律令は既に遵守されていない。にも関わらず沢陽口のものがそれを後ろ暗く捉えている様子はない。これがこの城郭の常であるのならば文輝は別の報告をする義務があったが、多分、そうではないだろう。この山道の先で何かが起こっている。確信にも似た直感があったから文輝は子公を置いて石畳を駆け登った。
文輝が今、腰に佩いているのはただの直刀だ。四年前、一本目の直刀を打ったのと同じ刀工に打たせた、ただの片刃の剣で得物としては可も不可もない。四阿までの間に野盗の類が跋扈しているのだとしても、文輝一人で斬れるのは精々四、五人が限度だろう。それ以上は直刀の方が持たない。門番が出仕していないのか、山中で起きている「何か」に対処しているのかどうかを判じる術はないし、文輝は真っ当な九品(きゅうほん)だ。まじないの才もない。
ただの兵部歩兵隊の初校尉の分際で何が出来るのか、ということには些か不安が残る。
それでも。明日の朝には上官が到来する。それまでに文輝の成し得ることは成しておかねば、信を受けた意味がない。いや、そういうことでもないのだろう。文輝は自らの目の前で再び御し難い「何か」が起こることを忌避していた。何もない。ただの気のせいだ。その結果が欲しくて沢陽口まで来た。
なのに。
何かが起こっている、という感覚だけが鋭敏になる。全身の感覚器官を総動員して文輝は更に石畳を駆けた。異臭に気付いたのは山道の斜度が幾分上がってきてしばらくした頃のことだ。緑に萌える斜面からはまだ四阿が見えないが、下界を見下ろすと沢陽口の城郭全体、ひいては津の突堤が遠くに見える。異臭、というのも最初のうちはただの土の匂いだろうと思っていた。植物が倒れ、朽ち、そして土くれに戻るときにこういった匂いがすることはままある。それらに似ている、と思っていたが石段を登るにつれ、濃度が高まった。一息吸い込むごとに肺腑の奥が腐れ落ちていくような感覚がある。本能がこれ以上の前進を忌避する。それを抑え、石段を更に登った。子公の姿は既に捉えられなくなって久しい。石段のあちこちに隆起が見られる、と気付いていたが別段気に掛けるほどのことでもないだろうと前に進んだ。文輝の耳に小さく、何かが弾ける――あるいは途切れるような音が聞こえるのに気付いたが視覚はまだ違和を捉えない。外輪山を越える頃、これに似た音を聞いたことがあるのを不意に思い出した。みしり、と何かが軋む音がする。これは――山崩れの前兆だ、と気付いたときには既に文輝は四阿のあるであろう場所の一歩手前まで登っていた。朱塗りの柱、細やかな意匠の施された扁額、そして東方守護を意味する藍色の瓦の残骸。それらを呑み込んでいるのがただの山崩れでないことは明瞭だった。なぜなら――山土は決して胎動したりなどはしないのだから。
岩石の一部が蠢いている。脈打つように伸縮を繰り返し、刻一刻とその浸食が拡大していた。流土に似た匂いの中、鼻腔を突く酸い匂いが何であるか、の解を得た瞬間、文輝は踵を返していた。そして全力で山道を駆け下りる。
土石流に襲われたようにしか見えない、無残な光景に委縮したのではない。
これは――怪異である。文輝と子公の二人の手には余るのは明白だった。岩土のようにしか見えないが、あれはれっきとした怪異であろう。天の理からも地の理からも、果ては人の理からも外れた存在を大別して怪異と呼ぶ。人知の及ぶところではなく、何の戒律をも超越するのが怪異だ。怪異を前にして人が出来ることはあまりにも少ない。一部の才子たちの間には対抗し得る――怪異を退けるすべが口伝されているそうだが、この四阿のあるじにそれはなかったのだろう。土石の波が文輝の接近に気付くや否や、標的と捉える。石段を流れ落ちるように怪異は文輝の後を追ってきた。この土石に呑み込まれれば最後、文輝は東山の一部となり果てるのは自明。となると全身全霊をかけて逃げ降りるよりほかの選択などない。
九十九折(つづらおり)を三回ほど必死に下ると副官の姿が遠くに見えた。文輝は腹の底から叫ぶ。
「子公! 下れ! 怪異だ!」
知識の上だけで知っている。これは石華矢薙(せっかやなぎ)と呼ばれるもので、どうにも信じがたいが石土ではなく、植物の怪異だとされている。やなぎ、という名が体を表している通り、この怪異の本体は柳であり平時であれば山林の奥で密やかに生まれ朽ちるのだそうだ。酸性の香りは矢薙の花の香であり、数百年に一度の繁殖期に一斉に芽吹くという。それが今、咲いているのだろう。
ならば今が繁殖期か。
そんなことを考えながら、文輝は山道から外れて斜面を直滑降した。後背からはなおも矢薙が追ってくる気配がある。
「文輝、私の足では追いつかれるぞ」
貴様と違って脚力は些か心もとない。追ってくる石土の流れから必死に遠ざかろうと子公は全力で下山しているが、その言葉通り矢薙との距離は縮まる一方だ。このままでは遠からず土石に埋もれて窒息死となるのが目に見えている。
文輝は右服の懐に手を入れ、それを引っ張り出してきた。細い竹を薄く削った子どもの玩具のようにしか見えない小さな笛だ。
「ってことはこいつの出番だ」
「気笛(きてき)か。貴様にしては気が利いたものを持っているではないか」
「使わねえに越したことはないんだが、大義姉上(あねうえ)が差配してくださったものを無視するわけにもいかねえだろう」