それでも。全てを疑って全方位を敵視して生きていくことに文輝は価値を見出さなかった。偽善や独善と嘲笑されてもいい。それでも、どうしても、文輝はこの国の礎たる存在になりたかった。
「そのうえで俺は君に言うよ。上官殿は俺を信じてくださる。だから、少し遅くなったけど晩飯を食いに連れていってくれないか」
この区画の中でもいい。外――本来の沢陽口の城郭の菜館(しょくどう)でもいい。人間の活動に必要な熱量を摂取したい、と申し出ると委哉は束の間無言で両目を瞬かせた。
少年の顔をした委哉が赤虎をちら、と見て苦笑いを浮かべる。
「有史以来、初めて外関で修科を受けた九品の面汚し、という評判は知っているかな?」
「怪異の間でもそういった噂話はあるのか」
「貴族社会において『不可』が一つでも付けば二度と這い上がれない、というところまでは知っているよ」
「そうだな。その通りだ。だから、俺はもう九品として成功することなんてないんだ」
文輝はもう出世街道には乗り損ねた。有史以来、外関で修科を受けた九品の子息は文輝以外にいない。それをもって文輝は落伍者であると認識されているし、多分今後もそういう扱いを受けるだろう。
右官としてとんとん拍子に位階が上がる、だなんて妄想を抱かないで済むぐらいには文輝も現実が見えている。だから文輝は子公に願った。無理難題を押し付ける自覚を伴って願った。将軍位がほしい、と。
縁故や忖度で文輝を庇ってくれるものなどいない。
正真正銘、実績で殴るしかない文輝には有能な副官がどうしても必要だった。
その泥まみれの奮闘の二年が結果を出した。二十二にして初校尉。九品の直系としてあまりにも遅すぎる昇進にそれでも文輝はくさらなかった。寧ろ、実績を出せば昇進せざるを得なくなるのだという前例が生み出されたことに小さな感動すら覚えた。
生き汚くていい。醜くてもいい。国の安寧を守ると誓った志に何の変わりもないのなら、文輝はここで戦うことが出来る。
委哉が文輝の笑みを受けて残酷に微笑む。
「それでもあなたは国官でありたいと思うのかい?」
「いいんじゃないか。広い世界、長いときの流れに一人ぐらい救いようのない馬鹿がいたとして、それが俺であってはならない、だなんて決められるやつはいないだろ」
「まぁそういう稀有な存在だと認識して、僕たちはあなたを探していたのだから詮のないことだね」
子公殿、あなたの上官は名を体で表して輝いているね。
感慨深げに委哉が言うと子公は鼻先で軽く笑った。
「当然であろう。私が命運を懸けるに値する男なのだから、陽の光よりなお輝いているのが道理というものよ」
「だ、そうだけれど?」
「取り敢えず、清書終わったんだが?」
子公が文輝を率直に褒めることはごく稀で、その数少ない機会に子公は真顔で称賛を放ってくるから文輝としては何とも居心地の悪い思いをする。信頼を込めた「馬鹿」だの「貴様」だのの方がずっと聞きなれていた。罵倒の言葉の方が安心する、だなんて口にすると子公は被虐趣味か何かかと勘違いするだろうから言わないが、それでも不器用な優しさが薄皮に包まれた悪口は確かに文輝を励ますのだからどうしようもない。
そんなことを考えながら、文輝は今、自分がすべきことの最後を告げる言葉を口にした。
「華軍殿、鳥を飛ばしてはいただけませんか」
「無論。『応』が返ってくることを俺も祈っている」
言いながら夕明――華軍だったものが虎の口腔の中で聞きなれた文言を読み上げる。あの日、あの夜失われたときと何ひとつ変わらない「武官諸志(ぶかんしょし)」の冒頭文だった。四度目の「武官諸志」は赤虎の声の音に導かれるように鳥の形を成して飛翔する。
布の暖簾を越えて、沢陽口のどこでもない怪異の区画から出でて、どこを経由するのかは想像も付かないが、伝頼鳥は岐崔・中城を目指す。
文輝の言語能力で可能な限り最善を尽くして説明を施した。多分、上官は「応」と答えてくれるだろう。そんな確信にも似た手応えを感じながら、文輝は卓に突っ伏した。その状況を見届けた委哉が例の嘴の店員を呼びつけて再び熱い茶を注文する。
西白国では古来「茶」と言えば黒茶――樹木の葉を採取し、細かく砕いたのちに発酵、乾燥させたものを湯で抽出したものを指す。生まれてこの方、西方大陸を出たことがない文輝にとって「茶」はすなわち黒茶であり、産地によって違いはあれど概ね似たようなものだという認識だった。だのに、この怪異である区画で出る「茶」は香ばしさと程よい苦みを兼ね備えた白湯のようなもので、到底黒茶とは似ても似つかない。その「茶」を飲む子公の横顔に幾ばくかの感傷が浮かんでいるから、これはきっと青東国で言うところの茶なのだろう。
怪異は他国の文化をも解するのか、と子公が言った。
その問いに文輝は答えなかったのは子公の感傷に付き合ってやりたいと思ったのと同時に、正答を知らなかったからだ。西白国固有の現象である「怪異」のことを文輝はあまりにも知らない。無知、という罪の重さを文輝は岐崔動乱のあの夜、痛切に思い知った。
世の中は広い。文輝の想像が至る範囲より、ずっともっと広い。一つの知の向こうに十の関連事項があり、その十の向こうには更に百の事象が存在する。全知全能など神の権能でただの人がそれを望んだところで到底御せるものではないだろう。
それでも。
文輝は自らの意思で自らの足で立つことを望んだ。
自らの足で立ち、人々の矛となることを望んだのだから、無知を理由に問題の解決を放棄することなど出来ない。「そう」したときの後悔と心痛をあの夜、思い知ったからこそ文輝は今ここにいる。
「小戴殿。あなたの言う『最後の鳥』が届くまでの間に僕に尋ねることはないのかな?」
「例えば?」
「夜のない区画は一体いつ眠るのか、とか」
「――あぁ、そう言えばそう、だな」
「小戴殿。人間と言うのは疲労する生き物だと僕たちは認識しているよ」
あなたの上官が本隊の渡航を遅らせてくれるという決定が届いたのなら、あなたたちは休息を取るべきだ、と僕からは進言しよう。そんな声が聞こえてきて文輝は榛色の双眸を大きく見開いた。
「おや? 怪異には思いやりという概念がないと思われていたようだね」
「そんなことはない。そんなことはないんだ」
「小戴殿。そんなに必死に否定しなくてもいいじゃないか。ただの冗談だし、あなたは疲れているのだから」
冗談を冗談と受け取る余裕もないほど疲労しているのなら、尚更休むべきだ。疲れは判断を鈍らせる。二十二で初校尉の文輝一人で背負いきれる責など高が知れているが、それでも文輝はこの後もずっと判断を迫られるだろう。
肝心な場面で判断を誤りたくないのであれば休息も必要だ。
「でも! 子公!」
「貴様は何でもかんでも背負い込みすぎだ。それの言う通り、渡航を遅らせることに了解が得られたのであれば休むのは決して非合理ではないと私も判断する」
「華軍殿! 華軍殿はどうお考えですか!」
「小戴。俺と委哉の見立てでは今日明日どうなることでもない。結論を急いてしくじりたいのであれば俺は止めんがお前はどうしたい」
三者三様に同じ結論が紡がれる。夕食が必要だ、と文輝自らも提案したがそのまま休息に突入するとは思ってもおらず、想定外の展開に文輝は戸惑っていた。
休んでもいいのか。休むべき場面か。
副官は休息を提案した。決断をするのは文輝の役割で、誰もそれを奪おうとはしていない。
ならば。
「わかったよ! わかった! 飯食ってもう一回湯に浸かってから寝りゃいいんだろ!」