Fragment of a Star * 01:始まりの鐘の鳴る

 何かを失わずに手に入るもの、というのにどれだけの価値を見出すのかは受け取ったものの自由だ。
 何かを失って手に入れたものを有難がるのは、支払った対価に見合う結果だと思いたいからだろう。それでも、サイラス・ソールズベリ=セイはもう一つの側面も知っている。支払う対価に拘泥することなく、真実手に入れたものを貴べるとき、人は幸福という感情と対面している。
 晩春の爽やかな風が野を駆けていく。陽射しは朗らかで新緑が美しく、暑くもなく寒くもない。学術都市・ソラネンの街を出るときに用意したコートを羽織ることはめっきり減って、もうそろそろ薄手のシャツで十分になるだろう。友人であり、この旅が成立している主要因であるウィリアム・ハーディは既に長袖のジャケットの袖を折っている。その状態で手甲を装着すると却って着け心地が悪化するのではないか、とサイラスは密かに思っているが、戦闘の際に主力として十分な火力を見込めるのであればどうでもいいかと思い直し、言及を避けた。
 ソラネンを出た一行はリアムの提案で街道に沿って南下している。馬車旅をするのが最も安全だったが、物理的戦闘要員であるリアムとシキ=Nマクニールが二人揃って野獣及び野盗との戦闘を請け負うという意見を一致させたことにより安全性より利便性を優先し、馬を三頭借り受けての旅となった。二体の魔獣はその魔術によって概念上の存在に擬態している。事実上、学者と二人の護衛の旅にしか見えないから女性の姿を取っているスティーヴ・リーンが顕現しているより危険性は減った。
 リアムが騎馬を放置して度々冒険をしたがるのを除けば、だが。

「リアム! お前は今度はどこに行くというのだ!」

 旅を始めてからもう十日以上経つ。その間、リアムは少しでも気になることがあれば馬を降りて茂みや藪の中に消えるという奇行を繰り返している。彼はその度に「何か」があるのだと言うが、何かが見つかった例はない。魔力を持たないリアムが輝石や聖遺物の類に反応しているわけもなく、サイラスの目にはリアムが何を探しているのか、皆目見当が付かない状態だった。
 シキにしてもそれは同様だったらしく、馬を降り林の中へと向かっていくリアムの背に溜息を漏らす。
 サイラスにはこの場で三頭の馬の面倒を見るように指示してシキがリアムの後を追った。当然、この間のサイラスの防備は二体の魔獣に一任される。

「あのヒトの子は何がしたいのかしら」
「さて。どうだろうね。案外、何か面白い生きものでもいたりするのじゃないか?」

 例えば魔獣、とか。などと言って辛辣な冗談を投げかけてくるのはフィリップ・リストだ。魔獣の名ではクァルカス・フィリーデアスだが、その名を呼べるのはサイラスだけだったから、便宜上ヒトの名を使っている。フィルはヒトで言えば三十歳前後の風体で、それなりに整った顔立ちをしているからヒトの姿を取っていると不必要に注目を集めた。高純度の魔力を持つもの特有の美しさなのだと魔獣たちは口々に言ったが、リアムが「魔力って美的センスと直結してるのかー。格好いいな!」と総括したことでこの話題は終幕した。かくいうリアムもヒトとしてそこそこの容貌をしているが、その点について論争する気は毛頭ないらしい。
 そんな爪先から髪の毛一本に至るまで未来志向で構築されているくせに妙な希死念慮に囚われているリアムのことを魔獣たちは手のかかる末っ子だと認識しているようだった。シキが長男、サイラスが次男、リアムが三男。実年齢とは正反対の序列を付けた魔獣たちもそれなりにヒトの子のことを気遣ってくれた。
 今もそうだ。
 リアムの奇行を咎めるでもなく、嘲るでもない。ヒトの世界はいつも新鮮な出来ごとがある。遥か高みからそう判断して、彼ら自身に不利益がない範囲内で、だがそれなりの気配りもしてくれる。
 リアムを追ってシキが消えた以上、三頭の馬はサイラスに委ねられる。馬はとても繊細な生きものだ。空気の変化を瞬時に察する。この光景が何度目かになっても、サイラスの細腕で三頭の馬をさばききるのは事実上不可能だ。だから、頼りのないあるじを慮って二体の魔獣は概念に紛れることをやめ、ヒトの姿を取る。
 サイラスの警護と馬の制御を同時に行う判断をした。
 そうしてシキがリアムを掴まえて戻ってくるまで、この場所でサイラスと留守番をする。
 繰り返される日常になりつつあるこの現象のことをサイラスはそれほど嫌悪していなかった。

「スティ。お前がリアムを追う方が確実で早く、更に言えばリアムにも罪悪感を学習させられるという利点を棄ててここにいるのはなぜだ」

 スティーヴは女鹿の魔獣だ。四足獣の姿であればヒトの脚の速さなど軽々と超越する。そしてその発達した聴覚と嗅覚はシキよりも高い精度でリアムを探し当てるだろう。合理性を貴ぶ魔獣であればそうするのが自然だ。なのにスティーヴは未だかつてその方法を選んだことがない。
 その理由は別に問わなくてもわかっていたし、敢えて明言したいだけの理由もまたない。
 それでもサイラスはスティーヴに問うた。
 合理性を欠いたあるじの愚問に彼女は柔らかく微笑んで、そうして言う。

「あら? 簡単なことでしょう? わたしはわたしのあるじの傍にいたいだけ。わたしのあるじを守るのがわたしかフィル以外の誰か、なんてまっぴらごめんよ」

 それに、とスティーヴは言葉を続けた。

「あの愚かなヒトの子には罪悪感よりもっと大事なものがあるのではなくて?」
「つまり、リアムはその『もっと大事なもの』を探している、と?」
「ええ。そう。あなたもそれを理解しているから、ここでこの子たちと待っているのでしょう?」

 この子たち、というのは三頭の馬だ。
 馬というのは実はかなり聡明な生きものであり、魔力を感じることも出来る。その程度は個体によって差があるが、魔力を感じられるがゆえに魔術騎士の騎馬となり得るのだと、魔力を持たない純粋騎士であるシキは語った。
 魔力を感知するがゆえに怯える個体もいる。純粋剣士と純粋戦士の組み合わせであるシキとリアムの騎馬として、魔力に耐性のない個体を選んでもさほど支障はないが、シキは三頭とも耐性のあるものを選んだ。スティーヴとフィリップへの配慮なのは疑うまでもない。概念としてでも存在する以上、馬は魔力を感知する。それに怯えるようでは旅が成り立つ道理などどこにもなかった。
 だから、ここに残された三頭は魔獣たちが概念であろうと人間体であろうと怯えることはない。それどころか、親しげにスティーヴの手に鼻先を擦りつけたりもする。
 その光景を網膜に映しながら、サイラスはスティーヴの話の先を考えた。
 リアムが探しているものに本当の本当に心当たりがないわけではない。暦、天候、地理。その全てが条件となり、サイラスの知識と知識を結びつける。王都・ジギズムントとソラネンのことしか知らない筈のサイラスの脳漿には知識と思考が眠っているから、幾筋かの推論を導き出した。
 それでもまだ複数の可能性が紐づいている。そこから一つを選ぶのはサイラスにしか出来ない。正答を望んでいるわけではなかったから、サイラスが最も好ましいと思った推論を選ぶ。
 そう、それは。

「花を――」
「花?」
「そうだ。お前の嗅覚ならわかるだろう。この時期に開花する植物がハルヴェル近郊に群生している」

 ヒトの身であるサイラスにはまだその香りは感じられない。個人によって好悪がわかれると文献では読んだ。シジェド王国でも南方に位置する貿易都市・ハルヴェル近郊を中心に繁殖した種で、その花弁の形状をあるものに見立てた名で呼ばれる。
 
「カンパニュラのこと?」
「そうだ。カンパニュラ・パンチェッタ――我々の言葉でいうところのホタルブクロだ」
「そう、ホタルブクロというのね」

 カンパニュラ――というのは釣鐘を意味する。その名の通り、主に紫色の系統をした花弁を下に向けて咲く植物だ。ホタルの飛び交う時期に咲くということもあり、ソラネンで見聞した学術書にはホタルの光が灯る明かりを意味する名で呼ばれることを示唆していた。

「でも、どうして彼はそんなものを探しているの?」
「何。それほど深い意味はない。ホタルの灯る明かりを見たい、とかつて私があれに言った」

 ソラネンの研究室で毎年のようにリアムの武勇伝を聞いた。
 学術都市から出たことのないサイラスにとって、それはときに感動の物語であり、興奮の冒険だったりしたが、それらの話をするとき。サイラスは確かに楽しい、と感じていた。そういうものは表情に出るのだろう。春が過ぎ、ソラネンを出て再び見えるときにリアムは途切れないだけの冒険譚を携えていた。それがサイラスに向ける優しさだったのは疑うまでもない。
 そして。
 ホタルブクロの話をリアムが口に上らせたことがあったのをサイラスはぼんやりとだが覚えている。
 リアムはホタルブクロの香りが得意ではないのだろう。酷い香りだが美しい、と彼は説明した。美しさなら知っている。他の学者がスケッチしたものや、魔術転写により極彩色に収められた図画を見たことがある。そのどれもが幻想的な図画だった。
 リアムがその、ホタルブクロを探している、というのはそれほど見当はずれなことではないだろう。
 かまをかけるようにスティーヴに尋ねた答えがそれを裏打ちする。この近くにカンパニュラー―ホタルブクロが咲いていることを女鹿の魔獣は彼女の意思の如何に関わらず、証明してしまった。具体的な名称の一つもなかったのに、サイラスとスティーヴの思い描く植物は一致していたのだから。

「あなたって、本当に食えないヒトね」

 美女と言うのは苦笑していてもなお美しい。苦笑――というよりは失笑、あるいは諦観に近い感情が向けられていると知ってもサイラスが動じることもない。

「弁舌で勝てないものは学者にはなれん」

 それがサイラスの生き方だ。学者を志し、正論の刃で相手に勝つ。どれだけ水面下で無様な失敗を重ねても、苦痛にまみれた徒労をしても、論文として力があれば学問の世界では勝者でいられる。
 万有の正しさなど最初から求めていない。
 世界の真理にも興味がない。
 ただ、サイラスは生きるということの副産物として知的好奇心を満たす状況を求めた。
 その根底にあるのはただ、知、というものへの探求心だけで、それがどれだけ醜悪でも下劣でも構いはしなかった。なるほど、そうなっているのか。その納得だけでサイラスは前に進んできた。
 だから、今更正義の英雄になれなどと言われたところで、サイラスにはその器も才も技能もないから、申し出は固辞するしかないだろう。正義は人の数だけある。誰もが等しく自分という人生の主役で、それぞれの正しさに基づいて生きていることを否定出来るほど、サイラスは愚かではなかった。
 そんなあるじの姿を見て、魔獣たちは困ったように笑った。

「君はどれだけ無様に負けていても『勝った』としか言わなそうだけれど?」
「勝利には二種類がある」
「ほう?」

 興味なさげにスティーヴとサイラスの掛け合いを聞いてたフィリップが乱入する。
 彼も彼なりに新しいあるじのことを理解しようとしているのは自明で、サイラスからすれば己が分である論述の舞台で撤退するだけの理由もない。言葉遊びはまだ続いた。

「現在の勝利、と、未来の勝利、だ」
「戦略的撤退は敗北ではないと豪語したかつての知将を思わせる言い分だね」
「全ての敗北に共通することがある。負けた――すなわち、自らの可能性に自らでふたをした瞬間から負けは始まっている」

 つまり、負けを認めない限り人は誰にも負けていないということが出来る。それは可能性の上の問題であって、事実上、本当に心の底から負けていない、と思うことが出来るものは限られる、という大前提をサイラスは敢えて論じなかった。
 負けを認めない、というのは言葉にする以上に難しいものだ。学問の世界では論文に評価が下る。その点数は客観的な根拠として論者の敗北を告げるだろう。満点とそれに劣る点数を見比べて鬼の首を取ったかのように勝利宣言が出来るなら、それはもう精神に異常をきたしている。速やかに医師の診療を受けるように助言をするのが最適だろう。そして、世の中というのは少なからずそういった「点数」にも近い概念が分散していて、客観的敗北を感じる瞬間の連続だ。
 その中で、それでも負けていない、と思う気持ちがあるのなら――諦めないという選択をするのなら、それは未来の勝利と呼べるだろう。
 いつか手にする勝利。その茫洋とした偶像を心の底から信じられるのなら。
 そこでは敗北すら意味を持って未来への足掛かりとなってくれるだろう。
 サイラスはそれを信じられる、と言外に主張した。
 負けのない人生は美しいがそれだけだ。無数の傷を負って、それでもなお輝きを求めるからヒトは明日を生きる。研磨されたものがまた美しいのと同様に、艱難辛苦の向こうの明日は傷のない人生とは違った輝きを持っているだろう。
 そう、言うとフィルはそれほど身長が低いわけでもないサイラスの前頭部を軽く数度叩いて、駄々をこねる子どもをあやすように優しげな声で言った。

「なるほど、君は本当に詭弁が大好きだな」
「お前ほどではない」
「僕? そうだな、こんな形(なり)をするぐらいだから、君たちの告解を聞くのは嫌いではないよ」

 こんな形――というのはフィリップが今、身に纏っている僧形のことだろう。シジェド王国の大半が神話として受け継ぎ、語るデューリ父神の代弁者――司祭の姿をして彼は旅をしている。どの都市にも父神の教会があり、旅の司祭というのは決して珍しいものではない。殉教者として、各地を巡り、訓話を説き、告解を聞く。そういう人々の体をしてフィリップは今までも旅をしてきたそうだ。
 その点において、サイラスよりフィリップの方が話の聞き手としては数倍以上優れている。複雑な論理も、正しい論破の仕方も知らない。それでも、ヒトは心が弱っているとき、司祭――のように見えるフィリップの助言を必要とした。その中でフィリップは学んだらしい。ヒトというものの傲慢さと脆弱さの両方を知っていて、それでも彼はヒトの告解を聞き続けている。
 物好きはどちらだ、と含めたのに柔らかな笑みだけが返ってきて、サイラスはフィリップが真剣に自分と討論する気がないのだという確信を得た。

「それで? カンパニュラを探した冒険者はいつ戻るのだい?」
「わたしの鼻が間違っていないのならそう時間はかからなくてよ」

 三十二、三十一、とスティーヴが何かのカウントダウンを始める。秒読みか、と思ったが一秒より長く間が開くこともある。では距離か。そんなことを思いながら、サイラスはゆっくりと瞼を伏せる。
 文献の向こうに、リアムの冒険譚の中に聞いた、幻想的な花に出会えるのは間違いがないようだ。
 シキは声量があるから、森の奥からでもある程度近ければ声が届く。
 傭兵、貴様、これ以上花を持たせる気か。いいじゃないか、坊ちゃんだって持ってくれたって。
 閉じた瞼の向こう、聞こえる声の通りに楽しげな二人が戻ってくるのを待ちながら、サイラスはこの旅を始めてよかった、と思い始めている自分に気付いていた。
 ヒトの両手で持てるものには限りがある。
 何かを失って、何かを手に入れることもあるだろう。
 ソラネンの都市を出て、そうして直に触れる世界はとても美しく――そして同時にとても残酷であることに気付くのをサイラスは予感していた。それでも。そうだとしても。この双眸で、この両手で、この両足で世界の一隅に自分がいることを知ると言うのは満更悪いものでもないだろう。
 そんなことを考えているとスティーヴのカウントダウンはあっという間に片手の指で数えられるほどになる。少しずつ濃くなる香りを何と表現するのか。その解釈すら考えながら、サイラスはゆっくりと光の世界へと戻ろうとしていた。