「それで? お前は何に怖じている」
「人の命を背負ってたった一人で七日も戦えるのか、だとか。俺が誤れば何人の命が失われるのか、だとか」
「それほど怖じているのなら、お前が背負う必要はどこにもないが?」
華軍はそう言うが、それがただの詭弁であることは他ならない文輝自身が一番よく知っている。
土鈴の音が聞こえるのだ。遠くで、近くで凛と鳴る。その音の意味を華軍が知らない筈がない。
「華軍殿はもう気付いておられるのでしょう?」
「――何の話だ」
「怪異の異能を借り受けられるただ人など、この世界にはいないでしょう?」
本当のただ人ならば異能を借り受けることは勿論、怪異と関わって平然としていられる筈がない。
本当にそうならこの沢陽口の城郭にはもっと「怪異の干渉を受けないもの」が散見されていい筈だ。それがどうだ。現実では文輝しか赤虎の存在に気付かなかった。
あのとき。往来で赤虎の姿を見つけてしまったとき。あの瞬間に既に文輝はただ人ではなかった。
「――そういう、偶然もあるかもしれん」
「華軍殿」
「お前には悲劇の主人公など似合わん」
「華軍殿」
桜色の双眸の夕明(せきめ)ではなく琥珀の両目の華軍が文輝を詰る。
苦しんでいるのは彼の方だと感知させる強さで、華軍がその胸の内をぶちまけるのを文輝は泣き出しそうな気持ちで聞いていた。
「どうして岐崔を出てきた。どうして、こんなわかりやすい罠にみすみすと首を突っ込んだ。どうして、お前はそれほど怖じているのに善を成そうとする。俺とお前の何が違っていたのだ」
「華軍殿」
「どうして、お前はそうやって全てを甘んじて受けようとするのだ。その善がどれだけ多くのものを傷付けるのだと思っている」
独善は人を傷つける。あれほど鮮明に教えたのにまだ届かなかったのか。言外に非難された内容に文輝の胸は今にも潰れそうなほど苦しかった。
わかっている。偽善だ。自己愛だ。独善だ。欺瞞だ。自己満足だ。わかっている。
わかっていても、文輝にはどうしても出来なかった。
目の前で困っているであろう命を路頭に迷わせることも――失われつつある命の為に立ち上がるのも。文輝の世界では見過ごすことの方が苦しい。そんなつまらない結論を選ぶぐらいなら、文輝はどんな苦痛とでも向き合えると思っていた。
九品の生まれだから、というのもあるだろう。戴家直系の三男。その肩書きが立場が状況が文輝に善を成させる。だが、それ以上に文輝を駆り立てているのは別の気持ちだった。
「――華軍殿が、俺に教えてくださったのです」
「――何を」
「人の人生に立ち入るには自分の命を懸けるしかないのだ、ということを」
人は生まれながらにして平等ではない。
生まれ、育ち、性別、年齢。持ち合わせた運や一瞬の判断の一つひとつが人を形作る。その過程が平等で均一で、本当に何の違いもないのなら。人は生きることを辞めるべきだ。それは既に命ではない。
巨万の富を得るものと、飢餓に苦しむものがいる。
その最低の水準を引き上げることは国政さえ誤らなければある程度は可能だろう。
それでも、どれだけ政が優れていても、どれだけ教育を施しても、人は人を羨む生きものだ。人は自分が持っていないものを美しく思う生きものだ。それを綺麗な言葉で表せば向上心や探求心と呼ぶことも出来るが、それでも文輝は知っている。妬み、嫉み、羨み、蔑み。それらの昏い感情を人が抱いていることを文輝は知っている。
人は生まれながらにして不平等だ。
それを覆したいと心の底から願うとき、人が懸けられるものはたった一つしかない。
自分の命だ。
自分の命を懸けて初めて、人は人に干渉する権利を得る。得られるのは権利だけで、その結果は確約されない。
それでも、華軍が文輝に教えた。
人の命は一つしかなく、選んだ道の結果は自分で負うしかない。
「俺は――俺の命で救えるものを救いたいのです」
死んだと思った。殺めたと思っていた。
そんな華軍と巡り会った暗闇の中から光あふれる世界に戻ってきたあの朝。文輝は決めたのだ。文輝の命一つで救えるものは全て救おう、と。あの夜、既に死んだつもりなら何でも出来ると思った。いつ死んでも同じだと自分に言い聞かせた。
なのに。心は怖じる。
無様だと思うのに、目頭が熱くなって雫が溢れ出すのがどうしても止められなくても、それでも文輝は震える両手を握りしめることで耐えるしかなかった。
「華軍殿。俺やあなたのような気持ちを味わうものを一人でも減らしたいのです」
「――お前は、変わらんな」
両頬を涙で濡らしながら、それを拭うこともなく文輝は琥珀と向き合った。華軍の虎の瞳がくるくると輝いて、そうして結局彼はくわ、と大きな欠伸をする。
「いいえ。変わりました。俺は二度と死にたくはありません」
文輝が死ぬことで救われる命はまだまだ少ない。
少ないが、それでも文輝に守れるものがあるのなら全力を尽くそう。
怯えも、怯みも、全て押し殺して文輝は前を向いていよう。
そう、決めたから文輝は子公を副官に選んだ。人生を投げ捨てたような態度の、その実文輝と同じ、死ぬことがただ怖いだけの臆病ものなら文輝を上手く使ってくれるだろうと信じた。
「その答えがこれか。全く馬鹿の考えることは実に理解出来ん」
「華軍殿――」
「安心しろ、小戴。お前の副官は俺が全力で守ってやろう」
だから、もう寝ろ。言って華軍が柔らかな炎の体毛が文輝の足元を撫でて消える。
その夜の続きを文輝は覚えていない。