない理論などなかったのに、シェールの一言がどうしても明瞭には理解出来なかった。

「トライスター。よく覚えておいてください。人は決して一人で生きることは出来ないのです」
「であれば我らは集い、力を合わせ、そうして営みを続けていくのだ」
「その中には不条理もあるでしょう。納得の出来ないことも数えきれないほどあります。それでも」
「おぬし一人が諦めなければならんことなぞ、何もないのだ。トライスター」

 それが、人として生きる、ということだと人生の先達である二人は言った。
 サイラスの十九年は決して順風満帆だったわけではない。幾重もの挫折の果てに今がある。その道のりの一つたりとも否定しなくてもいい、と言われてサイラスは後頭部を強か殴られたような感覚を受けた。自己不全感に屈しなくてもいい。無能感を抱く必要もない。それでも人は万能ではなく、人の助力を必要とする。
 だから。

「トライスター。今日よりこのソラネンの皆が共犯者だ」
「ウィリアム君の提案も僕たちは受け入れましょう。魔力が足りないのであれば当分の間は僕たちの分をお使いなさい」
「ハンターと鍛冶師の連中には我が話を付けておくゆえ、おぬしは指示を出しておればよい」

 そうであろう、盗み聞きをしている魔術師の諸君。
 クラハドがゆっくりと立ち上がり、つかつかと歩いては部屋の扉を内側に開く。その戸板に寄りかかっていた尖塔の魔術師たちが支えを失って、部屋の中へと崩れ落ちる。その中にはサイラスの先触れを務めてくれたシキ・Nマクニールの姿もあった。

「トライスター。我らは皆、ソラネンを愛しておる。その気持ちは決しておぬしに引けは取らんよ」
「カーバッハ師。私はこれからもここにいてもよいのだろうか」
「まったくまどろっこしい若造であることだ」
「トライスター。僕たちは君を全力で守ります。それがこの街を守ることになるからだ、ということをこれ以上説明させないでくださいね」

 クラハドとシェールが顔を見合わせて困ったように笑った。
 出来の悪い子どもの面倒を見ている、という顔をしている。そんな風にサイラスのことを慮ってくれる大人なんてもういないと思っていた。サイラスは職を得ているから成人として扱われる。子どもではないのだから、自分のことは自分で面倒をみなければならない。ということをサイラスは心得違いしていた。
 自分で生きる、ということと誰とも関わらないということは決して等号で結ばれることがらではなかった。
 だから。

「カーバッハ師。先ほど師はこの街をどうやって守るのか、と問われた。その質問に答えたい。私は――」

 枯渇しているサイラスの魔力を古代魔術で補う。それには丸一日程度の時間を要する。その間に鍛冶師協会に当たって魔力を帯びた武器を集める。それと並行して簡単な術式の古代魔術を用いて外壁の外側に罠を仕掛ける。仕掛ける地点はハンターギルドがよく把握しているだろう。それを踏まえて効率的に設置する。役所へは今からサイラスが報告に向かう。許可を得るのではない。あくまでも報告に向かうだけだ。ただ、役所は許可はくれずとも黙認してくれるだろう。
 そんなことをつらつらと語るしかない自分の非力さを嘆くことはしない。
 足りないのならば補えばいい。補うのは独力でなくていい。この街にはソラネンを愛する数多の同胞がいて、同じようにソラネンの明日を願っている。同じだけの思いの強さでなくていい。怖じてもいい。腰が引けていてもいい。ただ、明日をこの街で生きたいと願っているのなら、少しでも美しい明日に貢献出来るだろう。
 だから。
 だから。サイラスは指導者たちが見守る中、現役の魔術師たちへの質疑応答に答えた。
 その中でまだ何か不安要素が残っているとしたら、例のダラスがどうしてこの街を守っているのが「マグノリア」であると判別出来たのか、だろう。魔獣の中でもダラスは群れない種族だ。お互いにお互いの縄張りに対して不可侵であることを大前提としている。だから、他のダラスの名など知っている筈がないのだ。
 それに。ソラネンの街を覆っている魔力はサイラスのもので上書きされている。外部からマグノリアの所在を知るすべはなかった。だとしたら、ダラスはどうやってマグノリアのことを知ったのか。

「外部からは知るすべがなかった――?」

 そうだ。その通りだ。その筈だ。サイラスの魔力が枯渇しているとは言え、そこまで落ちぶれてもいない。現にダラスはソラネンの外から魔力干渉を行ってきた。
 その理屈が間違っていないならサイラスたちは別の仮定を考えなければならない。
 だとしたら何だ。質疑応答を一通り終え、それぞれの役割を果たす為に魔術師たちは散っていった。クラハドとシェールも自らの言葉を実行するべく、他の組織への連絡に向かっている。今、この部屋に残っているのはサイラスとリアムとシキだけだ。シキはシェールの指示でサイラスの手助けをすることになっている。
 懸念を振り払うべく、思考を声に出した。リアムが適当な相槌を打ってくれるから、サイラスの考えも整理されていく。

「外部からは知るすべがなくとも、街の中からはある、とか言うんじゃないだろうな、セイ」
「それを防ぐ為に私は地下水道の出口には中和剤を撒いて――待て、リアム。昨日お前は中和剤を飲むのを忘れていなかったか?」

 確かそんな会話をした記憶がある。リアムが中和剤を飲まないのは毎年の恒例行事だ。だから、サイラスもそれほど重大なことだと取り合わなかった。その慢心が油断を招いたのだとしたら、サイラスもまたこの一件に関して無実だというわけにはいかないだろう。
 指摘をするとリアムはさっと顔色を変えて、そうして半ば叫ぶようにサイラスの危惧を肯定した。

「えっ? 俺? えっと、ごめん、忘れてた!」
「最終的にお前はいつ、中和剤を飲んだ?」
「……地上に上がってセイに指摘されてからだから――」
「地下水道の魔力を結構な範囲に散布したようだな」
「ごめん、本当に忘れてたんだ」

 その件について謝罪や弁解をする次元はもう終わった。ソラネンの市民の為とうそぶいてリアムを騙していたことへの報いだろう。真にマグノリアの魔力を隠す為だと言っていれば、もしかしたらリアムも中和剤を飲み忘れたりしなかったかもしれない。
 かもしれない、だなんて可能性を今更どれだけ憂慮しても結果はもう変わらないのだ。
 だから。

「マクニール、地下水道から中央市場までの範囲にいた市民以外の存在を洗い出せるか」

 サイラスがリアムの中和剤の飲み忘れを指摘したのは中央市場の東の外れ――騎士ギルドでシキとひと悶着あってからだ。となるとそこに至るまでの区間はマグノリアの魔力を帯びたまま歩いていたことになる。
 その距離は決して短くはないし、人通りもかなり多い。
 だのに。
 シキはさも不思議そうに問いに問いを返してきた。

「それだけでいいのか?」
「どういう意味だ」
「そんな簡単なことに答えるだけでいいのか、と俺は訊いている」
「何やら自信があるようだな。答えてくれ、昨日地下水道から中央市場までの範囲にいた市民以外の存在はどれだけいる」
「貴様らしくもない問いだ。昨日から今日に至るまで、その中でも地下水道から中央市場――いや、酒場までの範囲にいた部外者だと? そんなものは決まっているではないか。貴様も聴いただろう。奇跡のエレレンの名手――スティーヴ・リーンただ一人だ」

 それ以外の部外者は旅籠の区画から出ていない、とシキは断言した。

「根拠を聞こう」
「本当に貴様らしくもない問いだ。昨日、旅籠で物取りが出たのを知らないのか。役所と我ら騎士ギルドが捜査に当たったゆえに貴様たちの報告を俺が耳にしたのだろう」

 これ以上の説明が必要な程、サイラスは無能なのか、と問われてサイラスは昨夜の会話を思い出した。
 エレレンの名手は確かにサイラスたちに問うたではないか。ダラスを知らないか、と。その奇妙な符合のことをどうして今まで忘れていたのか。思い返すとどうして彼女はダラスのことを尋ねてきたのか。
 その答えの一つとして、スティーヴ自身があのダラスの端末であったのではないか、という疑念が振り払えない。外敵と思っていたものが既に内部にいたとしたら、結界魔術など何の意味も成さない。
 危機感が爆発的に募った。

「まずい、リアム。寄宿舎に戻るぞ」
「えっ、何、どういうこと」
「駆けながら話す。マクニール、お前も来てくれ。私の手には負えない可能性の方が高くなってきた」

 言ってサイラスは席を立った。そうしてそのまま尖塔の階段を駆け下りていく。後れを取った二人が難なく追いついて、体力で劣るサイラスを易々と追い抜いた。見かねたシキが提案をする。

「トライスター、貴様にとっての屈辱と承知で言おう。『俺に背負われろ』」
「……私の感情の好悪を問うている場合ではないのは自明のようだな」

 頼む。言うのが早いか背負われるのが早いか、その別も付かないぐらいの拍子でサイラスは軽々とシキの背に負われる。そうして、シキは何も背負っていないリアムと同じだけの速度で石畳を駆け出す。
 ソラネンの街はまだ安寧を保っている。この均衡が守られているうちに何をすべきか。サイラスは次の一手を必死で探る。シキの背は思っていたよりもずっと安定しているのだけが妙に心地よかった、だなんて口が裂けても彼には言わないが、人に頼るのもそれほど屈辱ではないのだなと実感をする時間だった。