「如風伝」第二部 五話

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 文字、というのは書いた本人の性格を如実に反映する。真面目、誠実、丁寧からせっかち、面倒臭がり、乱暴といったありとあらゆる性格を雄弁に物語るが、それが伝わるかどうかは読者の理解力に一任された。
 戴文輝(たい・ぶんき)は九品四公(きゅうほん・よんこう)の生まれであるから幼少期に教養として筆記法を学んだ。読みやすさと共に美しさという概念を求められ、体力勝負の右官(うかん)らしくない整った文字を体得している。身なりと共に整えられた字体は文輝の出自を暗喩した。やんちゃ坊主の年齢から現在に至るまで、そういう意味で言えば文輝は「優等生」の括りの中にいる。
 その点において柯子公(か・しこう)というのは文輝をゆうに超越する存在だ。軍師を志していたという言葉の通り、子公の文字は美しく整い、無駄がなく、それでいて妙な迫力を持っている。人を惹きつける字体、というのがあるのだとしたらそれはやはり子公のそれなのだろう。
 それでも。

「文輝。墨が止まっているが?」

 続きを早く書け、と子公が促す。
 緊急事態を告げる深紅の料紙に文字を記すのに墨液は不向きだ。明度が低い色同士で判読が困難になる。だから、深紅の料紙を用いる際には白墨を用いた。固形の白墨はどれだけ研いでもすぐに摩耗する。筆記具としての体を保つ為には一行書き終わる度に小刀で削る作業を強いられた。白墨の削りかすはごみとして捨てられることはない。一所に集め、新しい白墨を購入する際に返却する。そうすることで白墨の粉は再利用されるし、購入者は幾ばくかの値引きが受けられた。
 環境保全、という単語を思い描きながら文輝は今一度白墨を削る。先端は鋭利になり、筆記具として十分な機能を備えたから、文の続きを書く作業に戻ることが可能だ。
 わかっている。今、この文を文輝自らが書く利ならわかっている。
 文輝よりも余程美しい字体持った子公が文を綴っても、上官の胸には何も響かない。文輝が初校尉(しょこうい)として――ひいては九品の一氏・戴家の三男として提言するからこそ上官は渡航を思いとどまってくれるのであって、子公が賢しら顔で正論を放っても何の価値もない。
 適材適所だ。わかっているから文輝は文を書いている。
 子公が原案でも読んでいるかのように紡ぎあげる上奏文を文輝の言葉に置き換えながら、最速かつ丁寧に記した。
 伝頼鳥(てんらいちょう)は既に三度往復している。
 文輝の上官は流石は文輝の上官といったところで、文輝の上奏を世迷言と切り捨てずに子細な説明を求め、実利ある判断を下そうとしていた。「どうして文輝がそう判断したのか」の部分さえ上手く説明出来れば上官は本隊の渡航を半月どころかひと月でも待つ準備がある、と文の向こうに含めている。位階を得て、生まれて初めて軍事的判断をしようとしている文輝の一助となろうとしてくれているのは自明だった。文輝の判断が正しければ多くのものの安全が保たれる。右官、というのはそういう職位だとわかっていた。わかっていたが、訓練ではない実務として命を預かる重みの前で文輝は少しだけ弱音を吐きたい気持ちがないわけでもない。
 気が付けば溜息が零れていた。
 既に十分に尖った白墨の先端を見つめていると、赤虎(せっこ)がくわ、と大きな欠伸をする。

「小戴(しょうたい)、善を貫くのではなかったのか」
「華軍(かぐん)殿、哲学の話であれば上官殿が結論に達してからお聞きします」

 もう少しでそこに至る感覚がある。文輝の中で「合理的な判断」が下せそうな予感もある。それでも、結論を述べる段になると文輝の胸中に「これでいいのか」という暗澹とした気持ちが湧いてくるのもまた事実だ。
 赤虎――かつて陶(とう)華軍だったものがそれを見抜いて世の中に曝そうとする。世の中に曝して、それでもなお貫けるものだけが輝くのだというのが真理で、ただその理屈は人の感情の殆どを無視しているということを知らないほどには青くもない。
 理想、というのは何なのだろう。人の命を預かる、というのは何なのだろう。
 守る、というのは独善ではないのか。本当の本当に人を救うというのが何なのか。文輝はその答えを未だ知らない。

「その道程に迷っているのだろう。本意ではないことをして、後になって誰かに責任転嫁をするのがお前の善か」

 迷ったまま結論を急いでは後悔しか生み出さない。腹を括るにしろ、諦めるにしろ文輝がこの先、どういう気持ちで華軍たちに向き合うのか、はっきりとしろというのが華軍の言い分だ。
 それでも。

「そういうことは! やってみないと! わからないんです!」

 自分の行動の結果を先に知ることは出来ない。才子でも、国主でも絶対に出来ない。それが人間の限界だ。怪異となった華軍には未来の光景が見えるのか、それは華軍自身の申告を信じるしかないが彼が明言を避けるのであれば千里眼などやはり巷説の類だろう。
 だから。
 文輝は自らの不足を受け入れ、現実と向き合い、明日を望んだ。
 よりよい明日を願うならばそのきざはしに足を載せずに絵図を描いていくことなど決して出来はしない。

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