「如風伝」それは、風のように<十>

 風が空を渡っていく。
 西白国(さいはくこく)は風の国だ。一年を通して絶えず風が吹き、その表情に季節の移ろいを知る。風の前では老若男女、貴賤の別はない。誰の身の上にも等しく風は吹く。
 陶華軍(とう・かぐん)が潤雲州(じゅんうんしゅう)に生まれた日も風の強い日だった。潤雲州は西白国の南端にあり、雨風の激しい地域だったから、ただ風が強いだけでは誰も気に留めることはない。まして「読替(よみかえ)」の罪科(つみとが)を生まれながらに背負った子どもの生まれた日など誰も記憶しようとはしなかった。左官府(さかんふ)戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の地方府で国府に送付する申請書が何の感慨もなく、事務手続きの為に記入される。罪科の根源である父親の姿を見たことはない。婚姻関係にあった母親と、華軍、それから父方の祖父母の四人に忌まわしい「読替」を残したまま忽然と姿を消したそうだ。母親は産後の肥立ちが悪かったのと、「読替」の罪科による差別に耐えきれなかったのとで華軍がまだ幼い頃に亡くなった。元来、病弱な血筋だったのだろう。母方の祖父母も母親が幼い頃に病没している。
 祖父母は華軍に多くを語らなかった。「読替」の姓を受け、生まれ故郷である潤雲州の邑里(むら)に長く居続けることは不可能だったのだろう。物心が付いた頃には物乞い同然の体で潤雲州、そして東隣の雨越州(うえつしゅう)と流れ歩いた。蓄えなどあるわけもない。「読替」の華軍に学を説いてくれるものもいない。ただ、何の変化もないその日暮らしが続き、気付けば十年が過ぎていた。
 華軍が十になる年のことだ。
 あるときを境に、華軍の耳に不思議な音が聞こえるようになった。邑里に間借りをしているとき、都市部にいるときにだけ聞こえる。人が多ければ多いほど、土鈴を鳴らしたような澄んだ音は何回も響いた。祖父母は二人とも華軍を気遣ってくれたのだけが唯一の救いだろう。
 雨越州の州都・洛涙(らくるい)でその異変は顕著になった。祖父母の持つ白環(びゃっかん)で洛涙の城下へ入ってからというもの、鈴の音が鳴りやまなくなったのだ。

「じいさま、また鳴った」
「小陶(しょうとう)や、またかね」
「うん、さっきからずっと」

 偽りを告げる必要はない。頭が割れそうなほどずっと鳴り響いている鈴の音に生理的な限界を感じていると訴えると祖母が顔色を悪くした。

「じいさまや、小陶は何かの病ではないのかえ」

 華軍の虚言を疑う素振りすら見せない祖母の姿に申し訳なさが募る。耳を塞いでも、寝ていても鈴の音は聞こえたから、本当に具合が悪くなっていた。病か、それとも気狂いかはわからなかったが現状を改善する術があるのなら、縋りたいのもまた事実だった。
 祖父が沈痛な面持ちで華軍を見る。

「だとしても、わしらには医者にかかる銭もないしのう」
「じいさま、おれ、どうしたらいい?」

 華軍はまだ環(かん)を持たない。祖父母の環は「読替」が刻まれているし、白い。流民であることを示すその環では借財を受け入れてくれるものなどいない。白環は租税を納めることを免除されるが、定住地を持たないのだから当然だ。
 どうすれば華軍の不快感を拭えるのか、祖父母の考えあぐねている。その間も鳴りやまない鈴の音が華軍を蝕んだ。
 とうとう気が触れそうになって、華軍は両耳を押さえ、街路にしゃがみこんだ。それでもまだ鈴の音は追ってくる。こんなことは今までに経験したことがない。つらい、苦しい、うるさい。負の感情がぐるぐると回る。祖父母の困惑はいっそう深まったが、それで華軍が救われるわけもない。
 このまま頭が壊れてしまうのではないかと思い始めた頃、華軍の視界が不意に影を落とす。誰かが蹲った華軍を覗き込んでいる、というのは祖父母の動揺した声で理解した。洛涙の喧騒に不似合いな穏やかな声が聞こえる。

「どうかしたかね」

 耳を塞いだままゆっくりと顔を上げた。二十代半ばだろうか。まだ若い一人の官吏が華軍を覗き込んでいた。白を基調とした官吏のお仕着せ。襟は鮮烈な赤。風聞でしか聞いたことのない朝服(ちょうふく)が物語る。年若くとも声をかけた男が洛涙の名だたる官吏の一人だということは、いくら学がなくてもわかる。それぐらいのことを知らないのでは流民として生きていくことは出来ない。官吏が管理しない唯一の環である白の環。華軍もまたその環を与えられるのだと信じて疑わなかった。
 思ってもみない高官の登場に華軍たちは混乱を極める。それでも、祖父がどうにか正気を取り戻した。官吏の問いかけに無礼のないよう気を配りながら答える。

「いえ、あの、お役人様の手を煩わせるようなことはございませぬ」
「だが、そこの童は随分と顔色がよくないではないか。病か?」
「わからんのです」
「わからんということはないだろう。医者には診せたのか?」
「私どもは見ての通りでございます。医者に診せるなどとんでもない」

 祖父が首元から白銀の環を取り出す。その円の端に刻まれた白を見て、それでも官吏は顔色一つ変えずに次の言葉を紡いだ。

「なるほど。医者も慈善ではないからな。だが、ことと次第によれば助力するのは吝かではないぞ。童、どうした」
「鈴が鳴りやまないのです、旦那さま」
「鈴? 俺には何も聞こえんな。それはご夫婦にも聞こえておらんのか?」
「へえ、私どもにはこの子の言う音がわからんのです」

 祖父の返答に官吏はひとしきり首を捻った後、ぱっと顔を輝かせる。

「童、いつから鈴が鳴っているのだ」
「門をくぐってから、です」
「ご夫婦、洛涙へはどちらから来られた」
「郷裏(ごうり)の邑里でございますが」
「童、鈴の音は邑里と洛涙では違って聞こえるのではないか?」

 問いの形を取った確認に華軍は驚きに眼を瞠る。

「どうしてそれがおわかりになるのですか」
「なるほど。君は天啓のようだ。ご夫婦、この童を暫し借り受けたいが構わないか」

 その提案を祖父母も華軍も咀嚼しかねて、束の間呆ける。官吏はその沈黙を肯定と受け取ったのだろう。十の子どもにしては未発達で小柄な華軍を軽々と持ち上げ、勝手に街路を歩き始めた。祖父母が一泊遅れで狼狽しながら官吏の後を追ってくる。華軍は何が起きているのか、全く理解出来なかったが、官吏の腕の中に納まっていると鈴の音が幾分和らいだ音に変化していることに気付いた。理屈も理由もわからない。ただ、生まれてこの方、安らぎという感情を初めて知った。
 洛涙の官舎街の一角に官吏の屋敷はあった。
 劉子賢(りゅう・しけん)と名乗ったその男は今年、洛涙に派遣されたばかりの戦務官(せんむかん)らしい。生まれは洛涙の更に南方、隣国との境にあたる邑里だと言ったが、華軍たちはその地名を知らなかった。若干二十四で州都の官吏に抜擢されるというのがどれほどの偉業なのかはわからない。ただ、白環の華軍たちに積極的に関わってこようとする官吏は生まれて初めて見るので華軍は始終困惑していた。
 劉子賢の屋敷はこじんまりとはしていたが清楚な空気に満ちていた。子賢が戻ったことを告げると下男が現れる。
 
「典医(てんい)殿は洛府(らくふ)におられるな?」
「是(はい)、何か急用でございますか?」
「至急洛府に参るゆえ、支度せよ」
「失礼ですが旦那様、そちらの童はどうなさいました」
「天啓だ。『才人』の原石を見つけた」

 この童には常人に聞こえない音が聞こえている。洛府で正式に鑑定せねばならん。
 子賢がそう告げると下男はこれ以上ないと言うほど目を見開いて驚いていた。華軍はそのやり取りを子賢の腕の中で聞いたが、何を意味しているのかは理解出来ない。
 ただ、子賢が妙に高揚しているのだけが伝わってくる。人に――殊、官吏にこのように好意的に接せられたのは生まれて初めてのことで戸惑うばかりだ。華軍の戸惑いを他所に、子賢と下男はさっさと外出の支度を整え、祖父母に言う。

「ご夫婦。暫しこちらで待たれよ。何、童を悪いようにはせぬ。その一点に関してはこの赤環(せきかん)に誓ってもよい」

 子賢の首元から赤の刻印が見える。刻まれた紋は二振りの鉞(ほこ)で彼が真実、戦務官であることを示していた。環に誓われてその誠意を疑う者は西白国にはいない。それは最大級の侮辱であり、相手の尊厳を地に貶める行為だからだ。
 そうまでされて、華軍を返せとは言えず、祖父母は顔を見合わせた後、ゆっくりと頷いた。
 こうして、華軍は子賢に伴われて洛府――洛涙の城内へと向かった。道中、子賢は色々なことを華軍に語ったが、学のない華軍にわかったのは「天啓」というのが、国民が無条件で敬う白帝(はくてい)の庇護を得ているものへの賛辞だということだけだった。

「童、年は幾つになる」
「十、です旦那さま」
「十にしては随分と幼いな。俺はまた七つぐらいかと思っていたぞ」
「あの、そのおれは流民、ですので」

 それに加えて「読替」の罪科も背負っているので、とはとうとう言えず終いだった。白環に刻まれた結われた縄の紋。それは罪を犯したということを暗に意味している。祖父の環を見た子賢が三人の罪科を知らない筈がない。それでも子賢は華軍の罪科に言及しなかった。無条件の差別に慣れていた華軍にとって、子賢は理解の範疇を超えている。
 それでも、華軍は子賢に対して嫌悪感を抱かなかった。初めて見る敬うべき偉人。その偶像が華軍の網膜に照射されている。だから、華軍は子賢との会話に戸惑いこそすれ、拒もうとは思わなかった。
 白帝――陛下を敬う心とは別の敬意を抱く。
 その、子賢が華軍を連れて行ったのは洛府兵部(ひょうぶ)医務班(いむはん)に籍を置く軍医のところだった。鈴の音が聞こえる童を連れてきた、と子賢が言うと荘厳な雰囲気を纏っていた壮年の軍医が不意に気配を緩める。そして、子賢が小脇に抱えていた華軍を軍医の前に立たせた。

「童、鈴の音が聞こえるのはいつからかね?」
「よく、覚えていません」

 華軍は自分を十の歳だと思っているが、年齢という概念は流民にはそれほど重要ではない。十五の歳に受ける筈の中科(ちゅうか)ですら徹底されていない。戸部から調査官が派遣され、ようやく見習いの官吏として登用されることも珍しくはなかった。
 だから、華軍の耳に鈴の音が聞こえるようになったのがいつぐらい前からなのかはわからない。そのことを全て説明することは出来なくて、わからないと答えるのが精一杯だった。
 軍医は華軍の短い答えを不満に思うでもなく、そうかね、と言って笑った。

「では質問を変えよう。今はどんな音が聞こえている?」
「やわらかな土鈴の音、に似ていると思います」

 その音が聞こえるのは子賢に出会ってからだ、と付け足すと子賢と軍医は不思議そうに首を捻った。

「典医殿、彼は洛涙に入城してから音が止まぬ、と言っていた」

 その音と今聞こえているのは違う音なのか、と子賢が問う。軍医は「まあ待ちなさい」と子賢を制し、華軍の正面で微笑んだ。

「他に音が聞こえる場所はあったのかね?」
「邑里ではたまに。よく聞こえるのはおおきな城郭(まち)、です」
「邑里の音と城郭の音は同じかね」
「是」

 華軍の肯定を受けた軍医が、壁面に積まれた籠の一つから小さな銅鐸を取り出す。何の変哲もない儀礼用の銅鐸にしか見えなかったが、軍医が左右に振ると華軍の耳に飽きるほど聞いた音が届いた。咄嗟に華軍は両耳を塞ぐ。鳴らされたのは銅鐸だったのに、聞こえた音は洛涙に入ってからというもの自らを苛み続けている鈴の音そのものだった。甲高く鳴り響き不快感を煽る。華軍の体がこわばったのを見た子賢が華軍の肩に触れた。その瞬間、音は再び柔らかさを帯びる。

「童?」
「あの、いえ、何でもありません」

 何でもないことはないだろう、と子賢は言う。それでも、華軍はゆっくりと首を横に振って否定の意を表す。何でもない。何でもないのだ。子賢は州府の官吏で華軍とは別の世界に住んでいる人間だ。その子賢に希望を見出しても、手に入れることは叶わない。淡い夢を見て、絶望の色を濃くするのは無為だと華軍は知っていた。
 華軍に与えられた運命は日の当たる場所を歩くことを許さない。
 そのぐらいのことは幾ら華軍が幼くとも十分に理解出来る。
 頑なに子賢の気遣いを拒む華軍の前で、軍医が穏やかに笑う。

「劉副尉(ふくい)、この童はそなたの天啓に相違ない」

 童、副尉。種明かしをしよう。言って軍医が机の上に置いた銅鐸を、何らかの法則に従って鳴らした。三、五、二。その順に何の意味があるのかはわからないが、華軍の耳には再び鈴の音が響く。華軍は反射的に耳を塞いだ。子賢には本当に何も聞こえていないらしい。それを再確認して、華軍は自らの異質さを知る。その音が室(へや)に充満すると、隣の室から誰かが入ってくる気配がした。

「典医殿、お呼びか」

 入ってきたのは痩身の男だった。呼ばれたのを理解している、ということは彼にも鈴の音が聞こえているのだろう。彼が何者かはわからない。ただ、官吏というのは万事面倒な決めごとに従っている、ということだけがわかった。どちらにせよ、男も軍医も子賢も華軍には縁遠い存在で、何の問題も解決しないのなら今すぐにでも解放してほしいとすら思う。居心地の悪さと鈴の音とに辟易した華軍の気持ちとは裏腹に、男を見た子賢がますます不思議そうな顔をする。

「通信士か」
「左様。通信士殿、こちらは『才人』の原石だ。後のことはそなたに任せたいが、よいか」
「試しは終わったようだが、後見人はそちらか」
「兵部防衛隊(ぼうえいたい)戦務班(せんむはん)付戦務官の劉副尉と仰られる。そこな童を見つけてこられた。律令に従い、劉副尉が天啓を得られるのが道理。通信士殿、よろしいな?」
「無論。試しの銅鐸の音が聞こえるのであれば我々は律令に従うのみ」

 後から現れた男がそう言って深く頷いたのを受けて、子賢が喜色を浮かべた。細められた眦の向こうに純然たる好意ではないものを感じたが、華軍にはそれを指摘する権利すらない。華軍たち流民に許されているのは権威から僅かの目こぼしを得ることだけだ。子賢が何の意図をもって華軍をここに連れてきたのかはわからない。彼は華軍に何かを見出した。罰せられる雰囲気ではない。それでも、華軍の直感が告げる。運命は華軍に味方していない。
 通信士と呼ばれた男がちらと華軍を見る。その眼差しは同情に満ちていた。冷え冷えとした瞳の奥で通信士が告げる。哀れな童だ。邑里で「読替」と蔑まれるのとは違う。もっと昏くて絶望に近い。
 常人には聞こえない音が聞こえる。
 子賢が軍医にした説明が鼓膜に蘇る。通信士と華軍にだけ聞こえる音。後見の意味は判然としないが子賢の喜びように何か意味があるのだけは確かだ。
 戸惑う華軍を他所に大人たちの話は進んでいく。
 試しの銅鐸が作られたのがどこかだとか、この音が聞こえるのならどうだとか、今から学舎に入れるのであれば何年次が妥当だとか。学舎に入ることが出来るだけの学資も教養も華軍にはない。万一、それらがあったとしても祖父母をおいて、自らだけが学舎でぬくぬくと守られることは耐えられない。異論を唱えるのなら今だ。鈴の音は洛涙の外に戻れば止まると知っている。生まれてこの方、流れて暮らしてきた。これからもその生活が続いて何の不服がある。
 華軍は意を決して大人たちの会話に口を挟んだ。

「あの!」

 彼らからすれば突然の発声だったのだろう。子賢が少し不思議そうな顔をした。

「どうした童」
「もうよろしいですか、旦那さま方」

 じいさまとばあさまが待ちくたびれてしまう。華軍は二人のもとへ帰るのだ。そしてこの意味の分からない鈴の音の聞こえない場所へもう一度、三人で旅する。
 今後の予定を暗に含んで、退席を請えば大人たちは三者三様の反応を示した。軍医は不愉快そうに顔を背け、通信士は憐憫の眼差しを向ける。そして、子賢は華軍が暗に示したものの全てを無視して、満面の笑みを浮かべた。

「そうだな、童。いつまでもその襤褸を着せたままとは気配りが足りなんだ。通信士殿、俺はこの童の身支度を整えるゆえ、貴官には諸手続きを進めていただきたい」
「承知した。童の名はどうする?」
「名か。そうだな、確か『しょうとう』と呼ばれていたが。童、文字は――わからぬか」

 わからないのは華軍の名ではない。名はいずれ国が与える。欲しくもない環と共に与えられて一生を縛られる。流民に学は必要ではない。読み書きが出来たとして、過分な情報を知るだけで流民の生活は豊かにならないからだ。
 だから。
 罪科を背負った姓などどうでもいい。会ったこともない、華軍たちを棄てていった無責任な男が何を考え、何を失ったのかなどどうでもいい。華軍は最初から何も持っていない。そう思うことで心の均整を保ってきた。今更、書けもしない自らの名など知りたいとも、教えたいとも思う筈がない。

「もうよろしいのですか」

 同じ言葉を二度繰り返した。子賢の耳にその言葉の真意が届かないと知りながら、それでも言葉を重ねる。子賢に触れていると安堵を覚えた。その気持ちが経過とともに薄れていく。だのに子賢にはそれが通じない。通じているのは通信士と呼ばれた男で、彼の眼差しはただ諦観を求めていた。通信士が子賢の後ろから二歩前に出る。そして華軍と視線の高さを合わせて言った。

「童、『諦めろ』。君はもう流民でありつづけることを許されていない」

 平坦にも聞こえるその声に労りを感じる。諦観を求めているのに、多分この場の誰よりも華軍の感情に沿うていた。一本調子の声が華軍の平穏を乱していく。

「じいさまとばあさまはどうなるのですか」
「君が『優秀』であれば報われるだろう」
「意味がわかりません」

 華軍はただ祖父母のもとに帰りたいだけだ。人に称賛されることも、羨まれることも望んでいない。ただ、祖父母と共にありたい。流民というのは唯一、その俄然を許された存在だ。だからこそ、華軍たちは謂われのない誹りや非道に耐えてきた。
 だのに通信士は言う。
 
「それは君が何も知らないから言えることだ。君が報いなければ君のおじい様たちは生を無為に棄てることになる」
「それはおどし、ですか」
「そう聞こえるのならそう受け取っても構わない」

 それでも、君はもう劉副尉に見出されてしまった。その結果を覆すことは出来ない。
 言って通信士が徐に立ち上がり、子賢に問うた。

「劉副尉、童の身支度をお願いする。貴官の屋敷に白環の翁は留まっているのだな」
「通信士殿のお手を煩わせて申し訳ない」

 子賢と通信士のやり取りは暗に華軍の帰邸を否定した。華軍はこのまま洛府に残り、そして通信士が華軍の姓を知る為に祖父と面会する。その仕組みはまだ正しく理解出来ないが、通信士が祖父に会えば華軍の姓がわかる。
 そこに華軍が祖父母と再びまみえることがない、と含まれているのを察せられないほど幼くも愚かでもなかった。焦りと憤りが胸の内でないまぜになって混乱している。
 その間にも子賢と通信士の会話は進んだ。

「職務のうちだ。貴官が気を揉むことはない」
「では、通信士殿。学舎に前触れを頼みたい」
「承知した」

 言って通信士が袷に手を差し込み、薄桃色の料紙を取り出し、何ごとかを書き付ける。
 そして。
 聞いたこともない文言が諳んじられ、未だかつてないほど明瞭に甲高く鈴の音が響いたかと思うと、料紙が小鳥の形に変じていずこかへ飛び立った。
 束の間、見えもしない小鳥の軌跡を追った通信士が感情のない声で告げる。

「童、わかっただろう。君はもうこちら側へ来てしまったんだ」

 その意味するところがわからないほど華軍は愚昧ではない。
 華軍の耳の奥で鳴っていた鈴の音の正体はこれだ。料紙が鳥に変じる、その瞬間に鈴の音が響く。今までは、離れた場所でこの音を聞いていたから音量が小さかったのだ。
 今、目の前で通信士が鳥の変化を見せた以上、華軍にその推論を否定する論拠はない。
 それでも唇は感情を紡ぐ。

「うそだ」
「嘘ではない。君はもう気付いているだろう」

 この音は通信士が鳴らす音だ。
 邑里には通信士が常駐しない。だから、時折しか音が聞こえない。
 城郭には少ないが通信士が常駐している。頻繁にではないが、鈴の音は聞こえるだろう。
 洛涙は州都だ。通信士は部署に一人ずつ配置される。その一人一人が鳴らす音の全てが聞こえるのなら、洛涙では絶え間なく鈴の音が響く。

「童、君が倦厭するこの音を止めたいのなら、君は学ばなくてはならない」
「なに、を?」
「君の持つ天賦の才の使い方と、誰の為にその才があるのか、を」

 君が我々にとって価値のある存在であれば、君のおじい様たちは必ず報われるだろう。
 それだけ言い残すと、通信士は子賢に一礼して室を出て行った。華軍はまだ全てに納得したわけではない。ここに残ることを肯定したわけでもない。
 それでも、察してしまった。
 華軍が子賢と通信士を拒めば祖父母の身柄の安全は保障されない。そういう仕組みになっている。半ば機密事項にも近い話を聞いてしまった。この場にいた官吏たちが隠蔽を躊躇う理由もない。
 だから。
 祖父母の為だ。華軍が耐えればいい。二人と華軍自身。天秤の皿に置いてみる必要すらない。まして官吏たちは「報われる」と言った。嘘かもしれない。それでも、幼い華軍に残された選択肢は多くなかった。
 十年の恩義を返す為に自らを差し出せというのなら、それでいい。二人は十年も罪科と一緒に華軍を育ててくれた。つらくなかったとは思わない。二人と別れることに淋しさがないわけでもない。心の準備もまだだ。
 それでも、華軍は何度言い聞かせても涙を零しそうな自らの心を押さえつけて、子賢の指示に従うことを受け入れた。
 それ以来、華軍が祖父母に会ったことはない。二人は雨越州の小さな邑里で穏やかに暮らしている、とだけ聞いた。無条件にそれを信じたわけではなかったが、疑ったところで真実が聞かされるわけではない。劉子賢という男の持つ闇を何とはなしに感じていた。
 華軍が「まじない」を使う官吏の候補生として育てられていると知ったのは軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科に中途入学した最初の年のことだった。
 学舎の講義を受ける為に必要最低限の教養――文字の読み書きや礼儀作法を覚えることだけが、祖父母と離れた淋しさを埋めた。後見として登録されたはずの子賢すら、たまにしか顔を出さない。子賢にとって必要なのが「小陶」という少年ではなく、「才人の原石」なのだということを察せられないほど愚昧ではない。ふとした隙間が華軍の心を曇らせる。傷ついている自分を知りたくなくて、華軍は寝る間も惜しんで勉学と武官見習いとしての鍛錬に取り組んだ。だから、華軍の世界にはまだ子賢と子賢の屋敷しかない。
 学舎に通い始める段取りを説明に来た時も子賢は淡々としていた。思えばこの頃、既に華軍の心は死んでいたのだろう。親も友もいない。心を開く相手など作るだけ無駄だ。華軍は子賢の道具として生きるしかない。
 学舎でもその結論は揺るがなかった。寧ろ、華軍が編入した組では華軍の身の上と似たような子どもばかりで、絶望を絶望が上書きしただけだった。
 才子と呼ばれる度に華軍の心は凍てついていく。ただ、一つだけ救われたこともある。「まじない」の講義で自らの力を律する術を覚えた。それ以来、華軍の耳に不必要に鈴の音が響くことはない。
 才子の後見を務めることに関しての利潤は学舎に半年ほど通えばわかった。
 才子――即ち白帝の加護を受けたものを保護した者には、才子を使役する権利が与えられる。才子は未来の通信士であり、典礼官(てんれいかん)である。どちらの職も政の根幹に深く関わっているから、才子の後見であるというのは即ち将来の出世を確約されたのと同義だ。才子――子賢にとっては華軍が優秀な人材に育てば、子賢の能力を超えた人事も決して夢ではない。実際、そうして国官に昇進するものは決して少なくない。
 法学の講義でこの律令が定められたのは、当代の国主が主位に座して間もない頃だったと学んだ。学問を友に定めた華軍に、その真なる意味を察することは容易かった。当代の国主には絶望的に人望がない。西白国の国氏である白氏でない時点で、国主には有力な後ろ盾がないのは明白だ。加えて、国主は主位継承権が八位と低く、白帝から下賜される筈の右将軍(うしょうぐん)がいない。それらを論拠に十二州の地方官たちは内乱を考えているのだろう。だから、白帝の加護を得ている才子を必要以上に欲する。
 実際、その「駒」として扱われている華軍からすれば非常にはた迷惑な話だったが、拒否権はない。子賢の持つ「高尚」な思想を侮蔑しながら、それでも華軍は子賢に従った。子賢に報いなければ祖父母が危険に晒される。
 そうして、華軍は十四の年には洛涙の初科を首席で卒業した。当然、中科では通信士見習いとして洛府に配属される。華軍、という名と赤環が与えられ、称賛された。鍛錬を重ねて確信したが、戦の才能のない自分に「軍(いくさ)」の名を与えられる虚しさだけが残る。
 だが、優秀な人材を見出したという功を以って、子賢は中央に赴任していった。
 その頃からだ。
 洛府の官吏の入れ替わりが頻繁になった。違和を覚え、試しに環の書き換えに際して聞こえる鈴の音を注意深く聞くようにすると、多ければ一日で十五ほど鳴っている。それがひと月ほど続いて、華軍は典礼官の不正を疑うようになった。官吏の人事が行われるのは春だ。長雨が続く初夏になってまで、環の書き換えが続く筈がない。通信士の上官にもその変化は届いていただろう。薄桃色の料紙が上官の机の上で何枚も燃やされていた。外に漏れてはならない書状だから燃やした。それ以外の理由が思いつかない。
 そんな状態が一年ほど続いた。
 朱氏景祥は偽りの国主である、という告発文が首府・岐崔(ぎさい)以外の十二州に向けて発せられたのは中科二年目の夏の終わりだった。華軍もその檄文が高札に張り付けられているのを洛府で見た。右将軍も持たない王に国政を委ねてはならない、自らこそ正当な主位継承者であり、白帝の右将軍を得ている、と主張する者はどうやら郭安州(かくあんしゅう)にいるのだということだけがわかる。同時に、華軍は予感した。華軍を利用して国官に昇進した子賢が、これを知れば歓喜するだろう。そして叛乱の渦中に巻き込まれる。
 華軍には白帝も国主も誰でも同じだ。祖父母さえ生きていてくれればいい。だから、別段、自らの身に降りかかろうとしている騒乱の予感などどうでもよかった。
 当事者であることを傍観しようとしていた華軍のそのささやかな思いすら否定されたのは中科も終わる年の冬のことだった。
 郭安州の州都・江鈴(こうれい)の右官府で正式に通信士として登用されるということが決まった。江府(こうふ)を指定したのが子賢である、と聞いたとき、華軍は一抹の不安を覚えた。昨年、発布された檄文の出所がどこだったかを忘れるわけがない。それでも、江府は国主の一族が別宅を構える、ある意味では洛府よりも栄えた地方だ。郭安州の他の地区は枯れた土地が多く、貧しいが華軍が配属される部署は州都の外には出て行かない。こじつければ栄転であると言えた。
 通信士の作る伝頼鳥(てんらいちょう)は定められた手順に従わなければ開封することは出来ない。それと知りながら、華軍は祖父母に文を送った。開封出来たとして、祖父母は文字が読めないことも知っている。それでも、華軍が無事にいることを伝えたかった。
 鳥を空へ放つ。何の期待もしていない。ただの自己満足だから返答は必要ない。
 だのに、三日後。返答が届いてしまった。
 そのことに驚きながらも返答を開く。その中に記されていた内容を見て、華軍は目を疑った。祖父母は華軍が軍学舎の初科へ中途編入した年に「自ら」首を吊って亡くなったという。
 
「うそだ」

 洛府の通信室で、返ってきた文を震える手で必死に掴みながら唇が音を紡ぐ。
 十年に少し足りないだけの時間、華軍は祖父母の無事を信じていた。子賢は何も言わなかった。嘘だ。嘘であってほしい。嘘でなければ、華軍の十年は何だったというのだ。
 祖父母の為に自らを殺して子賢に従ってきた。一体、華軍は何の為に全てを棄ててきた。根幹が揺らいで、自我が崩壊しそうになる。
 今、子賢は岐崔にいて雨越州のことには手が回らない。この文を送ってきた通信士がどの立ち位置にいるのかはわからない。それでも、偽りで華軍を騙すだけの理由があるとも思えない。不意にあの日出会った「通信士」の憐憫の眼差しが蘇る。彼なら知っている筈だ。何が嘘で何が本当なのか。
 そう思うといてもたってもいられなくて、華軍は洛府の医務班へと駆け出していた。もう十年も前のことだから、あの通信士がまだそこにいるという保証はない。それでも、何もせずにはいられなかった。石畳の上を疾駆する。両腕も両足もちぎれてもいいと思った。息せき切らして駆け込んだ医務班では、あの老年の軍医は既に退官し、別の医師と通信士しかいない。せめて、通信士の転属先だけでも知りたいと粘ったが、彼らはわからないとしか答えなかった。
 絶望の淵で、それでも華軍が子賢へ鳥を飛ばさなかったのは、何も子賢を信じていたからではない。昏く濁った頭で、華軍は一人決意した。
 子賢の望みを一番最後で台無しにする。
 子賢の中には自らの利しかない。華軍の気持ちを子賢が考えてくれたことは一度もなかった。祖父母が自ら首を吊ったのか、そう装われているのかすらもうどちらでもいい。子賢が二人の死を願っていたのは自明だ。でなければ、十年も二人の死を伏せる必要はない。
 だから。
 それ以来、華軍は自ら積極的に子賢の望む動乱を助けてきた。
 華軍や祖父母が国に何の仇を成したというのだ。ただ、罪人が血族の中にいる。それだけのことで華軍たちは不必要に虐げられ、そして利用される。国も律令も誰も華軍を助けてくれないのだから、返すべき恩義など最初から存在しない。国が亡ぼうが、国主がその座を追われようがどうでもいい。
 ただ、子賢に華軍が味わったのと同じだけの絶望を植え付けてやりたい。
 そう、思って復讐の念以外の全てを棄ててきたと思っていたのに、華軍は一人の少年と出会ってしまった。
 郭安州の州都での功績を重ね、国府の――子賢の通信士として岐崔へ招かれてから五年。子賢の計画は順風満帆で、内乱の種も程よく育ってきている。典礼官の多くは反体制派に入れ替わり、環という仕組みを逆に利用して国を蝕んでいた。
 今年の冬が来る頃には決着が付く。郭安州で立ったという新王が右将軍を連れて岐崔へ上る。これで、華軍の最期の望みが叶う。
 そう、思っていたのに、その少年は春風と共に一点の曇りもない輝きで華軍の目の前に現れた。
 名家の出身にしては世間ずれしていなくて、純朴。嘘を嘘と見抜ける審美眼など当然持っていない。人を信じることに関しては天下一品で、少年は自然と手を貸してやりたくなる仁徳を持っていた。
 上辺だけの付き合いで済ませようと思っていたのに、少年が必要以上に懐いてしまったと気付いた頃には華軍の心の中に一つの小さな明かりが灯っていた。何度消そうとしても消えてはくれない。ちらちらと華軍の絶望を焦がして、少しずつ温もりを与えてくれる。祖父母と別れて以来、人として扱われる感覚とは別離していた。少年はその当たり前の日常を華軍にくれる。昏い気持ちしか持てず、今まで倦厭してきたこの国に対しても少しずつ好意を持ち始めていた。
 その感覚が決して疎ましくはない、と気付いたときに華軍は少年の存在が怖くなった。
 殺したはずの自分の心が蘇ろうとしている。
 このままでは華軍の復讐はなし崩し的に果たせなくなってしまうだろう。
 それでも、少年は消えない輝きで華軍を照らす。
 温もりと、冷たさの間で華軍は悩んで悩みぬいた。
 そして、半年の後に一つの答えへ辿り着く。