「如風伝」第二部 六話

 誰からも愛され、誰からも敬われ、人としての規範を体現する。それが九品が育んだ人間性だ。驕ることなく、民の先頭を率いていく。それが九品に課された使命だ。
 わかっている。その理念が全て正しいわけではないし、所詮は貴族の自己満足だ。妬みも嫉みも打算も勿論ある。優越感に浸るものもいるし、差別と偏見がないわけなどない。
 そんな複雑な色をした「出世街道」と別離して四年。文輝は九品の生まれからではなく、ただの戴文輝として国の為に何が出来るかをずっと考えていた。
 そんな不器用な文輝のことを華軍の目を通して見た委哉が評する。

「それでもあなたの生き様は人として十分に美しいのではないかな?」

 昨日のことだ。委哉は彼の言葉で口にした。文輝は「九品の面汚し」である、と。そのことを文輝はまだ忘れたわけではない。
 知っているとも。だからこそ、文輝は毅然と顔を上げた。泥まみれの人生を受け入れて、それでもなお国の為になりたかった。自らの不幸を嘆くものを一人でも減らしたかった。
 そんな文輝の生き方を美しいと評される。その評を得たいのは今ではない、と文輝は思った。
 未来のどこか。自分が終わるそのときに聞きたい言葉の一つだ。
 そのことを文輝よりも余程実感している文輝の副官が舌戦に応じる。
 子公は――柯子公という文輝の副官は言葉や態度こそつらく見えるが、その実、文輝よりも余程優しくて強い男なのを文輝は知っていた。

「人として美しい、で腹が膨らむのであれば私はそこの馬鹿を神と同じように崇拝しよう」
「おや? 腹が膨らんでいないにしては随分満たされた顔をしているようだけれど?」
「そこの馬鹿の行いが善であるかどうかなど私にはどうでも良い。ただ」
「ただ?」
「自らと向き合い、神を信じ、上官を敬い、国主を信奉してなおそれでも『自ら』を主張出来るものには相応の評価と言うものがある」

 出会って一日と数刻程度の委哉に文輝を評する資格などない、と子公は切って捨てた。
 委哉が言ったように華軍の記憶や感情を共有しているのだとしても、文輝の傍らで戦うことを選んだ子公の二年間の方が重いとでも言わんばかりに、彼は委哉にそれ以上は何も言わせなかった。

「子公殿。下山する体力は残っておられるのかな?」
「抜かせ。これでも私も右官府の官吏だ。帰り道のことを考えずに猛進するのはそこな馬鹿だけで十分であろう」
「まぁ俺は体力だけは自信あるからな」
「二日連続で湖水で水浴び、というのも洒落にならん。下山するというのならば、時が惜しい。戻ろう」

 言って踵を返そうとした子公の足元を縫って赤虎が先頭を買って出る。

「軍師殿に獣道は十年早いと見受けるが」
「百年の間違いだろう。貴殿の背を追っていくだけで済む、というのは実に心強い。素直に甘えよう」

 子公、というのはそういう男だ。過小評価で自虐せず、過大評価で自意識過剰にもならず、定点から自己も他者も見つめている。感情の好悪も勿論持っているが、それでも必要だと判じれば頭を下げることにも周囲に感謝することにも抵抗がない。

「大した方だね、あなたの軍師殿は」
「そうだろ? 俺の自慢の一つなんだ」
「そんな風に笑えるあなたも、大した方だと僕は思うけれど?」
「仲間が褒められてりゃ嬉しいじゃねえか」

 上官は文輝の方だ、だとか、副官の分際で、だとか文輝は思ったことがない。
 子公を副官として用いると決めたのは文輝だ。どれだけの不遜があっても、どれだけの不興があっても、どれだけの傲慢があったとしても。文輝が自ら望んで子公を傍らに置いている。
 もしも。文輝と子公の袂が分かたれ、子公の方が重責を担うことになったとしても。そのときに文輝はきっと笑顔で子公を讃えられる、という確信がある。

「委哉。華軍殿の見てきたものを俺はまだ少ししか理解していない」

 それでも、と思う。

「疑い深い方が偉いのか。人を信じない方が強いのか。神を冒涜するのが合理か、そりゃ俺にはわかんねえけどさ。そいつが褒められてるのを一緒になって喜べるのが仲間なんじゃないのか」

 強さとは何だろう。その答えを文輝は未だ知らない。
 人を圧倒するのが強者か。何かを強いることが偉いのか。誰の意見を聞かずとも判断出来るのが賢しさか。一人で何もかも全う出来れば至高か。もしそうなら、どうして人は人と関わりを持つのだろう。完成された個体。それを目指すのなら、どうして国などという目に見えぬ枠組みが必要なのだろう。
 神――白帝ですら天仙(てんせん)の助力を必要としているのに、どうして人間などという弱い生きものが一人で生きていくことが出来るだろう。
 一人で生きることが不可能だということだけを、今の文輝は理解している。
 そうであるからこそ、文輝は子公と共にある。目指した頂は同じでないかもしれない。理想と言う絵図は重なり合わないかもしれない。それでも、文輝は願ったのだ。子公と共に明日の西白国を生きたい、と。
 だから。

「委哉。君たちにもいつか、待ち望んだ未来が見える日を俺は願っている」
「小戴殿。僕たちはあなたたちのいう理の外にいるのだけれど?」
「それでも、君たちにも感情はあるだろう。なら、きっとある筈だ。君たちの願い、っていう抽象的な存在が」
「――本当に、夕明の言う通り変わった方だね、あなたは」

 でも、そうだな。と委哉の背中が独り言ちる。

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