だから、全部自己満足だ。世界中遍く認められる価値観なんてどこにもない。感情を真に共有することもない。それでも、だからと言って自らの願いを否定する必要もまたない。
あるのは偶然の連続で、人間に出来ることがあるとすれば、それは偶然が発生する確率を多少増減させることだけだ。
あのとき。白しかない世界で華軍が投げた問いの答えをずっと探していた。
正しければ何をしてもいいのか。そうだ、と言えない自分が不甲斐なかった。正しさを何よりも尊重する、という価値観を抱いているのに肯定出来なかった。そのことにずっと蟠りを感じながら、文輝は四年のときを過ごした。
正しさは万民を救わない。それでも、正しくありたいと思うのは文輝の自由だ。価値観を他者に押し付けないのなら、何を信じるのかは文輝の自由だということに気付いた。
人間は全能の生きものではない。だから、絶対という概念は絶対にない。
そのことを文輝に伝えたのは、今となっては赤虎(せっこ)に身をやつしている陶(とう)華軍だった。
燃えるような深紅の体毛に埋もれた黄金色の双眸がそっと伏せられる。
あのときの問答が四年の歳月を経て、ようやく終幕となったのをお互いが感じていた。
その二人分の感傷を終わらせるかのように、平坦が飛んでくる。
三者三様の顔をして、文輝たちは音源を見た。
「知っていて当然のことに気付いた程度で鼻を高くするのは無様だぞ、文輝」
「子公、お前なぁ」
もう少し場の雰囲気を読め、と苦言を呈するも湯上りの子公には届かない。
青みがかった黒髪は既に丁寧に乾かされている。日付が「今日」になってから何度目の入浴だ、と文句を挟みたかったが毎回それほど長時間も使わずに身支度を整えて戻ってくる子公を論破出来る要素はなく、溜息を量産することで文輝は気を紛らわせた。
「それで? 哲学の話をしたいのではないだろう。この怪異と神との間に何の因果があるというのだ、委哉」
「子公殿。あなたが今、口にした言葉をそのままあなたに返そう」
知っていて当然のことに気付いた程度で鼻を高くしては無様なのだろう?
委哉の反論に子公が口を真横に引き結ぶ。まさか怪異の少年に正論を突き返される未来が待っているとは、天才軍師候補にとって想定の範囲外の出来ごとだったのだろう。眉間に皺を寄せて、大きな溜息を吐き出した。
「なるほど、貴様たち怪異にとっては神も仙も人も関係ないということだ」
「そうとも。僕たちには信心もないから、あなたたちが後生大事にしているものも客観的に把握しているよ」
話を戻そう。言って委哉が子公に着席を求める。顰め面の子公が不承不承着席し、それに応じることで、本筋の問答が始まった。
「子公殿。あなたにとって神、というのはどんな存在なのかな?」
「貴様の認識している通りだ。私の生まれた国では神は『絶対的な正義』であり、神の意に反することは『罰せられて当然』の愚行だった」
「それは、この国では違う、と言いたいのだね?」
「私の祖国には才子も怪異もない。神に仕えない存在など初めて見た、というのも過言ではないだろう。全く別の文化を持つ国風であるからこそ、そうなのだろう」
ここは人が神に隷属する神代の常識が通じない国だ。
子公がそう断言するのを文輝は不思議な思いで見ていた。紫水晶の双眸には強さと弱さが矛盾なく灯っている。未知の世界と相対して臆している気持ちも、それでもなおこの問題の解決に善処するという気持ちも同じぐらいだ。
文輝の中では西白国はそれなりに宗教色のある国家だと認識されている。神――白帝を天主と仰ぎ陛下と呼び称する。そこには人間を超越した存在に対する畏怖があり、目には見えないが神の存在を認めている。才子という天啓を受けた存在が身近にいるからこそ、文輝たちただ人は神威を常に感じていた。
その次元の文化を子公は「宗教色が薄い」と判じる。神に隷属する、と子公は表現したがそれは一体どういう光景なのか。文輝の貧弱な想像力では少しも思い描けない。
ただ。
青東国と比較し、宗教観が薄れている。文輝と子公のそれぞれの主観を比べ合わせることで導き出す答えがあるのだとしたら。
「子公。委哉。お前たちが言っているのは、陛下の威光が薄まっている、とかそういう話なのか?」
「いい着目点だね、小戴殿」
その通りだよ。言って委哉は聞き分けのいい幼子を褒めるように大らかに微笑んだ。
「あなたたちには以前、少し話したと思うのだけれど、あなたたちは白帝の加護――と言う名の神の干渉が薄らいでいる存在だ」
青東国の生まれで青帝に隷属する子公に新たなる従属を強いることが出来ない程度には白帝の力は弱い。一度死の淵に落ちて、そこから死に戻ったものを再び隷属させることが出来ない程度にも白帝の力は弱い。
論述によりそれが白日の下に晒されて、文輝は自らが主神と敬っているものが全能でないことに少し失望したのを感じる。一介の臣民が神に失望出来るほど、白帝の神威が弱まっていることが更に示されて文輝は動揺した。