華軍(かぐん)の斬撃は文輝(ぶんき)が思っていた以上に重い。
右官府の通信士になる為には必要最低限の戦闘能力を要求されるが、その水準は決して高くはない。一応は戦える。戦場で自分の身を守ることが出来る。その程度だと甘く見ていた。実戦を知らない文輝でも増援が来るまでの時間稼ぎになるだろうと思ったが、いざ戦闘が始まってみれば勝算は五分を大きく下回っている。こうなれば、全力で守りに回らなければ己の命すら危ういだろう。
華軍の方も初めのうちこそ文輝を警戒していたが、所詮は軍学舎(ぐんがくしゃ)の模擬戦闘の域を超えてはいないことに気付き、今では全力で打ちかかってきている。持久力のない華軍らしい、短期戦の構えだった。
「華軍殿! 華軍殿の役割というのは一体何なのです!」
「それを知りたければ俺を殺して奪い取れと言った筈だな」
両腕が痺れる感覚に耐えながら、文輝は華軍へ問う。問うことで少しでも多く間を持たせようという目的もあったが、それと同じぐらい華軍の本音が知りたかった。志峰(しほう)にあらかじめ禁じられていた「華軍への同情」ではない。文輝自身を信じろと言った華軍が、どうして文輝に刃を向けているのかが理解出来ない。何度言い含められても、文輝は問いを重ねてしまう。答えを聞けば納得が出来るかもしれない。その希望だけが文輝の胸中でずっとくすぶっている。貴族の坊ちゃんだから与えられることに慣れていたというのもあるだろう。真実は言葉で表すことが出来ると思っていた。行動が全てだという価値観があるのも知っている。それでも、文輝は答えを知りたいという欲求を抑えられない。
その願望を華軍は一刀両断に切り捨てる。
そうされても、文輝の希望は消えない。
ある意味において、文輝は圧倒的に純粋だった。
華軍の刃の重圧に耐えかねて両腕の力を抜く。華軍の重心が前方に傾き、文輝はその均衡の隙間を利用して華軍の脇をすり抜ける。相手を失った華軍の剣はそれでも次の瞬間には再び文輝を捕え横薙ぎに払われる。文輝に不得手な武器はない。直刀を縦に構え、華軍の斬撃に耐えた。直刀の間合いと剣の間合いはそれほど変わらない。違いがあるとすればそれは武器の持ち主の力量だけ――すなわち、華軍が有利だろう。それでも、文輝にも勝機が残っている。華軍の持久力は文輝よりも少ない。中城を半刻に渡って駆け巡ってなお、文輝は未だ呼吸一つ乱してはいなかった。
力任せでは文輝を止めることが出来ないと察したのだろう。華軍の構えが変わる。岐崔(ぎさい)の軍学舎では習わない、古武術の型に文輝は一瞬躊躇した。
想像を絶する軌道で斬撃が降り注ぐ。生まれ持った動体視力でその切っ先を的確に捕え、文輝は華軍の次の斬撃を受ける。守るだけでは俺は倒せないぞと華軍が嘲笑した。
「華軍殿、俺はあなたを殺めたりはしない、絶対に!」
「将軍位を目指す中科生(ちゅうかせい)とは思えない言葉だな、小戴」
覚悟が甘い、と指摘しながら華軍が今一度全体重を載せた攻撃をしかけてくる。
直刀の峰で受ける。金属音が広場に甲高く響いた。文輝は徐々にではあるが華軍の攻撃の速さに慣れ始めている。防戦に徹した文輝とは違い、高い瞬発力を活かした高機動の攻撃を続けている華軍が疲れはじめているのも影響しているだろう。
「華軍殿、岐崔しか知らない俺では何の頼りにもならないかもしれません」
「自覚はあるのか。だがもう遅い」
刃を挟んで対峙した瞳に宿るぎらついた光に臆したが、目線を逸らすことはしない。今もまだ文輝が華軍を信頼している。それを視線を交わすことで伝えたかった。文輝の言葉に束の間、華軍は文輝の向こうに何かを見た。息が聞こえるほど近くにいて、その視界に自らが映らないもどかしさを堪えきれず文輝は叫んだ。
「なぜですか! 『陛下』はあなた方が蜂起することなどお望みではないはずだ!」
なぜ「まじない」の才があるのか。どうしてそれが国主や九品(きゅうほん)の血族に顕現しないのか。文輝はその答えを教本の上でしか知らない。知らないが、多くの人々を巻き込み、首府を混乱の渦中に投げ込む為ではないのだけは確かだ。
白帝が――「陛下」が何を望んでいるかは文輝などが推し量れることではない。
多分、華軍の方がその答えに寄り添っているだろう。
その自覚があるのかと問う。
華軍の瞳がその刹那、混濁した憎しみで彩られる。
今、華軍の視界には文輝がはっきりと映っているだろう。
文輝の望んだのとは違う意味で。
「九品が『陛下』の名を気安く口にするな!」
お前たちにその資格はない、と激昂が返ってくる。
理性的だった斬撃の軌道が乱れる。ようやく見出した華軍の攻撃の法則性が吹き飛び、文輝は再び直感だけの防御を強いられた。華軍の息は乱れている。だのに全力で斬りかかってくる彼の刃を全て捌き切ることは出来ず、文輝は幾つか傷を負った。
「偽りの主に従い、国を売ったお前たち九品に『陛下』の何がわかる!」
華軍や右官府(うかんふ)の通信士たちが国を売ったのではない、と言外に含んでいた。偽りの主というのが現在の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)であることは今更疑う余地はない。その景祥を敬い、国政を取り仕切ってきた九品三公(さんこう)こそが「陛下」を裏切り、国を売ったのだと華軍は言っている。
腐敗しているのは通信士でも、内府(ないふ)・典礼部(てんれいぶ)でもない。安寧の岐崔しか考えていない貴族たちだと言われて文輝は返す言葉に詰まった。
「国主様がご出自を偽ってこられたのにはきっと理由があります! あると、俺は信じています」
例えば国に混乱を起こさない為だとか、民に余計な不安を与えない為だとか、様々な理由がある筈だ。自らの血族たちが国益を信じて、舵取りをしてきた。文輝は今もそう信じている。近衛部(このえぶ)が何を考えているのか、詳らかにするように求めればいい。それでも納得が出来ないというのは後になっても間に合う。今、岐崔を乱す理由として納得は出来ない。
そう返すと、華軍の剣が少し軽くなった。
「哀れだな、小戴。お前の愚直さは嫌いではなかったが、あまりにもお前は現実を知らない」
「華軍殿、俺は――」
「お前たち九品は所詮国主の狗だ。国主を崇め奉ることしか頭にない。岐崔の外がどうなっているか、知っていて何もしない」
小戴、お前はそれすら知らないのだろうな。
侮蔑すら含んだ声で華軍は一旦剣を引いた。斬撃が止む。その気配を感じさせたのに、現実はそれを否定する。再び強い力で華軍は横薙ぎに剣を払った。
金属音。一拍遅れて腕に強い衝撃が伝わる。
華軍の攻撃にはまだ力が残っていた。受けきれずに文輝は後転する。十歩の距離まで退いたところで晶矢(しょうし)の声が聞こえた。
「首夏(しゅか)、気は済んだか」
弾かれたように晶矢を振り返る。彼女の隣には志峰、そしてその後ろに御史台(ぎょしだい)の官吏の姿が見えた。時間稼ぎの役目が終わったのだ、と理解する。辺りは既に薄暗くなっていた。時間にして四半刻と少しが経過している。ここから先は御史台の管轄だ。
わかっている。
それでも、文輝はまだ華軍の答えに納得していない。
気は済んでいない、と答えようかと逡巡したのを遮って御史台の官吏が声を上げた。
「戴(たい)庶務官(しょむかん)。貴官の尽力に感謝する」
展開、陶華軍を包囲。その声に反応して部隊が無言で展開する。文輝が反論するより早く、御史台の部隊は華軍を取り囲んだ。華軍の表情が侮蔑から憤怒に変わる。
「邪魔をするな、内府! 俺は小戴以外に用はない!」
小戴を退けるのならお前たちは未来永劫真実と出会わないが、いいな。怒号が飛ぶ。どうして自分が指名されているのかは文輝も知らない。ただ、多分、華軍の方でも文輝と過ごした半年に意味があったのだ、とぼんやり理解する。
無意味ではなかった。
信頼も一方通行ではなかった。
それでも、文輝と華軍の道は分かたれて交わることがない。
文輝は直刀を突き立て、刀身に寄りかかるようにして立ち上がる。華軍の顔がぼんやりと霞んでいたが、彼が心底憤っているのだけは把握した。
文輝の後方で口約束を守り、静観していた晶矢と志峰が華軍の態度に困惑しているのが伝わってくる。
御史台から派兵された官吏たちも動揺しているなか、部隊長なのだろう。一人が訝しげに志峰を振り返り、問うた。
「志峰殿、現状の説明を要求する」
先に到着した三人の中で、年長であり、役職上最も説明に適していると思われる人選だった。志峰もそれを了承したのだろう。了承しただろうに、部隊長の問いに志峰は哲学的な答えを返した。晶矢が頭を抱える。
「陶華軍が三十五万分の三に特別な価値を見出している、としか」
「志峰殿、多分、それでは一同が納得出来ないとわたしは思うのだが」
「では言い方を変えましょう」
浮足立った攻囲の兵たちが晶矢の冷静な指摘に更にどよめく。
志峰は心底困っている、という顔でちらと文輝を見て、すぐにまた視線を外した。
「陶華軍は小戴殿に殊の外思い入れがある様子。陶華軍の持っている情報を引き出すには、小戴殿が陶華軍を殺める他ない、と当人が申しておりました」
一体何の思い入れなのか私も知りたい側ですから、それは問わないでいただきたいものですな。それとも、小戴殿からご説明いただけますか。
皮肉の形を取った問いは文輝を暗に責めている。多分、志峰には文輝の時間稼ぎが「同情」に見えているのだろう。あらかじめ言い含めたのになぜ、と言外にある。文輝は胸中に苦いものが広がるのを他人ごとのように感じながら直刀を鞘に戻す。そのまま空の右手を体側で握ることで、華軍にこれ以上戦闘をする意思がないことを伝えたつもりだったが、逆に彼の闘争心を煽ってしまったらしい。憤怒が文輝に向けて放たれる。
「小戴、今更逃げるのか!」
最小の動きで華軍の攻撃を受けていた文輝とは違い、全力で打ちかかっていた華軍に残された体力はもう僅かしかない。本来であれば膝をついていてもおかしくはないだろう。だのに華軍は今も敵意を宿したまま直立している。文輝は華軍の執念にぞっとした。
よく知っていた筈の知人が全く知らない別の誰かのように感じる。
その固執を御史台の兵たちも感じたのだろう。華軍を攻囲する輪が少し広がった。怖気づいたものもいる。文輝もその中の一人だが、かろうじて退くことだけはしなかった。
「華軍殿、俺が逃げるのではありません! あなたの命運が尽きたのです」
「笑わせるな。俺の命運だと? そんなものはとうに尽きている」
最初からないものを奪えるほどお前は大した存在なのかと問われ、文輝は自らの想像以上に華軍の持つ闇が深いことを知った。唇が渇く。喉の奥で言葉が張り付いて出て来ない。それでも、文輝は彼の知っている華軍を繰り返し思い出すことで自らを奮い立たせた。
開いた攻囲の隙間へと足を進めると同時に、握っていた右手を開く。
そして、ゆっくりと直刀の柄に手をかけた。
晶矢が目ざとくそれを見つけ、後ろから怒号が飛んだ。
「首夏! それは『違う』ぞ、おまえが今持っている感情は棄てろ」
人の持つ憎悪をこれほどまでに強く感じたのは初めてだった。臆していたと言ってもいい。無意識的に保身を望んだ。排除しなければならない、という恐怖を咎められて文輝は反射的に柄から手を離す。半身を捻って睨み付ける晶矢と相対した。晶矢の背中の向こうで正気を取り戻した御史台の兵たちが一歩前進する。攻囲がもとの大きさに戻った。そしてそのまま、もう一歩進む。彼らは一様に号令がかかるのを待っている。その声が響けば華軍は捕縛されて終わりだ。
そうなることを望んで文輝はここへ来た。
御史台の大夫(たいふ)に華軍の居場所の心当たりを告げたときにそれは覚悟している。岐崔から天と地の別を奪った動乱が治まるならそれでいいと思った。その感情は否定しない。今も文輝は同じ終着点を求めている。
それでも。
文輝は触れてしまった。
たった一人の通信士を捕縛するのに十五人一組の部隊二つが派兵され、その歴戦の勇士たちをもってしても武力では解決の出来ない問題があることを。
それがこの国の根底に根付いた昏い闇に深く関わっていることを。
その真実に触れるのが怖くて、文輝は華軍を排除しようとした。安直な対応を恥じると同時に文輝は真実を欲している。
「暮春、じゃあお前は知らなくてもいいって言うのか!」
文輝の生まれ育った岐崔という名の箱庭は美しく整っていた。
位階の上下が国を律し、環(かん)が等しく身を立てる。必要があれば律令が賞罰を行い、秩序は保たれていた。その、全てとは言わずとも幾ばくかが教え込まれた幻想だったと知って、それでもなお盲目的に信奉することが出来ない程度には文輝にも自我がある。
晶矢にそれがないとは思わない。
九品だという矜持もある。国を支えてきた、国の為に尽くしてきた。それを国主の狗呼ばわりされて黙って受け入れるのは屈辱に他ならない。
それでも、文輝の知らない「現実」は確かに目の前にあって、叫び声を上げている。
詮のないことだと切り捨てられない程度には文輝は青かった。
文輝の声に応じるように晶矢もまた声を張り上げた。文輝よりは落ち着いているように見えるが晶矢もまた青さを残している。
二人のやり取りは御史台の兵たちにも聞こえている。青い二人の二通りの理想論のぶつかり合いが、兵たちの中に動揺を生んだ。
「わたしが知りたいのは真実と、首謀者の居場所だけだ! それ以上のものはわたしたちの手に余る。身の程を弁えろ!」
「それが正しいってお前が思うならそうしろよ。俺は、目の前にある『真実』から逃げたくない! 箱庭しか知らないで位階をほしがって、それで何になる?」
俺はそんな薄っぺらい将軍位がほしかったんじゃない。身を切られるように叫んだ。
誰かを力ずくで従わせて、多くの犠牲の上で優雅に寛いでいる身分がほしかったのではない。国を支える万民を守る剣になりたかった。人の為に剣を振るい、人の為に傷つく存在は少ない方がいいに決まっている。だから、一人でも多く守れるように力を欲した。力に守られたかったのではない。
ここに保身の為に剣を振るうものなどいない。そうだろうと同意を求めると白帝廟の中庭がしんと静まり返った。沈黙は肯定だ。反論の必要がないから誰も声を上げない。
その静寂を切り裂いてくつくつと笑う声が響いた。声のあるじを探す必要はない。
これは華軍の声だ。
「華軍殿! 何がおかしいのです!」
「いや、ご立派な持論だなと感心しただけのことだ」
「華軍殿、俺は真剣に話しているのです」
「人を守る為の剣だから防戦一方か? 人を傷つけるだけの気概もないくせによくも嘯いたものだな」
小戴、無知とは恐ろしいな。お前はお前を傷つけないように正論で逃げ回っているだけの卑怯者だ。
正しいだけでは何も守れない。文輝が自ら論じたのになぞらえて華軍が嘲笑う。
何かを守りたいのならそれ以外の何かを棄てる覚悟があるのだろうなと問われて文輝は返答に詰まった。
「では華軍殿は一体、何を守る為に戦っておられるのですか」
「俺は俺の上官の目指した理想の為に戦っている。仔細が知りたければこの鳥に記した。俺を殺した後でゆっくりと読め。それが出来ないのなら岐崔とともにお前が死ぬだけの話だ」
文輝を殺めれば、華軍の処遇は捕縛では済まない。今ならまだ、華軍が真実を明らかにしさえすれば情状酌量の余地もあるかもしれない。華軍がそれを知らない筈がないのだ。
それでも、華軍は上官――正体の分からない戦務長(せんむちょう)の意に沿おうとている。志峰は言った。通信士に横のつながりはない。上官からの信だけが唯一彼らを支えていると。華軍はこの広大な岐崔にあって上官以外に寄る辺を持たない。その、安息の場所を守る為に命を懸けるのに何の不自然があるだろうか。
それと知って、それでもなお華軍を糾弾できるだけの理由が文輝には思いつかない。正しさが文輝を守らないのなら、一体何を導(しるべ)とすればいい。文輝の中で思いが錯綜して言葉が霧散した。
沈黙は肯定だ。否定の言葉を紡がなくてはならない。わかっている。わかっているからこそ気持ちが焦る。焦りは思考を乱し、言葉はいっそう遠ざかる。悪循環だ。
その永遠にも近い一瞬の沈黙を迷いない怒号が打ち消す。
音源を見る。文輝の後ろで晶矢が華軍には勿論、黙した文輝にも憤っていた。
「首夏、おまえの志はその程度で揺らぐのか! 他人に否定され、迷う程度の覚悟は志ではない。陶華軍、おまえは言ったな。『正しいだけでは何も守れない』と」
「言ったがどうした」
「わたしもおまえの意見に同意する。正しさなど結果の前では些事に過ぎない」
「暮春、お前、何を――」
晶矢が何かただならぬことを言い出す気配を察知して、文輝の顔面から血の気が失せる。同時に彼女の眼差しの奥に揺らがない信念を見た。正論で論破するのではない。力づくだろうが何だろうが勝ったものが正しい。晶矢がそう思っているのが文輝に伝わる。
止めなければならない。わかっている。それでも文輝の中の志は揺らいだままだ。中途半端な覚悟では晶矢は勿論、華軍を止めることも叶わない。
文輝は己の無力を知った。
その悔恨の思いを引き裂いて、晶矢の口上が白帝廟に響き渡る。
「陶華軍、おまえから見ればわたしもまた無知の権化に過ぎないだろう。それでもわたしは首夏――小戴とは違う。おまえ一人の犠牲で岐崔が守れるのなら、望み通り冥府へ送り届けてやろう」
言うなり、彼女は腰に佩いた短剣を抜いた。それを見てどよめいたのは華軍や文輝たちだけではない。御史台の兵たちも一様に目を丸くしている。彼らは知っているのだ。程(てい)家の継承者だけが持つ、銀の宝剣に殺傷能力がないことも、それを実戦で穢すことの業の深さも承知している。万一、短剣が実戦に耐えうるのだとしても、華軍の剣に対して間合いが狭すぎる。晶矢の腕では近接戦闘で華軍に勝利することなど天と地がひっくり返ってもあり得ない。
それでも、晶矢は短剣を抜いた。
「阿程(あてい)、俺の話を聞いていなかったのか? 俺は小戴以外に用はない。下がれ」
「おまえの指名した小戴は臆していて話にならん。箱庭育ちの世間知らずに『現実』を突き付けるのがおまえの目的ならわたしが代わりに聞いてやると言っているんだ」
「お前は小戴より幾らか理知的だと思っていたが、それは俺の過大評価だったようだな」
所詮は九品。その締め括りに晶矢が今一度憤る。
十把一絡げに切り捨てるなと怒号した。
「首夏、おまえは一体いつまでぐだぐだと悩んでいるんだ! おまえたちの感傷にこれ以上付き合う義理もない。理想なら安寧の岐崔で論え! おまえの最上は岐崔三十五万の官を混乱させることか! 違うと言うのなら言葉ではなく行動で示せ!」
「だけど、暮春」
「何だ! 何が納得出来ないんだおまえは!」
左尚書(さしょうしょ)や御史台で見ていた能吏の晶矢はどこにもいない。今の彼女は自らの志の為に憤っている。事件の解決が遅れれば、文輝や晶矢たちの生家に危険が及ぶ。それを甘んじて受け入れたわけではない。そうなっても構わないなどと思ったこともない。
御史台の兵たちも遊びでここまで来たのではないのも知っている。
こうして、事態が遅々として進まないことを危惧して志峰があらかじめ文輝に言い含めたのも知っている。
それでも。
そうだとしても。
「俺は誰かが死んでそれで収束するような結末は受け入れられない」
それが文輝の志だ。
万民を守ると決めた。晶矢の怒号で、華軍の侮蔑で何度否定されても文輝の中でそれだけが揺らがなかった。揺らがないものを志と呼ぶのなら、文輝は今、脳裏で瞬いているこの感情にこそ、その名を与えたい。
淀みながら、それでも文輝自身が出した答えを口にすると場の雰囲気は一瞬にして剣呑さを増す。そうなるとわかっていて行動に移した。これが文輝の晶矢への――或いは華軍への答えだ。
晶矢の怒号が今一度白帝廟に響く。
「武官としての矜持も棄てたのか! おまえが迷っている間にも事態は動いている。おまえが迷うだけ、多くの民や官が害され続けているのがなぜわからないんだ!」
「仕方ないだろ、華軍殿も俺たち九品の守るべき官の一人じゃないか!」
「その、お前が尊重しようとしている陶華軍本人が結末を欲しているんだ。それすらもわからないのか!」
「わからないに決まってるだろ! 死んで全部解決するなら、どうして読替なんていう罰があるんだ! 人は罪を償える。だから罰があるんだろ! 過ちを犯せば二度と赦さないのなら、どうしてさっさとその場で首を刎ねないんだ! 暮春、お前には答えられるのか!」
志峰殿、あなたはどうだ。華軍殿、あなたも答えられるのか。
読替の罪科(つみとが)を背負う二人の通信士に激情のまま問う。志峰は心底困った顔で首を振り、華軍は冷笑で答えた。その意を図るなら二人ともが返答を拒んだと受け取るのが道理だ。
「華軍殿、死ねばあなたの罪が消えると本当に思っているのなら、俺はあなたを絶対に許さない」
強い決意をもって言う。華軍が不敵に笑った。
「許さないのならどうするんだ、小戴」
華軍が一歩前に出る。攻囲が華軍を警戒して一歩分平行移動した。文輝はそれに構うことなく、腰に佩いた直刀に手をかけ、一気に引き抜く。黒鋼が赤光を映した。
「あなたは中科生の俺になら『勝てる』と思っておられるでしょう」
「それが何だと言うんだ」
「今、このときから俺はあなたに『勝つ』為に戦おうと思います」
直刀の切っ先を華軍へと向ける。華軍と対峙しはじめてから、文輝が自らの意思で刃を向けたことはなかった。時間稼ぎの防戦に徹していたから、文輝の体力はまだ残っている。
華軍がそれに気付いていないとは思わない。
それでも彼は呆れたような顔で挑発した。
「勝利宣言とは随分と大胆不敵だな」
「あなたの体力はもうとっくの昔に限界を超えている。今のあなたが相手なら俺にも勝算は残っている。そうでしょう?」
「抜かせ。俺とて右官だ。中科生(ちゅうかせい)ごときに後れを取る道理がない」
通信士を軽んじるのもほどほどにしろ、と華軍の表情が恫喝する。
臆して言葉を引っ込めたい衝動に駆られたが、文輝は水際で踏みとどまった。文輝の後ろには晶矢、そして志峰がどうやってこの場を解決するのかを見ている。志の名を冠し、頭上に掲げた以上、文輝には退くという選択肢は残っていない。
息を吸った。
白帝廟の中に宵闇が舞い降りてきている。
文輝は眼前の華軍から視線を外さずに言った。
「いいえ。あなたはもう知っている筈だ。だから、ここからは賭けをしませんか?」
「俺が死ぬか、お前が死ぬか、か?」
「言ったでしょう。俺は誰も殺めるつもりはない。だから」
「『だから』?」
「あなたが戦えなくなるか、俺が死ぬかのどちらの結末を迎えるのか。四半刻でいい。俺と華軍殿に時間をください、志峰殿」
振り返らずに請う。文輝の眼差しの正面には華軍。華軍の眼差しが文輝を通り越して志峰を射る。内府と呼び、自らと一線を画した存在であると認識した相手がどういう受け答えをするのか、様子見をしている。
大きな溜め息が文輝の背中の向こうで聞こえた。
「小戴殿が命を落とせばその時点で我々は陶華軍を捕縛、尋問しますがよろしいですな?」
御史台の兵たちの間に動揺が走る。晶矢があまりの憤りに言葉を失っているのも気配で察した。志峰は華軍が勝利する方に賭けた。四半刻も必要ではない、という分析が彼の中にある。文輝が命を落とせば、華軍の持つ椿色の小鳥を開封出来るものはいなくなる。事態の進展がそこで巻き戻るのは不本意だが、これ以上停滞させることは出来ない、という思いが伝わって文輝は志峰の判断に二つ返事で応えた。
「ご厚意感謝します」
今にも戦闘の続きが始まろうとする白帝廟の中庭に最後の抗議の声が響いたのは文輝が謝辞を口にした次の瞬間だった。
振り返らなくてもわかる。晶矢は今日、一番憤っている。憤りながら、この場の誰よりも傷ついている。憤怒と憔悴を矛盾なく孕んだ声が文輝の背中を容赦なく殴る。それでも、文輝は決して振り返らなかった。
「話を勝手に進めないでいただきたい! 志峰殿も何を言っているんだ! 九品の子息の命をそう簡単に天秤にかけられるわけがないだろう!」
文輝の中にも晶矢の言っている価値観はある。九品の子息である生まれを誇りに思っているし、今までその矜持の為に不条理と戦ってきた。命は決して等価ではない。優先される命もある。文輝の命は明らかに優先されるべき立場にあって、通信士一人の為に散らしてはならないのは重々承知している。
晶矢の言い分が正論だとしても、文輝は志に命を懸ける意味を知った。
何かを守る為に何かを棄てる覚悟など今も持たない。文輝の理想にそんな妥協は必要ではない。それを晶矢に押し付けるつもりもない。それでも言った。
「相手の命を奪おうとしてるのに自分の命を懸けないだなんて、そんな傲慢は許されないだろう、暮春」
御史台の方々には甚だご迷惑かと存じますが、四半刻。お許しいただきたい。
言って文輝は薄暗闇の中、石畳を蹴った。
文輝の瞬発力はそれほど高くはない。元々長槍が一番の得手で、それ以外の得物はどれでも人並みかそれより少し使いこなせる程度が文輝の腕前だ。
華軍の間合いに飛び込んで、初撃を放つ。金属音。華軍が剣で直刀を受けた。両手が塞がった華軍に改めて体重をかけ、重心をずらす。一瞬だけ出来た華軍の隙に直刀の力を抜いて蹴りを放った。長靴が華軍の脇腹にめり込む感覚がある。咄嗟に防御姿勢を取り、衝撃を緩和した華軍の反撃が来た。剣が文輝の左頬を切り裂く。鋭い痛みと熱が生まれたのを無理やり無視して文輝は後方へ跳躍する。追撃が襲ったのは次の瞬間だ。頭上に気配を感じ、文輝は咄嗟に直刀をかざす。再び金属音。華軍は体術を苦手としている、と文輝は認識していたが膝蹴りが来る。鳩尾を強か蹴りつけられて文輝は一瞬、息が詰まった。それでも武人としてのぎりぎりの矜持で意識を保つ。半歩下がり、体勢を整え、間を置かず斬り込んだ。
華軍の攻撃には決まった型がある。それは時間稼ぎをしている間にわかった。激情で古武術の型を使っていた華軍はもういない。文輝が知った、四角四面の華軍らしい法則性で動いている。それを何とか把握していた文輝は持ち前の素養で致命傷を避ける。華軍はまだ無傷に近い。
何合が切り結ぶ。得物を交差させては距離を取る。華軍の得意の攻撃形式に持ち込まれている。それと知りながら、文輝はそのまま戦い続けた。
周囲が段々と暗くなる。攻囲の兵たちの顔が見えなくなりつつあったが、周囲から浴びせられる焦燥感だけは決して消えなかった。
どのぐらいの間、文輝と華軍の拮抗した戦闘が続いていたのか。永遠にも似た長い時間が経過したと思っていたが、不意に志峰が「間もなく四半刻ですな」とひとりごちる。
華軍の斬撃が勢いを増す。
胴を狙う一撃が来た。この流れなら、次の斬撃は突きだ。文輝の左肩を狙ってくる。わかっていたから右前方へ飛び込んだ。標的を見失った華軍の剣が、そのまま横薙ぎに軌道を変える。空いた左の脇腹を庇っていては文輝の攻勢が始まらない。敢えてがら空きの脇腹を差し出すことで文輝は華軍の背中の後ろへ回り込む。脇腹に激痛。熱と衝撃が文輝を襲う。それでも、この機を逃せば時間切れになる。わかっていたから、文輝は直刀の柄を両手で握りしめる。殺傷能力のある実際の武器で無防備な誰かを斬りつけるのは今が初めてで戸惑う。その迷いを払拭する為に文輝は雄たけびを上げた。声とも叫びともつかないものが文輝の肺腑から込み上げる。絶叫。そして両手に鈍い感覚。背後を肩から腰にかけてざっくりと斬った。瞬間、鮮血が文輝に向けて噴出する。生温かい感覚が文輝の顔面に降り注ぐ。鉄と赤とで文輝の頭の中が真っ白になる。傷を負ってなお、振り返り攻撃を続けようと華軍の体が回転する。今、直刀をおろせば文輝が死んで終わりだ。賭けに勝ちたい、というよりは本能的に湧いた「死にたくない」その一念で文輝は直刀を肩の高さで構えた。
華軍の雄たけびが聞こえる。死にたくない。でも華軍――同輩を、人を殺したくない。極限状態の中で、文輝は錯乱していた。空の朱と血の紅、それから華軍の右服(うふく)の赤が混じる。死にたくない。殺したくない。でも死ぬのが一番怖い。
感情を持て余し、完全に混濁した自我にそれでもその感触が伝わる。
直刀に衝撃。文輝は脇腹以外に痛みを感じない。それでも文輝の直刀からは温かい液体が滴り、白帝廟の石畳を汚す。
何が起きているのか理解出来ない。文輝の視界には満足げな表情の華軍。小戴。切れ切れに名を呼ばれる。華軍の傷は背中の一つだけだ。だのに彼の声は息が切れた、という次元を超越している。
「華軍殿?」
戸惑い、柄を握りしめたまま固まった両手ごと一歩後ろへ後ずさる。文輝の手の中に今までに経験したことのない感覚が生まれた。
もう一歩下がる。石畳の上で水音が響いた。
何が起きているのか全く理解出来ていない。
だのに。
「約束だ、小戴。くれてやろう」
紅い液体にまみれた華軍の右手が文輝の右服の袷(あわせ)に何かを差し込んでくる。丸みを帯びた何かだ。華軍が持っている球形の物体には一つしか心当たりがない。
「伝頼鳥」
何かの正体を知り、思わず呟く。赤の襟に別の赤が付着する。鉄錆の匂いがむっと込み上げた。
この匂いを望んだのは他ならない文輝自身だとわかっている。
それでも、両手で握った直刀から伝わる感覚が何かを知って、それでもなお握り続けられるほど、文輝の精神は成熟していない。
文輝の直刀が、華軍の胸を貫いている。中科二年目で文輝は衛生班(えいせいはん)の配属になった。軍学舎の初科(しょか)でも人体の構造――とりわけ武官に必要な人命に関わる急所についての知識を得た。
感情が否定しても理性が肯定する。
この直刀が貫いているのは紛れもなく、華軍の心臓だ。角度、深さ。どちらも申し分ない。この直刀を引き抜けば、華軍は出血多量で即死だ。
その意味を正しく理解した瞬間、文輝の両手は震えだし、直刀が宙に浮く。支えを失った華軍の体が文輝に向けて崩れ落ちる。力ない体が文輝に覆いかぶさる。
叫び声が音にならずに空中に霧散した。強制的に幕引きを迎えた華軍との対峙。華軍を殺さないと誓った。その文輝自身の手で華軍は今にも息絶えようとしている。何が起こったのかはわからない。
ただ、止め処なく溢れる赤を止めなければ本当に華軍が死んでしまうのだけは確かだ。
「衛生兵! 衛生兵はいないのか!!」
まずは止血して、傷口を仮に縫合。その後、適切な処置を施し、そして――目まぐるしく頭が回転する。やっと音になった声に、それでも文輝が望んだ反応は返ってこない。もう一度声を上げようとした文輝の袖口を赤の両手が力なく掴む。
「小戴、これが、俺がお前にくれてやる、最後の餞別だ」
ごぽり。華軍の口元から液体が溢れ出す。それが血液であることはもう今更疑うまでもない。
心臓とその裏にある肺腑をも直刀が貫いている。絶望的だ。わかっている。文輝も、二人を攻囲した御史台の兵たちもそれを理解している。賭けは文輝の勝ちだ。四半刻の定時連絡で志峰が文輝の勝利と動乱の解決に寄与する情報を得たと紫の鳥を飛ばす。御史台の兵たちは一様に安堵し、胸を撫で下ろしている。
文輝と華軍の命を懸けた賭けは終幕した。華軍はこのまま捨て置けば間違いなく命を落とす。約定は守られ、伝頼鳥は文輝のもとに渡った。御史台は華軍の生死より、文輝が一刻も早く鳥を復号することに拘泥している。
志峰が攻囲の内側へ進み出る。小戴殿。平坦な声が憎らしいと思った。
「華軍殿、喋らないでください! 肺腑も傷ついています! 今すぐ手当すれば――」
まだ間に合う。その可能性が限りなく無に近いと知りながら、それでも気休めを口にした。希望的観測を通り越して願望でしかない。それでも口にした。認めたくなかった。華軍が死んでしまうことも、その巡りあわせすら文輝の上官が望んだ結末だということも。
心底悲しいときには涙すら浮かばないのだと知る。
今の文輝の頭の中には華軍を救う段取りしかない。
一刻も早く応急措置をしなければならない。だのに志峰は更に近づいて、いっそう平坦に文輝の名を呼ぶ。
華軍が文輝の肩口に頭を預けて、弱弱しく右服を握りしめた。その力が段々消えていくのに心底怯えていた。こんな思いは、戴の屋敷に火が放たれると聞いたときにすら抱かなかった。家族の命がかかっている。それでも動じなかったのに、ただの同輩一人の死にこれ以上ないほどの恐怖を覚えている。
「小戴、俺はもういい」
「華軍殿! ですから!」
喋らないでください。本当にあなたが死んでしまう。
言えなかった文句で胸中が溢れて感情が氾濫している。志峰はお互いの表情が目に見えるほどに近くなった。それでも、彼が衛生兵を呼んでくれる気配はない。暮春。晶矢を呼べど、彼女は攻囲の一部のまま微動だにしない。彼女は華軍を殺めてでも情報を得ろと言った。それを体現しているのかと憤怒する。
国を支える国官の命が消えかかっているのに、焦燥感を抱いているのは文輝一人だ。
当の華軍本人ですら、文輝の感情の全てを無視して彼の言葉だけを紡いでいる。
「小戴、よく覚えておけ」
「――っ、何を!」
「これが、人を殺す痛みだ」
一瞬だけ華軍の両手がぐっと握られ、そして次の刹那全ての力を失った体が文輝の眼前で崩れ落ちる。直刀に胸を貫かれたままの華軍が白帝廟の石畳の上に横たわる。
「華軍殿? 華軍殿!」
膝を折り、血で出来た水たまりに横たわっている華軍に寄り添う。頬に触れた。まだ温かい。なのに。唇に触れた。呼吸はもうない。そのまま指を滑らせて首筋に触れた。脈もない。環を取り出した。警邏隊戦務班の紋が消え、石だけが残っている。
状況は全て華軍の死を告げている。文輝にはこの状態の相手を救う知識も技術もない。絶望が虚無感を連れてきた。両手には今も華軍を刺し貫いた感覚が残っている。これほど鮮明に残っているのに、華軍はもう二度と還らない存在になった。
「小戴殿、お見事でした。賭けはあなたの勝ちのようですな」
鳥の復号鍵は知っておられますな、一刻も早く復号し、我々にお渡しいただきたい。
淡々と告げる志峰の意図がわからないわけではない。
晶矢の言う通り、一人の犠牲で岐崔の多くの民が救われるのなら、犠牲を惜しむことは許されない。
わかっている。どんなきれいごとを並べても、誰が何と庇おうと、華軍を殺めたのは文輝だ。そしてその華軍は文輝に多くを委ねて逝った。華軍に選ばれた最後の一人であることを誇り、武官としての務めを果たさなければならない。
わかっているのに感情が状況に追いつかない。
「志峰殿は納得されたのですか」
「それは小戴殿が持っている椿が語るでしょう」
「華軍殿が死ななくてもいい答えもあったでしょう!」
「それを咎める権利はあなたにはない。違いますか?」
「――っ!」
経緯はどうであれ、あなたが陶華軍を殺めた。そう言われれば反論の余地はない。完璧な正論だ。わかっている。それでも文輝は激情に流されそうになる。そういう問題ではない、と抗議しかけては口を噤む。何度も繰り返して唇を噛み締め、口腔の中にじわりと錆の味が広がった。
「小戴殿、我々には時間がない。わかっておられないのですか」
叱責の言葉が文輝に浴びせられる。それでもなお反論の言葉を探そうとする文輝に思ってもない場所から追撃がやってきた。
「首夏! 歯を食いしばれ!」
志峰の背中の後ろから石畳を蹴る靴音が響く。
そして。
文輝の右頬で破裂音と衝撃が生まれた。
攻囲から駆けてきた晶矢に横面を殴られたのだと気付くのに一拍必要だった。遅れて痛みが認知と共に生まれる。
「暮春! 何するんだ!」
突然降って湧いた不条理に抗議の声を上げる。文輝は心身共に傷ついている。これ以上無為に傷を増やしてほしくはなかった。条件反射的に声を荒げ、そして気づいた。晶矢もまた憤りながら文輝を見つめている。そして晶矢の与えた不条理が文輝の中の虚無感を幾ばくか奪って消えた。だから、文輝の中には自我が蘇ろうとしている。
「首夏、早くその鳥を復号しろ」
憤然と晶矢が言い放つ。文輝の頭の中はまだごちゃごちゃと混乱していて先へ進めそうもない。華軍が残して行った「痛み」が文輝の中でまだ自らの感覚と混ざり合えずに暴れている。この状態で「武官諸志(ぶかんしょし)」の前文を読み上げる気にはなれない。
「そんな気分かよ」
血だまりの中に座り込んだ文輝の頬を再び痛みが襲う。今度は左の頬を殴られたようだった。
「気分の問題ではない。一刻も早く陶華軍の持っている情報を共有するんだ」
「暮春、お前は納得してるんだろうな。だってお前、華軍殿を殺してでも先へ進むって言ってたもんな。華軍殿が死んで、鳥が俺に渡ってよかって思ってるんだろ」
袷の内側で熱を持たない小鳥がじっと身を潜めている。椿色の小鳥の重要性は文輝でも知っている。赤の中でも一等赤い。これ以上色味が増せば墨で文字を綴っても読むことが出来ない。墨で文字を綴れる一番濃い色の鳥にどれだけの重みがあるのか。生まれて初めて椿色の伝頼鳥を見たが、速やかに開封せねばならないことぐらいは十分承知している。
それでも。
そうだとしても。
どんな理由があっても、文輝の両手は覚えている。人の肉を断つ感覚。人の命が消える感覚。先ほどまで温かかったはずの華軍の死体が偏東風に晒されて少しずつ冷たくなっていく。死ねば二度と還らない。
それを一瞬で受け入れ、割り切れるほど文輝は成熟していない。文輝の両手には穢れと痛みだけが残っている。晶矢はこの穢れも痛みも知らない。だから、彼女は毅然と振る舞える。八つ当たりのように言葉を吐き捨てた。晶矢は憤然とした態度を少しも変えずに答える。
「当たり前のことで駄々を捏ねるな。首夏、皮肉なものだな。刃を振るった当のおまえだけが、真実を知らないというのは」
「何の話だ」
「陶華軍を殺めたのはおまえだが、陶華軍は『自ら』おまえの持つ直刀に飛び込んで行った。つまりは手の込んだ自殺だ」
「『自ら』?」
「そうだ。わたしたちには到底理解出来ないが、陶華軍は最初から死ぬつもりだった。死ぬつもりでおまえを煽ったということになる」
どうしておまえだったのだろうな。
晶矢の声が不意に憂いを帯びた。それは能吏の晶矢ではなく、文輝の友人としての晶矢の顔だ。晶矢の表情と彼女が告げた言葉に文輝は華軍の遺した言葉を思い出す。
文輝の両手の中にあるもの。
それは、人を殺す痛みだ。
この先文輝は武官として生きていく。その道は決して美しくはないだろう。律や令の為に刃を振るうのだから当然人を傷つける。殺めることもあるだろう。
それでも自ら望んでその道を進むのなら知っておかなければならない。文輝が殺める相手もまた同じように生きていて、何かと戦っている。正義の形は違うかもしれない。持論が交わらないかもしれない。それを理由に刃を振るう。
命を奪う度に心を痛めていたのでは戦えないのかもしれない。
それでも、華軍は文輝に痛みを植え付けていった。
どうして。不意に目頭が熱くなる。どうして。もう一度小さく呟いた。喪って、後背を託されて、最期の餞別を受け取って、全部ぜんぶ取り戻せない場所まで来て、やっと文輝も知った。
文輝の望む将軍位を得るには数え切れないほどの命を踏み台にしなければならない。
その一つひとつに優先順位を付けて、守るものと棄てるものを選ぶ。
そうして棄てると覚悟したのなら、痛みと共に奪った命を背負っていかなければならない。
文輝の両手は全てを守れるほど強くはない。
全てを守りたのならもっとずっと強くならなければならない。
視界がぼやける。目元から涙が零れ落ちる。泣いていても何も始まらない。わかっている。
わかっているが、自らの命を懸けて文輝の中に傷を遺していった華軍を思うと慟哭が止まらなかった。華軍は多分、文輝がここで道を棄てることは望んでいない。寧ろ逆だ。文輝が先へ進む為の導となることが、華軍に残されていた唯一の救いだったのを知る。
その意味を誰かに諭されなければ気付けないほどには幼くない。
晶矢がゆっくりと腰をかがめ、文輝と視線の高さを合わせる。血のりで汚れることも構わず座り込んだ、晶矢の柔らかな榛色が告げる。文輝はまだ全てを失ったわけではない。これ以上失いたくないのであれば、残っているものを全力で守らなければならない。晶矢の白い指が文輝の目元を拭った。何度かそうされるうちに涙が自然と止まる。この痛みは動乱が終わったあとで晶矢と分かち合えばいい。だから。文輝の中に前へ進むだけの覚悟が出来た。晶矢がそれを機敏に察して言う。
「首夏、鳥を開封出来るな?」
「わかってる」
言って文輝は華軍の亡骸を石畳の上に横たえ、直刀を引き抜いた。心臓に残っていた血液が衝撃で少し溢れる。それを痛みと共に知覚しながら、文輝は懐から懐紙を取り出し、直刀に付いた血を拭う。
そして。
二人分の傷で血まみれになった右服の袷から椿色の小鳥を取り出して「武官諸志」を諳んじる。長い口上を読み上げる間、御史台の兵たちも晶矢も志峰も静かに黙礼していた。御史台の兵は原則的に右官から昇進した者たちだ。「武官諸志」を知らない筈がない。知っていて、別の何かを守る為にそれぞれの理想に蓋をした。それでも、折に触れては自らが理想と乖離していることを知る。今もそのときなのだろう。
文輝が最後の一節を読み終えると小鳥はするするとほどけ、椿色の書状に変わる。折り畳むことが出来ないほどの長文が巻物にされていた。巻物は国色である白の平紐で結んである。それを解きもせずに文輝は志峰に差し出した。
「志峰殿、どうぞ」
「おまえはまたそれか」
晶矢も立ち上がり呆れたように笑う。
暗に中身を自ら確かめる気概もないのかと含まれていた。
「いいんじゃないか、別に。俺はもう華軍殿から多くのものをいただいた。華軍殿が俺に託したかったものはそこにはないだろうし、もし、あるのなら志峰殿が伝えてくださるさ」
「呆れたやつだ。器が馬鹿みたいに大きいか、全くの狭量なのか、わたしですら理解出来ないことがあるよ、おまえは」
文輝の答えを晶矢は溜め息交じりで受け取った。
そして、彼女の表情が能吏のそれに戻ったのを契機に、白帝廟に展開していた三十名が文輝たちの周りに集まる。かなり近い距離であるにも関わらず、その一人一人の表情を見取るのが困難なほど日が暮れていた。二人の部隊長が明かりを灯す。
その明かりを頼りに志峰が椿色の巻物を開いた。
華軍の手による長い長い告発文が読み上げられようとしている。